笹本征男さんの思い出~思い出を思い出としてしか語り得ぬもどかしさ

投稿者: | 2010年6月1日

瀬川嘉之

笹本征男さんと私のつながりは終始、市民科学研究室であった。市民科学研究室、もっと言えば上田昌文さんを媒介としてつながり、市民科学研究室を最後に別れた。市民科学研究室からの帰り道、地下鉄の飯田橋駅で降りるとき、そのまま東急線に乗り入れる車内に座った笹本さんにまた来月お会いするのを楽しみに別れた。最後は市民科学研究室が移転したので大手町駅だったはずだが、思い出せない。飯田橋駅のいつもとはちがった感触だけが残る。亡くなった笹本さんの部屋のかたづけをしたとき、「一瞬一生」という座右の銘を見た気がする。幻かもしれないし、思いこみかもしれない。笹本さんとお会いして話すときは、いつも「一瞬一生」の喜びがあった。自分だけかと思いきや、番組に協力していたNHKの若い人々にもその感があったらしい。別に愛想があるわけでもなければ、サービスがあるわけでもない。ただ何か生きることに対する真剣味があった。

笹本さんに初めてお会いしたとき、市民科学研究室の会合では2003年12月10日、すでに笹本さんはがんであった。昨年から腰の痛みで眠れないことがあり、「もう先が短いから言いたいことを言う」としきりにおっしゃっていたけれど、それまでは痛いとか苦しいとか聞いたことはなかった。私などには言ってもしかたないから言わないだけで、よほどいろいろあったのかもしれない。しかし、私はわからないので、今回の入院もまさか亡くなるとは思っていなかった。今でも信じられないし、病院で亡くなってCTで撮っても直接の死因がわからない事実が重くのしかかっている。前の日にはベッドを離れて公衆電話をしており、昼までいつもと変わらなかったのに、午後1時過ぎに心肺停止で見つかり3時前には亡くなったと聞く。1時間くらいの間に笹本さんのからだの中で何があって、何を思ったのだろう。笹本さんは他のがんにかかったかたに出会うと「生きて生きて生きぬいてください」と言っていた。ご自身も最後の最後まで「生きて生きて生きぬく」つもりだったことはまちがいない。

私ががんにかかった人と出会い、別れるのは二度目だ。最初の人とは一度会っただけで別れた。死を知ったのは新聞記事だ。高木仁三郎さんである。高木さんとの出会いと別れは私の道を変えた。笹本さんとの出会いと別れはもっと大きく何かを変えているはずだけれど、今のところ何も変えていない。高木さんが亡くなった3年後に市民科学研究室で出会ったことになる。その前に湘南科学史懇話会におけるジョン・ダワーの『敗北を抱きしめて』の合評会で講演者のひとりとしてお話になったのを聞いている。話の中身は憶えていないけれど、笹本さんの佇まいを憶えている。「戦中・戦後」を知る世代のかたが笹本さんの話を聞いて「今とくらべて貧しかったけれど、今とくらべてそんなにひどいことはなかった」とさかんに言っていた。笹本さんの話はいつも「戦中・戦後」がいかにひどかったかという印象を与える。アメリカ人、日本人を問わず、原爆に加害者としてかかわった人々がいかにひどいことをしたかという話である。その時もその後も、私もそういう印象を持ってきた。しかし、笹本さんは「今はそんなにひどいことはしていない」とは一言も言っていない。むしろ、暗に、あくまでも暗に「今ももっとひどいことをしているのではないか」と告発している。だから、「今とくらべてそんなに変わらない」と言う人とほとんど同じことを言っている。笹本さんは個人を告発するわけではなく、あくまでも国家の中枢を告発している。高木さんが個人として国家に異を唱えたことを思うとき、私には個人への告発と国家への告発の境界がゆらぐ。国家は抽象的ながら強い力を持った存在だとしても、一人ひとりの個人が何を考え、どう判断し、何をするかによって動く。

笹本さんと市民科学研究室以外でお会いした何回かは夢の島であった。夢の島で笹本さんと現代科学史研究者の山崎正勝さんが講演したことがある。二人の講演の後に第五福竜丸乗組員であった大石又七さんが「二人は何のために原爆や核兵器に関わる歴史を研究しているのか」質問した。山崎さんは原子力技術者も育っている大学で教鞭を執っていたからでもあろう、「科学者の責任」として平和利用には責任を持って、軍事利用には断固反対するためにと答えていた。笹本さんはちょうど六ヶ所再処理工場のアクティブ試験が始まる直前だったせいか「できることなら放射能に汚染される前に六ヶ所再処理工場を爆破したい」と言っていた。歴史研究の結果、再処理工場が爆破できるか、原子力施設を廃絶できるか、やってみなければわからない。「歴史認識」が国家を動かしている現在からすると、不可能ではないどころか、その可能性は大いにあると言ってよいだろう。いずれにしろ、方法というか、分野が少し違うにしても、高木仁三郎と笹本征男のめざすところは共通であった。笹本さんは高木さんの話になると、いつもきまって高木さんが亡くなる少し前に一度だけ丸木美術館で同じ記念写真におさまったことがあると言い、それしかおっしゃらなかった。

