【書評】 「科学者とは誰か」

投稿者: | 1996年3月26日

藤田 康元

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資料紹介として少し詳しめの書評形式のものを1点と、新しく出た書籍、雑誌論文、TV番組などからめぼしいものを選んで短いコメントを付すものを、毎回掲載します。同様の要領で、皆さんからたくさんの情報紹介記事を寄せていただけることを願っています。

近年、科学論の考察対象は、科学の命題(知識としての科学)から科学者の実践(実践としての科学)へと移行してきた。★『現代思想』5月号(1996vol.24―6)の特集「科学者とは誰か」は、さらに、社会における科学者と非科学者の関係にまで考察の対象を広げている。

例えば、横山輝雄「知識成長の限界と科学者の説明義務」をはじめとするいくつかの論稿では「モード論的科学論」なるものが提唱されている。モード論とは、「命題としての知識に関心を集中するのではなく、知識が産出されるモード(様式)に注目する」もので、科学研究のモードとして、同僚評価に基づくモード1に、「外部の『顧客』あるいは『聴衆』に対して開かれ」たモード2を対置する。モード論という発想自体はよいが、気になるのはモード2への批判的視点が弱いことである。モード1に対するモード2という図式の下で後者を持ち上げることは、国家や企業といった科学者以上に権力を持つ「顧客」や「聴衆」が、科学を占有することを促す危険もあることに注意したい(その危険は十分にある)。

そこで、次に、専門家としての科学技術者の社会的責任や、科学技術活動への非専門家の主体的参加や介入はいかにして果たされるのかという問題が浮かび上がる。この点について二人の論者が答えている。木原英逸「科学技術者の『社会的』責任は何処にあるか」は、科学技術者の「社会的」責任としては情報の公開と説明の義務(アカウンタビリティ)だけでなく、企業などが持つ私的な科学技術情報の保護に配慮したものも必要だとする。

その点で、企業の事前の自己チェックを促すことで責任を果たさせる効果を持つ製造物責任法のような制度も重要だとされる。一方、若松征男「素人は科学技術を評価できるか?」は、かつてのテクノロジー・アセスメントのような専門家による評価ではなく、非専門家による科学技術の評価の可能性を主張し、その手がかりとして、デンマークのコンセンサス会議を紹介している。それは、特定テーマについて一般人のパネルと専門家のパネルが、対等あるいは前者主導で討論しコンセンサスを生みだしてゆく場である。これらの提案は十分示唆的ではあるが、既存の様々な社会運動とも十分よく接合された提案へとさらに練り上げられる必要性も感ずる。

その他印象に残ったものを急ぎ足であげる。

池田房雄「薬害エイズの構造」は、血液事業の歴史が作り出した矛盾という縦軸と、厚生省、業界、医療機関・医者の癒着という横軸によって形成された薬害エイズの構造を明晰な言葉で示す。それは一つの事件の構造を捉える際の歴史的視点の重要性を示唆している。歴史認識の重要性を強く打ち出したものとしては、「核時代」というより広いコンテクストから核の問題を捉えた対談、吉岡斉・笹本征男「核時代とは何か」が読ませる。

その上で、清水栄、中井浩二、伏見康治という物理学者たちへのインタビューを読むとよい。また、科学のカルチュラル・スタディーズ、社会的認識論といった欧米の科学論の最前線もとりあげられている(前記モード論と比較するとよい)し、「科学と帝国主義」という視点で植民地期朝鮮の科学運動を描いた慎蒼健のオリジナルな歴史研究も含まれている。すべて一読に値する。

最後に一言。科学者と非科学者の関係を考えることは、その区別自体を相対化することへと進む。

科学者は、科学的実践の主体として本質的に規定可能な存在でない。誰でもが科学という社会的実践に参加する「科学者」でありうる。

特集タイトルもそれを示している。

 

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