資料紹介(どようML「おもしろブックス」より) ◆求む原稿!(どよう券贈呈)

投稿者: | 2002年4月18日

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●『わたしの哲学入門』木田 元/著 新書館・刊 1998年 本体2800円+税
もうずいぶんまえからずうっと、木田元氏(哲学者)のことが気になっていた。 それはこういうことである。
その理由の一つは、何十年もまえから、哲学書を少しずつ買い求めていた。定年にでもなって時間ができたら思い切って読んでやろうと集めているものだ。
その主な著作をあげてみる。メルロ・ポンティ(フランスの哲学者)では『行動の構造』、『眼と精神』、『シーニュ』、『弁証法の冒険』、『知覚の現象学』、『言語と自然』、『意味と無意味』、『見えるものと見えないもの』(以上、みすず書房)。フッサール(ドイツの哲学者)では『ヨーロッパの諸学の危機と超越論的現象学』(中央公論社)、『イデーン』、『内的時間意識の現象学』、『現象学の理念』(以上、みすず書房)など。また、カッシーラー(ドイツの哲学者)では、『シンボル形式の哲学』(全四巻、岩波文庫)をはじめとするすべての著作などであるが、特に、私自身が勝手にわが師と思いこんでいる山本義隆氏が翻訳したものはすべて身を入れて読んできたが、いまだもって論評できるまでには至っていない。
ともかく、メルロ・ポンティ、フッサールの哲学書は、その都度、ぱらぱらめくって眺めてきてはいるが、その内容の難解さに閉口するばかりで、いつかと思いつつも、気を入れて読み込むには至っていない。これらの多くの哲学者の日本語訳者が木田元氏なのである。
二つ目は木田氏が私と同県人(山形県)であることである。西洋の哲学を長年にわたり思索している山形県人(山形が好きなのです)とは、いったいどんな人なのだろうと気になっていたのだ。
それが最近、偶然のことから、本書『わたしの哲学入門』を一気に読んだ。読んだというよりも「読めた」のである。うれしかった。本当に読みやすい。ちょっと横道にそれるが、「読めた」と書いて思いだしたことがある。作家の中村真一郎が晩年、軽い沢の別荘でこんなことを言っていた。
「この歳になってようやく横文字の小説が読めるようになったのですよ。不思議なものですね」と。
その境地なのである。ともかく、グイグイ引き込まれていく。
1928年生まれの木田氏が戦後の青年時代を経て哲学の研究にどのようにしてかかわっていったのか、なぜ、上記の書物を訳す作業に入っていったのか。実にストレートに述べられているのである。
木田氏が哲学研究の道に入った動機はただ一つ。ハイデッカーの『存在と時間』を読みたい一心からであった。しかしそのために、ハイデッカーの見た無数の哲学者を経由して古典哲学・ギリシャ哲学まで追いかけることになったのである。その思索の動向がよくわかるように書かれている。本書を読みながら哲学者の思索活動とはこういうものかと、あらためて知った。
教わったことはたくさんある。哲学書を原書で読むことの意味、言葉の意味と歴史的背景、それに木田氏の哲学思索に対する謙虚な姿勢などである。
哲学などやってもまったく実用性と意味もないと考えられがちである。それでも哲学という学問をきわめたい人間が、時代状況のいかにかかわらず、かならず一定数いる、この不思議さ。
そもそも「哲学」という得体のしれない日本語はどこからきたのか。自然、存在、本質、事実、現象、自由、主観、客観、理性・・とはどんなことか。哲学の難しさは「言葉の作られ方」にある。木田氏はこの言葉の作られ方を時間・歴史・人物(哲学者)の絡み合いを、ご自身がたどられた紆余曲折な研究プロセスを丹念に振り返りつつ論述する。小気味がいいほど明快である。さらに哲学書にとりつく最良の方法は、何度も読みながら「読み慣れる」ことしかないともいう。
これまで哲学入門書など読んでもそれ自体が難解であった。本書は木田氏のこころの動きをご自身の言葉で語っているのからであろうが、私にはこれまでになくわかりやすくとても勉強になった。
またまた思い出したことがある。
