ノーマ・フィールドさんと語り合う集い

投稿者: | 2001年9月21日

土曜講座 9周年記念特別企画

◆ノーマ・フィールドさんと語り合う集い◆
生きることと語ることの間で

2001年7月28日(土)
環境パートナーシップオフィス会議室にて

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■はじめに 薮 玲子(司会進行)

この集いは企画から3年越しで実現しました。
たまたま土曜講座のメンバーの中にノーマ・フィールドさんと親交のある人がいて、その方を通して土曜講座での講演をお願いしたのが2年前の夏でした。ノーマ・フィールドさんはシカゴ大学の教授でいらっしゃるので、ふだんはシカゴにお住まいなのですが、ご実家のある東京には毎年夏に帰省されます。昨年の夏、まずは土曜講 座のことを知っていただこうと、数人のメンバーがノーマさんとお会いすることになりました。食事をしながら、楽しいお話が弾みました。そして「来年にはぜひ土曜講 座でお話をしてください」という私たちのお願いに快く承知してくださったのです。

その際、ノーマさんからひとつリクエストがありました。それは、ノーマさんが一方的に話をする講演会という形ではなく、双方向で話しあう形式でしてほしいということでした。
今年の春になり、いよいよ日程が決まった段階で、土曜講座の中で「ノーマ・フィールドさんと語り合う集い実行委員会」が結成され、7名のメンバー(薮玲子、後藤高暁、永添泰子、林衛、尾内隆之、森元之、上田昌文)で、まずノーマさんの著書や雑誌のコラム、対談や論評などを読みあい、どういう形式でやるか、テーマはどうするかを話し合い、ノーマさんとメールで連絡を取り合い、準備をすすめてまいりました。テーマは「生きることと語ることの間で」に決まりました。

私たちはノーマさんの生き方と言葉に強くひかれています。聞き上手であり、洞察眼を持ち、問題の本質は何かを常に探ろうとする。強くて、しなやかで、思いやりに満ちている、決して人に押し付けない、異なるものをも包み込む大きさが、ノーマさんにはあるように思えます。
集いの数日前にノーマさんはお忙しいなか、私たちとの打ち合わせの時間を作ってくださいました。食事をしながら、さまざまなことを語り合い、充実したひとときを過ごすことができました。

ノーマさんといっしょに語り合う楽しさを参加者の方たち全員で分かち合えれば幸いです。
プログラムは、まず準備をすすめてきたスタッフの中から4人がノーマさんへの問いかけをします。その問題提起を踏まえながら、「生きることと語ることの間で」というテーマに沿って、ノーマ・フィールドさんに自由に話していただきます。その後、休憩をはさんで、今度は全員が4つのグループに分かれ、それぞれのグループでノーマさんの話をもとに話し合い、リーダーが意見や質問をまとめます。各グループで話し合ったことを発表し、さらにその発表からいくつかの議題をえらび、全員でいっしょに語り合いたいと思います。

■準備スタッフの4人からの問いかけ

● 森 元之

私からの第一番目の問いかけなのですが、ノーマさんをお呼びするにあたって『天皇の逝く国で』や『祖母のくに』その他、ニューズウィークなどに連載されていたコラム等を読ませて頂きました。そうしたものから受けた最初の印象は、子供の頃から日本とアメリカという二つの国の中で生きていらっしゃって、疎外感や違和感を感じたりして、いわば一つの国の文化の中で生きてきた人間とは違う環境の中で育った方ということをイメージしていました。
ところが『祖母の国』という本を読んだ時、学生の時にフランスに留学されていた経験があると記述されていました。それを読んだ時に二つの文化の中で揺れ動いて来られた人がさらに第三の文化に触れた時にどういう印象を持つのかなと思いました。
というのは、学生の頃ですから、日本とアメリカの間を行き来した間にノーマさんなりの人格はある程度出来ていたと思うのですが、そこに第三の文化に触れたときに、純粋に日本とかアメリカの中でだけで育ってきて、大人になって違う文化に触れる触れ方とは、やはり違うのではないかと勝手に想像しているのです。そういったあたりのことについてお尋ねしたいと思います。

<森 元之による補足>
1999年から2000年にかけて、Newsweekの「コラム・オン・ジャパン」というコーナーに断続的に執筆されたノーマ・フィールドさんの文章を読んでの感想を書きます(とりいそぎ二編について)。

★「本当にアメリカが手本か」(1999.11.24号掲載)
内容以前にノーマさんの文章スタイルについてひとこと。このコラムを読んだ時の印象は、「なぜ、雑誌の見開き2ページ分の中に、こんなにたくさんの断片的な情報を詰め込んでいるのか」と感じた。しかし、実はその後で単行本の『天皇の逝く国で』の方を読んでみてノーマさんの文章スタイルにほれ込んだ。
彼女の文章はアクロバティックだ。取材対象者の人生を語りながら、自分の家系や親族の話と重なり、また政治的な問題を語る合間に、生活感にあふれた風景や雑感などが描かれ、しかしいつの間にか彼女の投げ掛けた大きなテーマに読者が引き込まれている。まるで夜空を背景にして走るジェットコースターのよう。ジェットコースターを遠くから眺めながらも、背景の星座という話題の部分にだけ気を集中していれば、あっちにとんだりこっちに動いたりして、その本筋のテーマを追うのが時に難しく感じられる。しかしそれは背景に気を取られているからであって、ジェットコースターにのってみれば、宙返りや急降下などどんなに上下左右に移動しようともレールは一本で繋がっていることがわかる。そんな文章だ。 このコラムの中でも、競争、教育現場の混乱、労働者の生活水準、自殺者の増加などいくつものエピソードちりばめられ、日米の比較をこころみている。そして最後には「同じような志をもつアジアの人々と手を携え、真にグローバルな『世界標準』を構築する。それこそが二一世紀にふさわしい目標だ。」というアメリカ追随型ではないビジョンをしめしてくれている。

★「慎太郎発言を解剖する」(2000.5.24号掲載)
ノーマさんは「アメリカ人の父と日本人の母の間に東京で生まれる。」という境遇のために、ものの見方捕らえ方が重層的だ。日米両国を移動し滞在する生活の中から、どちらにもいい面・悪い面があることを冷静に捕らえている。だからマスコミでよく行われる「アメリカのいい面と日本の悪い面を比べての劣等感にみちた自己批判」や「日本のいい面とアメリカの悪い面をくらべての優越感にみちた驕り」などの単純な図式は感じられない。
このコラムでも石原知事の政策や差別発言を問題視しながらも、それを批判する側にも問題点がある、ということを語っている。「……批判は必要だが、それだけでは何も変わらない。おそらく、政治家の暴言騒ぎが『儀式』になっているからだ。」とか「石原を批判する人々は、彼の気まぐれな世界観に魅せられた市民にも届く言葉を見つけなくてはならない。石原の柔軟性に対抗する 必要もある」、「石原のポピュリスト的な主張の魅力を真剣に受け止めないかぎり、批判派は彼に対抗する政治的想像力をもちえない。」という主張にはとても納得してしまう。なぜなら冷戦時代の二項対立の図式の延長で「いくつかの部分が駄目だから全体も駄目だ」という論法で批判するスタイルしか持たない人達と、問題発言をしつつも、同時にリーダーシップを発揮して、これまでの都政が放置してきた環境対策や財政再建を推し進めようとしている複雑な現実を見比べる時、ノーマさんの主張はとても素直に受け止められるからだ。

● 永添 泰子

今年の5月頃から、数人の方たちと「ノーマさんと語り合う会」の準備をしてまいりました。たしかこの集いは今年のお正月頃から話題になっていたかと思います。
ノーマさんのお名前を、初めてうかがったのは去年の暮れ、「女性戦犯法廷に行く」と藪さんがおっしゃっていた時じゃなかったかと思います。その時までは私はノーマさんがどんな方なのかを全く知りませんでした。その後この集いの準備として、みんなでノーマさんの御著書や『ニューズウィーク』や『世界』、『みすず』などにノーマさんがお書きになったコラムを読みましょうということになりました。

私がこの集いに参加しようと思った動機は、「従軍慰安婦や日本の戦争責任などについて話は避けたい」という後藤さんの意見に反対意見を述べてしまうようで言い出しにくかったのですが、雑誌『世界』3月号「女性国際戦犯法廷が裁いたもの」や『みすず』2月号「法律と悲しみと--女性戦犯法廷傍聴記」を読んで、ノーマさんの持っていらっしゃる健全な共感能力に惹かれたためです。

その後この集いの準備をしながら『天皇の逝く国で』や『祖母のくに』についてみんなで話し合いをしました。
この2冊で私がより好きな方は『天皇の逝く国で』です。ノーマさんは日本文学と日本文化の研究をしていらっしゃる方とおうかがいしているのですが、同時に優れたジャーナリストなのではないかなと思いました。「きっとすばらしい話し手だけじゃなくてすばらしい聴き手でもあるのにちがいないわ。秘訣を是非お尋ねしたい」とわたしが言うと、他の人たちに「どうしてそう思うのか。もっと具体的に例を挙げて、さらに永添さん自身の経験もまじえて言ってください」と言われて、この本を読み返している所なんですが、ここに出てくる3つの話の主人公の3人の方々やその周囲の方々の言葉はよく出てくるのですが、意外にも、ノーマさんご自身の質問や受け答えのことばは、わずかに本島等さんへのインタビューに続けて出てくる以外はとても少ないのです。驚きました。

でも、登場する人たちが話す言葉を読むとき、私はその言葉と言葉の間に、共感を持ってその話を聴き取ろうとする、ノーマさんのあいづちや質問や賛同や驚きなどの言葉を確かに読んだように思っていたんです。おそらく勝手に心の中で補ってしまっていたのでしょう。

この本は、私には不思議に共感することの多い本です。たとえば私が読んで衝撃を受けた本を登場人物達が読んでいたり(p.148の本多勝一著『中国の旅』や、p.306スーザン・ジョージ著『なぜ世界の半分が飢えるのか?』)。知花昌一さんが日の丸を焼いたことも、中谷康子さんが裁判を起こしたことも、本島等さんが天皇にも戦争責任があると言ったことにも、事件が起こった当時から私は心から共感を持って記憶にとどめていました。

これらの方々の勇気ある生き方にはとても励まされるのですが、その周りに、この方々を支える多くの心ある人たちが励まし支持していたことももっと私を勇気づけてくれます。おもてで脚光を浴びることはなくてもこの人達も勇気ある人達だと思います。そして、人並み外れた勇気を持った人しかこんな行動はとれないわけではないんだとも。

