市民のための科学と科学技術基本法

投稿者: | 1999年3月21日

上田昌文

(『科学』1999年3月号より転載)

科学技術基本法・基本計画が示す科学技術の国家的推進の方向は、「市民セクター」が社会の基本構成要素として新しく立ち上がってきたという現実をふまえていない。科学技術と主体的に向き合ってそれがもたらす問題の解決を模索する市民たちが、科学技術が転換する契機をつくり出そうとしている。

軌道修正できない科学技術

ここに1冊のレポートがある。「ダイオキシン類削減計画 市民案」と題されたその30ページのレポートは、日本でも最悪といわれるダイオキシン汚染に苦しむ埼玉県所沢市の住民たちが、市とその周辺に密集する焼却施設を詳細に調査し、汚染状況とそれを削減していくための具体的な提案をまとめたものだ(注1)。ダイオキシン濃度の測定などで幾人かの専門家に協力を要請し、行政との粘り強い交渉を経て情報を収集し、それらのデータや情報を綿密に分析している。

私は昨年から「高木学校」(注2)のメンバーとして化学物質問題の調査に関わっていて、さまざまな文献に目をとおしているが、このレポートは現在の日本の化学物質行政・廃棄物行政に対する最も厳しい批判であると同時に、おそらく専門的なレベルからみても非常に正確で、しかも具体的かつ視野の広い政策提言になっていると思う。
住民の生命を守る立場からまとめあげられたこうした科学的レポートは、アカデミズムの側からついぞ出ることはなかった。むしろアカデミズムが行ってきたのは、厚生省の「廃棄物処理に係わるダイオキシン専門家会議」(83年)や「ダイオキシン削減検討委員会」(90年)などにおいて汚染の現状を追認することにしかならない「提言」を繰り返すことだけだった。
この問題が発覚して有効な対策が講じられないまま15年が経過して、ついに日本は世界でも類のないダイオキシンの激甚汚染地帯になった。この責任は誰にあるのか?この問題に係わった(あるいは係わることを避けた)科学技術者に責任はないと言えるのだろうか?

このレポートは1例にすぎないが、しかしこの1例でもすでに、科学技術が産み出すさまざまな危害を、その危害に巻き込まれる側の立場にたって解決・終息すべく動くことが、当の科学技術を扱うアカデミズムには非常に難しくなっていることが推察できるだろう。科学技術は自ら軌道修正することができないもののように思える。
今日、地球が百万年近くかけて蓄えてきた量の化石燃料がほぼ1年で燃やされていて、そのうちの80%を世界の人口の25%に満たない先進工業国が消費している。自然に対する未曾有の搾取と南北間での富の極端な偏在――われわれが科学技術を駆使して築き上げた世界は、開発の巨大なツケを自然界と第三世界と後の世代にまわす不公正な世界だったと言えるのではないか(注3)。

市民と科学技術の専門性
科学技術を適正にコントロールすることがわれわれの必須の課題だが、その仕事を科学技術者、アカデミズムや政府の関係者らにだけ任せておくわけにはいかない。危害が拡大してからでは取り返しがつかないという場合が、こと科学技術に関しては多く、その危害の認識は市民の側に芽生えることがほとんどなのだ。しかし現在、市民は科学技術政策の意思決定プロセスからほぼ完全に閉め出されている。科学技術を本当に理解しその使い道を決めることができるのは専門家だけだというのが、その閉め出しの理由だ。
これはまったく転倒した理由だと私には思える。水俣病事件をはじめ幾度となく繰り返されてきた「科学技術危害」において行政側の専門家が果たしてきた役割を振り返れば、専門家こそ、市民とのコミュニケーションの断絶――専門知識それ自体における市民との隔絶は避けられないにしろ――をあたりまえのものとみなすその存在形態ゆえに、危害の認識を誤り、危害を拡大させることに手を貸してきたのだと言えるのではないか。