フランスにカリン・シムラというとびっきり優秀な40代の若き数学史家(女性)がいる。数学史家なら誰でも知っている。彼女と言い合いになったことである。それはパリだったかベルリンだったか忘れたが、ともかくすごい言い合いになった。彼女はメルロ・ポンティのファンである。当時の私はサルトル・ファンであった。私の時代はみなそうであった。わけもわからずともかく読んだことにしたのである。
そこでカリンはメルロ・ポンティだといい、私はサルトルだと言い張って一歩も譲らなかった。たわいもない話だが、そのときいらい、メルロ・ポンティの名前が消えないのである。
数年してパリに行ったとき、カリンに合いたいと電話したら、「馬鹿なサルトル主義者には合いたくない」ときっぱり断られた苦い経験がある。
カリンがしっかり覚えてくれていたのはうれしい。しかし、私の目的は、哲学の話をしたいわけでない。外国で一人で飯を喰うことぐらいさみしいものはない。カリンのようなすてきな女性と食事をしたいだけだったのである。
その彼女が最近、体調を崩しているとある友人から聞いた。再会できたら、「やはり、メルロ・ポンティだ」と言ってやりたい。木田氏の『わたしの哲学入門』は思わぬことを呼び起こしてくれた。これが哲学なのだろうか。■猪野修治
●東京水産大学公開シンポジウム渡邊悦生・中村和夫 共編『科学を学ぶ者の倫理』(成山堂、2001年12月28日、1400円(税別)
本書は東京水産大学の公開シンポジウム「科学を学ぶ者の倫理」の記録集である。内容は、「ヒトゲノム計画の社会的倫理的意味」(金森 修)、「脳死・臓器移植と文明のゆくえ」(小松美彦)、「魚介類のDNA組み換え実験の現状と職業倫理」(青木宙)、「組換え食品の安全性」(富田 満)の講演と質疑討論から成る。
まず、金森氏と小松氏は科学史・科学論の立場から、現代科学技術研究とそれに携わる研究者の倫理を社会総体的な観点から考察する。
金森氏は開口一番、現代科学は価値中立的であり善・悪に関係ないと考えては「ならない」と問題設定する。その具体的事例として優生学を取り上げる。
優生学には負の優生学と正の優生学、そして新優生学があるという。新優生学とは全くの個人の自由判断で下す遺伝子操作だが、これらの種々の優生学の社会的問題点を提起する。胎内にいる段階で種々の障害のある子を中絶したり(負の優生学)、知能指数が高く顔がきれいで背の高い子を生むよう操作をする(正の優生学)ことが、リベラリズムのもとで自由勝手に施されたとき、前者は歯止めが効かなくなり、後者はモンスターを生む可能性も否定できない。その社会的な倫理と予想される意味に警告を発する。
小松氏の議論は徹底した「脳死者の臓器移植」批判である。脳死臓器移植成立以前から独自の生命論・人間論・文明論の観点から批判の論陣をはってきた来たことは知られている。臓器移植は命の価値を天秤にかけた国家の医療殺人であり、最近のグローバリゼーションのもとで脳死者がモノ扱いされ市場の取引にされ、それが歯止めが効かなる現状を論ずる。人間・文化・文明・社会総体まで射程を広げた議論を呼びかけている。
一方の青木氏と宮田氏の議論は前半の金森・小松両氏の思考対象の基盤とは大きく異なっている。
まず青木氏は遺伝生化学者で遺伝子組換えの専門家のようである。研究現場における具体的な遺伝子組換え実験法・実験指針等々を明快に論じ、日本の食資源として遺伝子組換え魚の重要性を積極的に訴えている。遺伝子組換え研究者の現場報告であるが、最近の安全性とリスクに関して青木氏は、遺伝子組換え魚は他の食品と同様、100パーセント安全などはありえないので、安全性が科学的に確認されるまでは自然環境へ放出してはならない。しかし、将来、科学的根拠に基づいた安全性評価基準を確立するために国際的な議論が必要だと述べる。
最後の宮田氏は、1970年代から20数年の遺伝子組換え実験の経験と実績を披露しつつ、徹底した情報公開を遂行することで消費者の理解を求めている。農業の遺伝子組換え作物がアメリカの持続可能な農業を維持するために「大きな役割」を果たしている。農業は持続可能でなくて自然環境を収奪するものだと断定し、一般の市民と消費者の無知からくる遺伝子組換えにたいするアレルギーを一掃する攻撃的な発言が目立つ。しかし、遺伝組換え作物や農業が将来、環境や人体にどのようなリスクを負うか誰にも分からない。しかし、現状では「刹那的」にやっていく以外にないと、忌憚のない自説を披露する。