天皇制や、日本が戦争時に犯した残虐な侵略行為の数々(従軍慰安婦問題もその一つですが)を話題にのぼらせることは日本ではいつもタブーです。つい先日もある知人の男の人と、例の「新しい教科書を作る会」の第二次世界大戦の記述や従軍慰安婦が載っていないことについて口論になってしまいました。(気の良い方なんですけど。)天皇制が残ってしまったことは、今の日本が戦前と根本の所ではちっとも変わっていないこととすごく関係があると私はずっと思っています。(でも人前でそんな話をすることはできないのです。この種の話題では、私はすぐ意見の対立からけんかになってしまうのです。)

戦争時にひどい目に遭わせてしまった国々の方々全員に十分な償いをして、どこが間違っていたのか十分議論して検証することができれば、天皇制と今の体制を維持するのに都合の良かった今も続く日本の悪い慣習や息の詰まる相互監視システムも変えていく希望が持てるのではないかと思っています。このまま補償もせず、検証もせず、子供達に事実を隠して昔からの罪を隠蔽しようとすることは、被害者にとっても私たち日本人にとっても、不幸なだけです。負の歴史に自国も他国との関係も縛られたままになって硬直してしまうからです。

自分の国の負の歴史の後始末が終わっていないことは、私には体のどこかに棘が刺さったままのような嫌な違和感があります。
日本では、大多数の人が便利な生活を送るためや、社会の見せかけの秩序を維持するために、他国のもしくは自分の国の少数の人が人権侵害を受けても仕方がない、我慢しろ、という暗黙の了解があるように思えてならないのです。私はこの考えが我慢ならなくていつも衝突する羽目になるのですが。

さて、ノーマさんへの質問です。
避けて通れない大切な、でも立場が鋭く対立することがあらかじめ予想される話題を話し合うとき、望ましい自己主張の仕方、意見がまったく対立する相手の話を十分相手が納得するように聴き取るにはどうしたらいいのでしょうか。
そんな白熱する議論でなくても、日常家族やごく親しい人たちとの会話の中で、互いの意見の違いに驚くことなく、相手が十分に話を聞いて貰ったと満足してくれるような話し方聴き方を、テクニックとしてではなく、磨くにはどうしたらよいでしょうか。

● 尾内 隆之

ノーマさんの文章は、どれもが強く心の中に反響しつづけていますが、最近特に気になっているのが、ノーマさんが道浦母都子さんとの対談(1994年)でお話になった「根拠地を持ちたい…」という言葉です。この〈根拠地〉への希求、というお考えに、私自身が以前から考えあぐねてきた問題が重なって、強くひかれると同時に、ではそれは一体どういうことかという問いに帰っていかざるを得ませんでした。そして、この〈根拠地〉をめぐる思索がその後ノーマさんにとってどう展開しているのかな、という思いがあるのです。

私自身の生活は、典型的な都市型住民の生活で、生まれた土地からはほとんど切り離されています。たとえば自分が政治社会に関与していこうとすると、〈根拠地〉を持たない身であることをよく感じます。これは大都市の「市民社会」の実体でもあるのではないかと思ったりもします。都市住民は〈根拠地〉へのアンビバレントな感情を持っているのではないか。そして「失われた10年」といった言葉に示される日本人の〈喪失感〉と、〈根拠地〉へのアンビバレントな感情とは、大きな危険を含みながら、非常に深く関わるのではないか。最近のナショナリスティックな政治傾向と、強い指導者への待望論は、たぶんその関係の中にすっと入り込んでいるのではないかな、と。

そこで〈根拠地〉です。〈根拠地〉は欲しい。私を受けとめてくれる土地という意味で、素直にそれを欲しいと思います。しかし、そこでいくつか問題が出てきますね。
まず、「ユートピア」的発想は拒否しなければならないという問題。一元的な世界観は受け入れがたいですから。そこで、差異を許容する、ゆらぎの中の〈根拠地〉というものを想定したくなりますが、現実にノマド的な生存を受け入れてくれる〈根拠地〉を想定できるのか、それもこの日本で、と考えこんでしまいます。

あるいは、これは〈根拠地〉の「定義」にこだわりすぎかもしれません。むしろ、〈根拠地〉とはshareしようと努力する私たちの行為の中にこそある、としたら、私たちはその行為を保証する〈語り〉をどう身に付けるのか、どう実体化したらよいのだろうか、というふうに問題を立て直すべきでしょうか。

ここでshareという英語を突然使ったのは、どうも日本語でぴったりする言葉が見つからなかったからです(英語の理解も正しいかどうか自信ないですが…)。私の印象では、shareには「共有」と「分有」の意が兼ねられていて、ひとまずふさわしいかと思いました。日本語で「根拠地を共有する」と言うと、ムラ社会的なあり方が思い浮かんでしまいます。しかし「分かち合う」と言っても、それは所有領域をはっきり区分しているようで、これまたしっくりきません。

だから〈根拠地〉を考えることは、領域や領土という言葉を経て、私の中ではどうしても「所有」という言葉につながります。根拠地をshareするとは、所有の問題を何か今とは違うかたちで止揚することにつながり、ひいては、いかにして〈私たちの歴史〉に責任をとるか、という問題に至る、と。

責任・義務・人権といった観念は、いつも「誰かの所有」にされることで、問題の解決に都合よく(もちろん強者に都合よく)使われてしまいます。そこに付きまとう違和感をあらわにし、「所有」の概念をひっくり返し、新たな〈根拠地〉をshareすることが根本に必要なんじゃないか、と思ったりします。これを表す言葉は、「コモンズ」でもちがうかな。水俣病を生んだ水俣の土地の言葉で言えば「もやい(舫い)」かな? そうかもしれない。でも他にないだろうか。マタギの言葉やアイヌの言葉、うちなぁぐち(沖縄語)などなど……。

やはり〈根拠地〉は、面として、物理的に存在するのではなくて、〈行為〉として〈関係性〉として存在するならば、それはますます〈語り〉に頼ることになるかもしれません。そうなると、vernacularな言葉や関係や親密性にさらに重きが置かれることになるでしょう。

そこで、いわゆる「市民社会」での言葉の問題の重さが、ふたたび私にのしかかってきます。日本の市民社会はvernacularな言葉を理解しないどころか、遠ざけようとしていると感じます。特にNPO・NGO的な組織化された市民活動は、その傾向があると感じています(反論はあるでしょうが)。だから私は、〈For and Against 市民社会〉という立場です。これは、オーストラリアのテッサ・モーリス=鈴木さんの”For and Against NGO”という論文題から、そうか、と思ったものです。でも、その立場で私は、日本の市民社会において何ができるのだろう…。一つの導きの糸は、『天皇の逝く国で』に描かれる三人の方の姿と、その語りを受けとめ、言葉につむいだノーマさんの姿です。

そして私は、その〈言葉〉のやりとりを支える場にこだわってみたいのです。〈対話〉は、この集いのキーワードでもありますが、中立で無色透明な空間にあるのではなく、必ず何らかの具体的な場にのっているはずです。そこでは〈対話〉のパフォーマーである一人ひとりの〈拠り所〉が問題となるわけで、それを私は、「いま/ここ」という位置と、〈根拠地〉の代表格である「故郷」というものとの関係から考えてみたいのです。そこから、〈対話〉の拠り所についての課題を見ることができるのではないかと思っています。というのは、「故郷」は重要な「拠り所」でありながら、その「故郷」をめぐるさまざまな感情や行動は、しばしば〈対話〉を抑圧すると感じているからです。

「いま/ここ」がそのまま「故郷」である人もいるでしょうが、現在の社会では「故郷喪失感」、あるいは「喪失する不安」が大きく、その喪失の不安から、争いや排除が起こったりします。それは様々なレベルで顕われていて、「故郷」を国家に重ねる人もいますし、地域社会であったり、はたまた会社であったり…。

「故郷」をめぐる愛情や反発やさまざまな思惑が、〈対話〉の「拠り所」を不可能にしている場面はいろいろと見られるように思います。そうした状況の中で、どうしたら拠り所を分かち合って〈対話〉の場所を確保できるのか。ノーマさんにとっての「故郷」の意味や、位置付けや、向き合い方がヒントを与えてくれる、という期待感を、今回の〈対話〉の場に抱いています。

● 上田 昌文

私はここ9年ほど、科学技術がからんでいる様々な社会問題を解決するために、市民は何をなすべきかを考えつづけてきました。そのときに大切なのは、特定の科学や技術に対して知的な理解があるかどうか、ということでは必ずしもない、と考えるようになりました。決定的に大切なのは、科学技術の問題には必ず政治的な側面があり、往々にして隠蔽されがちなその面を表に引きずり出しながら、「自分が生きる上で何を一番大切だとみなしているのか」ということと関わる本来誰もがないがしろにできないはずの価値観や感受性の世界と、利害や権力の対立的な力関係で成り立っているかに見える世界とを、どこまで深く交わらせて共通の地平を切り開くか、という点ではないかと思えるのです。

こうした考え方に立つと、天皇の戦争責任、いわゆる従軍慰安婦をめぐる謝罪と補償の問題、あるいは米軍基地問題や死刑制度など、厳しい政治問題をどう見すえて、意見の対立が引き続く状態をどう乗り越えていくか、が大きな意味合いを持ってくるのです。こうした問題での見すえ方、乗り越え方が、本質的な重要性を持っているように思えます。

私は、端的で明快な対処法があるとは考えませんが、先に述べた価値観や感受性の世界が政治に向かって閉ざされた方に向かうのではなく、開かれつつ従来の政治の力学を変えていくこともできる、そういったあり方を想像します。それには、ひとことで言って文学、すなわち言葉を用いて内面的世界と外面的世界の関係に新たな光をあて、異質なものを受け入れることのできる想像力を鍛える仕事に、大きな意義を見出すことができるのではないでしょうか?

科学技術が文明を牽引しているかに見える現代の世界にあって、「文学の力」が衰弱してしまっていることが、じつは私たちを回復不能な地点にまで落とし込めてしまうのではないかという恐れを、私は持ちます。ノーマさんが、今の時代において文学や人文的教養の価値をどのようにとらえていらっしゃるのか、そのご意見の一端を聴かせていただければ、嬉しいです。

<上田昌文による補足:集会名について>
私は、ノーマさんをお呼びして語りあう集いを「生きることと語ることの間で」と名付けることを、皆に提案しました。このタイトルは、考えてみれば、奇妙なタイトルです。語ること--つまりことばを使って他者に向けて何かを表現すること--も明らかに生きることの一部です。この2つのことがらの「間」など、一体あるのものなのでしょうか?