たとえば薬害エイズ事件を考えてみよう。血友病患者に投与される非加熱血液製剤がウイルスで汚染されている可能性をいち早く知り得たのは、当然その筋の専門家たちである。しかし彼らはその情報を生かしたまっとうなリスク評価を行わず、従来の投薬体制が生み出している利権を守るべく内々に隠蔽・処理してしまった。これがこの悲劇の発端である。こうした恣意的操作がなぜ生じるのか?残念ながら現状では、医薬品を社会的にどう受容していくかに関して開かれた場で市民からの検討が加えられることは(市販後に副作用事例をモニタリングする以外)ほとんどない。薬害が繰り返される背景には、専門家が医薬品をめぐる意思決定とそれにまつわる情報を独占しているという事態があるのだが、これを打開する道はまだ見えていない(注4)。
科学技術政策の意思決定に市民を関与させること、科学技術の専門家と渡り合っていけるように市民をサポートするしくみを作ること、市民の側に立って科学技術をコントロールしていくために専門的提言を行う能力を持った科学者を養成すること、常日頃から市民と専門家とのコミュニケーションをはかる何らかの方法を生み出すこと……こうした、いわば「市民のための科学」を実現する試みが、今ほど切実に求められているときはない。

「市民のための科学」は、しかし上からの制度改革で実現し得るものではないだろう。それは、私たちがより自立した市民になるために自分自身を変えていくプロセスと重なるはずだ。端的に言って私は、科学技術を実質的に方向転換させていく最も大きな原動力は、自らの命を守るために立ち上がった住民たちが、専門性という厚い障壁が立ちはだかる領域に果敢に挑み、自らの手で調べ、その調査研究の結果をもとに政策転換を迫っていくことにあるだろうと考えている。市民が科学技術がもたらす社会問題を見過ごさず、それに主体的に関わることで科学を変えていく――科学技術の領域においてもそのような自立した市民が少数ながら誕生しつつあると思えるのだ。

この推測は、いくらかは私自身の経験から来ている。私はここ6年ほど「科学と社会を考える土曜講座」という市民の学習グループを主宰してきた(注5)。私たちの講座では、科学技術に関連するさまざまな社会問題をさまざまな角度から取り上げ、問題の認識を深めるとともに、できれば専門家の方々と一緒に解決の糸口を考えてみようと試みてきた。月に1度の研究発表に向けて、2~3ヶ月ほどかけて関心を持つ仲間と準備をすすめるのだが、文献を読み、議論し、関連する集会に足を運び、必要な場合は専門家のアドバイスを受けながら、取り上げた問題の核心は何か、それを理解するために必要な知識は何かを洗い出し、整理していく。

その過程で、当の問題に関心はあっても専門知識はまったく持たなかったごく普通の市民が、一般聴衆を前に2時間ほどその問題を論じ、質疑に応答できるだけのものを獲得していく。時には、これまで誰も詳しく調べたことのない問題に行き着いたり、異なる分野の人と考え方や経験を共有することで問題に対する新しいアプローチを見出す、ということもある。
もちろん、政策提言できる専門的なレポートを作るレベルにまで容易に至るわけではない。しかし、おそらく適切な専門家の指導といくらかの時間・金銭的な余裕さえあれば、幾人かの参加者はそうしたレポートを作成する作業に相当貢献できるレベルにまで達するのではないかと思われる。

科学技術基本法を問う
私たちのグループの最近の成果の一つは、「市民版・科学技術社会基本法」と題する文書を作成して、今後の科学技術の目指すべき方向を一応理念的に整理してみたことだ(注6)。もちろんこれは、1995年に公布・施行された「科学技術基本法」、そしてそれにもとづいて1996年に策定された「科学技術基本計画」に、市民として危機感をいだき、その対抗案を自分たちでまとめようとしたものだ。
科学技術基本法・基本計画自体は、一元的な科学技術推進体制づくり(科学技術の中央集権的管理)を改めてこの時点で宣言したものと受けとることができる。そこで謳われているのは「科学技術創造立国」、すなわち科学技術の振興を強化することで国際競争力をつけ国家の発展をはかるという考え方だ。

