市民が作る『改訂版・科学技術基本法』
プロジェクトチームは「科学技術基本法・基本計画」をどう読んだか (その1)
10月に行う議論に先立って、以下の方々に原稿を寄せていただきました。田中浩朗さん、上村光弘さん、江川守利さん、藤田康元さん、平川秀幸さん(以上、今号)、そして上田(次号)です。また合宿では数時間を費やしてこの問題を論じました。読者の皆さんには、ここに掲げた意見を参考にしながら、是非「市民にとっての科学技術はどうあるべきなのか、科学技術政策は誰がどう決めてゆくのが望ましいのか」といったことについて、考えを深めていただきたいと思います。是非ご意見、ご感想をお寄せください。
★田中浩朗
●策定の背景
科学技術基本法と科学技術基本計画は,戦後日本の国家による一元的科学技術推進体制づくりの流れの中の予期された一段階である。(その歴史はアジア太平洋戦争中における日本国家の科学技術動員体制へとさかのぼることができる。)
詳しい歴史はここでは省略するが,戦前戦後を通じて日本国家の科学技術体制はその時代その時代の国家目標に向かって国内の科学技術研究開発資源(人・物・金・情報)を効率よく動員するために作られてきた。戦中における国家目標はもちろん軍事力強化であり,戦後は経済発展である。
科学技術に対する見方は一貫しており,科学技術はなによりもまず軍事的あるいは経済的な国家の発展の源泉と考えられている。したがって,軍事的あるいは経済的な危機状況が意識されるようになると科学技術の振興が国家の重要課題として意識されるようになる。その振興の方策はほとんどワンパターンであり,研究費の増大と研究資源(人・物・金・情報)の効率的運用である。
具体的には,国内の様々な場所で行なわれている科学技術の研究を統括する機関を設け,国家レベルの目標や計画を作りそれに沿って効率的に資源の運用を図ることになる。1950年代後半に体制づくりは進み,科学技術庁(文部省所轄の大学関係以外を統括する行政機関)や科学技術会議(国家全体の科学技術政策を作成する首相の諮問機関。議長は首相)も作られた。科学技術会議の1960年代の課題は,科学技術振興を国策として規定する科学技術基本法と,科学技術振興とくに巨額の研究投資を確実にするための科学技術基本計画を制定することであった。しかしこれは関係者の合意が得られず,制度的に新たな段階に進むことなく30年近くが過ぎた。
科学技術振興のための一元的体制づくりが順調に進まなかった背景には,国家が強いリーダーシップを発揮することに対する国民の警戒感があったと思われる。最近はそのような警戒感は薄れ,むしろ国家のリーダーシップに期待する風潮もあるように思われる。そのようなことが,30年近く止まっていた歴史の歯車が再び回転し始めた背景にあるのではないか。
また,科学技術という行政分野は明治時代にでき上がった日本の官僚制の中では新参者であり,官界の強固なセクショナリズムのなかで勢力を拡張することは至難の業であった。科学技術庁ができる際にも,国中の科学技術すべてを管轄するような科学技術省案というものもあった。しかし,既存官庁の強固な反対のためにずっと実現できていない。しかし,橋本内閣が進める最近の行政改革ではついに日本の官庁システムが大きく変わりそうである。首相や内閣の権限の強化と関連省庁の統合(科学技術庁と文部省の統合も含まれる),これは一元的科学技術推進体制づくりの新たな段階を実現する背景となりうる。
●基本法・基本計画に対するコメント
まず読んでみた印象であるが,今後の科学技術のあり方に関する明確で具体的な理念や見通しが読みとれない。「新たな視点に立って」というが,本質的な新しさは何もない。基本的には経済発展の原動力としての科学技術,投資としての科学技術振興という旧来の発想を超えていない。
政府研究開発投資を1996年度から5年間で総額17兆円と定めているが,その根拠は薄弱である。中身を決めずに総額を先に設定してともかく消化するという今までの公共事業投資と同じやり方だ。効率的にやるといっても,研究の評価というものは本質的に難しく,またそれを理由に税金の無駄使いが大規模に行なわれる危険性がある。
産学官の共同が進められるということだが,これは近年いろいろ問題になっている産学官の癒着の構造に発展しかねない。結局私企業の利益のために公の資源(人・物・金)が使われることになる。
具体的な目標も定める前から投資額を決めていることからもわかるように,科学技術の進歩をほとんど無条件に善いことと考えている。確かに今日では,科学技術の関わる様々な社会問題を無視することはできなくなっており,「人間の生活,社会及び自然との調和を図りつつ」(基本法2条)とか「自然科学と人文科学のとの相互のかかわり合いが科学技術の進歩にとって重要であることにかんがみ,両者の調和のとれた発展について留意」(同上)などと条件はついている。しかし,それを実現する具体的な方策は考えられていない。
基本法の最後(19条)で,科学技術に関する学習の振興や啓発・知識普及により国民の科学技術に対する理解や関心を深めることを定めているが,これも旧来からの発想と変わらず,科学技術の進歩を受け入れさせる対象として国民が考えられている。科学技術と人間の生活・社会・自然との調和を図るうえでの市民の役割などは想定されていない。
しかし,1968年に国会に提出されたものの廃案になった旧「科学技術基本法」案と比べれば,「人間の生活,社会及び自然との調和」といった理念が入っていることは一定の評価をすべきであろう。同様の条件は,1992年に閣議決定された科学技術政策大綱の重点施策の筆頭項目でもある(「科学技術と人間・社会との調和の確保」)。ただ,5年も前にそうした方針が決められているにも関わらずその前とほとんど何も変わっていないところからすると,単なるお題目でしかないと言わざるを得ないが。
さて,市民が作る『改訂版・科学技術基本法』では,次のような点に留意したらどうかと考えている。
1.科学技術政策策定における市民の役割を明確にする。
2.そのための情報提供の義務を国に課す。
3.公的資金による研究投資の評価には非専門家の市民を加える。
4.科学技術の研究者を国や民間企業の研究者に限定せず,一般市民による研究活動も促進
する。
5.国民が科学技術について何か知りたいと思ったときその要求に適切に応えられる生涯学習システムを保障する。
最後に,科学技術基本法のようなものが果たして必要なのかどうかについて問題提起したい。この基本法は科学技術振興を国家の最重要課題(つまり国策)の一つとしてアピールするための道具である。これをいくら改訂したところで,その役割はかわらないであろう。科学技術は市民によってコントロールされ,また市民自身が科学技術活動の主体になるべきであるという理念は,国家が推進するあらゆる活動が市民によってコントロールされ,また市民自身がその主体になるべきできあるという理念の一部であり,もしそれを何らかの理念法に盛り込むとするなら,市民参画基本法のようなもの,あるいは日本国憲法自体に盛り込むべきではないか。
(1997.7.25)
★上村光弘
●進むべきとされている方向は正しいか?
