エッセイ・宇宙開発の行方(その1) スペースシャトルはもう飛ばないだろう……

投稿者: | 2003年4月9日

エッセイ・宇宙開発の行方(その1)

スペースシャトルはもう飛ばないだろう……

上田昌文
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●コロンビア号と神舟5 号

宇宙開発の歴史において今年2003 年は、2月1日にスペースシャトル「コロンビア号」が空中分解事故を起こし、10 月15 日に中国の有人宇宙船「神舟5号」が打ち上げられた年として記憶されるだろう。前者は宇宙開発の先行き全体に暗い影を投げかけ、このエッセイで取り上げる国際宇宙ステーション計画(ISS)にも大きな影響を与えている。後者は有人宇宙飛行を見直す声がそこここで聞かれるようになった中で、宇宙開発が改めて国威発揚として機能していることを見せつけ、また科学技術分野においても今後中国が台頭するだろうことを予感させる出来事となった。宇宙開発超大国である米国が先導するISSに付き従って毎年300億円を超える金をそれに投じる日本は、毛利氏や若田氏をはじめとする宇宙飛行士をすべて米国のスペースシャトルの搭乗員として送り込んできたわけだが、米国の都合でスペースシャトルの打ち上げ予定が先送りにされれば、それを受け入れるほかない立場に置かれている。国際協力の名のもとに、実はイニシアティブを欠いた推進体制にしっかり組み込まれている。ではこれは初期段階の暫定的な状態とみなすべきなのか?

いや残念ながら米国から独立して成しえる長期的な開発ビジョンを持っているわけでもないようなのだ。中国の成功は、「宇宙開発における日本の主体はどこに?」という自問を日本の宇宙開発関係者に突きつけたのではなかろうか。

●宇宙開発の目的

宇宙開発にはそもそもどんな意義を見出すことができるのだろう。まず、比較的多くの人を納得させるのは、「(1) 宇宙科学や天文学の知的探求のため」という理由だろう。火星や木星に送り込まれた無人探査機、天空に浮かぶハッブル宇宙望遠鏡などが確実に私たちの”宇宙に関する知識”を拡大し更新させている。次に、「(2) 宇宙は人間の夢を駆り立て、進出を待つフロンティアだから」という、かなり漠然とした心情的な理由も多くの人にアピールしているようだ。この心情が嵩じると、コロンビアの事故を受けて毛利衛氏が語った「犠牲があってもそれを乗り越え、地球を出ていくのが、人間を含む地球生命体の使命」という言葉にみられるような”使命感”に行き着く。その次に挙げられるのは「(3)先端科学技術の牽引役、そして人工衛星にみられるような産業や社会への貢献」だろう。宇宙空間は思いのほか過酷な空間であり、そこでの使用に耐える素材や器機の開発が地上での技術革新につながる可能性はあるだろう。気象衛星や通信衛星はビジネスとして成り立っているし、確かに私たちの生活をいくらか便利にしている(これからもするだろう)。しかし実は、こうした技術の大半が「(4)軍事技術の開発のため」に生まれたことは知っておく必要がある。カーナビゲーションとして車に、そして今や携帯電話にさえ搭載されることになったGPS(全地球測位システム)にしても、航法衛星という軍事偵察衛星によって兵士が自分の位置を知るシステムとして開発されたものだ。スペースシャトルの任務の半分以上は軍事衛星打ち上げに利用されてきたという経緯がある。たとえば、2000年に毛利氏が乗ったエンデバー号は地球を周回しながら陸地の8割をカバーする地形データを収集したが、このデータが軍事目的で使われないはずはないだろう(『毎日新聞』2000年2月16 日)。現に米航空宇宙局(NASA)は、今回のコロンビア号の事故を受けて、今後はスペースシャトルの飛行を国防総省・国立画像地図局(NIMA)の偵察衛星に機体を撮影させて飛行状態を確認し、その見返りにシャトルが撮影した地上の高解像度写真をほぼ無償で提供することにしている(『毎日新聞』2003 年3 月29 日)。「(5) 国威発揚、政治的威信の誇示」を理由に挙げてもよいが、これはほとんど「軍事」の枠に収まるものとみなしてよいだろう。巨費を費やして人間を月に送り込んむことで、華々しく「理由(2)」を振りかざすことができたアポロ計画も、「理由(1)」が目的ではなく(”月の石”はみせかけのパフォーマンスとみなすべきだ)、そのミッションや金の使われ方に対して落胆した物理学者や天文学者もいたという。「理由(3)」の産業や社会への具体的貢献にいたってはゼロに等しく、アポロ以降もうどの国も月に人を送り込もうとしなくなっている現実が、有人月面探査がおよそ採算のとれるビジネスにはなりえないことを雄弁に物語っているのだろう。

