リスク・コミュニケーションという考え方

投稿者: | 2002年7月5日

吉川肇子(慶応義塾大学商学部)
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●リスク・コミュニケーションという考え方の誕生
 今日はリスクコミュニケーションという考え方について少しお話をしたいと思います。
 リスクコミュニケーションという言葉は、1980年代くらいから使われるようになってきた比較的歴史の新しい言葉です。日本でも行政の文章等に散見されるようになってきました。しかし必ずしもリスクコミュニケーションという意味が充分に理解された上で重視されているのではないと思いますので、ここで簡単にリスクコミュニケーションの歴史、考え方を紹介したいと思います。歴史の新しい言葉と言いましたが、1980年代くらいからリスクについてどういう風に情報を伝えるかということについてはリスクインフォメーションとかリスクメッセージとかいう複数の用語で色々検討が行われてきましたが、コミュニケーションという言葉を使い出したのは、おそらく1980年の後半くらいからとみていいと思います。そもそもリスクを伝えるコミュニケーション技術については社会心理学では従来からコミュニケーション研究について多くの蓄積があるので、そういう意味では新しくないのです。
 リスクコミュニケーションという新しい用語が出てきてリスクについて新しいあるいは特殊なコミュニケーション手法があると誤解されている方が少なくないと思いますがこれは誤解です。コミュニケーション技術としては従来の技術でいけるのですが、新しい考え方の浸透を目指すからこそ真新しい言葉が出てきたのだということを理解して頂けたらと思います。
 何故リスクコミュニケーションという考えを必要とするのかというと、色々な社会的な背景がありますが、二つ挙げておきたいと思います。一つはリスク問題が非常に顕在化してきたということです。日本に限らないが世界中で1960年代から70年代にかけて顕在化してきた環境問題や公害あるいは薬害、製品事故など、それから人口の増大の伴う自然災害の被害の拡大というようなものがあると思われます。多くのリスク問題は残念ながらその結果の予想に不確実な部分を多く残しています。被害の大きさも予想しきれません。誰が被害者になるかもわかりません。大変です。環境問題の悪化は例えば地球環境問題、地球温暖化や健康被害の問題の影響が出てくるかも知れないのですが、その進行の早さや影響の現れ方が明確に予想しきれません。こうしたリスク問題が増えることは、リスク削減に関する総費用の増大を意味します。そこでコストパーフォーマンスの視点からどこに費用を投じるべきかという目安があると便利だということになります。もし各分野に共通の単位でリスクを評価することが出来れば、そして化学のリスクも災害のリスクも食品のリスクも同じ一つの単位で同一の指標で表現する事が出来れば、リスク評価の高いリスクに重点的に費用を投じて対策すれば政策的には合理的であるように見えます。そこで科学的なリスク評価に基づくリスク管理ということが必要になってきます。
 こうした考え方は古くは損害保険の時にも伝統的に使われてきた考え方といえます。こういう科学的な評価に基づくリスク管理をしようとすると、現実的な問題として科学者とか行政の人などリスクのプロによる科学的な評価を一般の人々が受け入れないとか、一般の人々が科学者と同様にリスクを受け取らないというような問題が現実的な問題として出てくるわけです。専門家とは異なるリスクの捉え方をリスク認知といいますが、これをリスク認知のバイアスゆがみとして当初専門家は非常に問題にしました。そこで、リスクについての情報を伝えて一般の人々の科学的知識水準を上げれば専門家と同じレベルのリスク認知となるであろうから、コミュニケーションが必要だと言うような考え方を当初の極く一部の楽天的な科学者がしていたと思います。
 これを端的には啓蒙モデルと言ったらよいかと思いますが、知識が無いのでリスク評価が受け入れられないとか、理解されないのだという問題意識をもとに、リスクコミュニケーションを利用すればよいのだと思っていたと思われます。しかし、こういう専門家の意識は早い段階で破綻します。現実には失敗だということです。
