笹本氏の仕事の衝撃

投稿者: | 2010年6月10日

上田昌文
(NPO法人市民科学研究室・代表)

【『湘南科学史懇話会通信』第4号1999年9月より再録】

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湘南科学史懇話会で笹本征男氏の研究発表の聴いたことは、私にとって生涯忘れることのできない出来事になるだろう。
これは決して誇張ではない。私も、学生時代から反核・反原子力の市民運動(主として太平洋地域の核問題)とのかかわりをとおして、原爆被害国である日本が戦後まもなく原子力大国へと姿を変えたことへの疑問を抱きつづけてきた一人だ。反核は必ずしも反原子力を含むものではないと考える人、あるいはエネルギー政策として原子力を推進することは核廃絶と矛盾するものではないと考える人は、そもそもこの疑問を抱かないだろう。しかし原子力エネルギー利用からの脱却なしには核からの真の脱却はありえないと考える人でも、この疑問を解く手がかりがどこにあるかを推測できた人は少ないのではないか。たとえば吉岡斉『原子力の社会史』(朝日選書1999年)は日本の原子力開発利用を歴史的に俯瞰しその展開の構造を明らかにした重要な著作だが、占領から講和条約締結にいたる時期の問題を連合国軍による日本の原子力研究禁止政策からその解禁への移行という話題に限定しているし、また核の問題を総覧した最近の坂本和義編『核と人間Ⅰ 核と対決する20世紀』(岩波書店1999年)にもこの「原爆被害国がなぜ原発大国に」という疑問に言及した論文は含まれていない。
この疑問を解く大きな手がかりの一つは、戦後の米国の核戦略に、国家主権さえ剥奪されたまま、丸ごと組み込まれてきた太平洋の島嶼国である。 1954年3月のビキニ環礁での水爆実験(そしてそれ以降にもマーシャル諸島で繰り返された核実験)が、ロンゲラップ島などの住民を犠牲にした人体実験であったことは、今ではかなりはっきりしている(島田興生『還らざる楽園ビキニ被曝40年核に蝕まれて』小学館1994年、豊崎博光『核を撮る』無明舎出版1992年、豪映画デニス・オロウク監督作品『ハーフライフ』1985 年など)。思えば、占領下にあった日本と、実質的には植民地支配を受けていた太平洋諸国とが、核を国際政治の大きなカードとして使い始めた米国にとって、共に格好の政治的あるいは科学的な’実験場’であったことは想像に難くなかったのだ。
しかし笹本氏はさらに深いところを射抜いた。原爆被害国であること――ちなみに「唯一の」原爆被害国ではない、これは史実に反する――この圧倒的な重みがわれわれの意識を占有し、歴史事実を曇りなく見つめる眼をどこかで失わせてしまっていた――笹本氏の研究はわれわれにそう思わせずにはいない。われわれは「原爆被害国」と言うとき、あまりに安易に「国」と「個人」を同一視してきたのだが、「国」の主体を明確にし(昭和天皇、日本政府、日本軍)、彼らが原爆被害をめぐって何をなしてきたかを史実を掘り起こして明らかにするならば、そこには「原爆加害国家」としての相貌が浮かび上がってくるのである。笹本氏の『米軍占領下の原爆調査』(新幹社1995年)はその史実の掘り起こしの詳細な記録であり、まさにこの「加害国家」としてのあり方が「原子力国家」への歩みを必然にしたことを説得的に示唆している書物である。
なぜ、一人笹本氏のみがこの追究をなしえたのだろうか。在野の歴史家として、アカデミズムに身をおく歴史家が持ち得ない批判のスタンス(天皇批判を含む)を持ちえたからだろうか。この書は、終始一貫して詳細な歴史事実の検証であるのだが、その追究の背後に、原爆被爆者を互いの政治利用に供しその利用の事実を隠蔽してきた日本国と米国の為政者たちに対する、笹本氏の深い怒りを感じ取ることができる。氏の史実追究の厳しさは、氏の怒りの深さ、被害で苦しむ人に対する思いやりの深さを反映していると、湘南科学史懇話会で初めて笹本氏にお会いして、私は心から納得することができた。笹本氏はなによりもまず心情の人である。被害で苦しむ者の心に共感し、高所から見下ろすような所に自分の身を置かず、この苦しみは何よってもたらされているのかという問いを決して手放さない。学問はそれをなす人の人格と統合されたとき本当の迫力を持つ、と私は思うが、私は笹本氏の仕事に、「市民のための学問」といういうものの一つのあるべき姿を見出すことができると感じている。
為政者とその協力者たちにとって都合の悪いだろう史実を、その史実が秘せられてしまっているという障害を何とか克服しながら、詳細に追及していく作業は、もっと奨励されねばならない。ことに敗戦色が濃くなった時期や戦後の占領期に、そうした支配者層が何を恐れ、敵側とどんな駆け引きをしたのかという点は、戦後の国際政治のあり方を決定付けた大きな要素であろう。笹本氏が原爆に関して行った研究は、戦後史のタブーへの挑戦の度合いにおいて最大級のものであろうが、少数ながらこうした挑戦を行っている人たちが他にもいる。七三一部隊の細菌兵器開発は、戦後日本の医学界のタブーである。常石敬一氏の研究は医学界に温存されている戦前から引き継がれた体質にメスを入れようとしている(『医学者の組織犯罪』朝日新聞社1994年)。(ちなみに最近私は、戦後最大の細菌兵器開発がロシアによって秘密裏になされ、その計画は満州に侵攻して日本軍から押収した七三一部隊の資料に大幅に基づいていたことを、ケン・アリベック著『バイオハザード』二見書房1999年を読んで知った。)また作家の広瀬隆氏は、『腐食の連鎖薬害と原発にひそむ人脈』(集英社1996年)や『私物国家日本の黒幕の系図』(光文社1997年)などをとおして、日本の各界の支配層がいかに強く人脈で連携しながら利権独占と責任回避のシステムを築いているかを、彼らの戦争犯罪にまで遡って追及している。時としてやや扇情的になるその筆致を毛嫌いする人もいるかも知れないが、私は広瀬氏が独力で行っているような追及の仕事を、歴史家と称される人々がなぜ積極的に行わないのか、かねがね疑問に思ってきた。現在の「悪」を厳しく見つめ、それの因って来たるところを冷徹に摘出していくのが、時代の診断役として歴史家に課せられた大切な仕事の一つではないのか。
私は現在、笹本氏の仕事のエッセンスを外国語(英語)で紹介するという作業を行ってみたいと考えている。スミソニアン原爆展論争でもわかるように、日米間の原爆の加害・被害認識のギャップは小さくない。しかし同時にこの論争は、共通の地盤に立って問題を認識していこうという気運が生まれてきたことも示している。笹本氏が提示した原爆をめぐる歴史の視点と実証は、日米両国の市民同士が共通の地盤に立って「原爆・原子力・核」の問題を考えていくために、不可欠なものであろう。反核・反原子力の運動を担う日米の市民の間に、彼の仕事の意義が広く知られることを願ってやまない。

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