●宇宙開発にかかるお金

以上5つの理由のそれそれの妥当性を考える場合、まずみておかねばならないのは、宇宙開発にどれくらいの金がかかるかである。加えて、スペースシャトルや国際宇宙ステーションが前提にしている有人宇宙飛行という点の問題も探ってみる必要があるだろう。ここにこれまでに得られた大まかな数字を列挙してみよう。

・日本のH Ⅱ A ロケットの打ち上げ
……1回約85億円
・ISSの日本分担である「きぼう」モジュール
……総額約5000億円
・日本の情報収集衛星
……総額約2500億円
・日本の宇宙開発予算(2002年)
……約2700億円(下記表を参照)
・スペースシャトルの打ち上げ
……1回約650億円
・ISSの総建設費
……約5兆円

日本の財政や科学研究費にいくらか詳しい人なら、たちどころに感じるだろうが、これらは大変な数字である。たとえばガン関連の日本の年間研究予算は約140 億(2001 年)で、これは生物学医学分野では最も大きな額の一つになっているが、日本が国際宇宙ステーション計画にあてている年間予算はおおよそ400 億円~ 500 億円でここ数年推移しているから、米国の雲行きによっては実現するかどうか怪しいと言えなくもない研究開発に――そしてさらに言うなら、それが実現したいとしてどんな社会的貢献が生まれるのかほとんどはっきりしない研究開発に――ガン研究の数倍近い金を投じていることになる。

●膨大な金の説明責任は果たされているのか

国費として大きな額がある領域の研究開発に投じられるのなら、本来その領域の研究の意義と成果を他領域の研究者はもとより国民全般にきちんと説明できなければならないだろう。その額が大きければ大きいほど、その自覚がなければならない。しかしこれまで、こうした説明責任を研究者や研究運営者、行政担当官が明確に担うことはなかった。当該の専門家と行政官の間でことを決めるのが前提となっているから、その両者の間で問題が生じない限り市民に対する情報の公開や説明責任も生じない――とあたかも両者とも信じ込んでいるかのように、今の制度は機能しているのである。今直ちに当事者達が説明責任を果たすことは難しいとしても、百歩譲って、宇宙開発に費やされるケタ違いの金がいったいどこまで有効な使われ方をしているのかを、たとえば市民科学研究室のような組織が情報を引き出しながらチェックしていくことは必要だ。とりわけ膨大な金を使う有人宇宙飛行は俎上に載せねばならないだろう。

●有人宇宙飛行の背景

有人宇宙飛行はこれまで上記の理由(3)にみる「人類の夢」と理由(5)の「政治的威信」が結合して推進されてきたように思える。してその出発点は理由(4)の米ソ軍拡競争である。冷戦下での大陸間弾道弾(ICBM)開発競争がロケット技術を著しく向上させるという技術的背景がまずあった。その上で、スプートニクショックを機にいかに長い時間にわたってそしていかに遠くまで人を宇宙に滞在させるかが、華々しいショーのような装いをまといつつ激しく競われた。有人軌道飛行(マーキュリー)から有人滞在(ジェミニ)を経て月到達競争(アポロ)まで。米国はアポロ計画にはG D P の4%を投入したと言われる。