ただし”計画”には、「人間の生活・社会及び自然との調和等に十分留意した科学技術の振興に関する国民的合意がより広く、また深く醸成されるよう、国民に対する情報の提供、社会における論議の促進等に一層努めるなど、国民の理解の増進と関心の喚起のための施策を講ずる」(IV.科学技術に関する学習の振興と幅広い国民的合意の形成)という一文があって、やみくもな科学技術推進にある種の留保をつけようとはしている。しかし、この法律が通過する際に、議員たちが科学技術政策の基本的問題点を論じ合った形跡はなく(注7)、なによりこの法律はほとんどの国民がその存在さえ知らないうちに成立してしまった。「国民的合意形成」は、この法律自身に関してはお題目にすぎなかったようだ。
「計画」には、表(注8)に見るように具体的な施策につながる方針も含まれていて、現在すすめられている「大学改革」と相まって、予算、人事、設備などさまざまな面で影響が出始めていると思われる(注9)。
科学批判の立場から、この基本法・基本計画に盛られた考え方そのものを批判することは易しいだろう。難しいのは、予算の配分や制度改革がいわば上から決まってくる科学技術の現場において、ではいかなる科学技術のあり方をよしとするのか、そしてそのあるべき姿を念頭におきつつ、個別のケースに応じて具体的な批判行動をどう展開していくのか、ということだろう。変革に向けた科学技術者自身の連帯運動は可能だろうか(注10)。私はここで、市民の立場から1つの構想を提示し、市民と科学技術者が連なる運動の可能性を示唆したい。

市民セクターの成立
現代の社会を考えるときに、社会の担い手を大きく3つに分けて考えてみることができるだろう(注11)。「政府セクター」「企業セクター」「市民セクター」の3つだ。政府セクターは、市民に対して公的サービスを提供することが建前だが、巨大な集金・資金運用決定機構として機能し、それに伴って他のセクターをコントロールする権力を持つ(権力志向)。企業セクターは、政府セクターから一定の統制を受けつつも、各々の利益を求めて互いに自由に競い合う個別企業の集合体であり、市民はそれに労働者・消費者として関わる(利益志向)。
現代の社会の大きな特徴は、政府セクターと企業セクターの2つが社会の動きを基本的に決めてきた(市民はこの2大セクターに従属していた)というこれまでのあり方が徐々に変化しつつあること、つまり権力と利益の追求自体を目的とするのではない第三の主体として、市民セクターが立ち上がってきたという点だろう。
「学術セクター」(いわゆるアカデミズム)はこれまで政府セクターと企業セクターとはある程度独立を保ちながらも、しかし実際にはこの2大セクターに組み込まれてきた、いわば「サブセクター」である。このサブセクターは市民に対しては高等教育を行うという重大な機能も持っていて、その教育をとおして2大セクターを担うエリートたちを養成し選別してそれぞれのセクターに送り込んでいる。

科学技術基本法・基本計画は、政府セクターが科学技術開発を公共事業とみたてていかに有効な投資を行うか、そのために学術セクターを企業セクターといかに強力に連携させるか、を目指している。そこに盛られた「科学技術立国」という指針には、市民セクターが立ち上がってきたという時代認識はない。この認識の欠落は、学術セクターは優秀な科学技術エリートを作ることには熱心だが、科学技術自体を批判的に検討する自立した市民を作ることには全く熱心でないということに、よく現れているだろう。

市民運動と科学技術者
市民はこれまで、科学技術分野に限らず、政府セクターと企業セクターに直接対抗する手だてとしては、市民運動という形態を選択するほかはなかった。それは生じてしまった巨大な被害に対する補償を求める裁判闘争(さまざまな公害、薬害など)であったり、生存権の侵害を阻止する運動(原子力、自然破壊型の公共事業、軍事基地、クルマなど)、予想される被害を防止する運動(遺伝子組み替え食品、ダイオキシンなど)であったりする。科学技術がもたらしてきたこうした危害に学術セクター(科学技術者)はどうかかわっただろうか?
こうした危害はおおざっぱに言って、政府セクターと企業セクターが学術セクターを従えつつ戦後一体となっておしすすめてきた全産業部門での工業化の推進に起因する。より高度な技術を、より大きな利益をあげるために導入すること――科学技術者の大半はそのことに奉仕してきたし、今もそうしている。科学技術者にとっては、科学技術開発をおしすすめれば社会が豊かによりよきものになるということは自明であったかに見える。