 そこで、リスクコミュニケーションを生んだもう一つの社会的背景をここで少し言っておきたいのです。1960年代くらいから盛んになってきた消費者運動や人々の知る権利の尊重という社会的な価値観というようなものがあると思います。それまではもっぱら行政や科学者などにリスクについて情報を任せ独占させて意思決定を行わせておけば、つまり、プロに任せておけば大丈夫という考えが一般の市民の中に潜在的にはあったかも知れませんが、そういう専門家まかせの意思決定ではもはや解決し切れない問題が沢山出てきたということがあります。例えば企業は利潤を追求する結果、必ずしも消費者の安全を配慮した製品を作りだすとは限らないとか、医師と患者との関係でも患者自からが自発的に治療に関与しなければ効果が上がらないこともそういうことと思います。あるいは地域の経済的格差の拡大ということも関係が深いと思うのですが、リスクが特定地域に片寄るという問題が大きくなってきました。そこで例えば地域住民が充分な了解を得ずに原子力発電所や廃棄物処理場の施設が特定な地域に集中して建設されるというようなことなども問題になってきます。そういうような問題もあって専門家と共に一般の人達あるいはNGO、マスメデイアなど多くの人達が意志決定に参加するという考え方が出てきます。
 これらのことはこういう社会の動きは直接的には例えば公害の減少などというようなリスク削減として、間接的には例えばPL法などもいい例ですが、制度の変更や整備というようなより良いリスクマネージメントのシステムが整うということに、結果的に繋がってきたと思います。
●リスクを認知するときのバイアス
 さて、リスク認知のバイアスについてすこしくどくお話ししたいと思います。先ほど申しあげたように啓蒙モデルが前提としていた、一般の人々は専門家とは違う多数の判断基準を用いてリスクについて考えると言うことはゆがみで、困ったものだとという風に考えられたわけです。あるいは全ての情報を仮に受け取ったとしても人間は合理的に判断するとは限りません。ここにフレーミング効果と書いたのは例えばリスクについてどういう風に表現するか、端的に言えば言葉遣い一つでその選択が変わってしまう現象は非常に取り扱い難いものという風に考えられてきました。例えばここに挙げているのはおそらく一般の人々が使うであろうリスク評価の基準です。一度起きたら被害が大きいとか子供や孫に影響が及ぶとか、目に見えにくいあるいは目に見えないものであるとか、例えば放射線なんか良い例ですが、あるいは死ぬ時に通常とは異なる死に方をする、苦しんで死ぬとか、新しいもの、個人が努力しても避けられないようなリスク、そういうものは仮に客観的に科学的に評価をしてリスクが低いと評価したとしても、人々がそういう風に見ないというような事が問題になってきたわけです。
 しかし専門家と一般の人々のリスク認知の差を生むのは、果たして知識の差だけかということが問題になってきます。実際には知識の差だけでは無いということがあると思います。つまりリスクコミュニケーションという新しい言葉を得て多分1980年代の当初にはリスク専門家は一般の人々のリスク認知を改善して、バイアスを正して自分達の並みの知識水準に上げれば可能であろうと考えていたかも知れません。しかしそいう沢山のリスク問題に対して一般の人々が、あるいは専門家ですら全員一つの分野について、あるいは複数の分野についてプロ並みに同じ情報を得て判断するというのは多分現実には不可能だと思われます。このことは例えばある一つの問題のプロであっても別のリスクについては学習することが非常に難しいということを考えれば、こういう考え方にも綻びがあるとは充分に予想できたということです。