基本計画には、経済のグローバル化が進展してきているということ、日本の国際的地位が国際貢献を大きく期待されるべき位置にまで向上してきたという現状認識がある。また人口の高齢化に伴い、産業の空洞化、社会的活力の低下、生活水準の低下が懸念されている。さらに、地球環境問題等々の諸問題がある。国民の価値観としては、潤いのある精神的豊かさを享受できる社会を望んでいる。これらの諸問題に対処するためには、科学技術が大きな役割を果たす必要があるという認識である。「科学技術」は次代を担う若者たちが夢と希望と高い志を持つことを可能にし、また人類の未来への展望を開くものと言えるそうだ。
暴論といわれることを承知で、基本法の言っていることを単純化、平易化してしまえば、「科学技術」が新しい経済効果を生む、キーテクノロジーを握ることで国際社会で重要で位置を占める必要がある、地球レベルの諸問題の解決には「科学技術」が不可欠である、科学技術への関心を生きがいに・・・とまあこういうことだろう。
全体を通してみれば、この基本計画でいう「科学技術」は狭い意味での自然科学とその応用を指していることは明らかである。果たして「科学技術」は上記の諸問題に対処するためにどれほどの役割を果たすべきなのだろうか。
基本計画という性格上、大言壮語をするのは愛敬とすませてしまうことができなくもない。けれども「科学技術が大きな役割をはたしていくことへの期待はますます高まっている」などと言うのなら、上記の諸問題への社会的アプローチ等々との関連の中で、どういう役割を果たすべきか、あるいは果たすべきではないのかということに少しは触れてもよかったのではないか。
また、現在の科学技術は国民生活と深いかかわりを持つ。また高度化、複雑化しているため、意義や役割、成果、波及効果、進展等について分かりにくい。国民に科学技術に関心を持ってもらうための施策が必要であると言う。ここで気になるのは、やはり「科学技術」の社会的影響に対して神経がいっていないことだ(波及効果というと良いイメージだが、影響と言うと正負両方を含む)。脳死問題やクローン技術、原子力などいくらでも例は存在するのに、なぜかまったく触れていない。深読みすれば「科学技術」の良い面には関心を持ってもらいたいが、マイナス面には持って欲しくないように思えてしまう。まあ「科学技術」を振興の旗振りをしようという基本計画だったら、負の面に関する記述はのせないものかもしれない。
●現状認識は正しいか?
日本の科学技術の現状は厳しい状況だそうだ。近年は連続して研究開発投資は減少しているし、諸外国(欧米主要国)との比較でも政府負担研究費のGDP割合は少ない。さらに、これまで日本を支えてきた制度も今度は逆に制約として現れてきている。設備も古くてボロだ。インターネット等の研究基盤も遅れている。研究者の数は少ない。若者は科学技術離れの傾向にある。なんとかしなくっちゃというわけだ。
本当に現状はこのこのとおりお粗末な状況なのだろうか? 研究費の国際比較を検討してみよう。94年度で日本:13.6兆円、米:17.3兆円、独:4.9兆円、仏:3.2兆円、英:2.3兆円。絶対額では、米国に次いで世界第2位だ。ところが、基本計画で問題にしているのはGDP比なので、これらの国々の中では最下位であるということになる。また、OECD購買力平価で換算し、研究者1人あたりに直すとやはり絶対額でも最下位になってしまう。
私は統計を見るときに必ず疑ってかかるということにしているので、本当に妥当な数字で比較しているのか考えてみたいと思っている。例えば防衛費と科学技術研究費の関係は国によって違うのではないか(基本計画でもちらっと触れている)、GDP比で比較するのが本当に妥当なのか、文化的社会的違いを無視して1人あたりの研究費を比較できるのか、購買力平価は食料費なども含めて出された数字のはずだが、研究費を比較する上で、単純に使用してよいものかどうかなどなど。
その他の項目についても同様に要検討である。
●前提を認めたとして、個別の具体的な措置は有効なのか?
例えば、「任期任用制」を取り上げてみよう。これは国立研究機関などで一定の期間をあらかじめ決めておいて、その期間内だけ身分を保証して研究に従事してもらうという制度であろう(詳しいことはよくわからない。誰か教えて)。経済の潮流が大きな政府から小さな政府へ競争型社会へといっていることから、時流に乗った施策なのだろう。これは個人の能力に依存する方向への転換である。
気になるのは、他の社会システムとの整合性である。社会全体がそういう方向へいかないうちに、一部分だけが積極的に推進することがはたして可能なのだろうかということだ。また、その中で生き残れない人はどうするのかなどと余計な心配をしてしまう。 その他の具体的な競争的施策についても同様の懸念を持っている。ただし、基本的には競争原理を入れることは必要であろう。
★江川守利
法律を読むとき、その条文解釈も重要だが、その法律の制定過程・成立の時代背景を見るのも重要であると思う。この「科学技術基本法」は、平成7年の第134臨時国会において議員提出法案として審議され成立している。この法律が審議されたのは、今回が初めてではなく、昭和43年の第58国会において内閣提出法案として審議されたが、調整がつかず廃案と案っている。ご存知のように議員提出法案とは、国会議員が自ら国会に法案を提出するものであるが、内閣提出法案とは、内閣(所轄官庁が作る)が国会に法案を提出するもので、日本では、この内閣提出法案が国会で成立する法案の約8~9割を占めている。法律のほとんどは官僚がつくったものといえる。
では、平成7年に成立した「科学技術基本法」は、議員提出法案であるから、官僚がつくったものではないのかというと、この法案に先頭にたって動いた自民党・国会議員の尾身孝次氏は、通産省出身で、一時は科学技術庁にも身をおき、この法案の国会提出前に政府提案も検討している。私は、政府提案、内閣提案が良くないといっていつのではないが、この法案にどれだけ市民の声が反映しているのか疑問に感じざるを得ないので、批判的に言ってみた。もちろん、この法案の成立には、尾身氏ならではの活発な動きがあったことは事実であると思う(尾身孝次著『科学技術立国論』読売新聞社1996)。
この法案の成立過程では、各界(関係官庁、学界、研究機関、経済界など)から意見を聞いているようであるが、国会審議(衆議院・参議院とも科学技術委員会で各1日)では、科学技術庁の政府委員と国会議員のみである(第34回衆参国会科学技術委員会議録)。そこに、一般市民の声がどのくらい反映されているであろうか。
では、どうすれば、法案、国会に、一般市民の声が反映されるのであろうか。