ここまで四人の論者の議論を本質を崩さず短く要約したが、最後の質疑・討論を聞きながら(読みながら)思ったことをあげておきたい。
本書のテーマ「科学を学ぶ者の倫理」の倫理と何なのか。原子力発電、脳死者の臓器移植、遺伝子組換え実験、いずれの科学技術も攻撃性と刹那性をおびている。今日のグローバル化した世界で、新たな世界的な市場を開拓(収奪)すべく、やれやれどんどんと進まざるをえないような政治構造になっている。その中にいる科学者はその社会総体的意味に実に素朴で無頓着である。私が考える倫理とは、小松氏も述べているように、「ひとりひとりの人間の生き方」を重く射程に入れた科学技術のことである。
とすれば、宮田氏が無知と批判する素人の市民・消費者の国境を越えた異議申し立てを連帯させる大きな運動を作り出すことが最も重要なのである。■猪野修治
●『旅をする木』星野道夫/著 文春文庫
「星野道夫」という名前は、熊に襲われて不慮の死をとげた写真家として記憶に残っていたが、彼の写真をみたことはなかった。どういう生き方をした人か全く知らなかった。昨年秋友人のうちに泊めてもらったとき、お酒を飲みながらとりとめもない話の合間に本棚から何気なく手に取ったのが、彼の写真との出会いである。
ページをめくりはじめたとたん、ものすごい世界がそこにはあった。苔むした太古の森や氷原のムースたちの生死の営みに圧倒されて、私は「すごい」「すごい」とつぶやきながらそのうち息苦しくなって見続けることが出来なくなってしまった。「だめだ、もうここまでで(と胸を押さえながら)一杯! 見続けられない、あふれそうだ!」と写真集を閉じてしまった私を、友人達は「酔っぱらったのかな」といぶかしく見ていた。もう一度今見たものを確かめようとおそるおそる開くと、今度は本当に涙が溢れてきてしまい、本を濡らさないように慌ててまた閉じたのだった。多少酔いもまわっていたが、こんなことははじめてで、友人はもうすぐ私が誕生日であるのを知っていて「40歳のプレゼントにしようか」と冗談半分で言った。そして、うちに戻ってから「それもいいか」と、記念として自分のために写真集を購入したのだった。
そうして一年たったが、まだ一度もゆっくり写真集を開いていない。子供が本棚から見つけ出して、めくっていたことがあったが、うまく一緒に見られなかった。私の日常とあまりにもかけ離れた世界であり、そこに「はまった」らこちらに帰ってこられないような、明日も仕事に行かなければいけない自分の日常とうまくバランスがとれないような気がしていた。
畏れのような感情を抱いていたことがそれほど的外れでないと、この本をよみ終えた今思う。いつも不思議に感じていた、私の中でまだ結びついていなかったものを、彼の息吹は指し示してくれた。人間の暮らしに感じる慕わしさ、自分の生の孤独のようなものと、自然に惹かれる心の動きが、どのようにして繋がっているのか、そうしたものをかかえながら日々どうやっていきていけるのか、ということ…これらに、歓びという力づよい杯を差し出してかきまぜて飲ませてもらった、という感じなのだ。
本書は33のエッセイからなる。どれもいいが、少年の日が今に真っ直ぐつながったことを語る「アラスカとの出合い」を読んでいて、涙が溢れて止まらなくなってしまった。彼は18歳の時に、写真で見たエスキモーの村に強く惹きつけられ、初めて英語で手紙を書く。辞書で村長という言葉をみつけて、その村の名前とアメリカ、アラスカ州、と添えたあぶなっかしい手紙に、半年後、返事がとどく。「あなたが家に来ること、妻と相談しました…夏はトナカイ狩りの季節です。人手も必要です。…いつでも来なさい」。そして本当に彼はそこで3ヶ月をすごすことになるのだが、私が感動したのは、多分星野その人にではなく、彼が生きる中で人と結んできた(出合いの持つ必然としての)奇跡に対してなのだとおもう。
どようMLのテーマである「環境」ということでいえば、星野は「保護」する対象としての自然ではなく、巡り続ける生と死を共に生きる生き物と、それを包むこれまた呼吸するように生きている自然をとらえ続けたといえるだろう。■鈴木伸子