私はノーマさんがなさっている仕事の質を、できるだけ的確に短い言葉で表してみたいと思いました。ノーマさんの文章には他ではなかなか出会えない特質があって、それが何であるのかをつかんでみたいという気持を私に抱かせるのです。「語ること」は確かに「生きること」の一部なのですが、それは位相の違ったことがらであり、「生きること」の持つ、語りえない豊穣さ、奥深さ、苦しさや辛さに、ことばをとおして精一杯むきあうことで、「生きること」の内実が照らし出されるような営みです。

私には、「生きること」と「語ること」という異なる位相の間を意識的に往来しようとする精神の働きが、人間には確かにあるように思えます。人と世界のありようと意味合いを、それがなくては写し出し、照らし出すことができないような言葉を探ること--この精神の次元を、私は、「間で」という表現に込めてみたいのです。

お会いしてお聞きしたいこと、語り合いたいことは、それこそたくさんあります。たとえば私は、「科学がなくても世界は豊かであり得るが、文学がなくてはそれは難しい」と考えていますが、そうしたことをめぐって、いろいろなお話がしたいです。しかしここではまず、このたびの集いでどんな具体的個別的な問題を論じることになるにせよ、それを省察し、表現し、他者と交わろうとする人間の精神のあり方に、深い関心を向けていることをお伝えしておきたいと思いました。

 

■ノーマ・フィールドさんのお話

6月の末でしたか、私がシカゴを出る前に数人の土曜講座のスタッフの方から質問やコメントを戴いて、その時点ですでに皆さまの真剣さには圧倒されてしまったのですが、それから再度お話しする機会がありまして、どういうふうに皆さまの問いかけにお応えすればいいのかなと考えました。スタッフの方たちの中から出た「生きることと語ることの間で」というテーマは非常に抽象的ですが、それを具体的なものとして捉えてみることがたぶん私に期待されていることではないかと考えて、今日はお話をしたいと思います。

さきほど森さんたちがプレゼンテーションしてくださった時に、対話のむずかしさにはいろんな側面があるなと感じました。まず筆頭の森さんの時には、おっしゃることをメモしながら、答をどこに入れたらいいのかを考えるのに頭がいっぱいで森さんのほうを見るのを忘れてしまい、話も半分くらいしか聞いていなかったり、それから少し落ち着けるようになって、2番目の永添さんの時には落ち着いてじっくりと聞くことはできたのですが、聞くことに集中してメモをしなかったので半分くらい忘れてしまったりという具合です。そうこうしていて思い出しますのは、私が留学した時に講義を聞き取るのとノートを取るのが最初はなかなか一致しなかったということでした。それがどこかの時点で聞きながらノートを取れるようになった。私は今、大学の授業をする時にも、学生さんの言っていることを聞いて、すばやく対応できるような授業がしたいわけですけれども、聴く訓練というのは、筋肉とおなじようなもので、やはり常に繰り返さないことには衰えてゆくような気がするのです。そういうことを最初から感じさせていただきました。

私が講演する形ではない形でとお願いしたのは、みなさんがお互いに個人として、この空間に同席している仲間として意識しながら、話を聞き、質問や意見を言っていただければいいのではないかと思うからです。スタッフの方たちとはメールや事前に会って打ち合わせをしましたけれども、それらのメールや事前の会話に関わっていらっしゃらない方たちにもわかっていただける様にと、今日は私が最近体験した対話についての具体例をあげたいと思います。これはほとんど対話が成立しなかった例や対話のむずかしさをあらためて感じさせられる例です。対話のむずかしさ、たとえば私が対話をもてない人がいるかと考えた時、即浮かぶのは小泉首相やブッシュ大統領で、彼らとはきっと対話は持てないだろうと思います。でもほんとにそうなのだろうか。例えば同じ学校に子どもが通っていて親として接触する機会があったら、ブッシュでも話せるかなあ、小泉さんでも話せるかなあ、と思ったりします。でも、それよりももっとしんどいのは、友人と意見が対立した時に、その問題を取り上げることだと思いますし、近所づきあいの中で政治の問題などを取り上げる難しさもあると思います。

対話というのは自分と人との対話もあるだろうし、自分と自分との対話もある。自分が感じていることでまだ言葉になっていないもの、身体的な思いを心のものとして捉える過程、それが「生きることと語ることの間」の「間」だと思うのですが、それもひとつの対話として私は認識しています。それらの対話をキーワードにして、対話の拠り所が何であるのかを考えたいと思います。

●子犬の若い女性(見知らぬ人との対話)

今年のある猛暑の日、東京の家の近所を歩いていた時、私の前を子犬とその子犬をひっぱっている中学生なのか高校生なのか大人なのか後姿だけでは判断がつかない若い女性が歩いていたのです。彼女は暴力的に子犬をひっぱって、あっちに寄ったりこっちに寄ったりしている子犬をどなりつけている。けっして日陰を選んで歩かないので犬は苦しいだろうし、私はなんか言いたくてしかたがないのだけれど、とても躊躇して3分か4分くらい黙って後ろをついて行ったのです。

私にはいろんな迷いがありました。どういう話し方をしたらこの人は私の話を聞いてくれるだろうか。自分のペットの扱い方に関して他人に声をかけられるというのは、非常に不愉快ですよね。でも、私は彼女の行為が子犬への虐待に思えて、子犬がかわいそうでたまらなかった。いっぽう私は動物に対して異常に心を配ることに対しても違和感を持っているので、自分もそうなのではないか、もしこの子犬が子どもだったら、同じような扱いかたをしているお母さんに対して私は何か声をかけることを考えるだろうかとも考えました。

曲がり角に来た時、どうしても何か言いたくなって、何か言うのが自分の責任のように思えて、テレビを通して知識の豊富な母から以前「暑い時には犬は足の裏が痛むんだ」ということを聞いていた私は、ちょっと近づいて「暑いときは犬も足の裏が大変なんですよね」と声をかけました。すると、彼女は振り返って「そうですね。大変ですね」と言って、そのまま分かれたのです。

後で娘にこのことを話してどう思うかと聞いたら、「それではぜったい不十分だ。これは動物の虐待だというべきだった」と言った。娘はほぼシカゴ育ちですが、日本の生活も長く私と同じような感性は持っているのですが、ただ世代は違うわけです。私と同じ年配の日本人に聞いたら、「それはちょっと弱すぎる。私ならもっと強いことを言っていただろう」と言われた。

「ああ、ダメだったんだ」と思ったのと同時に思ったのは、どうして私は彼女が子どもなのか大人なのかと気にしてしまったのだろうか。大人のほうが声がかけにくいからだろうか。もしこれがシカゴだったらもっと軽く注意をしただろうか。自由に発言できただろうか。ということでした。ただ今では「やっぱり不十分だったんだろうな」というのが私の結論です。些細なことであるけれども、対話のきっかけを自分からイニシエートすることがどれほど大変かということをつくづく感じたことだったのです。

●引越し(過去のものとの対話)

母が今度私たちと一緒に暮らすことになって、今私は引越しの準備におわれています。みなさんご承知の通り、引越しはとってもわずらわしいものです。曾祖母の時代の日常生活に関わった衣類とか食器とか写真、手紙、戦前の母の兄弟の通信簿などが思いのほか多く保存されていたので、どれを取っておくのか、どれを捨てるかと選んでいたのですが、私があまり多く捨てるのを見て、娘は「私はもう何も取っておかない。どうせ捨てられてしまうものだから……」と言ったのです。捨てるにしても私たちはぼろぼろになった手紙とかをひとつひとつ手に取ってみて、古い着物を見てなぜこんな趣味の悪いものを買ったのかしらなどと言いながら、われわれの曾祖母とか祖母の時代に思いを馳せていたのですが、娘にはいろんな思いが走ったのだと思います。

つまり、自分のものも子供たちによって捨てられてしまうのだろうなあとか。人生って何なのだろう、やはり処分されるものでしかないのじゃないだろうかとか。また、娘がそう言ったのは、彼女が25歳の若さで人生って捨てられてしまうものでしかないのかと思ったことを、私に否定してもらうことを期待していたんじゃないかという気もしたのです。

先日尾内さんとも話したのですが、物を失うということは、失いつつある途中にはまだ分からない。過去形でしか分からない。それにしても、あまりにも大量にありすぎる為に何も感じないでただ燃えるゴミと燃えないゴミに分けてゆく。物に付随する価値というものを考えることもなく、ただただ分けてゆく。リサイクルするならまだしも、大半は捨てる。といった作業は大変な空しさがともなうものですよね。そういう時に思ったのは、抽象的な言い方ですが資本主義の原理にそっくりだなあということでした。

家族の人たちがどういう思いで買ったのか。商品を欲しいと思うのにはいろいろな動機があるのです。例えば自分を美しく見せるとか、利口に見せるとか、生活に役立つとか、そして私たちはお金を通してクレジットカードを通してそういういろんな商品を購入するわけです。しかし、その商品がどうやって出来てきたかを意識せずに買い、意識せずに使い、そして意識せずに捨ててしまう。そういう商品との関わり方が多いのではないか。無意味になってしまったものに意味を復活させることを、私たちは意図的にやらなければならない。どういうふうに使ったのか、どうして取っておいたのか、そこには意味があるのです。

例えば、一番びっくりしたのは私の高校時代のノートがお勝手の戸棚の上に全部保存してあった。不得意な数学のノートまで……。高校生のノートを取っておく意味は何なんだろうと思いました。暑いなか、手ぬぐいをかぶって、埃だらけになりながら、何十年も人の手が触れてないようなものを引っ張り出して処理していく作業を通して、自分の過去とは何なのだ、身近な生活の歴史とは何なのだという問いが出てきたのです。思い出を物の中に見出すことができるかどうか分からない過去のものとのかかわり方。あまりにも大量にあるためにただただ処分してゆくことの空しさ。つまりわれわれと物との対話ということを考えざるを得なかったわけです。

●身近な人との対話、その難しさ

去年アメリカでは大統領選挙があったのですが、私と私に近い人たちはゴア政権はしようがないけれど、ブッシュ政権は絶対認められない。アメリカは瀕死の状態になっているから、ゴアに投票するというのが暗黙の理であったわけです。大学に入ってすぐに大学ってところは自分には意味がないと悟った20歳の息子は、ネーダー支持者になりました。彼に言わせると、「ブッシュとゴアはまったく違いがない。お父さんやお母さんが今まで主張してきた信念はネーダーに近いじゃないか。なのにどうしてゴアに入れるのか」ということでした。その時はたしか夕食の仕度をしていた時で、私がふと思ったことは、ああ、この子とこの問題を丁寧に話す忍耐が私にはない。どこから話せばいいのだろう。議会制度や民主主義の空しさなどを私たちは充分にわかっている。それを何も知らないわがままに育った子どもにどういうふうに説明したらいいだろうということでした。非常に口が達者で未熟な、アルバイトもあまり続かない、人に働かされるのが苦手なタイプの子なのです。その時、夫がそばから「君にはゴアとブッシュの違いは全然見えないかもしれないけれど、お父さんにとっては職場で毎日決定的な違いがあるんだ」と言ったのです。夫はアメリカの連邦政府の環境庁に勤めている人ですが、共和党の知事のある州では環境法とかが一切認められていない。環境保全に理解を示さない。グリーンな副大統領と言われるゴアにしたって、その環境保全への姿勢は非常にゆるやかではあるけれども、それにしても共和党とは決定的に違うと。私がその時印象的だったのは「お父さんは毎日決定的な違いがあるんだ」と具体的に言ったことによって、夫と息子はかなり長々と話し合ったということです。息子は旅に出ていたので、とうとうその時は投票をしなかったのですが、彼にとって、どうやったら理想と実態を区別することができるのか、今しばれれているアメリカと世界の重要性は、彼の認識している理想とはまた違う次元なのではないかというのが、なんとなく通じたらしいのです。