たとえば、市民が、法案を作るノウハウをもったシンクタンクが市民の声をひろいあげ国会議員と法案の作成にあたり、国会に提出するような行動がとられなければならないと思うのである。このシンクタンクは、市民と国会議員を結びつけるものでなければならない。これは、市民の側から声がなければ動かないことである。法案、国会に、一般市民の声が反映されないのは、市民の責任である。
★藤田健元
まず、科学技術基本法の前提となっている科学技術創造立国論そのものが私には受け入れられない。それは明らかに、科学技術の振興→経済発展→国力の増強という図式にのっとっている。そもそも日本は経済的発展を今後も続ける必要が果たしてあるのか?国家という主体を立ち上げる意義がかりにあるとしても、それは他国への脅威となるようなパワーを持つことにあるのか?といった疑問が隠せない。そのような国家観を自明視するのであれば、科学技術予算を増加し、官産学共同による「効率的な」研究開発の環境作りをすることは、当然なのかもしれない。しかし、そのような国家観を大幅に変えてゆかねばならないという私の立場からすれば、ことさらに科学技術の振興をいう積極的理由はない。むしろ、肥大した科学技術活動をいかに縮小していくかこそが必要だと考える。それは、官産学の科学技術活動を市民がチェックしコントロールすべきという以上のことである。
一方、自然や社会について今までに蓄積されてきた学問的知識や手法などで、もっと広く普及すべきことも多いと考える。専門家に完全に依存したり、逆に素人としての感性だけに頼るという極端はよくない。例えば、健康と生活を重視する観点からの環境調査などはすでに市民が担う科学技術活動としてあるが、建造物の安全性、快適性など、もっと市民が主体的な調査研究活動を展開すべき分野はいろいろあるのではないか。そのような活動は財政的基盤が問題であるが、その点では、基本計画を逆手にとればよい。基本計画は、各セクター間、地域間及び国際間の連携・交流システムの構築を謳っている。規制緩和の一般的流れもある。これを私なりに都合よくとれば、市民運動家でも重要な科学技術の知識を生産する可能性があれば、研究者として評価され、研究資金や環境も国に十分保証されねばならないことになる。それは簡単ではないとしても、国や大学と民間の研究者が共同研究を行うことが一般に奨励されるのであれば、それをうまく利用して科学技術の質を(シンプルな)生活者重視のものへと転換してゆく事業を育てることも可能なのではないか。
少なくとも、基本法・基本計画によって増加する科学技術予算をどこに充てるべきかは、国民誰でも発言権はあるはずだ。基本計画そのものも研究資金を重点的に充てるべき分野を打ち出せていない。脳研究はすでにかなり資金を獲得したようであるが、それには日本学術会議のアカデミックな科学者の趣味が強く反映しているようだ。私なら、全く別の価値観で、どうせ使うならここに使えといいたい。例えば、脱原発、脱兵器、脱車のための科学技術社会学的研究とかである。
★平川秀幸
「科学技術基本法」(以下「基本法」)および「科学技術基本計画」(以下「基本計画」)の全文を読んだ。予想されたことではあったが、それでもやはり呆れてしまったのは、そのほとんど時代遅れなほどの科学技術観だ。基本法は実は’68年にもその制定の動きがあった(以下「旧法案」)が、その基本は今も昔も、経済を中心とした社会の「発展」と、その原動力としての「科学技術振興」という展望であり、あるいは「科学技術の夢や情熱、ロマン」や「文化創造としての科学技術」といった、あまりにバラ色な(しかし琥珀色に薄ぼけた)幻想だという印象を拭いきれない。現代において科学技術は、多くの面で問題解決というよりはむしろ問題産出であり、未来を切り開くというよりは過去を葬りつつ未来を塞ぎたててゆく活動となりつつあるといえる。その「マイナス面」―環境破壊のような物質的・生物学的危機だけでなく、生殖技術などライフサイエンスに見られるような人間観や倫理観の根本に係わるような社会的・文化的混乱や、「途上国」に対する技術移転や科学知識の移入がもたらした様々な土着文化の破壊や衰退―は最早、ちょうど産業廃棄物問題に象徴されるように、進歩の単なる「副産物」や「便益のために冒すべき危険」という意味での単なる「リスク」として扱うには余りに大きな問題となってしまった。また、おそらく遺伝子組換技術などバイオテクノロジーで最も顕著だと思われるが、次々と進歩する科学技術は、しばしばその「予期せぬ帰結」として予測・評価・計量化不能の新種のリスクを生みだしてしまう。今日求められているのは「進歩」ではなく「進歩の帰結」(進歩の因果応報)に対する徹底した反省なのである。
ところが基本法・基本計画には、そうした科学技術の深刻な「現代的リスク」への認識と、それに立って、科学技術や現代社会のあり方を文明論的・社会哲学的に反省する姿勢がほとんど欠如しているのではないだろうか。なるほど確かに旧法案と比べ現基本法では「人間生活・社会・自然との調和」や「人文科学の重視」が強調され(基本法第二条)、基本計画でも「研究評価における人文科学的視点の折り込み」が言及されてはいる(基本計画第1章II(3)「厳正な評価の実施」)。
これらは資料1(8頁)にもあるように、科学技術の利用に伴う危険性や倫理的含意に対する適切な対応を求めるものであり、時代に叶ったものといえよう。また基本法・基本計画に先立って1992年に答申された『新世紀に向けてとるべき科学技術の総合的基本方策について』でも、科学技術が「人間・社会に及ぼす影響を人文・社会科学的な分析も含めて多面的に評価」することが「重点施策の推進」において謳われている(資料2, 172-3頁)。けれどもそれと同時に併存しているのは、科学技術のさらなる発展と、そのための制度的基盤の整備・拡張を第一の社会的・政策的課題とみなす旧態依然とした社会観・文明観であり、これこそが支配的視点であることは、基本法第二条が「自然科学と人文科学との相互のかかわり合いが『科学技術の進歩にとって』重要であることにかんがみ、両者の調和のとれた発展について留意」(強調筆者)としていることにも、また基本法・基本計画の全体を通じて「人文・社会科学的分析の促進」に対する施策課題の提示が全く欠けているという事実にも端的に示されているといえよう。
