平川秀幸さん(京都女子大学現代社会学部講師)インタビュー

投稿者: | 2004年2月21日

市民科学研究室とつながりのある方々を各地をめぐりながら紹介していくインタヴューのコーナーです。この次にマイクが向けられるのはあなたかも。随時掲載します。市民科学研究室に参加して以来、「平川秀幸」の名前がよく目にとまるようになった。科学技術と社会について研究している学者さん。いろんな学会に出没しているらしい。さりげなく『imidas2004』(集英社)にも登場。リスク管理の「予防原則」の項を執筆していたりもする。平川さんは、どのような経緯で「土曜講座」に出会い、また「科学技術社会論」なる研究の道を歩むことになったのか。同じ大学の後輩ということでインタヴューを決行。年の差は、15歳。(構成・住田朋久)

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1.「まあるい地球を見ちゃった」―5歳の原体験

――「♪1970年~、こんに・ち・は~」。インタヴューが始まって数分後、平川さんが歌いだした。はるばる群馬からたどりついたは大阪万博。大事な双眼鏡をなくしたけれども、見るべきものは目に焼きつけた。

ちょうどその前の年、1969年7月に、アポロ11号の月着陸があった。なにが衝撃的かって、まあるい地球を見ちゃったわけです。向こうからの映像だから、地球がまるいの。これは驚いた。それで母親に、「まるかったら反対側の人が落ちちゃうじゃない。」と。母親が「引力があって・・・」と説明してくれたんだけど、納得できず「うーん・・・」ってずっとうなっていて、で、どのくらい悩んでたのかわかんないけど、あるときぱっとひらめいて、ああ、そういうことなんだ、と。頭のなかでの科学革命が起こったんだよね。

で、そういう経験もあったし、万博は当然行きました。とにかく月の石はほんとにリアルに覚えてる。これがあのとき見た月から持ってきたやつなのかあ、と。

――もうひとつの原体験は小学2年の秋の星空。

たまたまおやじに夜中起こされて、それがまたすごい星空で。それで星に興味を持って、家にあるいろんな百科事典とか読みあさったりして。そんな話を小学校の担任の先生にしたら、市立図書館で毎月天文教室っていうのをやっていると。これにはまってしまい、高校卒業するまで全部出席でした。高校に入ってからは正式会員になって、今度はレクチャーする側に。

とにかく、子どものころから天文関係に行こうと思っていて、高校のときにはもうちょっとつっこんで、宇宙物理かな、と思って、それなりに受験勉強もしました。

たとえば、小学校4、5年の頃に「宇宙戦艦ヤマト」やらを見てたきは、よし、ワープエンジンを開発するぞ、とか、そういう動機づけをするにはぴったりの時代でしたね。

2.両義的な時代

その一方で、小中のころすごいリアリティがあったのが、核戦争の恐怖。「核の時計」も結構ニュースになってたし。

ついでに小学校の3年生のときだったと思うけど、ノストラダムスの大予言が第一のブームで。子どもだから余計にリアルでしたね。「おれは36までしか生きられないのか」と。

ちなみに当時は、正月元旦の新聞には、必ず未来予測があったんだよね。そこに描かれていた未来っていうのが常に明るいイメージだったのだけれど、一方で核戦争の恐怖っていうのがあって、そういう意味では両義的な時代だったんだよね。公害もまだリアルだったし。ちょうど時代的に、一方で科学技術に対するかなり楽観的なものがありつつ、その否定的な側面のリアリティってのが強烈になってくるっていう。

――故郷太田市の北側は足尾鉱毒事件で汚染された土地だった。また小学4年生のころには、実写映画「はだしのゲン」のロケが近所で行われ、エキストラとして戦争当時の小学生姿で出演。平川少年の身近にはそんな機会がいくつも用意されていた。

3.天文と「軽音」と生徒会室と

高校はけっこう自由な男子校で、ちょっと遅刻しそうになったら、よし1限はいいや、昼から行こうとか、今日はいいや、とか。生徒会長やってたんだけど、生徒会室直行して、よし体育だ、とかそこで着替えて。数学と体育はちゃんと出てました。数学は、先生がすごくおもしろくて、「ああ、なんか頭がよくなってく」というのが快感でした。

――天文少年は天体気象部に入部しつつ、音楽部に入って「軽音」を。いわゆるロック・バンド。

やってたのはいわゆるハードロック系だったのだけど、80年代はじめというのは、歌謡曲にほかのジャンルの要素が入ってきて、すごくかっこよく、おもしろくなってきた時代でした。

たとえば沢田研二。このあいだもコンサート行っちゃっいましたが、小学校2年のときからジュリーのファンで。実は妻もファンなので、我が家にはCDやDVDがいっぱいあります。