ただ、議論の中身よりもっと重要なのは、身近な人たち、たとえば自分の子どもに対した時に、自分の子どもがどれだけ未熟であるかとか、どれだけ勉強してこなかったとか、それだけ本を読まない子であるとか、そういうことが分かりきっているだけに、どうやって子どもの立場を人間として尊重して気長に対話が持てるか。面倒くさいところを面倒くさいと思わずにどうやったら大切な話ができるかということです。これは私にとってはまだまだ難しいことです。また、配偶者と、馴れ合いの仲でどうやって真面目な話しをできるか。それはまた子どもとの話し合いとは違う難しさがあるんですよね。もう少し違う観点では、自分の親とどうやって面倒くさい話しをもつか。それは個人個人で非常に違います。どういう育ち方をしたか、どの時点で親子が別れたか、もちろんイデオロギー的な違いもあります。それらによって対話の持ち方が違ってくるのです。例えば、私と母のことでいえば、私自身の政治感覚というのは母や祖母から受け継いだものであるので、その意味では対立はまったくないけれども、これからだんだん年取ってきた母と生活をともにするというのは、やはりとても難しいところがあるのですね。

私の同僚で大変親しい韓国人の友達は、20代の半ばくらいにアメリカに留学することを決めた時に、母親に投資したと言っていました。アメリカに行ってしまうまでに3ヶ月か半年か時間の余裕があったので、徹底的に投資した。保守的な思想を持っている母親とは政治的にも決定的に違う。女性に対する価値観も違う。そういう母親のことを、アメリカと韓国くらいの地理的な距離を置いても、生涯思い続けるように投資したんだと言うのです。母親のことを思い続けること、それは母親に関心を持ち続けることです。子どもであれ、パートナーであれ、親であれ、身近な人たちに関心を持ち続けるということは意外と大変なことなんですよね。特に日常生活をともにしてしまうと、いちいち話していては日常生活は維持できない。それをどこかで乗り越えて、もう1度ひとりの他者として、私は他者という言葉は基本的に嫌いなのですが、別個な人格を持つ人間として尊重する。新鮮味を見出す。それによって話しにくいこと、普段は話したら対立になるか、あまりにも面倒くさいかで話題に乗せないことを、話すことができるのではないか。日常性はわれわれひとりひとりの生活の拠り所であるけれども、いっぽうで日常性の恐ろしさというのは、身近な人に輝きを見出せないことです。まず私たちが変わらなくてはならない。私たちこそが身近な人間に輝きを与えなくてはならないのです。子どもを新鮮な存在にしたい。パートナーを新鮮な存在にしたい。親を新鮮な存在にしたい。そのために努力をしなくてはいけないだろうと思います。それは大変なことだけれど、今、私が痛切に感じていることです。

 

●メーリングリストという奇妙な空間(日常性と問題意識の間)

最近アメリカで中国史を研究している人がはじめて沖縄に行って、その印象をメーリングリストにまとめて多数の人たちに送ったのです。彼は沖縄を捉えるために「人質国家」つまり近代国家ができる前の琉球は他の国々の支配を受け、近代国家になって日本の支配下におかれ、戦後は日本とアメリカの支配下におかれているといってきたのです。それに対してシカゴ大学の大学院生だった時に私も教えたことのある、今では研究者になっている若い男性が、半年くらい沖縄で暮らしていたのですが、彼の反応は、沖縄の人が自分たちが人質国家の住民だと聞いたらびっくり仰天するだろう。この間沖縄で祭りがあったのだが、彼らは踊りは踊るしサンシンを弾くし、非常に楽しい雰囲気があった。だから人質国家みたいなひとつの概念では具体的な沖縄の姿は捉えることはできないということでした。私はなるほどなあと思った。でも、どこか引っかかるところがある。私は文学作品と関わっていた時には文学作品の具体性は非常に価値があることだと思っていた。それに対して私が関わっている大学の研究の場は具体性をほとんど排除してゆく場ですから、そういう意味では研究者として常に違和感を感じてきたのです。中国史の研究者が模索した人質国家という概念と、若い研究者がもってきた日常性の具体性のどちらか一方を取るのではなく、やはりどちらも絶対必要であって、往復作業が必要だろうということを考えたのです。

Eメールになってから会話のペースが非常に速くなって、メーリングリストはちょっと時間がたてばもう他の話題になってしまったりして、それも私は恐ろしいと思うんですが、その時、先ほど言った引越しもあったので、私はすぐに返事できなくて、1週間くらいたって気の抜けた頃にそれまで考えたことを書きました。

私は若い研究者が書いた沖縄の人が生活を非常に楽しんでいるというのもすごく分かるのだけれど、だからと言って苦しんでいる人がいないわけではないし、だからと言って日常的な犯罪性、これは大げさな言い方かもしれないけれど、経済的にも人間関係においても平穏な生活にともなう犯罪性みたいなものがないわけではない。私たちひとりひとりの生活の安泰が保障されるためにどういうところに目をつぶらなくてはならないのかは、ただ具体的な生活を楽しんでいるときには分からないのではないか。

しかし、それでもなおかつ対象化して考えない日常的な幸せを体験しなければ、対象化した時にその貴さも絶対に認識できない。こういうことをメーリングリストに書いたのです。こわごわというところもありました。というのも日常性を言った若い研究者とは対立する思想をもっているわけで、私は、ああ、またバカにされるのだろうな、ノーマ・フィールドはまたあんな単純なことを言って、感情的なことを言ってと……。バカにされるのではないかという思いは対話を難しくする意識だと思うのです。でも一つ二つ返って来た反応は、私の出した意見に賛同する反応もあったのですが、逆に反対する人は書かないのかなという気もしました。

沖縄の問題といえばお墨付のものがあるわけですが、私はそれを少し壊して、もっと身近なところで考えたい。なぜそういうことを言うかというと、以前インタビューを受けた時に、若い女性が非常に鋭い質問をしたのです。沖縄に生まれた人たちとか、『天皇の逝く国で』で扱った中谷康子さんとか、またノーマ・フィールドさんみたいに戦後混血児として生まれた人はいいですね。つまり、努力しなくても、すでに問題が与えられているから。私たちみたいに高度成長以降に普通に成人した人たちはどうやって問題意識をもてばいいのか分からないと。

これは本当に大切なことだと思いますし、だからある意味で私は日の丸とか天皇制ということに言及することに責任を感じる。でも、言及もしたいので、もうひとつ違うところで、非常に日常的な普通な平穏な生活をしているわれわれのレベルで問題を考えたいなと、いつもその間を不安にさまよっているのですね。さまようことも大切であって、お墨付の問題であるものと、まだ形もなく意識されていないこととをどうやって関連づけるか。そこに何か常に動く能動的な拠り所があるのではないか。それを意識することで対話の拠り所を探っていきたいと思います。

 

●靖国神社にて(対立するもの同志の対話)

次に永添さんが触れられた昨年12月に開かれた女性国際戦犯法廷のことですが、これもまたお墨付の問題で、ご存知の方も多いかと思いますが九段会館という靖国神社の鳥居が見えるところで開かれたのです。私はシカゴの神学校の大学院生と一緒で、彼女は日本がはじめてだったので、朝早く靖国神社に出かけてみたのです。この中に最近靖国神社にいらした方がどれくらいいらっしゃるか分かりませんが、私は数年間行っていないうちにずいぶんお土産物屋さんが増えたなあという感じをもちました。大きな鳥居を入ったところにあったお店では、戦争絵画や複写の絵はがきや写真を売っていました。ゼロ戦や日本兵の颯爽たる姿とか非常にステレオタイプされた場面ばかりなのですが、私も学生もまるで証拠を集めるような意識で、なんか腹黒いような気持ちで、何枚か買ったのです。中年の女性ともう少し年配の男性のふたりで店をやっていて、これとこれと選んでお金を出したのですが、それを受け取った女性がなんともいえない素朴な温かさで対応したのです。長時間寒いところに立っているので、手がかじかんでなかなか袋にいれることができない。その間にお天気の話しやごく日常的な会話を交わして、そこを去ってから、彼女と「どうしてそれらを売っているのか」などの話もしたかったなと思いました。そういう話をするにはあそこでは話すきっかけがあったのですが、もしお互いの立場で始めてしまったら絶対そういう対話にはならないに違いない。それとまた、女同士だから話せるのかもしれないとも思いました。男の方はお金も受け取らないし、袋にもいれない。何もしないでただ偉そうに突っ立っているだけ。何のためにいるのだろうと疑問に思うくらいでした。

もうひとつは、街宣車がたくさん出ていましたが、私はしばらく右翼の言葉を耳を通して聞いていなかったので、すいぶん議論が上手くなったなあと思ったのです。アメリカが原爆を落としたことやチベットの問題とかで、人権と言う言葉をかなり出してきた。私が言いたいのは、それは人類の罪であるし、国際的に裁かれるべきであるということで、プラス・マイナスされるようなものではない。アメリカのやったことは問われるべきであり、日本のやったことも問われるべきであるということです。そういう話をどうしてあの人たちと出来ないのだろう。どうして街宣車からは一方的に怒鳴られるだけであって、戦犯法廷に関わっているほうは警備のボランティアに守られて、それを避けるように歩いてゆくことしかできないのだろう。その空しさは今でも感じています。対立している人同士が対話をする場をどこかに見つけられないか。これは大きな課題だと思っています。

 