そもそも「人文・社会科学を重視する」ならば、それらの多くが主題にしてきた、科学技術的な世界観や、その他者や世界の事物との関わり方(技術的操作・コントロールの対象、意のままに利用可能な資源としての世界)の文化的特殊性・一面性や、にもかかわらずそれが要求し実現してきた「普遍性」が孕む文化帝国主義的的な問題性は無視できない。この観点からすれば、科学技術による「物質の根源、宇宙の諸現象、生命現象の解明」を「人類が共有し得る知的財産」とし「人類の文化の発展に貢献するとともに国民に夢と誇りを与える」(基本計画第1章I「研究開発推進の基本的方向」)などということは、文化の多様性や独自性を無視した傲慢な物言いでしかない。(この点については、土曜講座『論文集』の藤田康元さんの「人はなぜ宇宙にこだわるのか」を参照のこと。)この意味で基本法の新たな視点の一つである「基礎研究振興」もまた深刻な問題を孕んでいるといえる。あるいはより社会科学的な観点から見れば、「いつでもどこでも誰でも」という意味での普遍性―というよりは「汎用性」―をモットーにした科学技術の知識や技術は、物質的にも文化的にも多様で複雑な現実世界に対して、極度に単純化された「実験室的知識」を一律的に押し付けることによって、一方では農業に見られるように、生態系の複雑さを減少させ破壊する原因となるだけでなく、他方では、とくに技術移転の面で顕著なように、実験室的知識を生産し所有する「先進国(企業)」への「後進国」の政治的・経済的・文化的従属を強化し、土着的・自生的な文化や社会関係を破壊する効果的な政治経済的仲介者ともなってきたことも忘れてはならない。後者の点は一国の中でさえ、(専門家システムではなく)一部の職業的専門家たちによる知識とそれに付随する社会的権力関係や資源の独占状態ないし不均衡をもたらす。基本法・基本計画では「環境・食料・エネルギー・資源問題の解決のための科学技術」ということが強調されているが、もしもそこで想定されている「科学技術」の知識生産のあり方(実験室的知識生産)や権力関係が従来どおりであるならば、上に述べたような社会的矛盾をますます深刻化させるだけだろう。
以上のような科学技術が有する文化的・政治経済的問題に対する配慮が一切為されていない点で、基本法・基本計画における「人文・社会科学の重視」は、単なるお題目に過ぎぬものとみなさざるをえないだろう。さらには自然科学の立場からの批判的観点の欠如も指摘できよう。たとえば「疾病・環境・食糧問題の解決のためのライフサイエンスへの期待」が前提にしている遺伝子還元論・決定論パラダイム(生物のすべての特質は各々少数の遺伝子形質の働きによって制御されているという考え方)は、自然科学者たち自身からも疑問視され、実り多さよりは危険性の増大が多いだろうと懸念されている(第3世界ネットワーク)。資料3の「ライフサイエンスに関する研究開発基本計画」に対する答申案によれば、今後我が国が推進するライフサイエンスの方向性は、DNA等生体分子レベルの「分析的手法」と、細胞・組織・個体などより高次のレベルの「統合的手法」の二つであるという。
これ(とくに後者)は一見「遺伝子還元論」を超え出ているかのようであるが、必ずしもそうとは言えない。たとえば後者の観点では「要素間の秩序だった統合的システムとしての生命」という概念によって「秩序性」が強調され、それゆえそこから何らかの法則の存在とそれを用いた技術的操作可能性が結局のところ期待されている。この技術主義的な発想や期待こそ、遺伝子還元論や決定論をもっともらしい研究パラダイムとしている根本にあるものなのだ。
ところが生物のゲノムの構造はかなり流動的で、とても意図的な操作に服するようなものではなく、常に「意図せぬ帰結」が生じる危険性に満ちていることを支持する研究の蓄積も一方にはあるのだ。この点で基本法・基本計画に関して懸念される問題は、一国の研究動向を大きく左右する科学政策が、当該分野自身の研究動向の一部に荷担することによって、資金配分などの不平等をもたらし、ひいては安全面に関して重大な実害を引き起こす危険性である。そしてこのような研究動向への目配りの一面化が生じるところには、技術的に応用可能な成果(とりわけその経済効果)に固執する過剰期待があるように思われる。基本法・基本計画が強調する「産官学の連携強化」には、このような重大な落とし穴があるといえるのではないだろうか。
以上のような科学技術振興・経済発展中心主義的傾向は、さらに基本法・基本計画に盛り込まれた科学技術についての「国民の学習振興・合意形成・理解の増進・関心の喚起」という件にも見られる。人文・社会科学の学問的研究以上に、そこには国民・市民の立場からの批判的で積極的な取り組みについての言及は見受けられず、要するにひたすら「科学技術振興」のための生産的な人的資源の供給源や科学技術の成果の受け皿・効率のよい消費者層の拡大という方向性のみが謳われているといえる。だいたい原発論議にも見られるように、「理解」という言葉はいつも批判を否定した言葉なのだ。そのうえそこかしこで目に付く「科学技術の夢、希望、情熱、ロマン」という未だに「鉄腕アトム」的なあおり文句。思わず「自衛隊の勧誘ですか?」と疑いたくなるほどだ。(こうした傾向は、科学技術庁長官の私的懇談会「科学技術と社会に関する懇談会」の提案する「科学技術と社会のインタープリター」の考え方にも色濃く現れている。資料4参照。)要するに科学技術基本法とは、産官学民すべてを巻き込んだ「科学技術国家総動員法」なのだ。それは科学技術以外のすべての学問とすべての人々の営みや知的能力を、科学技術振興とそれと連動した従来どおりの経済発展のための「資源」と「市場」としてのみ捉え、巨大な求心力で統合しようとするのである。
以上のような基本法・基本計画が孕む旧弊と一面性に対して私たち「市民」がすべきことは何だろうか。スローガン的に言えばそれは「科学技術に対する遠心力を作り出すこと」、そして「科学技術の夢とは異なる夢を描くこと」ではないだろうか。現基本法・計画が「総動員法」として研究活動やコミュニケーションの効率化・円滑化・統合化を訴えるのに対し、私たちは、そうした統合化のなかに益々隠れがちな社会や知的フィールドのなかに潜在する対立や抵抗、亀裂や矛盾、機能不全の存在をあらわにし、それを表面化して公的な問題に仕立ててゆくような問題発見的で挑発的な動きに着目すべきだろう。いいかえるならば現基本法・基本計画で単にお題目的な補足事項としていわれている「人文・社会科学」や「市民」が有する批判的役割にこそ焦点を当て、産官学の求心力に逆らってこれをより適切な形に方向づけるような、多様な知的活動の拠点を生み出し結び付けてゆくのだ。
もちろんそれは「素人」が従来通りの意味での「専門知識」を身につけることでもないし、科学性や合理性といった価値や専門家システムそのものを解体し去ることでもない。必要なのは、従来の科学技術や経済活動の観点からは無視され排除されてきた経験や価値を発掘し、そもそも何が私たちが生きることにとって意味のあることなのかという基本的な観点(これが「科学技術の夢とは異なる夢を描く」ということ)から、知識や生活上の価値を再考することであり、そうすることによって従来の科学技術や産業主義によって独占され硬直化した専門性・科学性・合理性など知識や生活上の価値の「正当性の軸」を多元化し再編してゆくのである。そこではもはや「専門家VS素人」の単純な二分法や対立という図式は用を為さず、専門家と素人とが入り交じった様々な立場のグループが互いに協力したり競い合ったりするというバトルフィールド的な状況になるだろう。