●徐京植対話集『新しい普遍性へ』(影書房,1999)
私が、感動的な佳作だと疑わない著作に野村修『スウェンボルの対話―コルシュ・ブレヒト・ベンヤミン―』(平凡社,1971)がある。この本の書名にあるスウェンボルとはスウェーデンにある小さな町の名前である。この書は、出発点を異にしながらドイツを追われた後、亡命地スウェンボルでファシズムとスターリニズムが支配的になっていた転換と屈折の時代に非妥協的に思想の批判性を蘇生させようと共同戦線をはった三人の思想家、 コルシュ(哲学者、後にドイツ共産党を除名)ブレヒト(劇作家)ベンヤミン(批評家、後にピレネー山脈で自殺)の弁証法的な対話を生き生きと活写した労作である。 希有なドイツ文学者、野村修氏によって書かれたこの書によってコルシュ、ブレヒト、ベンヤミンが展開した鮮烈な思考は私の脳裏に深く刻みつけられることになった。この本を最初に読んだとき「こういう表現方法が可能なのか」と驚かされたものだった。その後、ブレヒトやベンヤミンについて書かれたものは多く出たが、私にとってこの書以上のものをあげることはなかなかむずかしい。さて、こうした「スウェンボルの対話」のような生き生きした対話の現代版として私は、徐京植対話集『新しい普遍性へ』(影書房,1999)をあげたい。
徐京植氏は、韓国の大学に留学していた兄二人が長らく政治犯として投獄されていたことでよく知られている作家である。
私が、はじめて徐京植氏を見かけたのは、1999年、宮城県女川在住の元慰安婦、宋神道さんの裁判を畏友の早尾貴紀と共に東京で傍聴したときだった。元慰安婦たちを「母」と呼ぶ徐京植氏は、裁判所まで足を運んで裁判の行方を見守っていたのである。
二度目に見たのは、2000年12月に東京学芸大学で行われた植民地教育の国際シンポジウムの時である。私は、いずれもすれ違っていただけだったが、2001年6月に「満州国」教育史研究会で徐京植氏の『過ぎ去らない人々』(影書房,2001)の合評会をした時にはじめて言葉を交わした。「科学史をやってます。」「じゃあ慎蒼健と同業者ですか。」などといった会話をした記憶がある。そして徐京植氏は、この2002年2月11日に「建国記念の日に反対する集会」で講演するために仙台を訪れた。徐京植氏にとって仙台はなにより自らの精神的支柱である魯迅にゆかりの深い土地として意識されているようだった。実はこの講演の前日には仙台で「パレスチナと朝鮮の間で」というタイトルの小さな対話集会がもたれた。私はここで徐氏と結構、長い時間、対話する機会を得た。話してみて実に鋭い人だという実感をもった。
徐京植氏は、(崎山政穀氏や花崎氏との論争に見られるように)おそらくは現代日本でもっともポレミカルな言論活動を行っている一人である。
ここに収録された対話は、岡部伊都子、石川逸子、森まゆみ、藤田省三、ノーマ・フィールド、朴聖竣、梶村太一郎、日高六郎、山田昭次、若桑みどり、鵜飼哲、宮田毬栄、高橋哲哉、松井やより、ミッシェル・クレフィーとの対話である。いずれも興味深い対話ばかり(ノーマ・フィールド氏は土曜講座でもよんだことがあるようですね。)だが、とりわけ私が重要だと考えるのが、ミッシェル・クレフィーとの対話「普遍主義のひき臼にひかれて」である。
ミッシェル・クレフィーは、1950年生まれパレスチナ北部ナザレ生まれで現在はベルギー在住の映画監督である。作品には『石の賛美歌』『豊穣な記憶』などパレスチナ民衆の解放をうたったものがある。ミッシェル・クレフィーは故郷パレスチナから引き剥がされた「難民」である。一方の1951年生まれの徐京植氏も在日朝鮮人の位置を戦前は皇国臣民として戦争に動員され戦後(1952年のサンフランシスコ講和条約によって)日本国籍を失ったものの子息として自ら「半難民」と呼んでいる。(また以前から徐京植氏は以前からパレスチナ出身のエドワード・サイードの著作から多くの示唆を受けていたようである。)
この対話が重要なのは、どちらも故郷を追われた者、すなわち「難民」同士の対話だからである。しかも翻って考えてみるとパレスチナでイスラエルが建国されたのと朝鮮が南北に分断された年は、1948年という同じ年の出来事なのである。