●人と人が対立関係にある時の会話

私は日本を離れた後、外国で大学生、大学院生、そして社会人として過ごしていて、夏休みに日本に帰った時、必ず違和感を感じる時期があったんです。それは滞在期間の長さによって違うのですが、例えば1ヶ月の滞在期間だったら違和感は1週間続き、2ヶ月の滞在だったら2週間続き、9ヶ月いる時だったら2ヶ月くらい続いてしまうことがあるのです。それは非常に些細なことで、例えば混雑したところで人がぶつかり合った時、どうして日本人はごめんなさいを言わないのかとか、しょっちゅうしょっちゅう憤慨している。なぜ日本人はこうなんだろうといつも言っていたことがあるのです。逆に日本の生活が長くなると、アメリカに帰ると、アメリカ人ってなぜこんなに自己主張が激しいのだろう。ほんとに頭にくる、我慢できないと思う。夫までそんなことを言い出す。2年間日本で暮らした後、ブルックリンに帰ったら、夫はアメリカ人に対して「あいつらは会う奴会う奴ひとりひとり殴りたくなる」なんて言うのです。

日本滞在の2年間の間に子どもはこちらの幼稚園に通っていたのですが、最初の年、運動会を見に行ったら、「なんだこれ。ファシズムの訓練場みたいじゃないか」と思ったのです。運動会の誓いとかを読みますのね。あれに対してすごい違和感を感じたのですが、次の年、年長さんになった自分の娘が選ばれて誓いを読んだ時には、なんかホクホクしちゃったりして……。どうしてこれをファシズムの訓練場と思ったのか、それは大げさじゃないかとか思ったりしたのです。やはりこれも二項対立ではなくて両方の要素があるじゃないかと思うんですよね。

フランス人には自分たちは文明の根拠地であるというような非常に傲慢なところがあって、私がフランスに留学していた時はちょうどベトナム戦争の頃でしたので、私が日本人としてとらえられる時には非常に得して、あなたの友達はアメリカ人だから嫌いだけれどあなたは日本人だから好きだとか言われた。これも考えてみれば非常におかしなことだけれど、でも、得できるんなら得したほうがいいかなと思って、じゃあ日本人で通そうとか思ったりしました。最近でもあるかとは思うのですが、特にその頃はヨーロッパでの対米感情が悪くて、アメリカ人がヨーロッパを旅行するには損する時期だったのです。このように敵味方の基準がはっきりしている時には豊かな人間関係は成立しにくいんですよね。アメリカ内でもそうでした。反戦運動が盛んな70年代では、ピースシンボルをつけている人は安心して話せるけれども、アメリカの国旗を窓に貼っている人とは話なんてしたくないとか、そういうのがあって、もうその段階で人を区分けしてゆく。そういう状況と言うのは対話を不可能にしてゆきます。

最近対立関係を考えてゆく時、自分の拠り所は国と国の関係より、人がどういう生活をしてきたかということではないかと思うのです。私は職場では例外的な経歴を持っていて、主婦である経歴が長かったんです。主婦として母親としての経歴を経て大学教員になったとき、そのギャップのほうが国と国とのギャップよりはるかに大きかった。小さい子供を育てることがどれほど大変であるか、どれほど自分の意識が変わってくるか。子育てをしながら大学の教員になったときに、どれだけ周りの研究者が勝手なことを言っているように見えたか、そして自分の子供が大人になってゆくにつれてそういう意識がだんだん薄れていったこと。自分の置かれている場が変わることによって違和感を感じたり疎外感を感じたりすることがいろんなところであるんじゃないか。例えば「あの人はああいう生活をしているからこういう単純なことを言うんだろう」などという蔑視の反応や、また、こういうことを言ったらバカにされるのではないかという恐れ。そういうものをどうやって克服してゆくことができるのであろうか。

もうひとつは、対立が想像できる問題、例えばお墨付の政治的な問題とか、あるいは科学技術と生命倫理に関する問題などでも、そういうことを話題にする時に予想してしまう不快感や緊張感を避けたいという衝動に、私は常に駆られます。どうやってその恐れを克服することができるのだろうか。けれども克服することによってマンネリ化するのでもない。『天皇の逝く国で』を書くのは大変だったでしょうと言われることがあるのですが、全然大変なことではなかった。そういうことは大変じゃなくて、むしろ身近な人と対立が予想される問題を提起することのほうが大変なんだ。例えば、特に仲のよい同僚との対立です。対立している同僚と対立するのは簡単なことなんです。お互い主義主張をすればいいのですから。だけど、仲のよい同僚と対立が予想される問題を提起することには今でも苦労しています。

講演会を聴いた時どうしても納得ができない。たぶんほとんどの人は講演者と同じ意見をもっているであろう。そういう状態でどうやったら自分の思いを伝えることができるか。どきどきしながら手を挙げ、手を挙げたのはいいけれど口べたになって、言葉が出てこない。でも、私はよく学生に言うんですけれど、自分だけの意見だと思っても、決してそうではない。きっとあなたが感じた違和感を発言することによって、会場にもうひとり、あるいはクラスにもうひとり救われる人がいるんだ。だから口火を切るのがどんなに大変でも手を挙げてみなさい。シャイな人は一番はじめに手をあげたほうが言いやすいと教えているんです。勇気を持って自分の意見を皆で分かち合って、真剣な対話をいろんなところで持てるようにしたいと思います。

 

●非日常性がもたらす対話

先日、落雷がありました。あの騒ぎのお蔭で、もしかしたら思いがけない対話があった人もいるんじゃないかと思います。編集者である私の友人は、電車が動かないから雨しのぎに喫茶店に入っていたら、外で雨が降っているところで待っている人がいて、自分だけ席をとっているのは心苦しいので、同席しましょうということで他人と一緒に座った。二人とも本を読んでいたのですが、「何を読んでいるのですか」というようなことから会話が始まった。相手は高校の先生で、今の子は本を読まないがフィクションなら読んでくれると話した。編集者である友人と高校の教師が落雷のお蔭で対話ができたのです。非日常性ですよね。普段だったらお互いに口をきくのも面倒だし、都会人はお互いに無視することによって自由が確保されている。こういうふうに自分が選んだのではない非日常性がもたらす対話というものもあるのです。

(以上、まとめ:薮 玲子)

 

 

全体討論の報告 (まとめ:森元之)

●全体討論会の進め方について

全体討論会の報告をいたします。ノーマさんの講演会と休憩のあと、まず7~8人ずつのグループ(全部で4グループ)にわかれての討論時間を設けました。この形式については事前にスタッフの中でいろいろな方法を模索した結果、このアイデアに落ち着きました。その理由は、いきなり30~40人全体で意見交換を行うことにした場合、そうした場で発言することに慣れていない人の発言の機会を奪う可能性があること、また、どういう意見や思想・信条を持った人がいるのか少しも情報が与えられていない状況で、自分の価値観を表明することにもリスクがあるだろう、などの判断があったからです。

最初に顔の見える範囲(グループ)を設定しその中であれば、個人的な情報を交えつつノーマさんの話から受けた感想、そして次の全体討論会でノーマさんを交えつつ参加者全員で話したいテーマを持ち寄ることができるのではないか、と考えたからです。

そして当日は、このグループ別の検討会のあと、全体での討論会にはいったのですが、まず各グループから一人ずつ、そのグループの中で行われた発言やテーマについて報告していただきました。みんさんその場で指名したにもかかわらず、非常に短い時間に簡潔に発表していただきました。形式的なことは、これくらいにして以下当日の発言の流れにそって報告いたします。

●対話をつづけるための努力とは

まず、グループ討論会の時、ある女性が「高校生の時に体育大会の行進ができなかった事例」をノーマさんが持ち出し、そこから話題が始まりました。

ノーマさんの発言◆(以後「ノーマ◆」と記す)「難しい話題をどうやって切り出すか、という時に、緊張感をしのげるという自分で覚悟を身につけること。もう一つは言葉の問題がある。ディスカッションをしたいのであれば、それを否定してしまうような言葉を使うべきでは無いだろう。例えば”レイシスト”(CROWN英和辞典によれば”民族至上主義者、人種差別主義者”)という言葉があるが、アメリカで”レイシスト”と呼んでしまうと絶対、その後の対話が成り立たない。相手の人権を損なわないようにどうやって反対意見を表明するか、それは大切。」
「書く時には文体、語る時には声色(トーン)の問題。それからコンテンツの問題、たとえば一緒に何かをやっていれば言いしやすくなるかな、でも言い出せないかもしれない、という状況がある。また言い出しにくくなる状況が作られている場合もある。ある特定の問題がタブーにならないように日常的に注意できないかな、という気もした。」
「マジョリティの問題は非常に大きい。たとえば68年問題は人生全体、社会全体を考えるきっかけになった。20歳でパリにいて、5月革命を体験し、それ以後人生はつまんないなぁと思った(会場から笑い)、”革命なんて起こりやすいもんだ”と思ってしまったから。しかし根底から人生を考える機会はどうしてこれほど少ないんだろうと感じる、それはマジョリティの問題だと思う。皆つましい日常生活がそれなりに成り立っていれば、根底から物事を考えることはものすごいエネルギーがいるし、馬鹿らしいこと。その馬鹿らしさをどうやって、あえて馬鹿らしくなれるか、ということもある。」
「日本の場合世界と違うのは、全共闘世代が嫌われている、アメリカではあまりにも拡散したから嫌われることもないし……」

●1968年問題

参加者からの発言(男性)◆(以後「男性◆/女性◆」と記す)
「1968年がビデオやフィルムでも表現でも語られていることは非常によくわかるんですけども、”出来事の特権化””記憶の特権化”がそれに随伴してくる。若い人達、つまり20代になり少し物心がついて、そういうフィルムを見たり本を読んだり、人に会って話も聞いている、そういう世代はものすごい喪失感に陥っている。それでもなお68年が強調されなければならないのであれば、どの点で強調されるのか?」

ノーマ◆「第二次世界大戦も”特権化”されている。 加害者体験にしても被害者体験にしても特権化されているという意味では68年も第二次世界大戦も同じなのに、68年の方に抵抗を感じてしまう、その違いは何か、ということですよね。その違いを探ることが糸口になる。過去を掘り起こすことが、必ずしも特権化することになってしまうのか? 特権化はどうすれば避けられるのか?」

男性◆「沖縄の戦後補償の事例、1952年から20年間沖縄への戦後補償のお金の支出の事実を知った。これは”人質国家”と言える。これは特権化された沖縄の問題。対話がなかったという事実。歴史を掘り起こすことが特権化になる瞬間がある。人質国家論と沖縄の人々の日常生活の関係をどうとらえたらいいのか?」

男性◆「ノーマさんの話は8割は共感した。日常の中での、日常の牢獄の話を聞けたことはよかった。ところが”68年の経験”と言われた時点で”強固な分割点”が引かれてします。そのことを考えてほしい。」