しかしこうした素朴な進歩主義信奉は、科学技術者にとって、一方で科学技術がもたらすさまざまな社会的危害に対して自らの責任を問うことをしない一種の「隠れみの」となってきたし、他方でその信奉を揺るがしかねない市民運動全般に対して冷淡な姿勢――その運動が新たな創造的な研究課題を提起している場合でさえ――を生んできた。
市民運動が重要な科学的問題を提起している例は少なくない。たとえば自動車排出ガスの問題。直接暴露による健康被害は、被害者住民の長い闘いの末、昨年8月の「川崎公害裁判」判決でようやく公式に認定されたことは、記憶に新しい。しかし排ガスの問題はこれにとどまらない。いくつかの山岳地帯で急速に進んでいる森林の立ち枯れ現象との関係が示唆されている。自動車廃ガスなどから生成される高濃度酸性霧が主たる原因と見られているが、植物学、土壌学、気象学、大気化学……などが関連する複雑な現象であり、科学者の取り組みが出遅れている。この問題で全国の山を巡り貴重な観察データを積み上げてきているのは、前橋市営林局の宮下正次氏らを中心にした「森林の会」である(注12)。

またたとえば、遺伝子組み替え食品の問題。日本では、市民団体のキャンペーンによる「組み替え食品表示義務」を求める署名がすでに100万人を超えているが、人々の不安に的確に応えようする日本人のバイオ研究者は皆無といってよく、市民が納得できるリスク評価が不在のまま商品化が進んでいる。一方国際的なNGO「第三世界ネットワーク」が組織するグループに加わる欧米の科学者たちが遺伝子工学研究のあり方をめぐって先進的な議論を展開し始めた(注 13)。日本の科学者はここでも出遅れてはいないだろうか。
市民運動を起こす市民が、問題解決のために科学技術の専門にかかわることがらを「解読」しなければならない局面は非常に多いのだが、それに協力してくれる学者を見出せるかどうかはいわば運を天にまかせるようなもの、という状態が長く続いてきた。良心的な学者が自ら問題を告発して立ち上がる場合を除いて、市民は問題が起こってからその問題を科学的に考究できる学者を探し、協力を要請する他なかったのだ。

しかし時代は変りつつある。被害者としての市民が市民運動という対抗軸でしか2大セクターに向き合えなかった時代から、経済利益と権力の追求自体が目的ではない、市民自身の価値観とニーズに対応した――たとえば「働きがい」や「支えあい」のために作られた地域の非営利の保育施設のような――自立した存在としての市民セクターが形成される時代へと動き始めている。種々のNGOが2大セクターとの交渉を先導しながら、社会の多様な分野におけるオールタナティブを模索しているのが今の段階であり、科学技術の領域でも2大セクターと市民をつなぐ地点に立つことが科学技術者に次第に強く求められるようになってきている。市民が求める社会像の転換に、自身のあり方の転換を重ねることができるかどうかが、今科学技術者に問われているのだと思う。

「生活の必要の論理」による転換
今後予想できる市民セクターの特徴は、政府セクターが「国」を、企業セクターが「世界」(経済的グローバリゼーション)を前提とするのに対して、市民セクターが地域に根差すことを基本にしていること、そしてある技術を生み出しそれを受け入れるかどうかも「生活の必要」からの自発的なインセンティブがあってはじめて決まってくるという点だろう。
科学技術の進歩が社会の変化を誘導していくという従来の構図は、科学技術が上記の2大セクターに組み込まれ、いわば「研究の論理」(知的探求の自己目的化)と「資本の論理」(経済利益をあげるための資本回転)に従って自己増殖的に拡大してきたことがもたらしたものだ。この構図は改めなければならないし、また市民セクターが「生活の必要の論理」を打ち立てていくことで改めていける可能性がある、と私は考えている。では、ここで言う「生活の必要の論理」とは何か?
たとえば、環境ホルモンをはじめとする化学物質問題で一番肝要なことは、個々の化学物質の危険度を明確にしてからそれらを危険度に応じて規制しようとすることではなく――政府が目指しているのはその方向だ(注14)――人間の生存にとって何が必須の物質であり何が従属的(付加的)なのかを明確に弁別する価値観を持つことだろう。清浄な水や大気、汚染されていない自然(およびそこから摂取できる食糧)によって、ヒトはこれまできわめて長い期間育まれてきた(化学物質が溢れかえるようになったのは、今の人間の平均寿命にも満たないここ40年くらいのことだ)。この条件をくずしてしまったらどうなるのか、長期的な明確な見通しを誰も持ち得ない以上、この条件をくずすおそれのある物質(自然の中で安全に循環し分解することが確証された物質以外の物質)は、基本的に生産や使用を禁じたり控えたりしなければならないはずだ。端的に言って「よけいなモノを人間の浅知恵でつくるのはやめなさい」という思想であり、生命活動の基本を守ることを科学技術がもたらす生活の便宜に優先させるという考え方だ。その考え方にそって、たとえば化学物質の挙動に関する理解を深め(科学研究)、必要ならば汚染を回避・回収する手段を講じる(技術開発)、というのが科学技術の役割であるはずだ。

