<特集:放射線教育は誰のためのものか>
学校は「市民」を育ててきたか
羽角 章 (神奈川県立川崎高等学校教諭 新しい環境学習をつくるネットワーク代表)
pdfはこちらから
はじめに
福島第一原発事故は科学技術と社会の関係について大きな問題提起となり、その観点から多くの人が考察を行っている。そして、その中で原発を推進する側が学校教育に介入して一方的な情報提供を行い、「エネルギー教育」という名の原発推進教育が行われてきたことも明らかとなり、学校教育への介入という観点からの考察もなされている。
ここでは、もう少し教育と民主主義の原点に立ち返って、日本の学校教育には根本的に「市民を育てる」という視点が欠落していることを指摘し、福島第一原発事故を経験した今、学校教育にはどういう反省が必要で、これからどんな視点が必要かについて私の考えを述べ、私がこの20年ほどの間に行ってきた教育実践を紹介したい。
1. 原発事故情報のメディアリテラシー
まず、本論の趣旨から少し外れるが、原発問題を考える前提として情報と感じ方のバイアスについて指摘したい。なぜなら、日本ではこのようなメディアリテラシーに関する問題意識が低いように感じるからである。
(1)原発推進側からの情報
2011年3月、福島第一原発の事故がますます深刻になっていく中で、テレビでは「ただちに健康に影響はない」という言葉が繰り返され、原発推進側の専門家が「深刻な事態ではない」と強調し続けていた。これは事故後2年たとうとしている今も同じで、「低線量被曝は心配ない」というキャンペーンが原発推進側と思われる人々によって続けられている。
つまり、政府、自治体、財界(当然マスコミも含まれる)など、これまで原発を推進してきた側には「原発事故の規模や影響をなるべく小さく見せたい」という動機(誘因、インセンティブ)があるので、意図的にそういう情報を流すことが多いということである。さらに、今回の事故に限らず、原発推進側にはこれまでに都合の悪い情報を隠したり操作したりした場合が数多くあった。したがって、そういうことも疑う必要がある。
意図的に情報を操作したり隠したりすることは糾弾されるべきことだが、一方で原発推進の意見を持つ人が客観的に話そうと思っても、上記のインセンティブのためにどうしても無意識的に原発に有利な言い方をしてしまうという面もある。これが本人の考え方のバイアスというものであって、これは「人間とはそういうものだ」と理解すべきである。
(2)原発批判側からの情報
それに対して、原発を批判する側はどうだろうか。原発推進側は自分たちに都合のよい理屈だけで原発推進の政策を進めてきた結果、今回の福島第一原発事故を招いてしまった。トラブルが同時に重なることや地震・津波の危険性は原発批判側が過去に警告してきたことだった。だから、原発を批判する側には「自分たちの警告を無視してきたからこうなったのだ」という意識(無意識?)がある。そして、「自分たちの方が正しかった」ということを強調したいというインセンティブが働くため、原発批判側が発信する情報はどうしても事故の規模や影響を大きく強調する傾向がある。
また、原発批判側の団体が意図的に情報を操作したり隠したりしたことはこれまでになかったと思うが、自分に都合が悪い情報を言わなかったり、都合のいい情報だけを取り上げたりすることがなかったとは言えない。
つまり、原発批判側には上のようなバイアスがかかっていて、これも「人間とはそういうものだ」と理解すべきである。
(3)情報を批判的に読む能力
原発推進側と批判側の表現の傾向を書いたが、自分に都合がいい情報だけを取り上げたり、無意識に自分の思いを込めて強調したりしてしまうという傾向は人間なら誰でも持っているものだ。つまり、同じ内容でも言う人(書く人)の立場によって印象が大きく違うということである。これはいい悪いという問題ではなく、「人間とはそういうものだ」「報道とはそういうものだ」と理解すべきだろう。
すると、我々が情報を受け取るときは、それらを意識して情報を解釈しなければならないということになる。面倒と思われるかも知れないが、これは報道についてのメディアリテラシー(情報を批判的に読む能力)の基本である。
(4)情報を受け取る側の問題
さらに、情報を受け取る側にも問題がある。例えば、放射線が不安だがその不安から逃げ出して安心して日常生活に戻りたい人は、専門家が「今のレベルの放射線なら心配する必要はない」と言ってくれれば、「やっぱりそうだったのか」と安心してふだんの生活に戻れるだろう。反対に、放射線の影響がそんなに小さいわけはないと思っている人は、専門家が「今のレベルの放射線でも避けるべきだ」と言ってくれれば、「やっぱりそうだったのか」と納得するだろう。
つまり、人間というものは自分が何となく思っていることを肯定してくれる情報に納得する傾向があるということだ。これもいい悪いという問題ではなく、「人間とはそういうものだ」と理解すべきだろう。
すると、自分が納得した情報を問い直す、あるいは「自分が納得できない情報にも一理あるかも知れない」と考えることが必要になる。メディアリテラシーの一つとして、そのように情報を客観的に見られる能力を付け加える必要があるかもしれない。
2. 日本の学校は「市民」を育ててきたか
(1)原発事故で明らかになった「市民」の不在
次に、エネルギー政策と市民の関係を概観することによって、日本の民主主義の問題点、つまり批判精神を持つ市民が少ないということを指摘したい。そして、それは日本の学校の問題点につながっていく。
①日本のエネルギー政策
日本のエネルギー政策のもとになる「エネルギー基本計画」をつくるのは「総合資源エネルギー調査会」という諮問機関で、経済産業大臣が任命した委員によって構成される。そこが作成した「エネルギー基本計画」の原案は閣議決定されることによって日本のエネルギー政策となる。注意してほしいのは、国会で審議されないという点である。
「総合資源エネルギー調査会」の委員構成は常に原発推進側が多数を占めており、原発批判側の委員は0名~数名であった。つまり、原発推進という結論はあらかじめ決まっており、原発批判側の委員は公正な審議を装うために加えられたようなものである。さらに、エネルギー関連業界の代表が委員を務めていたこともあったが、これは欧米ならスキャンダルものだろう。
2004年に総合資源エネルギー調査会の基本計画部会のただ1人の原発批判側の委員であった九州大学の吉岡斉氏は委員会の審議の模様を次のように書いている。
「その審議の進め方は一言でいえば、『エネルギー一家』の家族会議のそれである。そこでは家長(資源エネルギー庁)が、家族構成員たち(エネルギー関連諸業界の代表者や代理人)の意見をひととおり聞き、その上で家族構成員の皆(石油業界、電力業界、ガス業界等々)が納得してくれるような裁定を下す」(「科学社会人間」No.88[2004年]より)
②アメリカのエネルギー政策
アメリカ政府のエネルギー需給見通しの報告書には
・詳しい内容を知りたいときの問い合わせ先が最初に書かれている。
・見通しの背景となった諸前提がきちんと数字で示されている。
・いくつかの前提を変えたケースの計算結果が載っている。
・民間機関の予測との比較がある。
という特徴がある。計算方法も諸前提もすべて公開されているので、政党も含めていろいろな団体がエネルギー政策の代替案をつくることができる。実際にアメリカでは議会で議論し、政府案を大きく修正してエネルギー政策が決まっているとのことである。(市民エネルギー研究所「2010年日本エネルギー計画」ダイヤモンド社より要約)
③スウェーデンのエネルギー政策
スウェーデンの政策の策定手順は以下の通りである。
「政府が諮問機関(さまざまな調査委員会)に案件を諮問し、その答申(報告書)を受けます。調査委員会の報告書はあくまで政府の立場でつくった報告書であるという認識です。平たくいえば、調査委員会の報告書は社会の構成員である国民各層を代表する各団体からコメントを求めるためのたたき台となる共通資料です。政府は政府の政策案を策定する前に、調査委員会の答申を政府の公式な報告書として公表すると共に、この報告書と同一のコピーを利害関係の異なる関係機関・団体(具体的には行政機関、産業界、労働組合、消費者団体、環境保護団体、その他の団体)に送付して、それぞれの機関・団体の立場からの文書による意見を求めます。場合によっては、この報告書を隣接諸国に送り、相手国の意見を求めることもあります。それぞれの関係機関・団体から送られてきた調査委員会の報告書に対する意見を参考にしながら、政府は政策案を策定し、国会に提出して国会の審議に付し、国会の承認を得るという手順を踏みます。」(小沢徳太郎著「今、環境・エネルギー問題を考える」ダイヤモンド社より)
④日本のエネルギー政策と国民の関係
以上、日本、アメリカ、スウェーデンのエネルギー政策の決定システムを概観した。日本では委員と官僚以外の人間が意見を言えないシステムになっているのに対して、アメリカ・スウェーデンでは国会議員どころか一般市民までがエネルギー政策に意見を言えるようにオープンなシステムになっていることがわかる。どちらが民主的か明白だろう。
日本では原子力村というインサイダーによる談合のような審議によってエネルギー政策がつくられてきたと言ってよい。そして、自分たちに都合のいい論理だけをつまみ食いして原子力政策を進めてきた結果、福島第一原発事故を引き起こしてしまった。
このような不公正なシステムがなぜ今まで(今でも)社会的な問題にならなかったのだろうか。このシステムが不公正だと指摘する市民運動は今までにもあったが、それはマスコミにも大きく取り上げられず、国民の多くの支持を得ることはなかった。つまり、批判精神を持つ「市民」が日本では少ないということである。そして、日本の国民は消極的にとは言え、結果的にこの不公正なシステムを支持してきた(今でも支持している)ということを指摘したいと思う。
(2)学校教育の問題点―市民教育の観点から
私の問題意識は、原発問題に典型的に現れているように、なぜ日本では社会や政治に対して批判精神を持つ市民が少ないのかというところにある。次は、この問題を特に学校教育の問題としてとらえ、学校は社会の中でどんな役割を果たしてきたか考えてみたい。
まず、私が社会的な問題について生徒たちに考えてほしいと思って試行錯誤する中で、気づいたことをいくつかあげてみたい。
①「社会なんて変わるわけない」という感覚
「いくら意見を言ってもどうせ誰も聞いてくれない」
「いくら努力したって社会なんか変わるわけない」
「どうせ自分には何もできない」
「話し合いなんてやってもムダ」
「どうせ力の強いやつが勝つ」
「お上品に構えてきれいごとばかり言っている」
「バカは厳しく管理されたって仕方がない」
「イジメられたくなかったらフツーにしろ」
これらはすべて私の授業の中で生徒が書いた作文の一部である。
このような「どうせ社会なんて(人間なんて)こんなもの」という感覚を持つ人が多かったら民主主義は成り立たないだろうし、実際日本社会ではこういう感覚を持つ人が多いのではないだろうか。確かに、国際比較調査でも日本の中学生・高校生の政治的・社会的無力感は裏付けられる。
②「All or Nothing」の発想
人間というものは困難にぶつかった時、つい「どうせ努力したってできないんだから、やってもムダだよ」と考えがちだが、この発想を「All or Nothing」の発想と呼ぶことにする。こういう発想は、個人的な問題に限らず、社会問題を考える時にも多く見受けられる。例えば、「添加物なんか考えていたら食べるものがなくなっちゃうよ」とか「どうせ反対したって建つものは建つのだから、反対したってムダ」という考え方である。日本社会では強固な支配システムと教育によって、多くの人が社会を変えることを「あきらめさせられている」のではないか。そして、その「あきらめ」を正当化するのがこの考え方なのではないかと思う。
「All or Nothing」の考え方に誘惑されるのは自分が努力しないことを正当化できるからだが、どんな努力もムダということはない。例えば原発反対運動についても「原発が建ってしまったから原発反対運動の負け」ということはない。原発反対運動があったからこそ政府や原発推進側は計画通りに推進することができなかったし、安全規制も強化せざるを得なかった。つまり、どんな政治的な勝ち負けも100%というものはなく、どのくらい影響があったかという中間的なものだ。
③子供たちの体と心の変化
これはある程度データで実証できる。
例えば、運動中の傷害・疾病率のデータを調べれば、子供たちがちょっとしたことで怪我をするようになったことは明らかである。
子供たちの自尊感情・幸福度・自治活動への参加率などの調査からは、日本の子供たちのそれらの感情や活動が他国と比べて極端に低いこともわかる。
私はその背景には子供たちの遊びや生活体験の変化があるのではないかと疑っている。1970年代までの子供たちは自然の中で群れて遊び(ギャング集団という)、その遊びの中で体力や社会性を身につけてきた。日々の生活の中でも、仕事や家事の手伝いをする子どもが多かった。しかし、それ以降の日本社会は子供たちから自然や生活体験を奪い、ギャング集団を崩壊させ、その代わりにゲームなどの「引きこもり型」の遊びを与えてきたからである。
④学校の押しつけがましさ
A 勉強の「押しつけ性」
日本の学校では、先生が学習内容を説明しながら黒板に書き、生徒がそれをノートに写すという、講義型授業が主流だ。そこでは生徒は受け身の状態に置かれており、生徒が発言するのは先生に質問された時だけに限られ、自分の考えや意見を自分から発言する機会はほとんどない。生徒は自分の生き方や関心とは無関係に、さも事務的仕事が流れていくような授業を受けさせられる。自分の関心や意志を曲げて、苦行のような勉強をすることが良しとされ、なぜそれに耐えなければいけないかという意味がわからなくても、それに耐えなければ将来はないと脅されている。ふだんの授業がこのような「押しつけ」であるとほとんどの人は気づいていない。こういう授業とは逆に、生徒が自らの関心に基づいて行う勉強や活動では驚くような能力を発揮することがある。
B 学校文化の「押しつけ性」
整然とした講義型授業だけでなく、例えば、整然と整列して全く私語がない集会、決められた制服をきちんと着させる制服指導などを学校の理想状態と考える人は多い。そのほか、「いい子」というモデルを演じることの強制、本音を言うことを許さない「タテマエ」、学校で習うことと実生活の乖離など、学校独特の習慣や価値観がある。これを「学校文化」と言うことにすると、学校でのこのような日々の営みが「学校文化」の押しつけなのではないだろうか。
⑤隠れたカリキュラム
「隠れたカリキュラム」とは、学校の正規のカリキュラムではなく、意図されないで暗黙の内に教えられていくものを言う。例えば、ある学校の卒業生が身につける校風やエリート意識はその学校の「隠れたカリキュラム」の結果であると説明される。学校以外の場所でも、ジェンダー意識や人権意識などは「隠れたカリキュラム」によって育てられると言われる。また、暗黙の内に伝えられるメッセージを「隠れたメッセージ」と言う。例えば、テレビのCMは繰り返し「隠れたメッセージ」を視聴者に与え、様々なイメージを刷り込むと言われる。
この考え方を学校の授業に当てはめるとどうなるだろうか。上のAのような授業を毎日受けていると、生徒は毎日次のような隠れたメッセージを受け取ることになる。
「勉強というものはできあがった知識体系を自分が取り入れることだ」
「それは権威ある先生が与えてくれるものだ」
「知識や真実は自分が見つけるものではなく、すでにがっちりとした体系となっていて、変えることはできないものだ」
生徒は毎日授業を受けるので、このメッセージの刷り込み効果は大きいだろう。つまり、「自分は社会を変えることについては無力なんだ、権威には従うものなんだ」と生徒に教えているようなものだ。これは学校の隠れたカリキュラムの一つと言えるのではないだろうか。だとすると、学校は権威主義的なイデオロギーを生徒に与えることによって、日本の非民主主義的なシステムを支えていることになる。
(3)学校は福島第一原発事故から何を学ぶべきか
福島第一原発事故を引き起こしたのは、第一義的には原子力村の独善的なシステムであるが、そのシステムを許してきた(支えてきた)のは日本の国民である。そして、学校は自分の意見を持つ「市民」を育ててこなかった。
こう考えるなら、学校は本気で批判精神を持つ「市民」を育てることを考えるべきではないだろうか。これが、学校が福島第一原発事故から学ぶべきことだと思う。
3. 学校で何ができるか
では、現実に学校現場でどんなことができるかを考えてみたい。私も学校現場で働いているので、今の現場の教職員がどんなに多忙で余裕がないかわかっている。また、いろいろな面で締め付けも厳しいので、教科書に書いてあること以外のことを行うハードルはとても高い。そんな中で私がこれまでに気づいたことや実践してきた授業を紹介したい。
(1)欧米の理科教育より
私の専門は物理なので、外国と日本の物理の教科書を比較してみたい。
図5はイギリスの高校物理教科書「AQA Science GCSE Physics」から抜粋した問題、図6はアメリカの高校物理教科書「PSSC物理」から抜粋した問題である。日本の物理の教科書や問題集では、公式に数字を当てはめて計算させる問題が主流だが、欧米の物理の教科書には、ここにあげた例のように、考えて説明させる問題が半分程度載っている。問題だけではなく、教科書の本文を読んでも、欧米の物理教科書は実例も豊富で論理的にわかりやすい説明となっているように思う。
つまり、欧米と日本では物理教育の目的が違うのではないかと思う。傾向としては、日本では主として計算力を育てることに重点が置かれ、欧米では論理的思考力を育てることに重点が置かれている。
私は物理の教科書についてしか調べていないが、他の科目・教科でも同じような傾向があるのではないだろうか。
(2)地球市民教育の考え方―民主主義のスキルを育てる方法
南北問題、環境、平和、人権などの地球的課題をテーマとする開発教育とか地球市民教育という分野がある。そこでは将来の民主主義社会を担う市民を育てなければ地球的課題は解決できないという発想から、参加体験型の教材がたくさん考案されている。私は1990年代にその教育手法に出会い、大きな影響を受けた。
その頃、ある人に「日本では平和・人権・環境の教育運動をするグループは別々だが、外国ではそんな区別はないんですよ」と言われ、オーストラリアの環境教育プログラムを紹介してもらったことがある。それを読んでみると、自尊感情を高めたり他人との信頼感を高めたりするワークショップから始まり、環境・平和・人権・民主主義などについて体験的に学び、最後は地域の課題を地域の人と一緒に解決するという、まさに総合的な地球市民教育プログラムだった。
地球市民教育の参加体験型教育手法が市民教育にとって有効だと思われる特徴は次のようなところだと思う。
A、自分の意見が認められることを通して、自分は価値がある人間だと思う(自尊感情を高める)。
B、自分を表現し、他人を受け入れることを通して、まわりの人を信頼することを学ぶ。
C、グループワークを通して、主張すること、および協力と妥協を学ぶ。
D、以上を通して、自分には状況を変える力があることを学ぶ。
これらは人間や社会に対する希望を育てるので、民主主義のスキルの基礎となる部分だと思う。
(3)私が実践してきた授業
私は1995年から環境問題をテーマとする授業を担当することになった。その頃の私の問題意識は、すでに環境問題を通り越して平和・人権・民主主義・正義などを含めた総合的な市民教育をしたいというところにあった。私は、ここまでに書いた日本の学校教育の問題点を意識し、地球市民教育の手法を用いながら、生徒が体験しながら本質的な問いに出会い、考え、自分を表現し、討論するような参加体験型授業を工夫するようになった。これが現任校での「環境科学基礎」と「地球市民入門」という授業に発展している。
それから、1998年に立ち上がった「新しい環境学習をつくるネットワーク」という小さな研究会で、地球市民教育の手法を用いた環境学習の教材開発にも取り組んだ。環境学習とか環境教育というと、自然体験をすることによって自然環境の大切さに気づくとか、日常生活での浪費を問い直して環境に優しい行動をするなどをイメージする人が多いが、私が目指してきた環境学習は社会変革の主体となる市民を育てることを目標としたものだった。これを「環境市民教育」と呼んでもいいと思う。(私たちが開発した環境学習の教材は「新しい環境学習をつくるネットワーク」のホームページからダウンロードできる。)
例えば、私の環境の授業の最初の時間はいつも紅茶を入れる。生徒はおいしい紅茶を飲みながら、私が配った「紅茶哀話」という文章を読む。松井やよりさんという人の文章で、スリランカの紅茶農園の奴隷労働のような過酷な労働実態が書かれている。生徒は、今自分が飲んでいる紅茶がどのようにしてつくられたのかを知り、自分が飲んだという体験と感じた味とともに深く考えることになる。それだけでは絶望で終わってしまうので、市民主体の直接取引によって労働者に公正な賃金を支払うフェアトレードという貿易の話をして、「実は今飲んだ紅茶はフェアトレードの紅茶だよ」と話して安心させ、フェアトレードのチョコレートを配り、世の中には希望があるという結末で終わりにする。環境問題の最初に授業に南北問題を持ってくるのは、地球環境問題の原因は先進国の浪費にあるということと、私たちと世界はつながっているということをはっきりさせるためである。
当然、環境問題の基礎知識を得るために講義型授業も行うが、それは半分にとどめている。半分は参加体験型のワークショップや実験である。
紙数の関係で詳しく解説できないが、授業ではほかにもいろいろなワークショップを行う。いくつかの例を写真で紹介したい。
これらの授業のあと生徒に「どうだった?」と聞くと、たいてい「楽しかった」という答えが返ってくる。自分が積極的に授業に参加して、知的興奮を味わうのだと思う。
昨年1年間この授業を受けた生徒の感想文である。
・授業を4月に受ける前よりも、思っていた以上に興味深い話を知れて、面白かったです。他の授業で役に立ったはなしもあって、受けて良かったと思いました。これからも授業で教えてもらったことを忘れずに生活していきます。
・とてもためになる授業でした。これからの生活に役に立てて、将来は自然保護の仕事をしたいです。
・自分の知らなかったことがたくさん学べて楽しかったです。現実を見させられて怖かったけど、必要なことだと思うのでとても良い機会になりました。ありがとうございました。
(4)これからの放射線教育・エネルギー環境教育について
以上、市民教育の観点から見た学校教育の問題点を指摘し、私が行ってきた授業実践を紹介した。最後に、イギリスの例を挙げた上で、これからの放射線教育・エネルギー環境教育に必要な視点について私の考えを述べたい。
①英国の「21世紀科学」
まず、香川大学教育学部の笠潤平氏の「中学校理科での『原子力』の扱い方についての考察―英国の「21世紀科学」第1版などを参考に-」(「大学の物理教育」第18巻第1号)より、イギリスの科学リテラシー教育について引用したい。
「イギリスの義務教育最終段階の2年間の科学のナショナル・カリキュラムは2006年に大改革が行われ、その必修「科学」の部分は、将来の市民の「科学的リテラシー」の促進を目標とするものとされた。…この改革の精神をもっともよく反映しているのが、ヨーク大学とナフィールドカリキュラムセンターによって作られた『21世紀科学』シリーズの(必修)「科学」コースである。」
「同コースは、市民にとって必要な科学の理解の要素として、1)科学の内容(事実・概念・法則の知識)、2)科学が応用されている例、3)科学的知識の性格、科学の方法や科学の進み方の特徴、科学と社会の関わりといった科学論、4)科学・技術と社会が関わる問題の考え方・議論の仕方の4つを教えようとしている。」
「ここでは、技術的に実現可能なことと実現すべきこととの違い、科学・技術が関わる問題についての決定や科学に対する社会的規制に関わる諸観点(リスク管理とリスク・コミュニケーション、リスク・ベネフィット論、ALARA(放射線防護最適化)原則、予防原則などの考え方)を教えることなどが目指されている。」
そして、「21世紀科学」の内容を見ると、論争となっている点について必ず両論が解説され、それについて考えさせる問いが並んでいる。例えば、高レベル廃棄物についての6人の意見がマンガ風に並べられ、それについて「上の人々によって示されている見解のうち1つを選んで、その考えを変えさせるための手紙を書きなさい。」「永久貯蔵の安全な方法が見つかるまでは、廃棄物は地上に保管されるべきだと言う人々もいる。これは予防原則の例である。どうしてそうなのか説明しなさい。」と問うている。また、「放射性廃棄物に関する動画教材ではセラフィールドの核燃料再処理工場の技術者や政府の広報担当者と並んでグリーンピースの活動家へのインタビューも含まれている」という。
このような教材と日本の文科省が作成した放射線副読本を比較してみれば、いかに後者が一方的な知識の押しつけになっているかよくわかる。
②これからの放射線教育・エネルギー環境教育に必要な視点
これまでの日本の教育は、生徒に「正しい知識」を教えれば、生徒は「正しい判断」をし、「正しい行動」をするという考えに基づいていた。「正しい知識」が欠如しているという意味で、これを「欠如モデル」という。文科省の副読本などは典型的な「欠如モデル」でつくられている。
しかし、人間は「正しい知識」を得れば「正しい判断」をし、「正しい行動」をするわけではない。そして、「正しい知識」とは、誰がそう判断するのだろうか。また、科学や技術は中立というわけではなく、科学者が特定の利害を代表している場合もある。したがって、生徒に科学的に正しい知識を与えればいいということにはならない。
それから、日本の理科教育では論理的思考力・表現力を育てることが重視されてこず、知識や計算力が重視されてきた。また、最初に指摘したように、日本ではメディアリテラシーに関する問題意識が低い。
したがって、次のような視点が必要だと思う。
・ふだんの授業の中で、論理的思考力や論理的表現力を育てる必要がある。できたら参加体験型の手法などを用いて、自分のこととして引き受けるような工夫が必要である。
・少なくとも科学的な知識を与えることで終わりにするべきではない。科学技術には必ず社会的な意味があり、それも良い面と悪い面がある。対立している意見の両論まで踏み込むことによって考える力や批判力が育つのではないだろうか。
・「批判精神を持つ市民」を育てなければならない。メディアリテラシーはその基礎となる。
これらは放射線教育・エネルギー環境教育だけに必要な視点ではなく、日本の学校教育全般に言えることではないだろうか。■