上田昌文
(『物理教育』Vol.43,No.4,1995年より転載)
物理教員を悩ませてやまない疑問の一つは、かくもおもしろい学問である物理を生徒・学生がこんなにも敬遠するのはなぜなのか、ということだろう。こと物理に限って言えば「理科離れ」は今に始まったことではなく、理工系の就職黄金時代が過ぎ去り、入試科目の選択が多様化するにつれて、「物理嫌い」の現実が表面化してきただけなのだと思える。「物理の授業にさえついていけたら理系に進んだのに……」と苦々しく回想する元科学少年の文系の男性は少なくないし、物理と聞いただけで怖じ気を振るう女性はごまんといる。
物理教育は、国民の大半を物理アレルギーにすることに貢献してきたと言うべきか。こんな状況を一変させる妙案があるならまだしも、今「国民的教養としての物理」を謡うことは、私にはほとんど絵空事に聞こえる。私は、中学高校生がファミコンやアニメに慣れ親しんでいくように物理学にも慣れ親しんでいって初めて、国民的教養と称することができると思うけれど、そうした遊びの対象と物理学を同列に置くことは物理教育に携わる人の不興を買うかもしれない。しかし、それくらいの格下げを断行する覚悟がないのなら、逆に国民的教養などという言葉は使わないほうがいいのではないか。
私はかつて理系の学生(生物学専攻)としてかなりの関心を持って物理学を学び、そして現在,学習塾という場で中学高校生と日常的に接しながら、一方で一般市民を対象に科学技術関連の社会問題(例えば原子力、クルマ、医療、コンビュータ)を考察する活動を運営している(「科学と社会を考える土曜講座」)。
土曜講座は、いわゆるSTSの領域で様々な市民運動と連携しながら、自ら必要だと思うことを自ら学び、発表し、参加者がそれを各々の場で社会変革に繋げていく、という志をもった活動である。そうした私の立場と経験から,物理を学ぶこと・教えることについて幾つかの基本的な原則を提案してみたい。
第一、知的な事柄を教えたと言えるのは、教えられる側にその事柄への知的な関心が生まれた場合に限ってであるということ。
つまり嫌いになってしまっては元も子もないのだ。学校には行きたくないという気を子供に起こさせる学校は、どんなに言い繕ってもその子にとって教育は失敗したのであり、おもしろい楽しいと感じさせない物理の授業は、よくて知的に不毛、悪くすれば自然現象について自発的に考えようとする意欲を阻害する。
試験という脅しを使って雑多な概念と公式を覚えさせても、そんな知識は現実にはほとんど何の役にも立たないばかりか、それが「科学的に物事を判断する能力」を養うこととはおよそ逆行する行いであるのは明らかだろう。
教師が文部省のお達しもあって生徒の達成度とカリキュラムにこだわる気持ちはよくわかるけれど、まずそのこだわりを捨てて、一回一回の授業で生徒をどこまで引きつけることができるかにこだわってほしい。知的な関心をかき立てることができなければすべてが始まらない、と断言していいのではないか。
第二、物理学の体系をバランスよく初等化し万遍なく全員に教えるなどという無謀な努力はしないこと。
大学で物理を学んだ経験のある者ならだれしも痛感していることだろうが、物理学は完成度の高い古典的な理論の上に相対論、量子論を基礎とする現代的な精轍な体系が組み上がっていて、力学、熱力学、電磁気、統計物理、量子力学……とどの分野を学ぶのにも、高峰を登頂するのにも似た長い刻苦勉励が要求される。壮麗な頂の眺望を期待しつつも、息が切れてしまって中途で挫折した人は数知れないだろう。
しかし、オーソドックスな経路で頂上に至りつく必要があるのは本当は物理の専門家(物理学者)だけだ。多くの理系の学生、ましてや文系の学生にとっては、物理学全体を俯瞰し、その学問としての性格や社会的意義、 STSに関連した諸問題などを(表面的にではなく具体的な関心をもって)学ぶことのほうがずっと大切だろう。
全体を俯瞰するには、例えばファインマンの啓蒙書(『QED』や『物理法則はいかにして発見されたか』)、ミチオ・カクの『アインシュタインを超える』、朝永振一郎の『物理学とはなんだろうか』などは格好のテキストになるし、STSの事例でいえば核・原子力、電磁波、エネルギー、クルマ、それらを含み込む広い意味での環境問題などにある程度の見識を持ち、自分の政治的態度を決することは現代の市民として避けられないことになってきている。
問題は、学ぶための素材もあり、学ぶことの必要性も明確であるにもかかわらず、なぜ物理嫌いが量産され続けているかだ。
理由はただ一つ、教える者が物理のオーソドックスな体系の学習(とその習得の証明としての試験)に固執し過ぎているからだ。自らの挫折の体験を正直に振り返ってみてほしい。物理学の体系のミニチュア版を中等教育に持ち込み、多くの生徒に挫折の追体験を強いるのは、愚かなことではないだろうか。
