書物の黄昏

投稿者: | 1999年3月10日

徳宮峻

本はずいぶん長きに亘って、愛されてきた。それは常にマス・メディアの古典的玉座に君臨し続け、年老いてなお、その座から降りることを赦されずにいる。テレビがサブ・カルチャーの土間ではしゃぐのをよそ目に、あるいはインターネットがコミュニケーションの海原を気ままに泳ぐのを尻目に、書物は咳込みながら痩躯を危うく支え、古き高き椅子にしがみついているのである。
この老王に禅譲を赦さないのは、他ならぬわれわれの情念である。本は違う。その思いが老体を脇から支え、安易な退位を認めない。一見して、涙ぐましき敬老思想の体現であり、また伝統護持の美しき奉職とも見える。だがその実体はどうか。
愚にもつかない原稿を持ち込んでは現実離れした印税生活を夢想する不勉強な書き手、それを資金繰りのために制作しては市場無視の配本を繰り返す出版社、自らが担当する棚の書籍さえ端末に頼らなければ何も判らない書店員、こうした面々が盲目的狂信的に、書物の王宮の柱を支えているのである。それにしても、何とスの入った、スカスカな柱であろうか。平均返品率四割超という数字を聞いて、そのウロに巣喰う白蟻を思わない業界人がいるだろうか。今この古城は、その土台から音を立てて崩れようとしているのである。

供給過剰。実に単純な事実である。要らない本、求められていない本で、市場は溢れかえっているのだ。「本は違う」という幻影が醸していた雲霞がようやく吹き払われようとしているのだが、視界が晴れてみれば、眼前には累々たる屍の山であった。年間一億冊とも言われる断裁本が、メディア世界での出版の占める座を、足元から揺るがせているのである。
幻想はもう沢山ではないか。マス・メディアの中で、書籍が占めるに相応しい本当の座を、しっかりと見据えねばならない。書物のメディア性を、問うときが来ているのだ。

メディアの本意は媒体であるが、それにも放流型と環流型がある。放流型とは、載せる情報を媒体製造者が自らの企画力で発信する、発言者タイプの媒体を言う。出版の例で言えば、まず企画ありきの考え方・作り方がこれに当る。編集室の企画を頂点に、製造された書籍は流通部門へと流され、取次から書店へと市場めがけて「突っ込まれ」、さて売れたか売れないか、結果を知って初めてマーケットの規模、読者の具体像を知る。博打的製造法である。長年の経験と勘から、いかなる種類の本をいかなる手法・価格で販売するか、ある程度心得てはいるものの、基本にあるのは「作りたい本を作る」「良書を世に問う」姿勢である。放流型とは、編集室を最上流にして、情報が一方通行的に下流へと流される、その流れの直線的強引さからの命名に過ぎない。
一方環流型とは、製造者はひたすら媒介者に徹する、伝言者タイプの媒体と言えよう。最下流に置かれた読者を、ぐるりと回して編集室の上流に繋げるのである。流れは円を描く。
企画は読者からもらい、著者を据え、出版社は情報の編纂・加工者となって流通上も通過点に過ぎなくなる。出版社に問われるのは「良心」などではなく、読者像鮮明化の技巧となる。明確になった読者層=マーケットを企画の上流に繋げれば、情報の流れは円環の中をスムーズに流れる。この環流型にあって、出版社は単なる媒体に過ぎない。情報を伝達・増幅する、本当の意味での「メディア」になるのである。

現実には、各種メディアはこの両型を混在させている。新聞、ラジオ、テレビ、いずれも放流型と環流型とを巧みに塩梅させ、二色を混ぜ合わせて微妙な色合いの商品・情報を流し、自社カラーを出しつつもマーケットに合わせて収益を上げている。出版も同様である。同様ではあったが、その配合の仕方が、大いに異なっている。出版界では放流型の色が一層濃く、それが矜持でもあり存在意義でもあった。単なる伝言者で良しとする出版社は少数派に過ぎず、なおかつその存在は業界内で軽んじられてさえいる。そしてまた、出版がメディア界の王座にあった最大の理由は、放流型でありながらも利益を上げていたという、その一事にあったのだ。博打に勝ち続けていたのである。出版社がいまだに漂わせている傲慢さ、取次、書店、そして読者に対してさえ振りまくある種の慢心は、この勝ち続けてきたという幸運の上に胡座をかいた結果ではなかったか。

玉座に耐えられなくなった理由、それも今や明白である。もう勝てないのだ。書籍とはもはや、放流型の色合いを薄め、環流型の色合いを増さない限り、利潤を生み出せなくなっ商品なのだ。年間一億冊の屍とは、出版社の倨傲が吹き出させた膿に他ならないのである。

ある人は言う。この本で儲けたから、その利益をつぎ込んで今度はこの本を出せる。それは売れなくてもいい。文化のためだと。妄言である。売れなくてもよいなら、よろしく無料で配布すべし。仮にも価格をつけるなら、そこに消費者を想定しないのは奢り以外の何ものでもない。ある本の読者が五百余人だとする。製造コストから算出して、六百部を一部二万円で作る。当たり前の話である。それを三千部二千円で作り、五百部さばけて残り二千五百部は売れなくてよいと高をくくるのは、偽善以前に愚昧である。そこに「良心」などありはしない。では二万円で売れないと想定されるならどうするか。企画は流れるのだ。努めるべきは一冊に二万円(あるいは二千円)の出費をする人を実定し、その要望に応える本作りをすることではないか。

出版社の奢りが平気で罷り通るのも、「本は違う」という幻影にみなが浸りきっているためであった。放流型で勝ち続けてきた者への、伝説化であり神話化である。「良心的」で「文化的」、かつ「知性と教養のためになる」書物。そんな伝説も、とうとう剥落ちてきたのである。必然的に出版社は負けが込み始め、神通力も通じなくなってきた。書籍に付与されてきた王権神授説もまた、否定される時が来たのだ。折しもデジタル・メディアのネットワーク化時代が到来している。インターネットを語る時必ず言及される「インタラクティブ」なる語を、このメディア界の文脈で捉え直すなら、その意味は環流型の自在性となろう。

「双方向」とは放流・環流の二色混交の遍在性を表す言葉となろう。インタラクティブかつマッシブに情報が流れて行くことの衝撃は、旧来職人的な手際の良さによって放流型と環流型の色合いを綯い混ぜてきた他のメディアたちをにわかに顔色無からしめている。その中でも狼狽はなはだしいのが、書籍であったわけだ。
コミュニケーションが高度に発達すれば、メディア界全体でも、賭博性や、勘、良心も、一層薄れてゆくだろう。欲しい情報を欲しい者へ、が徐々に浸透するだろう。賭そのものが意味を持たなくなれば、僥倖の下に勝ち続ける者など無論存在しなくなる。王は不在となり、メカニカルな民主制が徹底されるようになるのである。玉座は、書籍から他の者へと譲られるのではなかった。玉座そのものが失われることになるのだ。本だとて、違いなどない。そう誰もが思うようになり、「活字離れ」などという言い回しも死語になろう。

ではその時、本は誰からどのような寵愛を受けるのか。長く受けてきた君主への愛に代って、土間に降りたこの老人は、どのような愛顧を被ることができるのか。紙数が尽きた今、それを語るのは後日の談とするよりない。

 

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