あと高3のあたりから和製メタルが結構でてきたんだよね。アースシェイカーとか、44 マグナムとか。

これがかっこよくて。高3の12月に新宿までライブに行ったこともあるくらいはまりました。親には模擬試験だとうそをついて。一応高3の12月だから、ライブに行くなんて言えないし。

――インターネットで調べると、どちらのバンドも現在も活動している。メンバーの多くは長髪。80年代は長髪がはやってたんだ。どこかしら長髪の雰囲気が漂う平川さんの髪型はそのなごり、かどうか。

4.ICU。ミュージカルをしつつ、物理か、哲学か。

大学1年のころ結構仲よく遊んでいた人たちに、5年生、6年生、7年生、8年生がいっぱいいたんだよね。それで、認識が変わって。あ、大学ってのは4年で出ちゃいけないんだって思った(親不孝ではあるけど)。

――1年生で軽音サークルに入って以来、平川青年はD館(学生会館)のラウンジに入りびたる。2年生の後半にはロック・ミュージカル「ロッキー・ホラー・ショー」の稽古に明け暮れた。新郎ブラッド役。この公演は3日間で約1200人を動員した。伝説の公演としていまでもICU(国際基督教大学)に語り継がれている。ちなみにこの15年後にインタヴュア住田は同じこのD館の舞台を踏んだことになる。平川青年は、そのころ哲学にも目覚めたという。

そのころはロッキーで忙しかったんだけど、そのおかげで考える時間がいっぱいあったんだよね。ほら、ロッキーやってたから、もう授業は捨ててるわけ。思いっきり哲学にはまることができて、だから哲学書なんかも結構読んだ。ちょうどいわゆるニュー・アカがはやった時代で浅田彰とか中沢新一とかがもてはやされてて、わりとみんな読んでたんだよね。

でも読んでるうちに、ちょっとこれはちゃうぞ、浅田の解釈まちがっとるだろ、みたいな。要はなんかファッショナブルなだけのもので、思想の背後にある政治性やら現実感が欠けているっていう感じがして、それでもっとちゃんとつっこんで知りたくなって、哲学のほうに進もうかなって思ったりしてました。

でもいちばん自分のなかでおもしろいな、と思ってたのが、時間とか、変化の問題とか、あるいはなんか、物事が生まれてくるとか、そういう自己組織化のダイナミズムみたいのにすごく興味をひかれて、時間ということだったらばまず物理。で、一応物理をまじめにやるようになった。

たぶん演劇とは直接関係ないけども、でもある種の自分の身体感覚として、時間というものがリアリティを感じるものとしてあったというのは、芝居とかそういうのやったからかもしれない。

芝居とかやると体がすごく敏感になるわけだよね。自分のあらゆるところを動かさなきゃならないから。独特の生命感覚っていうのがたぶんあると思う。

――勉強しつつも、4年の春には今度は演出助手として再び公演に関わる。話を聞いていると、やんちゃで祭り好きな男子高生が、そのまま大学生になった感じがする。

ロッキーをやった残党で、もう一回夢みたいよね、もう一回祭りしよう、っていうことで、次の「ブルース・ブラザーズ」をやったんだよね。

「ICU・D館科」だったからね。めったに教室には行かなかった。D館にいて、たまには青空の下で吸うか、とか言って、「ばか山」(キャンパス内の広い芝生)でみんなでごろごろ。ビール買いに行って、まったりして、日がくれたらD 館に戻って、「ひげ」(近くの飲み屋)行って。だら、だら、と過ごしてた。

食堂ではね、よく見本とかもね、くすねてもらってた。夕方おなかすくでしょ、で、金ないやつとかが、それもってきて、みんなで分け合って。断らずにね。猫のような生活だよね。

5.修士は物理、そして哲学。 「変化すること」?

――そうした生活を5年間続け、修士は東工大で物理。さらに再びICUに戻って哲学、と。

時間関係でとにかく物理を勉強したい、それで、最初は相対性理論に興味をもったんだけど、もうちょっと変化とかダイナミズムみたいなもの、となると熱力学だろうと。特に、4年の秋くらいに、イリヤ・プリゴジンの書いた『存在から発展へ』という本をたまたま吉祥寺で発見して、おおこれは、と。そのなかで時間のことがいっぱいでてくるわけね。あ、この方向でいくとおもしろいんだろうなと思って、それで熱力学や統計力学を集中して勉強して、国内でできる大学院を探したら、プリゴジンのところでの研究経験がある北原和夫先生が東工大にいたんだよね。

そいでまあ修士のときにとりあえずそっちのほうでやって。そのころまだ複雑系っていう言葉はないけども、ちょうど日本でもカオス研究が盛り上がりだしたころなんだよね。まあその分野では日本人の研究者は世界的にいい仕事してる人たちが多かったから、まさにそういうのを開拓していく様子を同時代的に見られたっていうのが、おもしろかったんだけど。