現に今までも多くの環境運動や公害運動などではそうあり続けてきたのだ。「市民が作る改訂版科学技術基本法」は、このような多元的で対抗的な知的活動を支援し、専門家と素人の協力や競い合いと、そこから生まれる新たな知識の領域の立ち上がりを促進し維持することを第一の政策課題にすべきではないだろうか。言い換えれば、科学技術の問題に関して、市民、専門家、行政担当者、ジャーナリスト、事業者など様々なエージェントが交流し交渉し合うための「知識の公的空間」をどのように実現するかということである。
この点で第一に重要なのは、米本昌平氏が論じているような「大学のサービス機関化」の促進であろう。大学は、一方にある基本法・基本計画が謳う「産官学(民)連携強化」の総動員法的流れに抗って、そこで生じてくるだろう諸問題の積極的な発見や紛争解決のためのイニシアティヴをとったり、「素人」からの問題提起に対して知的サービスの提供や人材派遣を行い、人文・社会・自然科学の専門家と素人、あるいはそれらが一体となった消費者運動や環境運動など市民運動グループの交流や交渉のための公的空間、ネットワーキングの拠点として機能するのである。そこでは米本氏もしばしば批判しているように、戦後日本知識人の「学問の自由イコール政治的無関心」という仙人気取りの態度は許されない。また、これらグループが担う、産官学的な従来型科学技術によっては見逃されたり切り捨てられてきたようなタイプの技術開発や既存技術の伝承、洗練化の試みに対する人的・物的な支援もまた、大学が提供しうるサービスの一つとなるだろう。
さらにこれに加えて、「科学技術と社会」の問題(つまりSTS的問題)を専門的に研究し、情報や人材の提供を行うSTS研究機関・組織の設立や、それらと他の既存の研究組織・団体との連携の確立なども国レベル・地方自治体レベルで期待されよう。(このような専門組織の実現に関しては、たとえば資料3のなかでも言及されている。)第二に重要なのは、自治体や行政府や司法のような従来の制度的公的空間において、問題をそうした場に提起し、意思決定を行っていくための様々な手続きや制度の整備であろう。たとえば「公害紛争処理法」のような紛争調停手続きの整備や、新技術導入やプラント立地、開発などにおける安全性・環境評価等における立証責任の位置づけや基準の明確化、意思決定プロセスの透明化や詳細な記録の保持、意思決定主体の形式上の責任範囲や内容の明確化といった事柄や、問題提起者が誰であれ、意思決定プロセスに参加でき、必要な情報や援助を受けられるような、いわば「STSコミュニケーション」のための制度の確立が必要となろう。とくに「立証責任」に関しては、地球サミットや我が国の環境基本計画などで示された「たとえ危険性が科学的に立証されていなくても、そのことを以って予防策を講じない合理的な理由としない」という「予防原則」は基本的なものとして保持されねばならないだろうし、非常に重大な危険性が疑われる場合には、危険性の証明(推定無罪)ではなく、安全性の証明(推定有罪)を要求するべきだろう。ましてや危険性が科学的にも明らかである場合には、製造者責任(PL)や、その安全管理を、製品の製造から廃棄に至るまでの全ライフサイクルにわたって行う責任を事業者が負うといった「リスポンシブル・ケア(RC)」の考え方を、さらに徹底させる必要があるし、また科学政策としても、RCの基盤となるLCA(Life Cycle Analysis, Life Cycle Assessment)や、「逆工場」(吉川, 馬場)など生産システムに関する工学的研究を積極的に支援してゆくべきだろう。これらの点で、市民版科学技術基本法は、環境基本法・計画等の内容と深くリンクしたものとなるだろう。また「責任」問題に関しては、次のような困難も見越しておかなければならない。
科学技術が生み出す現代的リスクの多くは、比較的長期の潜伏期間の後で被害が現実化するものが少なくない。このため、その予測はもちろんのこと、いざ被害が明らかになってもその因果関係の解明や、法的・道義的な責任追及が非常に困難になりがちになる。長い潜伏期間の内に因果連鎖が複雑化したりすることによって、いったい何が大元の原因であったのか、あるいはそもそもそれは自然現象なのか人為的現象なのかすら判別不能になったりするからだ(この危険はとくにバイオテクノロジーの場合に顕著だろう)。また地球温暖化や酸性雨のように、たとえその原因が比較的明らかでも、公害や薬害のようにその責任を負う企業や人物を特定することができず、責任主体が不特定多数の人々の日常的活動の内に拡散してしまっているものもある。さらに「現代的リスク」は基本的に「意図的な行為・意思決定の予期せぬ帰結」として現れてくることも多いために、やはりその原因や責任の究明ははなはだ困難とならざるを得ない。このようないわば「認知的・道義的無能力状態」に陥らないためにも、先のような予防的な原則や手続きの整備は最低限必要だろう。結果に対する責任が取れない上に予防的手続きすら充分に履行されていないのでは話にならない。危険予測や安全管理に関していえば、それを行った時点で常に学問上の(あるいはより根本的には「常に有限の知識しか持ち得ない」という人間そのものの)限界があるのは当然であるが、それが本当に「限界」であるのかどうかは疑わしい場合が少なくない。
たとえば薬害エイズ事件での被告医学者の「当時は科学的に予見不可能だった」という主張そのものは正しい主張である。しかし、当時の時点で、医学者として入手可能なデータや検査方法についての情報を適切に生かし、反対意見などを適切に吟味した上で判断を下したのかどうかと問えば、あの事件に関して言えば、過失あるいは当時の医学水準全体の限界ゆえの無実ではなく、「不作為」を問われるのが妥当のようである。このような責任の有無や程度を区別するための基準も明確化して行く必要があるだろう。またあらゆる実験にはさまざまな意味での検出限界が存在する。たとえば発癌性のチェックなどは、大量の動物実験をかなり長期にわたって行う必要もあれば、また動物実験の結果が必ずしも人間にも適用可能かというテクニカルな疑いが生じる余地はいくらでもある。それゆえ単に「実験した結果こうなりました」ではなく、その実験の妥当性や信頼性が他者によって検証可能なように、実験プロセスについての詳しいデータを公開し記録すること、そしてこれらを可能にするシステム作りは、単に生じ得る危険性の検証をより一層有効にするだけでなく、事後的な(法的)責任の判断を行う際にも、その責任の有無や所在を明確化するために不可欠のものであろう。もちろん以上のような状況が実現されたからといって、何かユートピア的なオメデタイ世界が到来するわけではない。この点は、とくに私たちのように市民運動を通じていわば丸腰の一人一人の人間が現代社会の問題という巨大な敵に立ち向かおうとするときには非常に重要なことだと私は考える。