ノーマ◆「それはかなり日本独特の問題。アメリカではそういう発言をしても何等問題視されない。」

男性◆「日本独特ですよ。フランスではその世代の人達が若者と対話し交流できている。」

ノーマ◆「フランスの中でも68年がまた商品化されている、という批判もある。」

男性◆「ノーマさんと同じ年に生まれ、同じ大学に行きノーマさんは文学、私は数学史。68年は世界的に意味がある年。近代が断絶した時代であり、社会的な問題に関して若者達を中心に高揚した時代。それ以後そうした問題が現実でもあり、フィクションにもなりうることがわかった。……一つの世界に生き、そこに責任を持つことにこだわって生きていくことがその世代に課せられていること。……私は68年を知らない人に、その時代のことを啓蒙するつもりもないが、語り合うことをやめるつもりもない。語り合う中で、いい経験であればそれが語り継がれて行くだろう。」

男性◆「68年のその後の世代にとっては、自分の生活が世界とつながっていること、例えば環境問題を例にとれば、自分の普段の生活が世界に負荷を負わせているという現実に気付き、その問題を変えたいと思えば日常の生活や自分の暮らしは自分で変えなくてはいけないと思うが、そうした思いが皆の意識として共有されない、運動としてなりたたない、それが閉塞感につながる、そういう苦しさを68年以降の世代は持っている。特定の時代を特権化するという面で喧嘩することではない。自分の暮らしと世界がつながっていることを認識させてくれたチャンスとしてとらえればいいのではないか。日常の対話の複雑さを受け入れ、それを決して切り捨てないで対話を続けることは、社会の問題に向き合い変えていこうとするエネルギーと共通する部分がある。そしてミクロ的なことだけ関心を持てばいいとか、マクロ的なことだけこだわればいい、というような一面を切り捨てるやり方ではなく両方の世界を行き来していくことが大事だと思う。」

ノーマ◆「68年については複雑な思い。あれが成功したとは思っていないが、ただ世の中は変わりうるというと実感を持てるチャンスはなかなかない。そういう意味では見ることができた私は偶然な幸せだ、と思っている。たとえば大震災など物体的に何かが起これば一人一人の意思を越えたところで世の中は変わる。そういうこと以外にそれから戦争、革命以前に世の中が変わることを体験できるのか、というのは世代を越えた問題だと思う。私の後の世代について(革命が)不可能だと思ったことはないが、それぞれの体験を生かすということは意識的にやらないとできないこと。」
「プレゼンテーションの一人の尾内さんの話の中に、”故郷がない”という発言があったが、それはどういうことか? “故郷”は対話を不可能にしてしまう可能性がある。しかし、私の場合にはかなり生理的なもので、私の場合には何か一つの発言によって心がつぶされたようなことがあって、でもそれは言葉にしにくい。だけど、何が自分の胸をつぶすことになったのだろうということを考えて言葉にし人に伝えようとする努力は、やりたくない、むしろそれを忘れたい。だけど「それは何かな」と意識して言葉にしてゆくのが大切なんだと思う、つぶされたものが故郷や拠り所だと思う。私は日本の家がなくなるのだから故郷がなくなるのだけれども、そしたら何をどのように日本とかかわっていくのかと考えると、多分具体的なもの、もっと日本語や食べ物などに固執してゆくんだろうか、といろいろ考える。」

男性◆「私は1967年生まれ。68年以降日本社会は変わった。それは68年以前は我慢して利益を得る生き方と、そうではなくなった世代。それは皆知っているので、だから触れられたくないこと。二つの労働組合に属した経験からの印象からすると、本質を突く議論は疲れる。」

男性◆「サンフランシスコ条約のときの補償金が沖縄経済を支えている。だからもらって悪いとは僕は言っていないが、発見したことを伝えたいが、それをどうすればいいか分からない。ただ、伏せたことは事実で、その伏せたことが、先の男性が言う”本質”だと思う。それを暴くことがいいのか?……対話するための方法論が必要。」

 

●対話することの大切さと難しさ

女性◆「小学生の子どもがいる親だが、入学の前後で悩んだ。子供の否応無しの状況、例えば学校の壇上に日の丸が掲げてあるが、それにどう対応していいのか、と悩む。自分一人が主張することが何を意味するのか、また六年間子供が通う学校と付き合う、子供たち教員と付き合うことに直面した時に自分が思っていることを行動言動で表せるか、ということに揺れた経験がある。大阪に住むある友人と入学式を前にして話していたところ、”お宅は子供さんの入学式で壇上に上がったりせえへんの?”と聞かれた。”ちょっとそれはできないんだけれどもどうしようかな”と思う。”できない”と言ってしまう自分と対峙することも居心地わるいし、”やります”とも言えない。いろんな人の立場や考えを自分にあてはめてみることで、自分がいろいろな視点を持てることは実感できるが、自分の立ち位置はどこなのか自身が持てなくなることがある。社会でいろんなことをやっていこうとするということと主張することが何なのかということも浮上してくる。問題を問題として共有しようとすると、話が長くなる。長くなって問題に行き着くまでに相手が疲れてしまうのではいかと心配してしまう。一方で”御用組合”とか”***主義者”という表現は非常に凝縮された表現なので簡潔にまとまっているのでさっと伝わるが、会話はとじられてしまう、という問題がある。対話や関係性の作り方の普遍性の無さに対しては、常に課題として考えないように、答を出さないようにしようと思って毎日考えている、という状況です。」

ノーマ◆「対話によって自分が変わるという可能性を真剣に考えれば、話し方も違ってくると思う。私は幾つかの問題については確信を持っているから、それに関しては自分の考えは変わらないと思っている。しかし相手のプロセスを聞くことで自分の考えも変わるかもしれない。……語り合うことで将来に語りあうことができるかもしれない。それは勇気だろう。」

 

●対話関係から見た教科書問題

男性◆「教科書問題で韓国と日本の小学校の交流や、民間交流が一方的に韓国から断ってくる、あるいはこちらからいっても断られる、という状況がある。対話は言葉だけでなく、そういう行動も対話の一種であるとすれば、韓国の側はそういう形でメッセージを発している。それに対して日本受け止め方は”しょうがない”という形で、行きもしないし受け入れもしない。そういう形で対話をストップしてしまっている。でもこれはいいチャンスなのだから、民間交流を断ってきたというメッセージを受け入れて、”じゃあ、なおさらいらっしゃい。そこで議論しましょう。”という形で対話を続けていく、そのずぶとさや奥深さを求めなくてはいけない。そこまでいってこそはじめて対話になる、と思う。そこで質問。いい対話が成立するにはどういう要件が必要なのか?を知りたい。」

ノーマ◆「何か行動を一緒にすることが大切。対話と言っても言葉はいくら具体的でも抽象的なもの。だから一つは同じ空間にいるということがある。言葉を介さなくても一緒に何かをすること、それから一緒に物を食べることは本当に大事なことであって、言葉以前の行動や接触が大事。問題を喚起する発言を怠らないけども、誰かが次に何かを言えるような発言の仕方を練習すること、失敗にくじけないこと。自分が何かを言って座が白けたら、それを自分で回復するくらいの図太さが必要だと思う。それは練習しか無い。」

男性◆「教科書問題で言えば、腹立たしく思っているのは、韓国政府が日本政府に抗議しているのは僕にはグロテスクに見える。国家対国家の関係であのような問題を語る問題ではない、と考える。違和感があるのは文化交流は国の方針でやめるということが多くて、ある種ナショナリティ同士の相剋みたな形になってしまうことへの違和感がある。草の根レベルでの交流と政府レベルでの交渉はかみ合わないことが多くて、どうもかみ合わないことはいいことのように思える。」

男性◆「中学の歴史教科書が国家の検定を通るということは、その教科書での表現が日本の歴史認識を表明している、ということを外国は分かっているから、今回のような問題が起きてしまう。ということは別の場で国の歴史認識を表明する場があれば、教科書レベルでの議論はしなくてもいい問題になる。」

男性◆「今のグロテスクという問題に関しては、議論の段階をずらしているからそうなる。日本の場合は教科書検定制度そのものをどうするかということを議論した上でないと、教科書の内容を変えることはできない。」

男性◆「検定の問題で言えば、1種類の教科書のみを検定で通したわけでは無く、すくなくとも7~8種類のを通したわけだから、見方を変えればそれだけ歴史認識の幅が右から左まで広がったとも言える。そう意味では今回の問題の教科書が検定を通ったと言うことはいいことだと解釈している。」

男性◆「日本の国家検定を通った教科書だから韓国政府という国家間のチャンネルでしか抗議ができない、という状況は私も理解してい、それ自体を否定しているわけでは無い。しかしそういうチャンネル以外で日本の検定制度を撃つような戦いを東アジアの民衆レベルの連帯の中で考えて行くべきだと思っている。今の段階ではそういう国家間の交渉は選択として当然入ってくるし、沖縄の問題もそうならざるをえない。しかし民衆同志での対話が必要ではないか。」

男性◆「ところで、議論をする前に、扶桑社の教科書をちゃんと読んだ人がこの中にどれだけいるでしょうか?マスコミを通して知っているという人もいるかもしれないが、今はマスコミ自身がひどいから、意図的に恣意的に編集された情報で判断するのはよくない。だから一人一人がまず現物を読まなくてはいけない。だから検定がオープンになる前に扶桑社が出版したことには賛成したい。読むことを反対している考えつまり検定の判決が出る前には一般の我々に知らせるな、という考えかたこそおかしい。」

 

●加害者と被害者の問題

女性◆「沖縄出身の人の政治の方法について。沖縄の選挙ではサンシン(楽器)を持ち出して、皆が踊りながらやっているのに、ヤマト(日本)の政党は革新的と言われる政党でさえ、黒のスーツやユニフォームで統一したりして、中身の無い言葉を連呼しているだけで、少しは沖縄の政党をみならったらどうか、と思った。……沖縄の問題は永田町や霞ヶ関で決められて、沖縄の人には相談がなかったことだ。
辛淑玉さんの講演会があったが”なぜ今、小泉首相や石原都知事がうけているか”というと、経営コンサルタント的な観点からすると、”今の政治家は7割が外見、3割が話の中身”だ。つまり3割しか中身がないのに7割の外見で受けてしまう。しかし”市民派の人や革新系の弱いところはその3割で勝負しようとしているから負けるのだ”と言っていた。市民派選挙は地味なことが多かった。しかしビジュアルなどの7割のことも考えていかないといけない、と私は思う。そのことについてどう思われるか、が質問の一つ。二つ目は、辛淑玉さんは、韓国の中にも、戦争の時に日本に協力したりした人がいまだに政治の中に根強くいる現実がある。今の市民運動は被害者を救うという点ではがんばっているが、加害者を告発する面が弱い。それについてはノーマさんはどう思うか。」

ノーマ◆「カリスマ性は恐ろしいこと。内容は無くても政治家がはっきりもの言うということは魅力的なこと、だと思う。どういうところを我々がとりいれるべきかということはとても大事な課題。」
「一般市民は国家の権力によって誰でも加害者になりうる。同時にいつでも被害者になりうる、ということを認識しておかなくてはいけない。」