 先ほど言ったことですが仮に全てのリスク情報を、人々が(有り得ないことではあるが)理解できたとしても、その判断が専門家と同じになるとは限りません。どの選択肢を選ぶかということにはそれぞれの人にはその社会の価値観が影響するからです。例えば百五十年に一度の水害に備えるリスク対策について考えたとします。プロから見れば希とは言っても必ず水害は起こるのだからそれに対策してダムを造るとか、堤防を高くするのは合理的かも知れません。しかしそこに現実に住んでいる人達にとってみれば自分が生きている間に起こるかどうか判らないような頻度の水害に対して景観を壊してまで対策することの意味を感じられないかも知れず、それよりもむしろ景観とか生態系の維持の方が大事だという風に感じられるかも知れません。そういう景観や生態系を重視する人々の価値観を配慮せずに科学的な合理性だけで説得を試みようとしてもとても合意は得られないということになります。そもそも計画策定の段階から人々を関与させずに計画決定後に周知させるような行政手法は、もはや正当とはされなくなってきたというようなことがあると思います。またリスクのプロと言われているような専門家に対しての不信ということもあると思います。専門家のリスク評価が必ずしも客観的で正しいものではないということもひょっとすると実感されるようになったかも知れません。専門家が周到にリスクマネージメントの計画を立ててその削減に努力したとしても、人間はミスを冒すかも知れないし間違いも起こり得ます。こういうことは勿論ヒューマンエラーの問題としてシステムの中には組み込んでありますが、しかし事故やミスは往々にして、JCOなどはよい例ですが、専門家の想定外のところで起こります。それはおそらく専門家が人間にまつわるエラーを過小評価していることに起因すると思われます。同じような例は最近の狂牛病問題にも見ることができると思うのですが、農林水産省は全頭検査というシステムが確立したことをもって安全が確保されたと国民に知らしめてきましたが、少なくない数の国民はそれを信用せずにその結果として牛肉の消費の落ち込みが見られました。さらにさる食品メーカーのラベル張り替えの事件は、構築されたリスクマネジメントシステムそのものが実は信頼出来ないものであると、漠然とした人々の予感であるが、はからずも実証することになったわけです。どちらが正しかったかを結果を見てみれば国民の心配の方が正しかったということになるわけです。
 本来科学的である筈のリスク評価もどういう測定機器や測定法方を用いるのか、あるいはどういう予測モデルを採用するかという前提によって容易に変化し得るということはあり得ます。対象とする事象が不確実であるためなおさらそういうことがあるような気がします。科学者といえどもその時代の学会の趨勢や政策からの要請に影響されることが無いとは言えません。仮に現状で最良な判断を誠実に科学者が提出したとしても、新しい仮説が提出されることによってその最良だった筈の判断が覆ることは有り得ることです。そういう意味では、科学的なリスク評価に基づいてリスク管理をしておけばOKというのはちょっと楽観的過ぎるかなと思われます。
●リスク管理のさまざまなアプローチ 3
 リスク管理には色々なやり方があると思いますが、これをスターという人が虎の檻に例えを使って言っているので紹介したいと思います。科学的なリスク評価に基づいてやろうというようなのは技術的解決というのに近いと思います。動物園に虎を飼いましょうということにすると、ひょっとして虎が逃げるかも知れません。逃げて人の噛みつくかもしれません。ではどうするかというと、技術的に解決としては虎の牙を抜くとか爪を切っておくことによって万が一虎が檻から逃げたとしても人に危害が及ばないようにするということです。科学技術の進展でリスクを減らしていこうとするのが技術的な解決に当ります。
 政治的な解決は、虎は危ないから動物園に置いておくのはそもそも止めましょうと、虎を檻から排除するのが政治的な解決です。科学的に見れば合理的ではないが、こういうオプションもあり得ます。
先ほど例に挙げた狂牛病の全頭検査というのも科学的にみれば若い牛を検査するのはあまり意味が無いかも知れませんが、消費者の不安に応えたいと政治家が思えば、たとえ無駄でもコストが掛ってもこういう対策を採らざるを得なくなることがあり得ます。特に問題がこじれた時にそういう風になりがちです。そういうことも時にはしなければならなくなります。