たとえば地球環境問題のように、今日私たちが直面している問題はあまりに大きすぎ、そのためしばしば絶望したり、無関心や「宿命論」を決め込むといった態度に私たちを陥らせてしまう。問題が大きければ大きいほど人は、それが克服された状態というものを過剰に理想化して描きやすく、それゆえ他方にある「所詮人間なんてそんなものさ」という現実感覚との激しいギャップに引き裂かれ、その理想の実現不能性と宿命論の感覚もいっそう強まってしまいがちになる。もちろんそこには第三の道もあって、「理想への道は遠く険しくとも、私たちは一歩一歩それに近づいている」というある種の進歩史観に追いすがることもできるが、しかしそれとて必ずしも現実主義的感覚に打ち勝つ強さをもったものではなく、しばしば自己満足や慰め程度のものに終始しがちである。そもそも「すべての問題は解決できる」あるいは少なくとも「次第に人間はそうした理想に向けて無限に進歩してゆく」という発想こそ、私たちが問題にしている科学技術とそれを促進してきた「近代啓蒙」の核にある「人間のおごり」ではないだろうか。私たちに必要なのは、これら非現実的な理想主義と怠惰で無関心な現実主義、そして結局は科学主義と同様に楽観的で傲慢なだけの進歩主義にも陥らない第四の道である。私が考えるにそれは、「良い世界」を築いたり悪を丸ごと打ち倒すことはできずとも、「悪しき世界」のなかで、その悪に一人一人が「負けない」こと、いいかえると、全面的で恒久的な正義を実現できずとも、その都度降りかかる災いに対して局所的な正義を守ろう(筋を通す、落とし前をつける)と努力しつづけることであり、それこそ神や仏ならぬ人間にできる最大のことではないだろうか。私は現在、科学技術論の研究とともにハンナ・アレントという政治哲学者の仕事の考察も行っているのだが、思うに彼女の核心的メッセージとは、「人間は所詮人間でしかない」という運命に打ち負かされることなくそれに立ち向かいつづける「悲劇的精神」(ギリシャ悲劇の英雄のようなそれ)こそが、人間を闇の中に輝かせる人間最大の能力なのであり、また近現代の人間が失ってきた最大の宝なのだということである。(ちなみに『風の谷のナウシカ』という漫画の主人公の少女ナウシカが、すべてが浄化された光の世界をもたらそうとした古代人の亡霊に向かって吐いた名台詞「いのちは闇の中のまたたく光だ」を私はこのような意味でけ止めている。)
したがって先に述べた方策は、すべて(とは言わずともほとんどのすべて)の問題を解決するための万能の鍵でないのはいうまでもなく、やがて理想的な世界を実現するための「一歩」ですらないと考えるべきだろう。それらは常に生じてくるであろう個々の問題に人々がその都度取り組むことができるための戦闘手段なのである。あるいはそれは「平和の実現と維持」のためのものではなく「戦闘の開始と維持」のための手続きコードを定める「戦争法」だと言ってもいいだろう。それは、「国策」や「公共の福祉」の名のもとに頭ごなしに押し付けられ、匿名的な経済活動において日々私たちが主体的にも受動的にも巻き込まれている科学技術-経済活動の統合力に対して、いわば「ゲリラ」的な抵抗戦線をそこここに築くためのツールなのだ。科学技術活動が生み出すリスクや政治経済活動のなかでの不正や悪が無くなると考えることほど非現実的なことはない。今の私たちに欠けているのは、職業的専門家ではない「素人」と、彼女/彼らと連携した専門家たちが、様々な問題を公的問題に仕立て、公的論議を巻き起こすことができるような「戦闘」のための場やチャンネルや手続きコードなのである。そうした通路を通じて私たちは、悲惨や破滅あるいは絶望や無関心を回避し、全体的な正義はありえずともその都度その場での部分的正義を達成してゆくのである。この点に関して最後に次のことにも触れておくべきだろう。今日社会学などで「新しい社会運動(New Social Movement)」あるいは「生きることの政治(Life Politics)」と呼ばれる70年代以降の欧米型社会運動(エコロジー運動、フェミニスト運動、平和運動、反原子力運動、地域主義運動、学生運動、文化運動)に見られる新しい政治文化の台頭である(山之内、大串、Beck et al、Melucci、Berking)。
その注目すべき特徴は「私的生活の政治化」および「政治の美学化」にある。一つ目の「私的生活の政治化」とは、第一に私的生活が社会全体に極めて大きな影響を与えうる公的意味合いを有していることを意味しているが、そうなったのは、先にも触れた現代的リスクの発生も含めた社会変動の原因が、市場を仲立ちにして個人の嗜好に基づいた消費行動や日々の生産活動の集合的パターンのなかに拡散しているからである。たとえば遺伝子組換え食品、電力消費、人工化合物製品、生殖技術などに関する個人の選択は、いわば無意識の国民投票として社会全体の動向を左右してしまうのである。それゆえ「私的生活の政治化」とは第二に、一人一人の日常的な選択行為の社会的・政治的・倫理的な意味を意識化し、それを何らかの形で集合的行為に結びつけることが、社会への働きかけになりうるという積極的意味ももっている。従来の制度的な公的領域に加えて、その外側に新たな公共性が現れたということである。もちろん上で述べたように、それについてユートピア的な過大な幻想を抱くのは禁物だろう。それは個人の生活レベルで「戦闘」が開始可能だということを言っているのである。そして「政治の美学化」とは、このような私的生活レベルの積極的政治性・公共性の性格を表すものであり、それを「美学化」と呼ぶのはその中心にあるものが、旧来の社会運動(マルクス主義的労働運動)のような社会制度内での権利獲得や、あるいは公害運動に見られるような被害者救済・補償などを巡るタイプの従来の直接的な政治的関心ではなく、「自己表現として意識化された生活様式」への関心だからである。それを導くのは、「自分は何者であるか」、「自分はどのように生きるか(死ぬか)」、「何が自分にとって意味があるのか」といった問いかけや信念、価値観と、その表現としての日常生活の営みであり、それに対する共鳴が人々の間に共同的なアイデンティティを生み出すとともに、それを他の人々に向けてアピールし、信念の競合、対立、交渉を引き起こすことによって公的な空間を切り開くのである。