「あらゆる帝国は権力の普遍主義と対抗普遍主義をうむ。」というミッシェル・クレフィーの言葉をうけて徐京植は「その言葉で思い出したのは、藤田省三氏が、在日朝鮮人の日常生活を形容して用いた「ローマ帝国のひき臼でひきつぶされる」です。ローマ帝国が周辺の「蛮族」を支配下におさめていくときローマの言語、法、習慣、その他ありとあらゆるものを他者に強いていくプロセスを言い表したものでした。」と応じ、次にこうつづけている。「帝国の普遍主義が他者をひきつぶす。対抗原理だったキリスト教もまた、ある意味で同じ途をたどった。フランス革命以降の国民国家と結びついた普遍主義が植民地主義と帝国主義の時代に私たち被植民地人をひきつぶす。(中略)「土」と結びついた農民生活に内在していたはずの「もうひとつの普遍主義」は今日、資本主義的な普遍主義によって破壊にさらされており、しかもたとえば朝鮮人とパレスチナ人、アラブ人と黒人など帝国主義と資本主義の神話による犠牲者たちは相互に引き裂かれています。こうした縦横の引き裂きに対して私たちはいかにして「新しい普遍性」を打ち出せるでしょうか?」
また別の所では、ミッシェル・クレフィーの「ポスト・モダンのドラマとはドラマがないことです。(中略)もしヒトラーがモダンの創始者であるとすれば、スターリンはポストモダンの創始者だと思います。スターリンのおかげで私たちはもはやユートピアをもてなくなったのですから。もはや集団的な夢はありません。歴史に対する全面的な不信しかありません。」という言葉に対しては、「私やあなたのような植民地支配と帝国主義戦争の結果として故郷を離散したおおくのアジア人やアフリカ人は今日、資本主義的普遍性とポストモダニズムという「ひき臼」を前にいかにみずからの詩をつくりだし歌うのかを問われているのではないかということなのです。日本社会は天皇制という前近代的な神話を、敗戦後も象徴天皇制というごまかしによって延命させました。かつて天皇の統治下で「大東亜共栄圏」という虚偽の普遍主義にひきつぶされけかけた朝鮮人は今日では清算されていない天皇制イデオロギーによってだけでなく日本社会の資本主義的ないしポストモダニズム的普遍主義によってもいわばその両側からそのアイデンティティを削り取られているのです。」といっている。ここにきて読者はこの対話のタイトルにある「ひき臼」というのが資本主義的普遍性ないしはポストモダニズムだということに気づかされるのである。
こうした議論は私のように「科学と帝国主義」研究などというとをやっている人間にとってとりわけ示唆的である。というのも徐京植氏は、帝国の対抗原理だったキリスト教が帝国の普遍主義になったことに触れているが、実は今日、もっとも強力な「ひき臼」は、資本主義社会を基盤にうまれた近代科学だろうからである。数学的諸科学を中核にすえた近代科学は、「土」とむすびついた固有性を普遍主義という「ひき臼」でひきつぶして抽象化しまう。
たとえば「民族」などといったものは、通常の近代科学からは完全に捨象されてしまうのである。こうした事態に対してどう対抗していくのか。徐京植氏はこうも言っている。「自分にとっての固有の、あるいは在日朝鮮人に固有の経験が、どのように世界の他の人々とつながっていくのか、それをいかにして真の普遍性にむけて開いていくのか ―しかも「抽象化という罠におちいることなく」―私は数年来そのことを考え続けています。」こうした思考は科学論の分野でも、いや科学論の分野でこそ深化させられなければならない。
クレフィーの故郷パレスチナでは、イスラエル軍が空爆を行い、パレスチナ人は自爆テロでそれに対抗している。果てしない暴力の連鎖は泥沼化し、永遠に続くかのようである。また徐京植の故郷、朝鮮は、一時期、南北の対話が進むかにみえたが、依然として民族は分断されたままである。両者とも状況は楽観を許さない厳しいものである。にもかかわらずクレフィーや徐京植はこの対話の最後で希望を語ろうとする。 「あなたは希望という言葉をつかわれましたが、この言葉は漢字ではまれな望み、レア・ホープ、リトル・ホープと書くのです。希望とは東アジアの文脈では望みが満ちあふれていることではなく、望みがほとんどないことなのです。ただまだ望みは絶たれていない。つまり絶望とはちがうのです。(中略)しかし互いにこのように出会い私たちの共同のイニシャチブによって「新しい普遍性」の構想にまさしくリトル・ホープを持ち続けたいものです。」