 また、これもお金が掛かりますがマネージメント的な解決、管理的な解決というのがあります。虎の牙も切らず爪も抜かず虎は檻に置いておくが、管理を厳重にすることによってそこそこリスクと付き合っていきましょういうのが管理的解決です。これからの社会はどうなるか判らないが、技術的解決はこれからも一生懸命やらなければいけないけれど限界があり、科学技術ばかりにお金を使うわけにはいきません。それから政治的解決もお金があればできますがそんなにはやっていけないとなると、多分この最後のように、リスクがあると知りつつ檻の管理をきちんとして、そこそこ見ながらやって行かざるを得ないということになるのではないかと考えています。人の病気に例えれば、生活習慣病を抱えつつ慢性病を抱えつつ何となく暴走しないように、致命的な病気にならないように、そこそこにやっていく生活に近いかと思います。
 そう考えて見るとリスクコミュニケーションというのは最初に申しましたが、コミュニケーションと言いながら実はリスク管理そのものだということになります。PRTR法の例もそうですが、たくさんの人が情報を共有することによって、色々な視点からリスク問題を見ることになります。そうすると例えばプロが気が付かないような問題も時には発見することもあるかもしれません。いずれにせよ全体としてみれば、リスク検出が高まるということがあり得ます。あるいはたくさんの人が見ていることによって、これは制度上の問題ではあるが、手続きの正しさが保証されます。沢山の人が情報を共有する事によって私達はそこそこにリスクを管理していく、病気を抱えつつそこそこに長らえていく、というようなことを恐らくしなければいけないようになってくると思います。
 こういう風に考えてみるとリスクコミュニケーションという言葉自体は新しいけれども実は私達はリスクコミュニケーション的な考え方はもう既にやっているわけですね。典型的には消費者運動なんかはそうでしょうけれど、例えば特定の企業を名指しするような消費者運動は企業にとっては大変面倒くさいことですが、しかしそういうことがあったからこそ私達は社会全体として例えば特定商品のリスクを減らすと言うようなことが出来たわけです。典型的にはラルフネーダーの活動があって自動車のリコール制度ができたというようなことを例にあげることができます。文句を言ったりとやかく言ったりする人の存在は当事者にとって見ればうるさいものですが、社会全体からみれば大変ありがたいものです。内部告発なんかもそうだしマスメデイアなんかもそうです。
●リスク削減とリスクコミュニケーション
 これからどうなるかということですが、多分リスクがあると判っていながら手が出せない、対策できないリスクもあるだろうし、お金をかければリスク削減できるかもしれませんがお金が掛けられない、あるいは手の打ちようがないとかのリスクもあり得るでしょう。見ていくだけ監視していくだけのリスクもあるかも知れません。そういうようなリスクについては社会全体として情報を共有し合って、どこか良い智恵が出た時点で解決すると言うような形にしていくしかないかも知れないと思います。
 何が本当のリスクかという問いを私から差し上げたいと思うのですが、リスクコミュニケーションというのは単なるコミュニケーション技術では無くて、リスクを民主的に管理するという管理の方法なわけですが、こういう風にやっていくと大変なことが出てくるわけです。科学的なリスク評価をしてリスクがあると判っているところに対策をするのはリスク管理の通常業務といえるでしょう。つまり、わかっているリスクを減らしましょうということです。でもリスクがあるかも知れないし、無いかも知れないよく判らない、あるいはあるとわかっても解決方法・削減方法について、人々が合意できないあるいは期限までに意思決定できない、それから皆で話し合うけれども最良の決定にならない、そういう時にどうするかということが真の意味のリスク管理だと思います。
 しかしこれから住民運動・住民参加の動きなんかも強まってくると思いますが、そういう時に人々が合意できないというようなことをどうしていくかを考えていく必要が出てくると思います。レジュメにあるのは、これを図で描いてみたものなのですが、多分最初に話したように1980年代からのち、心理学者以外のリスク関係者がリスクコミュニケーションという言葉を聞いて思った図は多分こういうことだったと思います。科学的なリスク評価をしてその結果をリスクコミュニケーションによって一般の人々に伝えて、リスク管理をした結果リスク削減ができるという考え方が図式的にあったかなと思います。
