3月からスタートしました! 生命操作プロジェクト 勉強会報告(1)

投稿者: | 2003年4月9日

3月からスタートしました!
生命操作プロジェクト 勉強会報告(1)
doyou66_takashige horii.pdf
3月に始まった市民科学研究室「生命操作プロジェクト」は、月1回のペースで生命操作技術と関連する議論に焦点をあてて勉強会を行っています。各回のテーマは、4月「クローン技術」、5月「脳死臓器移植」、そして6月は「生殖技術」。テキストとして使っている林真理『操作される生命』(NTT出版、2002)、フランシス・フクヤマ『人間の終わり』(ダイヤモンド社、2002)で提示されている視点を足がかりに、体験や実感を交えて議論しています。
クローン技術 高重治香
私は、みながなんとなく不安を抱く中で、ヒトのクローンもなし崩し的に作られるのではないかと予感している。「科学者でもない、自分のクローンを作りたいと思っている当事者や利害関係者でもない、普通の人がクローン技術についてどう考えているか」。それを探ることで、何か流れにあがなうとっかかりを見つけられるのではないかと思い、このプロジェクトに参加した。
当日は、クローン技術をめぐる「問題」として国内で言われていることを経済、国際関係、倫理、研究・治療の四つの軸で整理した。たとえば”国際関係”では、「クローン技術研究の規制を厳しくすると知的財産をめぐる国際競争で遅れをとる」、あるいは逆に「日本だけ規制が緩いと国際的な規制体制に抜け穴を作ることになる」といった「問題」である。これにより問題設定相互の矛盾を示そうとしたが、明解に整理するのは難しかった。
今回の勉強会では、幾つかの発見があった。
まず、基礎知識について。日本において、1997年にクローン羊ドリーが誕生したことがマスメディア等によってクローズアップされたこともあり、1997年がクローン技術にとって画期的な転換点だというイメージを持っていた。しかし、テキストによると、両生類では既に1952年に体細胞クローンが作出されており、関連領域の研究者にとってはドリーの誕生は連続性をもった研究の積み重ねの中に位置づけられる出来事にすぎなかったという。
また、”多くの人は「ヒトクローンは倫理的に問題」と思っている”、というイメージがある。そこで、勉強会の席でも尋ねてみた。すると「自分のクローンは作りたくないが、人が作るのをとめることは難しい(その権利がない)」という意見が主で、「どうしても法によって禁止すべき」という強い主張はなかった。(研究の予算が税金か、私費かで分かれるのではないかという説得力のある意見もあった)。技術が確立することで、生命倫理の一線が変わっていくことを、過去に試験管ベビーが生まれた時の世論の評価(例えば79年の読売新聞読者調査で7割が否定的な回答)を例に示した。
私は、「普通の人」がどう考えるか、と悩んでいたが、誰でも(研究や治療の)当事者になる可能性がある、ということと切り離しては意味がないのかもしれないと気付いた。クローンについて考えるには、想像力頼みだ。自分以外の誰かや将来の自分が、ヒトクローン作成をはじめ従来の基準では倫理的に問題とされる状況に際した時に、何を大切だと考え、どのような行動をとるかということを、「自分が当事者だったら…」と考えるしかない。今後も、世代や性別が異なるメンバーと一緒にクローンや生命倫理について考えていくのが楽しみである。■
脳死臓器移植 堀井雅恵
1997年に日本で「臓器の移植に関する法律」、いわゆる臓器移植法が施行されてから6年、1999年に最初の合法的脳死臓器移植が行われてから4年が経つ。脳死判定後、実際に臓器提供が行われたのは、毎年10例にも満たないが、脳死臓器移植は生命操作に関わる技術の中で、現在、既に実施されているものである。日本では、脳死問題を巡って議論が沸騰し、法律の成立までに長い年月を要したが、最近は生命倫理といえば、クローンや遺伝子工学といった新しい技術が話題の中心であり、脳死臓器移植は、あまりとりあげられない。しかし、脳死臓器移植の諸問題や法律の成立過程を整理することで、新しい生命操作技術をどう規制していくべきかの参考になると考えられる。