徐京植氏は2002年2月11日に仙台で行われた講演でも最後にこの話をしていた。20世紀を「断絶の世紀」と評したのは徐京植氏であるが、その徐京植氏が「望みはまだ完全に絶たれていないのです。」と言っていることの意味は大きい。
最初にあげた「スウェンボルの対話」はコルシュ、ブレヒト、ベンヤミンという亡命者たちの独自の希望の弁証だったが、私がこの対話集を読んで「スウェンボルの対話」を思い出したのも決して偶然ではないだろう。おそらくは、この対話集におさめられた対話ひとつひとつが徐京植氏とその対談相手との独自の希望の弁証なのである。■山口直樹
●市場淳子『ヒロシマを持ち帰った人々―「韓国の広島」はなぜ生まれたのか―』(凱風社,2000)
韓国の慶尚南道にハプチョン郡という所がある。ハプチョン郡は、日本の千葉市と同じ緯度にある。郡の面積は、983平方キロで慶尚南道全体の8.3パーセントという大きな面積を占めている。現在の日本人にはあまりなじみのない土地だが、ここには「韓国の広島」という名 前がつけられている。1998年の時点で在韓被爆者2288人のなかで594人がハプチョンに住んでいた。1978年野路店ではハプチョンの在韓被爆者 は3570人で全体の9362人の四割を占めていた。
日本は1910年の「日韓併合」以降、この土地の産業は、鉱業から農業まで日本人が支配権を握り、日本人のための「開発」が行われた。こうしたなかでここの住人である多くの朝鮮人達は、生活に窮乏し、日本に渡ることになった。「日本の広島に行って仕事を見つけよう」としたわけである。最初、日本政府は、朝鮮人の日本渡航に対して否定的な立場をとっていた。しかし、1937年の日中戦争によって事態は大きく変わる。日本の商工省や内務省が、朝鮮人の渡航に関して緩和政策を打ち出したからである
これは、日本の青年男子が、戦場に送り出され、「内地」の労働力が不足する一方で軍需生産力拡大のために大量の労働力が必要になったからである。1930年代からハプチョンから広島に移住する人々は増え始めていた。1944年の時点でもハプチョンから「満州」にいくより日本に行った人の方が多かったという。
一方、広島であるが、江戸時代は城下町として栄えたこの町も明治時代にはいって富国強兵政策の影響のもと近代的な軍事都市に変貌を遂げていた。第一次世界大戦後には、重化学工業が発展し、日本製鋼や東洋パルプなどの会社が、兵器生産をした。そして陸軍の広島、海軍の呉といわれるようになる。(たとえば大久野島の毒ガス兵器開発なども有名である。)広島は日本の侵略戦争とともにアジア侵略の拠点として栄えていった。この広島の軍需工場や軍関係施設で日本人の労働力不足を補うために働かされたのが、日本の植民地支配のため生活ができなくなって日本に渡ってきた朝鮮人たちだった。1945年8月6日に広島に原子爆弾が投下されたとき、これらの人々も巻き添えになった。そして戦後、日本政府や企業からこれらの人々への補償はほとんどなされないまま放置されてきた。(1991年から日本政府は40億円を在韓被爆者の医療援護にあてることにしたという。しかし日本人被爆者の援助金の額とは、大きな差がある。また被爆者には「医療」と「生活」の両面からの支援が、なされるべきことは、日本人被爆者によっても認められている。しかし「人道支援」の名のもとにこの支援を「医療支援」に限定したのは、今、連日マスコミで鈴木宗男氏とともに話題の外務省であった。さらにこの40億円は、2003年には使いきられてしまうという。)
「世界で唯一の被爆国」という言い方がある。しかしこれを「被爆したのは日本人だけだった。」とイメージするならば、大きな誤りである。戦後日本では、被爆した朝鮮人達は、忘れ去られてきたといってよい。実際、朝鮮人の慰霊碑が日本人の慰霊碑と同じ場所に立てられたのは、つい最近のできごとなのである。原爆の投下に関してはここ数年、科学史の分野でも着実に研究が進みつつあるといっていいわけだが、こうした現実をもふまえた科学史研究が必要だと、この本を読みながら感じた。