でもだんだんとね、いろんな意味で、なんかちゃうなと。自分がやりたいことっていうのがなんか物理では表現しきれないっていうかね。

っていうのは、すごく単純な話なんだけど、たとえばプリゴジンのテーマっていうのは「自己組織化」なわけだよね。自発的にいろんなパターンが生まれる、いろんな変化が起きるっていうことを扱ってる。でもそのときに、変化がおきるように設定しているのは人間なんだよね。境界条件とかいろんな初期条件にしろなんなりっていうのは、人間が設定してやってるものなんだよね。

でも実際たとえば生き物っていうシステムは、実はその境界条件すら自ら変えていくわけだよね。あるいはそこで変化していくときのルール自体も進化のなかで変えていく。そういう意味での、一種のオートノミー(自律性)をもっているわけで、いまでいったらいわゆる「オートポイエーシス」の話なんだけど、それっていうのはどうも物理ではうまくいかないんじゃないか、表現できないと。

むしろそっちの方向でどういうような記述があるのか、どういうような認識論がありうるのかっていうのを考えてみたいな、って思って、それでまた哲学のほうに戻ろうと思ったわけです。

――ふうむ。「変化」をいかに記述していくか。

哲学での修士論文のテーマはフランス人のバシュラール。半世紀以上も前に、科学の認識は近似的なものである、ということを言っていた。たとえば「摩擦ゼロ」はフィクションにすぎず物理的には意味をなさないと。

バシュラールが現場のリアリティにつっこんだところで議論を展開しているのが、時間とか変化に対して自分が感じてるリアリティとすごく共鳴したんだよね。それで修士論文ではポパーの科学哲学とバシュラールを比較した。

でもバシュラールをやって、おもしろいんだけど同時に不満だったのは、科学の内部の話しかしないところ。たとえばバシュラールは戦後になってからもずっと科学哲学をやるんだけれども、たとえば核兵器の問題について書いてるのはたった一行しかない。あえて彼はそれについて書くことを避けてたんだよね。ずっとね。

それを乗り越える、つまりバシュラールがもってるその科学の現場に密着したリアリティをもって、科学と技術と社会の問題をみていったらどうだろう、っていうような問題意識が自分のなかでどんどんでてきて。そしたら英米圏で大きなSTSの流れがあるっていうのが見えてきた。ちょうどそのころICUに村上陽一郎先生が来た。

6.そしてSTSへ、土曜講座へ

――”Science, Technology and Society”の頭文字をとってSTS、「科学技術社会論」。平川さんは博士課程に進んでから研究会にも顔を出すようになっていった。博士2年からは、若手研究グループ「STSネットワーク・ジャパン」の代表も務めて、イベントを企画していった。このころ土曜講座にも出会い、1997 年には「市民のための科学技術基本法」の私案を作るなどの活動も行った。

通称「科勉」という、毎月一回STS系の主に海外の文献を読んで、輪読するっていうのをずっとやってて、そのメンバーの一人に藤田康元さんもいて、それで「どよう便り」を見せてもらって顔を出したのが始まり。それから月例会にはよく行ってたけど、実質的な個々のプロジェクトができてからは忙しくなっちゃった。京都に引っ越したりもしたし。でも、プロジェクトが始まったことは土曜講座にとって大きいよね。

ドクター3年終わって(1999年)、そのときに奨学金も切れて貧乏になりつつあって、そしたら「身売り場」が見つかって。政策科学研究所で報告書を作る作業に加わりながら、STSにはまっていってね。で、それを皮切りに2000年以降、どんどん新しい研究プロジェクトが始まっていった。
――そのときの報告書は天神山オフィスにも所蔵されている。『科学技術と社会・国民との間に生ずる諸問題に対応するための方策等に関する調査』と題して2冊発行された。

STS業界って全般的にそうなんだけど、やっぱ世の中変えようぜっていうね、STSは運動なんだ、っていう意識がすごく強いんだよね。運動という側面をなくしたらSTSは終わりだ、たとえばSTS学会を作ったとしても、運動の面をなくしたら解散しよう、とか言う声は常にある。

7.大学の先生として

――2000年、平川さんは京都女子大学に新設された現代社会学部に着任。この春いよいよ一期生を見送ることになる。

大学って授業しているあいだは楽しいんだよね。オン・ステージだからさ。

授業で伝えたいことっていうと、いろんなポイントがあるんだけど、たとえば理系・文系なんてつまんない区別を捨てること。

実は結構受講生が多くて、200人くらいいるんだけど、やっぱり彼女らにはすごく新鮮なわけだよね。科学とか技術とかっていったら理系の話で自分とは無関係だ、という感じがするけども、科学技術が生み出したものっていうのは実は身のまわりにあふれかえっているし、またその影響もすぐ目の前にあるわけだよね。たとえば携帯にしても、イギリスでは電磁波が問題になってますよ、と。