とりわけ重要なのは後者の点だ。山之内靖によれば新しい社会運動の政治性は、既存の制度内での自らの権利獲得や自己欲求の実現ではなく、日常的に当たり前のこととして受け入れられている現実に隠れている問題をあらわにし、(ちょうど基本法・基本計画が目指す産官学民の統合化のような)システム統合の「匿名的権力」の作用を見えるようにする「意識覚醒作用」、「異化作用」にあるという(山之内)。つまり従来の科学技術主義・産業主義・進歩主義に浸りきった生活とは異なる生活の可能性を、たとえ少数の者質の間であっても、追究し実現してしまうこと。これを他の人々に「表現」としてアピールすることが、批判と問題提起の力を持ち得る「戦闘」となるのである。「自分はどう生きるか」という極めて個人主義的関心や「いかなる生き方がより美しいか」という趣味的関心の表現そのものが公的で政治的意味合いを帯びているとは、そうした科学技術や経済を中心とした社会システムの統合力への対抗的作用としてなのだ。もちろんそこには、自己閉塞的な自己愛に溺れたり(エヴァンゲリオン系自分探し?)、開き直り的な自己肯定にすぎないお粗末な「自分探し」(自己啓発セミナー・ファッション雑誌系自分探し)、やたらに物分かりがいいようでいて結局は一人よがりで他者に無関心な相対主義的個人主義や、反対にやたらと押し付けがましい自己表現(ありがちなエコ・ェミ運動家やナルシスティックな「アーチスト」系)や、極度の集団的閉鎖性と他者攻撃性に陥る危険(オーム真理教)は多々ある。私的生活の政治化、政治の美学化は、個人と社会・制度的政治との中間で出現するものであり、そこでは常に他者とのコミュニケーションや批判に開かれたオープンで寛容な態度が必須だ。人々を結び付ける拠り所となる「生活様式」の表現は、「答え」の提示ではなく「問い」の提起なのである。「市民が創る科学技術基本法」がもっとも重点を置くべきは、このような制度外的な日常的レベルで開かれ得る市民たちの公的活動でなければならないだろう。
●資料1 菊賢一『知っておきたい科学技術基本法』(大蔵省印刷局1996年)
●資料2 科技庁科学技術政策局編『科学技術基本計画(解説)』(大蔵省印刷局1997年)
●資料3 科技庁諮問第24号「ライフサイエンスに関する研究開発基本計画について」に対する答申(案)
●資料4 科技庁長官私的懇談会「科学技術と社会に関する懇談会」,『報告書』(平成8年11月)
●第3世界ネットワーク「遺伝子工学技術の厳格な規制・管理の必要性―新生物技術の現今の傾向に関心を持つ科学者たちによる声明」(本庄重男訳『技術と人間』1997年6,7月号)
●山之内靖『システム社会の現代的位相』(岩波書店1996年)
●大串和雄「ラテンアメリカの社会運動と新しい政治文化」,坂本義和編『世界政治と構造変動4:市民運動』(岩波書店1995年)所収
●飯島伸子「日本の環境運動の経験」,井上俊他編『環境と生態系の社会学』(岩波講座現代社会学25,岩波書店1996年)所収
●吉川弘之『テクノロジーの行方』(21世紀問題群ブックス8、岩波書店、1996年)
●馬場靖憲「二十一世紀の持続可能なモノづくり」,吉川弘之監修,田浦俊春・小山照夫・伊藤公俊編,『新工学知3―技術知の射程―人工物環境と知』(東京大学出版会1997年)所収
●宮崎駿『風の谷のナウシカ(全7巻)』(徳間書店1995年)
●Arendt, Hannah. The Human Condition, The Chicago University Press, 1958.(志水速雄訳『人間の条件』ちくま学芸文庫1994年)
●Beck, Ulrich, Anthony Giddens & Scott Lash. Reflexive Modernization, PolityPress, 1994.(松尾精文・小幡正敏・叶堂隆三訳『再帰的近代化―近現代における政治、伝統、美的原理―』而立書房1997年。)
●Berking, Helmuth. ‘Solidary Individualism: The Moral Impact of Cultural Modernization in Late Modernity’, tr. by Paul Knowlton, in Lash, Scott,B.Szerszynsky and B.Wynne (eds.). Risk, Environment and Modernity: Toward a New Modernity, Sage Publications, 1996.
●Melucci, Alberto. Nomads of the Present: Social Movements and Individual Needs in Contemporary Society, ed. by, John Keane and Paul Mier, Temple University Press,1989
1997.8.14
市民が作る『改訂版・科学技術基本法』
プロジェクトチームは「科学技術基本法・基本計画」をどう読んだか (その2)
『どよう便り』第8号に引き続き、上村光弘さんから寄せられた意見と、上田の意見を掲載します。
10月11日の研究発表では8号と9号の論説をふまえて、藤田、平川、上田の3人が「科学技術基本法・基本計画」を論じます。是非ふるってご参加ください。またご意見、ご感想もお待ちしています。をお寄せください。
★U.M
このプロジェクトにとって力点が置かれているのは「市民が作る」という点だと思います。8月の合宿も含めて今までの議論を振り返ってみてもそれは強く感じます。 「市民が作る」という点で参考になる事例が過去に存在します。環境基本法制定のおりに「環境基本法市民草案」が作成されています。この経験を参考にさせてもらいましょう。
●なぜ市民が作るのか
実をいうと、私はこの点についてよく分かっていません。合宿でもそもそも議論するまでもなく自明な前提として語られていたのではないでしょうか。
さて、資料2「環境基本法=市民草案とはなにか」では須田氏が次のように述べています。
1 欠陥のない法律は存在しない。そして法律が日常的に展開される生活の場において、法律の欠陥に最初に気がつくのは市民である(法の欠陥の第一発見者は市民)。
2 既成の社会システム(我々もその一員であるわけだが)は、みずからの短期的視野からは見えにくい「価値」については反応しにくい(法の欠陥に最初に反応できるのは市民)。
3 上からの強制による既得権益の放棄は混乱をまねく(既得権益者自身による変革の必要性)。
結局「徹底討論による市民文化の改革、これしか方法はない」と須田氏は言い切っています。この1~3について、そもそも須田氏が念頭に置いているのが「環境基本法」という市民にとって関わりも関心も高い分野を対象としていることから、私としても特に異議はありません。
一方「科学技術基本法」についてはどのように考えればよいのでしょうか。関わりの度合いという意味では上記1~3を単純に対応させるわけにはいかないでしょう。ここでは取り敢えず問題提起だけをしておきます。
●市民草案のできるまで