欧米に対して日本の脳死臓器移植例が少ない理由について、法律の厳しさ、臓器移植ネットワークシステムの不備、ボランティア精神の欠如、医療不信、死体に対する考え方の違いなどがしばしば指摘される。法律制定の過程の議論でも日本と欧米の文化的・宗教的な違いが強調される傾向があった。しかし、今回、文献やビデオなどを調べていくうちに欧米でもドナーの家族や救急救命現場の医療関係者に臓器の提供に対する心理的抵抗がないわけではなく、一般の人の死生観や遺体観は日本とそれほど違わないことがわかった。ただ、アメリカに特徴的なのはボランティア精神、ヒロイズム、フロンティア精神であり、臓器の提供を名誉あることと考えているようだ。アメリカでは日本と同様に臓器を提供には意思表示が必要だが(オプトイン)、ノーの意思表示をしなければ臓器の提供に関してイエスと見なされる(オプトアウト)ヨーロッパの国(イタリア、フランスなど)よりもアメリカの方が百万人あたりの移植数が多い。
脳死臓器移植という技術が、文化の違いに関係なく、含んでいる問題点として、人の死を前提としており、需要に対して潜在的に供給に限界のある技術であることが挙げられる。人は誰でもいつかは死ぬものだが、脳死という状態になるのはほんの一部であり、また、移植には死者の臓器が新鮮で「健康」でなけらばならない。一般の人が臓器の提供に積極的なアメリカでさえドナー不足が深刻な問題である。アメリカでも臓器売買は認められていないが、臓器・組織の仲介や加工がビジネスになりつつある。アメリカでは日本のように国民皆保険ではないので、臓器移植を受けるには多額の費用がかかり、移植という治療が受けられるのは、収入の多い人に限られてしまう。
他方ヨーロッパでは、保険適用で臓器移植はだれもが受けられる医療という位置づけであるが、それだけにドナー不足は深刻で、提供を義務化する圧力がある。例えば、オランダでは、18歳になった人全員に臓器提供の意志を調べる書類が送付される。返送の義務はないので、オプトインに分類されている。フランス・イタリアなどオプトアウトに踏み切っている国も多い。臓器移植先進国でこの技術の持つ潜在的な問題点が浮き彫りになっているように思われる。それにもかかわらず、直接生命に影響がないような手足などの移植についても研究が推進されていく。移植ばかりに頼ると他の新しい治療の可能性が妨げられたり、救急治療・脳治療が軽視される恐れもある。
私自身はドナーカードは所持していないし、今のところ所持するつもりもない。残される家族のことを考えると臓器提供する気にはなれない。もし私がドナーカードを持って脳死になったとしたら、残される家族がせっぱ詰まった状況で、意志を確かめられることになるだろう。その時の私の意志は確かめようがないから、決断がよかったかのかどうか後々まで悩むのは家族である。家族がいない場合でも、死ななければ人の役に立たないというのはどうも気分が良くない。どうせなら生きているうちに人の役に立ちたい。だが、(アメリカ人のように)臓器提供に対して強固な意志がある人がいて、移植すれば命が助かる人がいるなら、提供する自由はあってもいいだろう。もともと供給に限界がある技術なので、提供者を増やそうなどと思ってはいけない。私は、日本の臓器移植法については現時点ではよく考えられていると評価している(機能しているかどうかは別として)。提供する臓器を細かく選ぶことが出来るし、生きている間は何回でも意志の変更が可能である。ドナー側の自己決定と脳死の判定基準が厳しいばかりではなく、レシピエント側の登録基準も厳しい。レシピエント候補が移植を拒否する権利もある。ただ、日本の法律に、生体移植や研究への臓器・組織提供に関して脳死移植のような厳格なルールがないこと、臓器移植法で扱われていない臓器・組織について何の規定もないことが気にかかる。これらは現在、医療機関や研究機関が独自のルールを作って自主的に管理しているようだ。これからの生命操作技術は、医学・薬学だけでなく、農学・工学・理学の領域に拡がっている。今後、統一的なルールが必要である。

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