じゃあその問題を考えたときに、それは理系の知識がないといけないのか、というとそうじゃない。むしろ社会科学のいろんな専門知識が必要なんだよね。政治学じゃなきゃ見えない問題があって、経済学の訓練を受けてないと分からない側面があって。重要なのはそれをお互いどう結んで、有機的な大きな円にしていくか、である。科学技術の問題を考えるときに、自分の興味がある政治学、自分の興味がある社会学や経済学の観点から考えることができる、と。

そうした目から鱗っていうのをいっぱい体験してもらいたい。科学技術と社会にまつわる神話崩しっていうのがひとつの大きな目標だね。

必ず前期の授業の最後は「市民科学」を扱っている。じゃあ具体的に自分だったら何ができるんだろうか、っていうことを考えさせる方向に話をもっていく。そこにはいろんな関わり方ができます、いろんな形でサポートすることによって、たとえば市民科学者みたいなのを育てる、社会で広げていくっていうことができるんだ、と。

もうひとつ大事なのは、レポートとかで、一人一人が考えて行動することが重要です、っていうしめくくりが多いけど、一人一人っていうのは結局弱いということ。一人一人ばらばらだったら世の中変わらない。だけども、一人一人が手をつなぎあう、一緒に関わりあうことによって、それが大きな力になる。

授業の究極の目的は、そういう話をすることで、みんなに元気になってもらいたい、ってことだね。

8.「ATTAC京都」の代表として

――平川さん、2002年の5月からは「ATTAC京都」代表としての顔ももつ。ATTACとはもともとフランス発のNGOで、「市民を支援するために金融取引への課税を求めるアソシエーション」の頭文字をとっている。新自由主義グローバリゼーションにまつわる問題の公正な解決をめざす。

グローバリゼーションとかって言った時点で、ああ、日本には関係ないんだ、っていうフレーミング(枠組み)なわけだよね。実はグローバリゼーションのまさに恩恵を受けているのも日本であり、同時にいま日本も荒波にさらされてるんだけども、その実感もないと。

でまずはグローバリゼーションの問題ってそもそも何?っていうのをどういう形でやったらアピールできるのかっていうところで、いまだにまあ模索中なんだけど、そのひとつの答えが「創造都市化計画」ってやつなんだけどね。

――その「創造都市化計画」の第1回目のイベントを2003年暮れに開催。

京都の街、その地域っていうところに焦点をあてて、そこでの問題解決を考えていったときに、実はそこにグローバリゼーションの問題も一緒にからんでくる。たとえば新自由主義的な、なんでも民営化すればいい、なんでも市場に任せればいい、っていう理念そのものが、いかに京都のコミュニティ、経済を狂わせているのか、それは京都に限らず全国津々浦々のシャッター商店街の現実の裏にあるものである。そういう問題をあぶりだしながら、しかもただあぶりだすだけだと暗くなるので、じゃあどういうふうにしていったらたとえば京都を楽しい、豊かな街にできるのか。世界を見渡してみると、そういう実践もいっぱいある。そういう話をもちよりましょうっていうのが、この計画。

とにかくATTACっていうのは、基本的には「出会い系」NGOなんだよね。つまり自分たちそれぞれの分野で、労働運動にしろ環境運動にしろ、あるいはほかの人権運動にしろ、実はグローバリゼーションっていうのをキーワードにすると、ひとつの糸につながるんだと。その円を演出したい。

――人々が参加して有機的な円を描いていく、そうした思いは平川さんが大学時代から抱いてきたこだわりの延長線上にあるとも語ってくれた。問題意識としてもちつづけていた「変化の感覚」が、いままで書いてきたことにも、直結しているのだという。

社会を変化させるというひとつの流れがいま起こりつつある。おそらく市民科学研究室も、上田さんいわく「まだよちよち歩き」だとはいえ、確実に一歩を踏み出しているといえるだろう。

お話を伺っていて印象に残った言葉がある。やんちゃな大学時代、後輩に対する「おしおき」?の話題ででてきた発言だが、平川さんの底に流れる思想を表していると思った。「ある種祭りだからね。基本的に楽しいもん、それ。」

タバコとギターを手に、かつてのブラッドこと、平川秀幸の「祭り」は、今後も盛り上がっていきそうだ。

◆平川秀幸さんのホームページ◆

http://www.cs.kyoto-wu.ac.jp/~hirakawa/
研究などについては、高木基金の「この人に聞く」
http://www.takagifund.org/08/08.html
のインタビューでも知ることができる。
共編著に『ハイテク社会を生きる』(北樹出版、2003)。

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