 ですが多分これは誤解だと思います。もちろん理想としてはそうあるべきですが、現実にはそういきません。人々には様々な多様な価値観があります。むしろリスクコミュニケーションが考えていることはどういうことかというと、まずリスク評価があるわけではないのです。まずリスクコミュニケーションがあるのです。まずリスクコミュニケーションがあって、皆でリスク情報を共有した上で何が評価すべきリスクか、その評価をどうするかということを科学者も含めて行政も含めて皆でリスク評価をして、その中であるいは新しいリスクを発見することも有るかも知れませんが、そういうことをしながらリスク削減をしていくというのが、おそらく手順としてありそうなことかと思います。
 リスク評価があってリスクコミュニケーションがあるのではなくて、リスクコミュニケーションがあってリスク評価があり、またその中でリスク発見もあるということです。
 リスク削減とここでは単純に述べましたが、これからのリスクの中には対策できないリスク、削減できないリスクも充分あり得ます。そうするとどうすることも出来ないので、まあ見ておくだけ、あるいは相談してなんとか社会で致命的なことにはならないようにしておきましょうという形で、見ておくだけということもあり得ます。またリスクコミュニケーションをしながら先ほど言ったようにあたかも生活習慣病を抱えた人間のように、こけつまろびつやっていくしかないのかなという風に思っています。リスクコミュニケーションというのはそういう考え方です。
 もちろん、科学的なリスク評価は大事ですし、理想としてはそうあるべきですが、科学が意思決定するのでは無く、社会全体が意思決定するわけです。そのためにリスクコミュニケーションが前提としてあり得るのだということが、リスクコミュニケーションの考え方だと紹介しておきたいと思います。
【質疑応答】
Q1:先ほど狂牛病の全頭検査に関して雪印がラベルを張り替えたから、市民の心配が正しかったとおっしゃったと思いますが別にラベルを張り替えたからと言って狂牛病の対策が正しかったと私は思っていません。あれは手遅れだったとは思うが充分管理する方向に向かっていたと思うし、私に言わせれば余分なくらいに充分管理していたと思います。どうして市民の方が正しかったのでしょうか?
A:市民の方が正しかったとは厳密な意味ではそうではないかも知れません。実際に牛肉を食べて狂牛病にならないかもしれないから、あのラベルの張り替えがどうであれ結果的には影響しなかったかも知れません。しかし言っていることは科学的に正しいかということではないわけです。専門家がこう言っているかも知れないけれども行政は少なくても紙の上で合理的だと考えていたシステムが必ずしも綻びのないものだと言えないのではないか、という事が正しかったと言っているのです。
Q:それはどんなシステムでも当たり前ではないですか?その時にどんなリスクがあったのか、狂牛病対策としてとしてどんな対策が正しかったか、間違っていたかを専門家として正してみることが大事なことではないのですか。
A:正しいという言葉の使い方が間違っていると思うのであればそういう風にとって頂いて結構です。でも、正しいかどうかはある意味では問題にならないですね。
Q:それがリスクコミュニケーションで一番危険なことと思います。完全ではないからどんな危険がある
か判らないと煽ることになります。
A:煽っているわけではないのです。煽ることもあるかも知れませんが、しかしそれはそういうものです。合理的にはいかないのです。残念ですけれど。
Q2:リスクコミュニケーションはリスクを民主的に管理するという場合、情報が正しいかどうかをチェックする手段を市民が持ってない限りこれは機能しないのではないかと思う。正しい情報かどうかをチェックできない典型的な例がいまのところ原子力なんかそうです。あれは色々な関係で情報が公開されないし、言われた数値を信じるしかないからでもあるが、そういう状況ではリスクコミュニケーションは成り立たないと思うがどうですか?