米国の現在の宇宙開発体制は1970 年代はじめに築かれたNASAの”黄金時代”の栄光をいかに守り抜くかに腐心してきたように思える。すなわちその時に肥大化した組織を引きずって、あたかも組織の維持と存続のために次なる巨大プロジェクトを繰り出しているという感を受けるのだ。

そのことを端的に示しているのがスペースシャトルへの過大な投資と国際宇宙ステーション計画の立ち上げではないだろうか。これまでの経緯を振り返えると、スペースシャトル計画は誤算続きの失敗であると断定せざるを得ないのだが、それでもまだこの計画に固執するところにNASAの組織としての病理がうかがえるのだ。

●スペースシャトルは何のため?

1981 年4月に打ち上げられたスペースシャトル1号機「コロンビア号」は最後のアポロ宇宙船の打ち上げ以来6 年振りに有人宇宙飛行を再開するものだった。それまでの一回使い捨てのロケットと違い何度も再使用できるシステムだから打ち上げコストは大幅に下がるとみなされていて、当初の計画では何と数年後には年間60回の打ち上げを行い、いずれは一般市民がシャトルを使って宇宙観光を楽しむ日が来るだろうなどと言われた。

しかし現実はまったく違った。年に数回を維持するのがやっとという状態で、予想をはるかに下回った。耐熱タイルの損傷をはじめ、機体の整備に次々と困難が襲いかかったからだ。しかも飛行も10回も越えれば、世間の興奮は冷めてゆく。盛り返しを狙って打ち上げられたのが通算25 回目のチャレンジャー号だった。乗員の一人として初の民間人である女性高校教師クリスタ・マコーリフを採用したことは、大いに話題を呼んだ。しかし何とも皮肉なことに、国民に対するこの政治的ショーの結末は打ち上げ78 秒後の爆発事故という悲劇だった。

チャレンジャーの事故でスペースシャトル計画は大幅に見直される。中でも大きいのは商業利用からの完全撤退が決まったことだろう。米国はスペースシャトルへの投資を正当化するために、衛星の打ち上げをシャトルのみを使って行なうことに一本化していた。そのため、この商業利用完全撤退を受けて、結局フランスがアリアンロケットでの衛星打ち上げを大量に獲得した。この事故を機に欧州での衛星打ち上げビジネスが促進し、世界の市場のかなりの部分を欧州が握るようになった。

スペースシャトルの目的はそもそも何であったのだろう。NASAは、「アポロ計画」で華々しく示した人類の宇宙進出の道をさらに切り開いてゆくこと、商業利用の拡大につながる宇宙空間への信頼性の高い輸送手段(学術用、軍事用、商業用の人工衛星の打ち上げシステム)を確保することを同時に狙ったのだが、この2つが相容れない目的であることは明らかだろう。非常に高度な信頼性(有人飛行のためには必須)と低コスト化(輸送手段として普及をはかるために必須)の両立は大変難しいからだ。高級な旅客車と効率のよい貨物車を1つの列車にしてはならず、別々にすべきなのだ。輸送を目的とするなら無人がよいに決まっているし、商業利用がなくなった今、スペースシャトルにできることはNASA独自の科学衛星の放出、ISSの建設と人員の輸送、人手の必要な宇宙空間での実験に限られている。しかもそれらもわざわざスペースシャトルを用いなくてもできるものがほとんどだと思われる。

今回のコロンビア号は何のために飛んだのか。ISS 計画の遅れのせいで、ISS より低軌道の宇宙空間でシャトル内の実験室を使って種々の実験をしようとしたのだった。短期間に昼夜兼行で実験するために7人ものクルーを一度に乗せたのだが、ほんとにこれらの実験を今行なう必要があったのだろうか? それらの実験にいかばかりの科学的意義があったのだろうか? NASAはスペースシャトルの運用を続ける目的のためだけにミッションを考え出して打ち上げるという本末転倒をおかしていたのではないのだろうか? 疑問は尽きることがない。

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