在韓被爆者問題市民会議で笹本さんと共に活動されていた中島龍美さんが2008年1月に亡くなる少し前、やはり夢の島でお会いしたことがある。中島さんの体調がすぐれない感じだったので、中島さんとはほとんど言葉をかわさずに別れ、市民会議の及川佐さんの車で東京駅まで笹本さんと一緒に送ってもらった。東京駅近くの丸善に寄って英語の本をひとわたりながめ、中の喫茶店でしばらく話した。このときも、このすぐ後に中島さんが亡くなった後も中島さんのことを笹本さんからきいたことはほとんどない。喫茶店での話で印象に残っているのは笹本さんが若いとき、日本に初めてコンビニができた時代に東京駅近くのオフィスで働いていたことがあって、コンビニに行ったことがあるという話だった。このとき以外にも何かの会合の後などに笹本さんと二人でお茶を飲んだり、食事をしながら話し込んだことが何回かある。場所は飯田橋だったり、麻布だったり、神保町だったりした。その時々の話はほんとうに断片的にしか憶えていない。まったくおもしろおかしい話ではなかったのに、どうしてあんなに楽しかったのだろう。市民科学研究室での勉強会の後も、たいてい本郷通り近くのレストランや喫茶店や韓国料理屋で柿原泰さんや吉田由布子さんや渡辺美紀子さんら、勉強会の参加者とつい終電間際まで話し込んでしまった。笹本さんががんをわずらっていたことを思うと、まるで配慮に欠けていたけれど、何事にも代え難い時間であった。

3月20日に笹本さんが亡くなる前の3月5日、広島大学原爆放射線医科学研究所の国際シンポジウムを聞きに市民科学研究室の活動として一人で広島へ行った。黒い雨の放射能が65年経った今になって10km以上離れた地域から検出されている話が収穫であった。その夜、京都からの桑垣豊さんに爆心地周辺を案内してもらうため、稲荷大橋のあたりを歩いていて急に「ヒロシマへの別れ、それから」という笹本さんの声を思い出した。ちょうどその1年ほど前の3月22日から24日にかけて市民科学研究室の研究旅行として広島市公文書館や比治山の放射線影響研究所を勉強会のメンバーとともに訪れた。そのとき、笹本さんは繰り返し「ヒロシマ・ナガサキへの別れ、それから」と言っていた。詩人としての笹本さんをこの言葉がとらえていたようだ。稲荷大橋の近くのホテルに宿泊していて何回かこの橋を渡ったので、1年後にまたこの橋で思い出したのだ。笹本さんは入院していたけれど、まだまだ元気で前回の入院と同じようにまた退院して勉強会の研究旅行で広島に来られるにちがいないと思った。昨年は私だけ長崎に行って放影研や長崎大や西山地区等の訪問先だけでなく、食事して話すのにいいお店も見つけたので長崎にも行きましょうと言っていたのだ。また、もし広島、長崎を訪れるとしたら「ヒロシマ・ナガサキへの別れ、それから」という言葉はどういうことになるのだろう。と今年、稲荷大橋を渡りながら思った。思いながら、同時に「ああ、笹本さんは二度と広島に来ることはないのだ」と正反対のことを思った。後者を打ち消しながら、涙が出そうになった。それなのにどうして帰ってからすぐにお見舞いに行かなかったのだろう。今回黒い雨の放射能が検出された地域や45年当時に検出された地域や原爆後の45年8月14日に米軍が空爆した岩国へも行ったので、報告に行っておけばよかった。でも、まさかと思っていたので、次の勉強会にみえるかもしれない、その時にと思っていた勉強会にいらっしゃらなかったので、お見舞いはどうしようと思った翌日に亡くなってしまった。

笹本さんは広島にはあまり行かないようにしているとおっしゃっていた。特に8月6日に行ったのは「被爆者 空白の10年」というNHKの番組が制作される前に行ったのが唯一に近いと聞いた。しかし、比較的近い出雲の益田市が故郷で、原爆問題の関係もあるから生涯には何度も広島を訪れているのではないかと思う。だから「ヒロシマへの別れ、それから」の言葉の意味は二度と広島を訪れることはあるまいということで、死を予感していたのかもしれない。しかし、もっとちがう意味もあるだろう。昨年の3月22日から24日は笹本さんにとってひとつの区切りだったのだろう。ちょうどNHKの「日本軍と阿片」の番組に続いて「海軍反省会」の番組に協力していた時期でもある。それにしても、考えてみるとよくわからない。「どういう意味ですか」と聞くのをためらわせる言葉にはちがいない。

笹本さんという人とその思想は書き残した文章にすべて現れている。だから、その人柄についても思想についてもどうこう言うことはない。何しろ私が最後に笹本さんからいただいた言葉は「文は人なり」なので、このつたない文章も忸怩たる思いだが、「文は人なり」だからしかたない。恩師の竹前栄治氏が弔辞で「あちらに行ったらまた大いに議論しよう」と述べておられた。市民科学研究室の勉強会にも参加していたある被爆二世の方は今年の夏ごろ笹本さんと高田馬場でばったり会い、ちょうど被爆手帳をもらったところだったので、それを見せて笹本さんと話したそうだ。その時も「あちらに行ってもまた話しましょう」と言って別れたそうだ。

「生きて生きて生きぬく」けれど、死を恐れることはあるまい。いくらでも語り合うことはできる。しかし、爆弾を投下して調査して「一瞬一生」をそこなう者は許しがたい。今のところ、笹本さんから得た諸々をまとめるとこんなところになる。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA