放射線教育をめぐる諸問題

投稿者: | 2013年3月4日

<特集:放射線教育は誰のためのものか>
放射線教育をめぐる諸問題~私たちはどこでまちがえているのか~
林 衛 (市民研監事、富山大学人間発達科学部)
pdfはこちらから→csijnewsletter_016_hayashi_201303.pdf
原発震災は、事前にその危険性が知られていたにもかかわらず、被害を未然に防ぐことができなかった。原発震災発生後も、低線量被曝健康影響や賠償をめぐり、被害者の安全を求める権利が脅かされている。この問題は、民主主義社会の主権者(有権者)を育む市民教育の不十分さをも浮き彫りにしている。
公教育の目的はなにか—-問い
今回の市民科学講座に先立ち、2012年11月3日、富山県教職員組合教育研究集会にて、放射線教育について話題提供をする機会があった(第10分科会「国際教育、環境・平和を守る教育」)。その際のアンケートで、以下の問いに回答してもらった。
【問い】「政府のまちがいを正し、よりよい社会をつくっていく責任をはたそうとする有権者を育てるのが民主社会における公教育の役割である」という考えは、教育現場で重要視されているでしょうか。
自由記述であったため、重要視されて「いる」のか「いないのか」意見の判定がむずかしい回答も含まれていたが、半数以上が「重視されていない」との回答であった。「自分は重要視しているが、学校のまわりの教員は重要視できていない」あるいは「政府がまちがっているときめつけるのはおかしい」「職員室では語りにくいが、教室では生徒に話すようにしている」といった趣旨の回答もみられた。
教職員組合の教育研究集会に出席する教員は市民教育への意識が高い人が多いと予想されるだけに、「重視されていない」との記述が多数であるのは「意外な結果」であった。小規模な調査ではあるが、文部科学省を頂点とするトップダウンの教育行政によって教育現場の自由な雰囲気が薄れている傾向が示唆された。
1990年代後半以降、「理科離れ」や「学力低下」が社会問題となった。中学・高校で理科が選択科目化し、普通科高校を卒業しても物理、化学、生物、地学の4領域のうち2領域しか学べないカリキュラム、学ばない生徒があたりまえになった。この事実は、市民教育の機会の喪失の問題としてではなく、主に科学技術創造立国のための人材養成の危機として語られ続けた。
学力低下批判を受け改訂された、最新の文部科学省学習指導要領では理数力の強化が重要課題に掲げられた。例えば、2012年度の高校1年生から、理科4領域のうち2領域ではなく3領域を学べるカリキュラムが普通科高校では実施されるようになっている。しかし、公教育の目的は、科学技術創造立国のための人材養成(だけ)にあるのではない。
公教育は市民社会のためにある—-答え
市民社会とは、市民一人一人が主権者となった民主主義社会のことだ。主権者とは、政治的責任の最終的な担い手である。革命や独立戦争によって、絶対王権の手にあった主権を、市民が自らの手に奪い取り、基本的人権を形にしたのが市民革命だとされる。その事実をふまえ、市民社会の担い手を育むのが市民教育である。 
GHQによる占領政策によって、教育の「民主化」が実施され、日本に社会科が誕生してから60年がすぎた。だが、長期にわたる保守政権のもと、市民教育に最も近いはずの社会科(とくに公民科)教育は、教科書や授業の内容においても、教員養成のための教科教育法の研究においても、市民教育と結びついてきたとはいいがたい。冒頭でとりあげたアンケート回答にも、その結果が現われているとみてよいだろう。
原発震災によって避難を強制された人だけで20万人を越える。じつに多くの人びとが生活や人生そのものを破壊されたが、その償いはいまだにごく一部しかなされていない。強制避難によるコミュニティへの打撃は、地域の専門商店・自営業者、農業、漁業者にとって、将来世代につないでいけるはずであった生業の破壊をもたらした。将来世代に継承可能な生業の価値は、短期的な金銭的賠償によって償えるものでは決してないのだ。原発震災から2年が経ったいまも、第一義的な加害者である東京電力は、被害者の被った被害の一部にすぎない短期的な損害の償いさえはたせていないのだ。
国策がもたらした、そのような加害企業の振る舞いが許されてしまっているのはなぜか。後述する政府・国策推進者による放射線「安全」キャンペーンが大きいことに加え、市民教育の弱さに原因があるのではないか。戦後の中等教育の普及、高校、大学進学率の急速な高まりのなかで、「受験競争」(とそれによる人間の選別)が若者世代、親世代を幅広く覆う社会問題としてとりあげるようになった。競争どころか「受験地獄」とさえ呼ばれるようになった。文部省(その後、文部科学省)は、受験対策と結びついた「知識偏重」「詰め込み教育」への反省をこめ、学習指導要領を改め、新しい学力観・生きる力を強調するようになった。しかし、公正な社会を築き上げる意識が教育行政にも教員一人一人にも弱いままでは、「競争」や「評価」が重視されたとたん、高校受験、大学受験に勝ち抜くことを目的とした教育ゲームが最大の関心事となってしまう状況は変わらず、むしろ拡大しているともいえる。2000年代になって、大学・短大進学率が5割を越え、ほとんどの普通科高校が「進学校」となった。偏差値の高い大学進学者を一人でも多く出した高校が優れていると「評価」される傾向は強まり、難関大学入試に少しでも有利にみえる高校受験成功が相も変わらぬ義務教育のゴールなのだ。
競争心で学習意欲を維持し続けられるのは、教育ゲームの勝者に限られるため、「理科離れ」や「学力低下」問題解決の道筋はまだ十分にはみいだせていない。相手を倒すためではなく、力をあわせて市民社会をより豊かにしていくための公教育の脱構築こそが待たれているのではないか。
国策プロパガンダに堕した放射線教育—-現実
最新の学習指導要領には、放射線教育が採り入れられた。そのねらいは、東日本大震災・原発震災の直後、2011年4月に国会で問題とされ廃止になった文部科学省による原子力・放射線教育副読本から読み取れる。日本は原子力に国運をかけているといってよいほどの状況にあるにもかかわらず、原子力発電所の新規立地や放射性廃棄物地層処分の候補地選定が困難であるのは、「原子力発電や放射線は科学的には安全であるのに危険なものだと国民が誤解している」からであり、そのような国民の意識を改めるために放射線教育が導入されたのだ。
放射線「安全」教育の担い手として、「らでぃ」放射線安全教育推進委員会、NPO法人放射線安全フォーラムが最近うまれ、科学実験教育グループなどを巻き込んで活動を広げている。その主張、教育内容は、古参の財団法人日本原子力文化振興財団、公益財団法人原子力安全研究協会(原安協)を引き継いだものである(1970年代から変わらない内容が少なくない)。そのほか保健物理、核医学関係者、生活啓蒙組織が、東日本大震災・原発震災後に活動を強めた。
彼らの主張の中核は、身の回りには自然放射線があふれている、放射線は医療や工業生産で有効利用されている、原発からの放射線も「量の問題」(事実上の閾値あり説)だとするものであり、「放射線を正しく恐れる」(正しい知識がないので恐れている、という含意がある)がしばしば登場する。最近のICRP勧告にみられる本人にとって利益のない被曝は正当化されないという考え方、閾値なしの考え方に基づいた義務論的倫理観が軽視されている。
自然放射線の存在や放射線の利用といった放射線の事実について、一見すると「客観・中立」にみえるものの、低線量被曝健康影響についての詳細な情報や、政府の政策を相対化する視点が欠けている。そのため、「放射線を正しく恐れる」とする一連の主張・解説は、国策のプロパガンダに直結することになる。
市民教育のために、政府の政策を相対化する視点を獲得するには、例えば、つぎのような情報が役に立つ。
理科離れが社会問題化していた1990年代の後半すでに、日本は原子力に国運をかけているという表現がふさわしい状況に陥っていた。そのころ以降、兵庫県南部地震(1995年1月17日)によって原子炉耐震指針で定められた原発設計基準をはるかに上回る地震動の観測(すでに存在は知られていたが日本での都市直下地震によって実測された)、高速増殖炉もんじゅナトリウム漏洩火災事故(1995年12月8日)、 東海村動燃アスファルト固化処理施設における火災爆発(1997年3月11日)、JCO臨界事故による労働者・住民の被曝(1999年9月30日)、中越沖地震(2007年7月16日)による柏崎刈羽原発被災が繰り返された。市民社会の問題として国策をみつめなおす機会はいくどもあったのだ。ところが、国策をみつめなおす力が弱いまま、2011年3月11日から始まる東日本大震災・原発震災を招いてしまったのだ。
1997年の時点で、政府のエネルギー研究開発予算総額3755億円に達していたが、その約9割、3386億円が原子力エネルギー(原子力発電、核燃料サイクル、核融合など)に投じられ、在来型原子力開発への政府投資世界第1位が日本(フランスの4.7倍、アメリカの20倍、ドイツ、イタリアの57倍)。核燃料サイクル(高速増殖炉開発)への政府投資は、日本が2億7000万ドル(約300億円当時)で、フランスの25倍に達していた(そのほかの国はすでに撤退)。まさに、原子力に国運をかけているという表現がふさわしい。
しかし、いくら国家予算を投じようと、原子力発電は、高コストでかつ未成熟な技術段階にある。研究開発とともに新たな技術的課題がみつかり、課題解決のためにますます発電単価が上昇していくネガティブな「技術学習曲線」を描いてしまう状況からの脱却ができていない。政府・東電が巨大津波に関する最新の知見を「想定外」だとして原発震災を招いてしまった判断も、賠償責任を引き受けるのに消極的な姿勢をみせているのも、未成熟な技術を無理やり実用してきた結果だといえる。
民主主義の「悪用」からの脱却—-問題の本質
原発立地や安全性をめぐる議論では、国策推進側は、リスクを正面からとりあげず、「(絶対)安全」と「補助金・交付金」によって、過疎地域に多数派形成を図る「裏リスクコミュニケーション」に徹してきた(リスクコミュニケーションのための市民の四つの権利—-安全を求める権利、選択する権利、知る権利、意見を聞いてもらう権利—-からみたら、「裏リスクコミュニケーション」は民主主義の巧みな「悪用」だといえる)。
それに対し、従来までの理科教育関係者の多数は、自然のすばらしさや自然科学を学ぶという目的を前面に押し出すことで、科学技術の政治的側面を棚上げし、価値観から離れた「客観・中立」の教育をする立場にいたとみてよいだろう。強力に推進される国策と少数の反対者との圧倒的格差のなかで「客観・中立」を装う態度を鳥瞰したときにみつかる政治性も問題であるが、放射線「安全」教育の推進への参加・協力は、従来までの理科教育の「客観・中立」論からみても、国策側に大きくふみ込んだ行為だといえる。自らの立ち位置を自覚させるのも、市民社会の一員であるという意識なのである。
東電経営陣も政治家もだれも原発震災の責任を明確に引き受け、辞任や謝罪をしてはいない。それはなぜだろうか。民主主義社会(市民社会)だからだという考えによって説明できる。東電経営陣は国策を遂行してきた結果であり、安全対策の不十分さを一定程度認めた上で、政府の指示のもと、事故対応、賠償に応じている。選挙で選ばれた政治家は、主権者に選ばれたことに正当性をみいだしている。つまり、原発震災の最終責任は主権者にあるのだから、自らにはそれ以上の責任はない。国策推進者の政治的責任、法的責任が不問にされる。これも、民主主義の「悪用」である。
市民研通信でも原発震災発生以降、いくどかにわたって報告してきた、公教育やメディアの問題点は、民主主義の「悪用」問題に結びつく。以上、大雑把に俯瞰してきた問題のあまりの大きさは、民主主義の「悪用」が民主主義ゆえ困難であるからかもしれない。大正デモクラシー、男子普通選挙によって期待が高まった政党政治が昭和初期に「挫折」をみせ、軍部・官僚組織への期待が高まり、満州事変以降、アジア・太平洋戦争の泥沼にずぶずぶと入り込み、抜け出せなくなったのと同様の民主主義の形骸化がみてとれる。1945年に敗戦を迎えたものの戦争責任すらいまだにあいまいなままだ。「日本を取り戻す」をスローガンに保守政治家のなかでも最も戦争責任をあいまいにさせようとする党首のもと、2012年末の総選挙では原発推進をしてきた自民党が政権に返り咲いた。 
民主主義の「悪用」からの脱却の道は容易ではないかもしれないが、脱却をめざす目的は明らかであり、人類が蓄積してきた道具や歴史的材料も豊かであるのはまちがいない。俯瞰に留まった本問題について、詳細な分析・報告を重ねたい。
<参考資料>
スライドが共通するもの:
林 衛(2012):市民社会における理科教育・科学コミュニケーションの目的、原発震災の経験をふまえて、理科教育学会北陸支部大会(新潟大学)
http://hdl.handle.net/10110/10650
林 衛・難波美帆・上田昌文・島薗 進・鬼頭秀一(2012):WS原発リスクコミュニケーション失敗続きの原因、科学技術社会論学会(葉山)
http://hdl.handle.net/10110/10647
林 衛:放射線被曝情報の誤解と混乱は、なぜ生じたか?、日本科学技術ジャーナリスト会議、4つの「原発事故調」を比較・検証する–福島原発事故13のなぜ?、水曜社(2012):原稿が上記STS学会WS配付資料にあります。
市民研通信関連報告:
林 衛:低線量被曝問題はなぜ混乱が続くのか―復興をさまたげる政府の放射線安全論、市民研通信、2012年3月号電子版
http://archives.shiminkagaku.org/archives/2012/03/post-286.html
林 衛:放射線教育・リテラシーはこれでよいのか―共有すべき原点に立ち返ろう、市民研通信、2011年10号電子版
http://archives.shiminkagaku.org/archives/csijnewsletter_010_hayashi.pdf
林 衛:「御用ジャーナリズム」イメージはどこからきたのか(その1、2)、市民研通信、2011年8号、9号電子版
http://archives.shiminkagaku.org/archives/2011/09/2-6.html
メディアの限界を論じた最新発表資料として:
深井香純・林 衛(2012):「iPS 細胞臨床応用」誤報事件の読み方—-理科教育への示唆、理科教育学会北陸支部大会(新潟大学)
http://hdl.handle.net/10110/10651
関連する報告:
林 衛:東日本大震災・原発震災で明らかになった科学リテラシーの弱点–まずは「科学者の科学離れ」克服から、富山大学人間発達科学部紀要(2013)印 刷中(出版後に、富山大学学術情報リポジトリ
http://utomir.lib.u-toyama.ac.jp でPDF公開)
上田昌文:開かれた理科教育に向けて、物理教育通信、No.106(2001)
http://archives.shiminkagaku.org/archives/2001/09/post-197.html

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