第三、「物理学は知らない、でも興味を覚えた物理現象を自ら得心できるまで調べていく知的活力ならあると思う」と言えることを目標にすべきだ、ということ。
私たちが科学の将来を考えるときに第一に問うべきなのは「科学がこれ以上進歩することが本当に必要なのか」ということであり、「いかにして科学の発展を持続させるか」ではない、と私は考えている。
社会全体にとっては、いかにして科学技術の暴走をくいとめていくかが重要な問題なのであって、この問題に解決のメドを立てないまま、いかにして優秀な科学技術の水準を達成し維持していくかを追求しても、状況は悪くなる一方だろう。科学技術の暴走が生み出している危機的な状況を正確に認識し、それを乗り越える方途を見出だすために、市民はあえて科学の専門性の障壁に挑み、専門家と渡り合わねばならない時代になったのだ。
こうした時代認識に立っとき、自発的思考力を養うとは到底思えない現行の集約的知識注入型(暗記中心)の自然科学教育が、時代の要請から著しく逸脱しているのは明白だろう。例えば原子力発電の問題で市民にとって大切なのは、高校で習う原子物理の初歩を覚えていることではない。そうではなくて、原発事故の原因、放射性廃棄物の性質、被曝の危険性などともすれば高度な科学的理解が要求される領域であっても、自分にとってゆるがせにできない事柄であれば、「物理」を自習しながら、専門家の言い分の真偽を検討し、自分の意見を形成し発言する--つまり、必要な場合は科学の専門領域にも立ち入っていくだけの知的活力を備えた批判精神を堅持することなのだ。
暗記中心の学習では、自らの頭で考え抜くことをしない従順な心性は養えても、知的活力やましてや批判精神を養うことは決してできないだろう。
第四、現行の大学入試制度が大きく変わらない限り、理科教育の改革も望めないだろうということ。
6年間もかけながら英語教育が相変らず英語をほとんどまともに聞けずしゃべれない日本人を大量生産しているのも、自然という驚異に満ちた世界を相手にして探求することのおもしろさを存分に伝え得るはずの理科教育が理科嫌いを生み続けているのも、その原因の元をたどれば、大学入試が初等中等教育の改革に手伽足枷をはめているという現実があるからだ。
画一的なペーパーテストで競争を強いるというやり方が続く以上、生徒たちが速効性のあるインスタント化された知識の詰め込みに精力を傾けるのも無理はない。中学高校の教育は大学入試にあまりにも縛られてしまっていて、本来自分たちの裁量で何ができるのかを見失っているのではないか。入試科目の選択の幅を増やしたり、いわゆる記述式問題を取り入れたりといった小手先の対応ではだめだろう。
まずは画一的なペーパーテストを全廃し、それにかわってどんな方法で選抜すればよいのかを、中学・高校・大学の教員が一緒になって考えてみることだ。中学・高校の教育が大学入試のせいで画一化されてはならない。多様化を極めた教育が全国で展開されるなかで、むしろ大学の側が、自ら望む人材をどう漏れのないようにすくいあげていくのかについて細心の工夫を凝らすべきなのだ。
互いに関連しあった原則をあえて4つに別けて提案した。さてこの提案がまっとうだとして、現行の学校教育でそれをどのように実現していくのか。それは教育の現場におられる方々に考えていただく他はない。いささか空想めくが、私の理想の授業プランの一つを提示してみよう。
自由選択である「物理」の時間に集まった生徒十数人(20人を超えたらもう授業にならない)。年度の初めに各々「自然(物理現象)についての10の疑問」を提出。5つは自分で考えたもの、残りの5つは教師が用意したものから選ぶ。その疑問を各自が調べて授業毎に中間発表(グループでもよい)。
教師と聞き手の生徒は発表内容を徹底的に批判し、議論する。もし全員の関心が原理的な問題に収斂したら、教師が多少の物理の講義を展開してもよいが、教師は原則としてアドバイス(どんな書物やビデオをみればいいか……等々)と励まし(「この数式の成り立ちを根気強く追ってみよう」……)に徹する。
実験も可能な限り生徒自身にデザインさせる。年度末に「10の疑問」のうちのlつについて最終発表。レポートにまとめてもいいだろう。試験はしない(希望する生徒にだけ課す)。高度な内容に関心を抱く生徒には、いろいろな本格的な書物を紹介すればいい。大学入試向けの特別な勉強はいらない(先のレポートなどが重要な判定材料になる)。入試は一年を通して毎日数人ずつ面接・問答しながら決めるのが原則で、筆記試験を希望する者はそれを受けてその成績を判定資料の一つとして提出してもよい……。
どうだろう、こんな物理の授業をしてみたいという方はいらっしゃらないだろうか。