A:情報の正しさとか、理想としては正しい情報であるべきだし、それから皆でリスクコミュニケーションをして管理していく内に正しくない情報が淘汰されたらいいとは思いますが、しかしそれを目標にしてそうあるべきだと理想を掲げてそれを達成しようと思う努力は多分現実には無理だし、達成できないものを求めていると思います。多分他の心理学者もそう言うと思いますが、先ほど例をあげましたが人間の意思決定は簡単にちょっとした言葉の表現だけでも変わってしまうものなのです。ですから現実にはそういうものであるというふうにある程度了解して上で妥協をしていかざるを得ないと思います。正しい情報であるべきだし、正しい情報が残っていてその上で判断するべきではあるが、もしそれを達成すべき目標として掲げて、そこに至らないからリスクコミュニケーションはうまくいかないとか、リスクコミュニケーションではあるべきものが達成されていないと言うふうに言い続けるのは生産的でないと思います。間違った情報もあるかも知れないし正しくない情報に時に私達が判断を迷うことがあるかも知れないが、それはそういうものです。失敗するかもしれないがそれはやむを得ない、失敗なしにはできないものなのです。
Q3:今の質問を纏めて一言で言うと正しい正しくないと言うのは相対的だけれども少しでも正しい結論に導くことは出来るのではないか、そういう時に専門的な知識を持っている人がどうリスクコミュニケーションに関わればよいのか、今までの関わり方と違った関わり方に気を付けなければならないとしたら、それはどこにあるのかと言うことを知りたい、教えて頂きたいと思います。
A:こういう言い方ではどうでしょうか。理想としてはそうあるべきでしょうが、理想を求めて科学的な合理性をだけで問題を解決しようとする頑な姿勢が、多分共感も得られないし合意も得られないということだ思うのです。例えば相手の議論を感情的だとか非合理的だと言う人の意見を人間は聞く気になるかどうかというです。科学的な正しさは大事であるが、コミュニケーションという意味では共感の無いところにはコミュニケーションは成り立たないということを言いたいのです。
Q3:共感を得るような態度が重要だということですか?
A:それは科学的な正確さを無視するということではありませんが、自分達の理想に他の人達がついていかないからと言ってそれを非難してはとてもだめです。
Q3:それは重要な事と思います。世の中には分かり易くて非常に共感を生みやすいけれど実はとんでも無いというこは結構あったりしますね。
Q4:リスクコミュニケーションというとは安全性を求めるものなのか、安心感を求めるものなのか確認したいと思います。
A:どちらでもないです。私も含めて心理学者も1980年代にはひょっとするとこれで安心くらいは得られるかもしれないと思ってきたかも知れませんが、多分現実を見てみるとそうではなく、予想以上に大変だと思うようになっているのではないかとおもいます。
Q3それはリスクは思っていたより深くて解決できないということが浸透してしまうということですね。
A:そうです。目に見えなくてわからないということです。
Q5:直感ということを言われたので大変共感を持ちました。私は電磁波を出す20万ボルトの高圧線の下に20年間住んでいました。非常に病気が多発して癌や死亡者が続出しました。私の夫も脳腫瘍癌で死亡しました。そういう危険な所にいて、安全に暢気に景色が良いと近所の人も喜んで暮らしていました。私は主人の病気が治りにくいので、ここは大変危険だ神様に呪われているようで恐くてしようがないと言って何が何でも引っ越したいと言って鎌倉とかもう少し田舎の方に転居したいと騒ぎました。子供達も呪われたような夢を見ると言います。そういう非常な恐怖感を何年も十年も持ちました。そういう科学的根拠もなく、近所の人達もそういう様々な兆候はあったが、情報公開がなかったから電磁波の恐怖について科学的な根拠を知らないで20年住んで、私も家族を死に追いやってしまいました。私自身の直感を夫や子供が信じてくれて、10年前の転居をしてくれていたら夫は今も生き長らえていたのではないかと思います。夫が何故私の迷信というか直感を信じずに、転居に賛成してくれなかったのかという思いで、先生の話に共感を覚えました。
A:今の話に関係するのですが、電磁波が影響するどうかということではなくて、知っていれば選べたのにと言うことなのですね。そこがリスクコミュニケーションのポイントだということです。それが科学的に正しいかどうかということは問題にならないということになります。
Q3:今の例は非常に考えさせられますし、リスクコミュニケーションの役割ということに参考になります。一方では科学者の方に解決策がないのではないかというふうに多くの人が思われているようなことも、多分専門家への挑戦状なのではないかと思いました。
(どよう便り 56号 2002年7月)

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