女性◆「太平洋戦争に従軍した兵士達にインタビューし、また被害を受けた現地の人達にもインタビューして『森と魚と激戦地』という本を書いた。書きながら兵士たちのことを、単純な加害者として扱うのか、それとも加害者にさせられた被害者というように扱うのか、とても迷った。そのあたりのことについて聞きたい。」

ノーマ◆「加害者であり被害者であることを追及したい。被害者だった人ほど加害者にもなりやすい。例えば子供のころに虐待を受けた人ほど、大人になってその虐待を繰り返すという構造はあらゆるところで言えると思うので、絶対片方は切り捨てたくない。でも相対主義とはまた違う。それが難しいところ。」
(最後にノーマさんのしめくくりとして:)
「こういう討論の場になると、男性の人の発言・回数が多い、というのはどうしても感じてしまう。どこの国でもどこの社会でもその構造は似ている。」

 

■森元之の感想とコメント

全体討論会の流れがいきなり”68年問題”という世代論や学生運動論になってしまいました。それによっては幾つかの面で当日の対話の流れが規定されてしまったのは事実でしょう。まず68年のことを同世代として体験した人の中でもいろいろな立場があったでしょうかから、発言を控える人もいたでしょう。次に同じ世代の人でも、学生運動というある意味では限られた世界の中での話に限定されると、例えば当時ノンポリであったとか、すでに社会人として働いていたとか様々な状況によって、その事情に詳しくない人にとっては発言しにくかったのではないか、と感じました。さらに68年以降に成人もしくは誕生した世代にとっても、すこし観念的な話になってしまったのではないか、とも感じました。これについてはノーマさんの著作の中に多少はそういう話もあったので、スタッフの方でもう少し何らかの準備をしておくべきだったかもしれません。

またノーマさんが最後に指摘したように参加者の割に女性の発言が少なかったのも気にかかります。土曜講座の通常の勉強会ではもう少し女性の発言があると思いますが、この点についても討論会のスタイル・雰囲気なども含めて”対話”をうまくするために考えなければいけない課題になりました。

そして最後に一つ。「当日ノーマさんの講演会と同時に、全体討論会の雰囲気も最終的にはさまざまな意味での”対話すること”の難しさと大切さについての話になりました。恐らく参加した人はそれぞれの形、それぞれ日々の生活の中にこの課題を持ち帰っていったことだと思います」……というようにこの報告を締めくくろうと考えていた矢先、そしてこの報告のためにもう一度テープを聞いているさなか、アメリカでの同時多発テロの報道が舞い込んできました。こうした暴力による方法はすくなくとも「対話」のための方法とは思えません。しかし、ノーマさんが示して下さった日常生活の中でのさまざまな対話の局面で、迷い、とまどい、それでも何らかの形を見つけて対話を模索しなければいけない、というテーマと、今回のアメリカでの事件のように国家対特定の組織、さらには文明対文明の対話の在り方とは、規模は異なるけれども一本の糸としてつながっている同質の課題を持っている、ということに思い至っています。

 

■参加された方々からのご寄稿

■ノーマ・フィールドさんが講演した土曜講座に参加して

山根 伸洋

7月28日、私は、はじめて、「土曜講座」に参加した。噂には聞いていたが、はたして、どのような会合なのだろうか。ちょっと窮屈な市民運動なのだろうか?もしくは、おっさん達が幅を利かす、左派系の会合なのかしら。思いは交錯する。お昼ごろ、いつものことだけれども、会場の時間に少し遅れるくらいのタイミングで、団地を後にして、バス停に向かった。今日も日差しがきついな、と思いながら、国立駅前のバス停から早足で改札にむかう。国立駅頭は、いつも色々な人たちが、署名集めなり演説なりしている。この日も、人数は少なかったが、誰かが駅頭で、署名を集めていたようだった。が、そんなものお構いなしに、ホームへ一目散。うーん、やっぱり遅刻だ。

いつものことだが、はじめて参加する会合は、極度に緊張する。しかも、自分には馴染みの薄い「市民」の集いだ。けれども、前から、ノーマ・フィールドさんのお話しは聞いてみたかった。あれこれと考えながら、青山通り沿いの、洒落た雰囲気の会場に向かった。受け付けを済まして、会場に入ると、そこには、大勢の人々がいた。一瞬、目がくらんだのは、万華鏡をのぞくように、色々な人たちがいたからだ。「これは!」と心の中で呟いた。参加者が一様ではない。こういう会合が一番ホットになることは、身体感覚で知っていたけれども、脳裏に若干の不安がよぎる。まだ、主催者の方々の主旨説明が続いていた。「よかった、ノーマ講演には間に合った!」と一方で思いつつも、「この手の会合は主催の挨拶が重要じゃないか!」とも思い、安堵と不安が折り重なる。どこに座るかも重要なことだ。会場における位置取りを誤ると碌なことがない。会場はほぼ満員、後ろの方をうろうろしながら、何とか空いていて無難にみえた席に腰掛けた。

ノーマさんは、私の当初見込みを大きくこえて、ゆっくりと、慎重に、しかし、鋭い問題提起を試みていた。彼女の話す内容は、私達の身近なレベルの出来事とグローバライゼーションの大きな流れとを架橋しつつ、多数者としてのマジョリティーの意識とそのあり方を<問う>という、なかなかに、アクロバティックな話の流れであったように記憶している。その中では、私達が自明としている日常を相対化し、批判的に捉え返す契機の希薄化に対する危機意識と、その一方で、グローバライゼーションの流れの中で再生産されつづける、社会的な差別・抑圧という事態に対するマジョリティーの鈍感さと、そのような光景が日常化してしまい、人々の気持ちが閉塞してしまっていることへのやるせなさが、同時に語られていたのではないか、今から振り返ってみるとそんな印象が残っている。会場にいる時に、ノーマさんの話を受け止めようと努力しながら、強く感じたこと、それは、私という一人称単数から、私達という一人称複数への、語る主体の飛躍の契機を差別・抑圧からの解放の契機の中に見出すことの困難だった。彼女の口ぶりの中に込められている緊張感が、否応なしに私の心に響いていくる。

「うーん、困ったな」と思いつつ、彼女の話に耳を傾けながら、彼女自身が語り続ける中で彼女の模索を受け止めたいと思う私の模索が続く。彼女が突き出す自らの私的な経験の中に垣間見える普遍的な問題への契機と水路。彼女の話を聞きながら、さてさて、自分はどうだったろうか?とか考えさせられてしまう。こういう話を聞くのは大変なことだった。それも、家族とか近しい友人の話がメインなのだからなおさらだ。そして、出会いと交流と不和、そしてそこにどうしようもなく見出されてしまうナショナルな契機、もしくは、差別・抑圧の構造、そうしたものをいつも一人で、孤独に、考えていることはつらいことだから、忘却と同時に、日常性の檻の中に逃げ込まざるをえない自分達のこと。

当日のプログラムによると、この話の後に小グループにわかれての「ワークショップ」が予定されている。この多様というよりは雑多な人たちと、ノーマさんの話を聞いたということだけを共通の了解事項として、どう交流するのだろうか。谷保の商店街の人口比をそのままにもってきたような老若男女の集いで、即興の話し合い、これは、私にとっては、刺激が強すぎる。こういう時は、「忍」の一字で目立たぬが良し。多くの失敗から学んだことなのに、どうも、頭はともかく、身体感覚は別のようで、その後、ついつい感じるところが噴出してしまった。

ノーマさんの講演を聞きながら、80年代末以降の世界の激動を感じていた。一方で進行するはずであった「和解」と「平和」の替わりに、「差異」と「対立」が際立った。終わらぬ諸対立、と同時に、解決すべき第二次大戦から東西冷戦までの「戦後処理」がまるで進まないどころか、その矛盾を拡大させている。90年代、マイノリティーの問題が注目され、彼・彼女らのアイデンティティーの承認要求が一つの社会的ムーヴメントを作りつつあった中で、それを受け止めるマジョリティーの側が、そうした問題を「彼・彼女らの問題」としてしか受け止められない「貧困な感性」と自己のあり方を問おうとし、疑いの眼差しを自らへ向けることのできなかった「鈍感さ」、そしてそれを支える、この社会の日常性の断面。こうしたことに、ある意味で正面から向き合ってのノーマさんの講演であった。この講演が、まずもって誰を問うていたか、会場にいた人たちはどれほど意識していたのであろうか。この自明性を帯びた日常性が作り出す、社会の貧困化、対話の不可能性に私たちはもっと敏感にならなくてはならない。ノーマさんは、ある意味では、講演者にとってもっとも危うい講演のスタイルをとったのだ。つまり、彼女は、オーディエンスの側に対して、それぞれの自己のあり方を問うたのだ。

なるほど、これは、聞いている側に対して、彼女は、論争を吹っかけているのだな(けんかを仕掛けているのだな)と、私は、ついつい感じてしまい、何とはなしに、頭が熱くなってきていた。

ノーマさんの講演が終了し休憩のあとに始まった小グループに分かれての話し合いは、新鮮だった。というか、見知らぬ人と、手探りで議論を組み立てていく楽しさを味わったのは、何年ぶりのことだったであろう。そして、全体での討論。この一連のプロセスが、<公共性>を「お上」から私達のもとへ取り返していく社会的営みを予感させるものであった。そう、こうしたことは、ワクワクしながら、ちょっと緊張感があって、お互いにしゃべれた、と思える充実感が必要だ、などと考えながら、他のグループの報告を聞いていた。参加者の誰もが「ちょっと、自分の意見は言わせてもらったよ」という表情をしているのが、見ていて、楽しい。というか、自分がしゃべらせてもらえているから、他の人たちもそう見えたのかもしれない。そして、このムード、最近すっかり忘れていたなぁ、と懐かしく感じていた80年代の市民運動のアクチュアリティーだった。

会場の雰囲気は、自分が物心ついた頃にいろいろな市民運動の催物に参加して感じていたあのムードだった。80年代というと、誰もが、「バブル」や「ポストモダン」とかを連想するけれども、一方で、70年代という厳しい時代に鍛え上げられながら、ようやっとに、この日本社会に、<市民>という主体が登場し、そして、開かれた<公共性>が目指され、そして、討議そのものが、自己解放になるような社会的な場が生み出されてきた時代であった。かくいう私も、そうした空気を確かに吸い込みながら、学生時代をすごしたはずだった。そうそう、あの雰囲気が、一層高次化して、生き残っていたではないか。これには、ちょっとした驚きと懐かしさがあった。