科学技術基本法・基本計画に即して言えば、打ちだされている科学技術振興路線は短期的にはいくつかの分野で研究予算を潤沢にし活気づかせるかもしれないが、長期的にみれば経済的にも立ち行かず、市民セクターの支持を得られないことで活路を見失ってゆくのではないか。
環境的負荷のために経済が縮小を余儀なくされる時がやってこようとしている。グローバリゼーションで経済成長の延命を図ろうとする悪しき傾向に同調することなく、自立しつつある市民セクターの動きと足並みをあわせて、科学技術がいかに自らを再編できるかが、これからの鍵となるだろう。

注:
1. 「ダイオキシン類削減計画 市民案」きれいな空気をとりもどす会 山田久美子、中新井の環境を考える会 北浦恵美 1998年12月 http://www3.airnet.ne.jp/dioxin/ で文書を公開している。
2. 藤村陽 第1回”高木学校”開催―”オルターナティブな科学者”をめざして「科学」1998年11月号 851ページ
3. 科学技術の今後を考える際に、それが第三世界に何をもたらしてきたかをふまえることが必要だ。そのことを論じた例としてヴォルフガング・ザックス編「脱開発の時代 現代社会を解読するキーワード辞典」(晶文社1996年)所収の「科学」「技術」の項。
4. 「薬害オンブズパーソン」の活動などがその先鞭を付けている。次のホームページを参照のこと。http://www.yakugai.gr.jp/
5. 「科学と社会を考える土曜講座」の活動の概要は次のホームページで示している。http://www.geocities.co.jp/NatureLand/4190/
6. 「どよう便り」第8号~第10号 1997年7月~11月 科学と社会を考える土曜講座発行。科学技術基本法・基本計画に関する田中浩朗、上村光弘、平川秀幸、藤田康元らの論考を含む。これらは上記ホームページで公開している。
7. 「第134国会衆議院科学技術委員会会議録第2号」、「同参議院特別委員会会議録」いずれも1995年科学技術庁のホームページ該当部分より引用。
8. たとえば池内了氏は、大学において定員が削減される一方で、予算増額に応じた体制拡充や競争の激化で運営業務の負担が増大し、研究において「結果を手早くまとめる風潮」を作り出すのではないか、と危惧している。「SCIaS」1997年2月21日号67頁
9. 佐々木力「科学から科学史へ、そして再び科学の現場へ」「科学」1998年5月号390頁
10. 田中優「環境破壊のメカニズム」北斗出版1998年 238頁
11. 宮下正次「立ち枯れる山」新日本出版社 1997参照。
12. 「技術と人間」1997年6-9月号「遺伝子工学技術の厳格な規制・管理の必要性――新生物技術の現今の傾向に関心をもつ科学者たちによる声明」あるいは’Genetic Engineering Dream or Nightmare ?’ Mae-Wan Ho, Gateway Books 1998参照。
13. 環境庁および厚生省の環境ホルモン対策はそれぞれのホームページで関連文書が公開されている。
科学技術基本計画のポイント
新たな研究開発システムの構築のため制度改革等を推進
* 任期制の導入など、研究者の流動性を高め研究開発活動を活性化
* ポスドク1万人計画の実現と研究支援者の抜本的拡充
* 共同研究促進、研究兼業許可の円滑化により産学官交流を活発化
* 厳正な評価を実施
政府研究開発投資を拡充
* 政府研究開発投資について、21世紀初頭に対GDP比率で欧米主要国並みに引き上げるとの考え方の下、計画期間内での倍増の実現が強く求められている。この場合、計画期間内における科学技術関係経費の総額の規模17兆円が必要
* 一方、活力ある21世紀の社会経済を築いていくためには、財政を健全化させることが緊急課題
* 以上の観点を踏まえ、本計画に掲げる施策の推進に必要な経費を拡充
* その際、次の資金を重点的に拡充
o 競争的資金をはじめとする多元的研究資金
o 研究者等の養成・確保及び研究者交流のための資金
o 研究開発基盤整備のための資金

 

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