日本では、こうした補償を求める人々に常に立ちはだかるのは、「日本一国だけがとられすぎている。」といった冷ややかなシニシズムである。(たとえば、元慰安婦たちの裁判は日本ではそのほとんどが敗訴である。)しかし実際にドイツと日本の戦後補償の額をくらべてみるならば、日本が世界でもまれにみる会社国家だという現実も見えてくるのではないだろうか。著者の市場淳子は、在韓被爆者に必要なのは「人道的援助」ではなく「補償」だと繰り返し強調している。
市場淳子は、すでに1979年の時点でソウルの在韓被爆者に出会っており、それから何度も韓国で在韓被爆者に取材を重ねている。本書はその成果である。その取材は丹念かつ詳細で歴史的な視点もきちんとしており、教えられるところが多い。貴重な本書は、高く評価されるべきだと私は思う。■山口直樹
●『そうだったのか! 日本現代史』池上彰著 発行:ホーム社・発売:集英社2001年
この本は戦後日本の政治史のとてもわかりやすくておもしろい通史です。一気に(ほとんど)読んでしまいました。かねがね私は、新聞やテレビの政治ニュースがほとんど理解できない用語と論理でしかも各社ほとんど金太郎飴のように報道することに辟易しておりました。それってどういうこと? そんなものの言い方でわかると思う? っていいたくなるような表現ばかり。そんないらいらにこの本は答えてくれます。
アフガニスタン攻撃に参加する米艦船を自衛艦が護衛したことで論議が巻き起こったことから説き起こして、その根が敗戦後のGHQによる改革・日本国憲法制定・東西冷戦の開始・米軍の占領政策の変更・自衛隊発足にあったことを述べていきます。日産のゴーン社長の「リストラ策」発表から、三井三池炭鉱の労働争議の記述がスタートする、という具合。現在ホットな話題になっているテーマのほとんどが占領時代からずっと続くあいまいで矛盾にみちた日本政治の右往左往のひとつながりとして理解できます。ここぞという場面の描写では、三井三池炭鉱のホッパー攻防戦の回避や60年安保闘争での自衛隊出動回避など、時間刻みのジャーナリスティックな臨場感にあふれた記述があります。
バブル経済とその崩壊の部分では、「バブルっていったいどういうこと?」という基本的で経済学的な内容をとても分かりやすく解説していて、私はあの時何が起こっていたのか、その後の10年何がどうなっていたのかをはじめて知った思いがしました。
日韓問題では、日韓条約について一章とって記述してあります。日本の閣僚がたびたび「失言」をくりかえし、教科書の記述が問題になる根っこに、日韓が自国の事情を最優先させたために「玉虫色の表現」をとった日韓条約があることが分かります。ほんとに、「そうだったのか!」って感じです。
著者はNHKの記者で「週刊こどもニュース」の「おとうさん」役でもあります。この番組、わざっとらしい会話が私の肌に合わず、チャンネルを変えることが多かったのですが、実はこれ「週刊ホントのおとなニュース」だったのですね。やられました。これほどの見識があってあの番組がつくられているとは。プロの仕事を見る思いです。
この本の記述からはいくつかの共通のしらべが聞こえてきます。ひとつは、戦後の民主化から55年体制の確立・崩壊までの「○○VS○○」という対立が、現在では拍子抜けするほどリアリティを失ったということ。「日教組」を「にっきょうぐみ」と読んでしまう教員養成課程の大学生、社会党が自民党と連立政権をつくり、「なんでも反対」から「なんでも賛成」と揶揄されるほどになってその存在意義を失ったこと、「リストラ」が何の抵抗もなく受け入れられていくこと。筆者は55年体制をはじめとするさまざまな対立・対決構造を東西冷戦の国内での表現と理解し、東西冷戦が終結したことによって、国内でもその対立構図が現実味を失ってきたと考えています。これは相当に大胆な単純化だと思いますが、単純なことは分かるしおもしろいのです。私は歴史記述に時代の変化の「幹」をしっかりと見せてくれることを期待するので、これはこれで大満足です。