だから、全体の討論で、ノーマさんが、「世代的経験」としての「68年世代」を言い始めた時は、どうしても一言いいたくなった。「60年代末の経験なんぞは、すっかり消費され尽くしていますよ!」と。もう既に、90年代は、違った時代がはじまっている。生き残っている連中は、70年代の最良の部分を継承しつつ、この十年、悪戦苦闘しながら、情況へ切り込むに十分な経験を身体に刻み込んでいる。だから、ノーマさんとも、出会い、議論できるのだろうし。そして、今、若い世代は、互いのつながり方に、苦しみながら、新しい関係性を縦横無尽に切り結んでいこうとしているのではないだろうか。

確かに、一時期に比べて、目に見えるつながりは、大きく後退しているかもしれない。でも、必要なことは、直接的に同じ時間と空間を共有していない、いや、まだ出会ってすらいない多くの友人達に想いを馳せる想像力なのではないだろうか。大きな祭りの準備には、長い時間とそれなりのワケ(理由)が必要にもなる。つながり方も通り一遍じゃあつまらない。また、60年代末の世界同時的な動きが、すぐれて、自由な表現でささえられていたように、これからの祭りも、大らかに自由になされるのであれば、それは、もしかしたら、私達には見えていないが、もう始まっていることかもしれない。などと考えていた。ただ、ぼくらは、つながりを作っていく契機が欲しい、そうした場が欲しい。だから、あの日の土曜講座は、何よりも、自由に論じ合うことの楽しみを噛みしめ、味わえたということにおいて、私にとっては、一つの<事件>でもあったのだ。

そういう意味では、ノーマさんの繊細だけれども大胆な話の展開に、若い世代はまだまだ負けているかもしれない。講座終了後の懇親会で、なかなかノーマさんの近くに寄っていくことができなかったけれども、ようやく、彼女を前にして、私は、何か、ほとんど一人しゃべりしてしまった。でも、その中で、「反グローバリゼーション」という人々の営みに言葉を与えていくことの重要さを教えてもらったように思う。感覚や感情を共有し行動するだけでは、社会的な差別・抑圧は無くならない。そうした情緒的なものを支える<言葉>を共同のものとして紡ぎ出していくためには、いつもいつも、相手に変わることを求め、そして、自分が他者からの働きかけで変わることを厭わない、緊張感に溢れた<対話>が必要だということを、若干のくやしさはあれど、「68年世代」のノーマ・フィールドさんにあらためて教えられように思う。特に、「裸の王様」が錯乱しながら、強権を振るおうとしている光景を目の当たりにしながら、手遅れではないが、待ったなしの時代に突入しつつある今だからこそ、語り合い、相互に交じり合いながら、社会的諸問題に向き合っていくことの楽しさを大事にしていかなくてはならないのだろう

 

■言葉の生まれてくる場

本山 央子

会場でも話したことですが、個人的な思い出から書き始めるのをお許しください。体育祭は私にとって学校行事の中でもとりわけ苦痛の多いものでしたが、高校のある年、体育祭の練習に参加したときは突然悪夢の中に放りこまれたような気分でした。クラスが一体となって手足を振り上げ行進し、掲揚台の前まで来ると、「カシラー、ミギッ!」という号令に従って日の丸に敬礼をしなくてはならない。一人でも調和を乱すとクラスごと減点されるのです。なんとか行進はしたものの、敬礼はどうしてもできませんでした。敬礼台上の教師たちに緊張が走るのが感じられ、2度目に与えられたチャンスでも私が敬礼をしなかったために、これはクラスにとっても学校にとっても明確な「問題」になってしまいました。

私は自分の英雄的な行為について書いているのではありません。というのは、けっきょく本番の日、掲揚台の前まで悩みぬいた挙句に私は号令に従ってしまったからです。会場で人が話すのを聞きながら思い出していたのは、あの、身体の動きと発声を強いられ集団と一体になる不快さ、それなのに「何かが間違っている!」という直感が合理的に説明できない苦しさ、いつもなら理解してくれるはずの母親の困惑を見たときの、世界から見捨てられた感じでした。奇妙なことですが、学校は常に生徒から言葉をとりあげる場であったと思います。そんな暴力的な場で生き延びるために、家族や書物から得る言葉がどれほど自分を支えていたか。感じていることと行動を支えてくれる言葉が周りにも自分の中にも見つからない事態に直面したそのときにはそこまで考えられず、私はただ動揺していたと思います。

ではあの時、「日の丸は軍国日本の象徴として使われてきたのだから敬礼すべきではないのだ」と誰かが言ってくれていたら良かったのか。そうではないだろう、といま改めて思っています。故郷を離れて大学で学び、様々な社会運動に関わって、私はたくさんの言葉を貯えて自信をつけ雄弁になった。それは一方で言葉とともに自分の足場を見失うあの恐ろしさを忘れようとすることでもあったと思います。一緒に座って、人の話す言葉を真剣に聞き取ろうとしていたあの空間は、そうした反省を私に迫るものでした。

正直に言えば、あの場にいた人たちの中には、もし別の場所で会っていたとしたら、「つまんないやつ!」と感じて会話を避ける人たちもいたかもしれないと思います。でもあの場で、道端に落ちていたものに目を留めては拾ってつなぎ合わせていくようなノーマさんの話を聞いているとき、人の存在と耳を傾けることそのものの価値は自然に理解されていました。目の前にいる人が発話する、そこから、言葉では表せないものまで受け取ろうとすることを、私はしばらく忘れていた。あれは稀有な空間であったと思います。それを作り出したあの場にいた人々のちからを大きく感じました。

最近、長く会っていない友人から便りを受け取りました。ある大きなイベントの事務局をつとめた彼女がとても消耗しているだろうということは察していましたが、予想を超えた彼女の言葉はとてもショックでした。彼女ははっきりと、自分の尊厳が運動の中で傷つけられたと書いていましたが、また今でもそのときの混乱や苦しみを整理することができないともありましたが、しかし自分に対する哀れみはなく、運動のリーダーたちに対する非難もありませんでした。彼女は運動の課題を自分自身の生に関わる問題として真剣に受けとめていたからこそひどく苦しみ、今もその苦しみを誠実に抱えている。そのことが、同じ運動に参加した自分も責任の一端を負っているということ以上に、私に大きなショックを与えたのだと思います。

ノーマさんは『天皇の逝く国で』において、国家への反逆という衝撃的な形で大きな歴史の表舞台に登場してしまった個人のすがたを、表舞台からは見えない地域での生活と歴史において―それこそがまさに彼らを表舞台に押し出すことになったのですが―書き留められました。この世界と大きな歴史を、私が生活を営む今とそこに連なる歴史において引き受け、そして交わらせつづけることの痛みと誠実さ、そしてそこで生まれてくる言葉の重みを、読み返して思っています。「運動」に参加しながら、というよりも参加することで、日の丸の前で号令に応えて腕を挙げることができず、しかし自分に確信も持てずにいた少女を置き去りにして、逃げつづけてきてしまったという苦い気持ちを伴いながら。

日本社会を一つの視点だけで語ろうとするナショナリズムが高まる中、それに対抗しようとして集まる人々もまた一つの中心に団結し、支配的な語りを作ってしまうことに、私はこのところずっとやり切れない思いを持っていました。でも今は、語りを分裂させ、変形させ、増殖させながら、ひとりひとりの存在からあたらしく言葉たちが生まれてくるビジョンを、わくわくした気持ちで思い描くことができるようになってきています。そうした場を私たちは作り出すことができる。ノーマさんと、参加者のみなさんと語り合った集会はその確信を強める機会になりました。

 

■Norma、平和、そしてキボウ

須川 亜紀子

ノーマさんからメールが届く。
「それでも、「二度と戦争は起こさない”no, never again”」と固い決意の女性が朝日新聞「ひととき」の投稿に多く見受けられるよ」(原文英語)。
希望を失わず、くじけそうな状況でも、”no, never again”を続けていけば、平和は続く。戦争を本や映像でしかしらない私は、それでも少し不安を抱えていた。今も続く戦争。日本からは遠いがために無視してしまえば気にならない、他国の人の痛み。でも、それは決して「他人事」ではない。そして「他人事」にしてはいけない。

先日国際バスケットボール世界選手権大会があった。通訳の一人だった私は、参加国の人達と話す機会が多かった。驚いたのはイスラエルチーム。SPを2人連れてきて、空港からホテルへのバスを念入りに点検。そして荷物用のトラックも隅々まで点検。爆発物が仕掛けられていないかの点検だそうだ。SPは、腕時計、ビデオカメラにも敏感で、チームの近くで無意識にそれらを持っていただけで、警戒する。穏やかそうなマネージャーと話した時には「私達は常にテロリストがいることに気をつけなければならない。このトーナメントが日本で開催しなかったら、(ヨーロッパだったら)参加もできなかったかもしれない」とこぼした。そして、クロアチアチームの一人と話した時は、「私は独立戦争に参加していた。今は紛争はないが、経済的には苦しい国情。でも平和がなによりだ。」と、あの民族紛争の様子を話してくれた。

平和というのは、得がたいもの。常に「死」を意識している人たちの言葉は、重い。そしてそれが遠い過去でない、現在でも続く不安を抱えた人たち。でも、私だって、この国でだって、もしかしたら自分もそれにいつ巻き込まれるかもしれないという可能性がある。そう思うことで、この21世紀になっても世界にまだまだ存在する紛争、いや「殺し合い」を自分に近づけて考えられればいい。そう、「戦争」は「過去」ではない。

そんな思いをノーマにもらした時、彼女が送ってくれたメッセージが、上記のものだった。そう、彼女はいつでも希望を失わないことの大切さを教えてくれる。先日のレクチャーでも、対話の難しさと大切さを話してくれたが、それは、一回やってダメでも、二回やってだめでも、それでも続けることの意義だったと思う。「アキラメナイコト」。それは、結構つらい。普段軽い話題で盛り上がっている友人とでさえ、戦争関連の話題になると、一気にひかれる。見ないで済ませれば生きていける日本では、あきらめないで話しかけることは、痛みを伴う。そして、痛いと沈黙する。気分もへこむ。そんな時でも、ノーマは「キボウ」を失うなとあらゆる手段で励ましてくれる。メール、レクチャー、著書、インタビュー。いつもそこからエネルギーをもらって、私もこれからも「キボウ」を見失わずにいきたい。大事なのは常にこれから、なのだから。

そして、私が米国滞在中、テロ事件が起こった。戦争前夜の雰囲気を肌で味わい、戦慄した。そして、また、ノーマからメールが届いた。テロ事件の一日後のことだ。

平和を願うぺティションを添付して下さっていた。どんなときでも、キボウを失わないこと。そして対話を続けること。その本当の意味が、これから問われていくだろう。

 

 

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