もうひとつのしらべは、日本の戦後政治は権力の無責任体制とでもいうべきものに完全に侵されてきたということです。水俣病の原因を厚生省の委員会が明らかにして公式に認定するチャンスだったものがにぎりつぶされた時には、被害の拡大を防ぐことよりもチッソの保護を優先した通産省、それに対して強く抵抗することのなかった厚生省、「通産省からもっと強い指導があれば」と責任を転嫁するチッソによって、「誰も責任をとらず事態だけが進行」してしまったこと。
またバブル崩壊後の金融不安と経済失政の記述では他書の文章を長く引用して「『おかしいと思ってもモノを言えない営業現場の銀行員。当局の意向に従うだけで責任を取らない経営陣。視野の広い戦略を欠き、肝心の決断は先送りした当局。それは太平洋戦争における前線の兵士と将校。将校と参謀本部の関係と全く変わっていない』」と記述しています。
巻末の「もっと知りたい人に」の参考文献欄をみて合点がいきました。著者は丸山眞男『現代政治の思想と行動』をぜひ読むようにすすめています。まさに丸山が取り組んだ問題が「誰も責任をとらず誰も決断をしないままあれほどの戦争をはじめてしまったのはいったいどういうことか?」ということでしたから。
であれば、著者には現在みられる官僚機構主導の政策決定のやり方がどのように形成されたのか、というところを書いて欲しかった、と思います。戦後改革の中で一定の官僚機構の解体があったはずで、またそれが東西冷戦の開始による占領政策の転換にともなって再構築があり、戦後復興と高度成長の過程で強化されたのではないでしょうか。これは「権力の無責任」の問題が戦後だけで閉じず、戦前・日本の近代化過程の問題にまでつながってしまうかんどころのはずです。
さて、私が最後まで気が進まずに読んでいないのが第8章「教育をめぐって抗争が続いた:文部省対日教組」です。なんで気が進まないんだろう。よく考えたら(!)私も文部科学省の国家公務員にして、日教組所属の職員組合に入る資格(?)のある人間なのですね。これを自分の問題として引き受けるにはあまりに気が重いのです。
でも大学改革が目の前で進行しつつある時に「だれも責任を取らないまま事態だけが進行する」のを見過ごす無責任をしないでおこうとすれば、読まなきゃね。ふー。■高野雅夫
●『日本の大国化とネオ・ナショナリズムの形成—天皇制ナショナリズムの模索と隘路』渡辺治著 桜井書店、2001年
「聖域なき構造改革」、靖国神社公式参拝、自衛隊の海外派兵、といった小泉政権が推進する個々の政策の相互連関を批判的に捉える視点を得るのを主な動機に、私は本書を読んだ。
著者自身の簡潔にして的を射た言葉を借りれば、「本書は、90年代以降起こってきた日本の軍事大国化の動きとその新しい特徴、それに並行しやや遅れて始まったネオ・ナショナリズムの台頭、昂揚の原因とそのねらいを、戦前日本の軍国主義体制とそのイデオロギーの中心に座ってきた天皇制の扱い方の変化に焦点を合わせつつ検討を行ってきた論文を集めたものである。」(p.4)
著者の分析は、70年代後半から始まった資本主義の新自由主義的再編という世界の動き、その延長で80年代後半から一気に加速した日本企業の海外への進出(多国籍企業化)、そこから出てくる多国籍企業からの軍事大国化の要求—すなわち、自由で安定した市場を維持するために軍事力が必要だとの要求—といった、90年代の動きを構成する歴史のより糸を批判的に解きほぐしながら進む。著者の批判的視角によれば、現下の日本の軍事大国化は、アメリカを盟主とする帝国主義勢力への本格的参入=現代帝国主義化なのである(この点より詳しくは同著者の『講座現代日本1 現代日本の帝国主義化』(大月書店、1996年)も参照されたい)。そして、この動きの中で、日本独自の国民統合の装置としての天皇制がより効果的に利用される可能性も出てきているのだ。
9月11日のアメリカでの同時多発テロ後、日本の軍事大国化は一段と進みつつある。この動きは歴史教科書問題や天皇の後継ぎ問題などと絡み合ってどう展開されんとしているのか。「9.11」の前後の断絶を強調する危うい論潮も見られるが(誰が何のためにどんな断絶があると言っているのか注意せよ!)、最新の状況を批判的に捉える上でも本書はもちろん有益である。■藤田康元

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