彼らはやろうと決めてから市民草案を発表するまでに約6カ月かけています。初期の参加者は約40人、集会への参加者やアンケート協力者も含めると約200人が関わっています。全体会合が7回、専門家を囲んでの勉強会9回、政党との懇談会3回、市民と専門家へのアンケート調査それぞれ1回ずつ、審議会・政党への要望など。半年の間にこれだけのことをおこなっています。また草案提出後も活動は続いていまました(現在は活動していないようです)。「環境基本法」は国内外も含め関連する法律も多く、それらを一通り確認するだけでも相当な作業量です。
一方「科学技術基本法」については何をやればよいのでしょうか。法律の趣旨から考えて、教育や労働に関する法律が関係するでしょう。また市民参加を考えるのであれば情報公開関係も対象になるでしょう。 またプロジェクトとして正式に発足させるのかどうか。ある成果を出そうと思えば、少なくとも中心メンバーは固定する必要が有ります。最低限の人数は確保しなければならないでしょう。また事務的な作業分担など上田さんだけに負担がかかるようでは続きません。いつまでにどのような成果を出すのか。働きかけの対象をどうするのかなど内容の検討以外にも多くの決定が必要になります。逆にいえば、これだけの義務を負う人が確保されなければ、外部への働きかけは保留にして内部での議論にとどめておいた方が無難だと思います。
●我々は何を目標にすべきか
私の伝え聞くところでは、いったん法律の素案ができると、関係省庁との調整、既存の他の法律との整合性の確保等などで、ほとんど変更の余地がないそうです。私が8月の合宿で発表したもの(「どよう便り」第8号参照)で、市民参加についてまったく触れていないのは、このことが念頭にあったためです。私の基本的な戦略は、この「科学技術基本法」そのものをいじるのではなく、それを読み替えることです。正面からぶつかれば入り口のところの議論で終わってしまい、具体的な行動につながらなくなってしまいます。
「環境基本法市民草案」でも、あくまで理想を追及するのか、ある程度状況に合わせて実をとるのかという議論があったようです。そして彼らのとった方法は理想を追及することでした。それは須田氏の言葉にあるように、回り道であっても「徹底討論による市民文化の改革、これしか方法はない」という認識だったからです。中途半端に意見を取り入れられたとしても意味がないし、議論の過程そのものに意味があると考えたからです。これは一つの見識です。結果的には政府の「環境基本法」には「市民草案」にある市民参加という視点はまったく取り上げられていません。 さて、また振り出しにもどってきてしまいました。我々はあくまで「徹底討論による市民文化の改革」を目指すべきでしょうか、それとも現状を少しでも改善できることに希望を託し、「ある程度状況に合わせて実をとる」べきでしょうか。 <参考文献>*資料1 『環境基本法市民草案1993』、環境法制検討市民委員会(アースデイ◎1990←→2000◎日本・東京連絡所内、東京都千代田区麹町2−7−3 市民運動全国センター気付)、1993年3月 *資料2 『検証:環境基本法 21世紀の環境社会と市民参加』(リサイクル文化47・48特別号)、リサイクル文化社、1995年1月
★上田昌文
ここでは、10月11日の研究発表を念頭において、「市民版・科学技術基本法」を模索する際に留意しておきたいいくつかの事項を列挙してみます。まとまりのない提示になりますが、まず「基本法」「基本計画」の性格を振り返り、その後に「市民版」を作成する時の検討すべき課題をまとめてみます。(●の部分に要約しました。)「科学技術基本法」(1995)と「科学技術基本計画」(1996)は、後者がキーワードとして掲げた「科学技術創造立国」、つまり科学技術の振興をもって今後の日本の活路を開くという基本理念と、その理念を実現するための体制整備の基本的な方向付けをまとめたものです。条文自体は具体的性に乏しく、唯一「基本計画」第1章末尾の「平成8年度より12年度までの科学技術関係経費の総額規模を約17兆円とすることが必要である」と述べている部分だけが具体的ですが、これとて法的な拘束力をもたない単なる目標数値ですから、本当に実現するかどうかは疑問です。[資料1] しかし本年度の国家予算においては、緊縮財政を強いられる中で、科学技術予算に対する大盤振る舞いが目立ちました。すでに実際の研究機関でこの法律の効力が表れてきているようです。では、どんな形でコトは進行しているのでしょう?(●課題1:「基本法/計画」の実際的な運用と効力を例示すること)
「基本法」「基本計画」を先取りする形で文部省、科学技術庁、通産省が科学技術予算の拡充に力を入れ、”大学改革”(教養部廃止、大学院重点化、科研費倍増、プロジェク主義の競争的予算の新設、省庁の枠を取り払ったプロジェクトの推進など)を進めています。民間への公共投資が不景気によって充分な見返りが期待できないことに不安を覚えているのか、大学・国立試験研究機関への投資を大幅に増やしつつ「産官学」の連携も強める施策を打って出ているのです。「基本法」「基本計画」はこの路線を整備拡大し、国家的な課題として位置づけようとするものでしょう。(●課題2:「大学改革」の現実と「基本法/計画」との関連を明らかにすること) 国家が”国力”保持(今の日本の経済力をいかにして維持し発展させるか)のために、これまでより効率のよい科学技術動員を行おうとする。そのために経済的な枠組みを決めて、該当する研究機関をそれに従属させる形で、動員のための施策を遂行させる。――ひとことで言えば、これが「基本法」「基本計画」のねらいだと思われます。
「科学技術創造立国」という理念の持つ国家主義(ナショナリズム)、科学技術の振興をもって現状のさまざまな問題を乗り越えていこうというあまりに素朴な科学主義などは、大いに批判されねばなりません。この批判をとおして”私たちにとって科学技術はいかにあるべきか”をより明確にし、「市民版」の理念として何を根本に据えるすべきかという議論につなげられたらよいと考えます。この点については、すでに『どよう便り』第8号の論考で皆がそれぞれに批判的な視点を打ち出しています。これをさらに一歩進めて、社会的正義の実現(南北格差の解消)、後の世代にツケを押しつけない自然環境や資源の保全、平和・安全と健康の確保などの人類的課題に対して、科学技術がいかなる貢献をなし、またいかなる阻害をなしてきたのかを典型的な事例に則して大まかに計量し、社会における科学技術の役割をどのように限定すべきかを描き出せるとよいと思います。(●課題3:「市民版」における基本理念「科学技術はどうあるべきか」の明文化)この法律がもたらすだろう具体的な弊害についても、直接の関係者たちの声を集成しておくべきでしょう。たとえば池内了氏は、大学において定員が削減される一方で、予算増額に応じた体制拡充や競争の激化で運営業務の負担が増大し、研究において「結果を手早くまとめる風潮」を作り出すのではないか、と危惧しています[資料2]。また吉岡斉氏も、研究者ポストが増員されない中での大学院拡充や「任期制」の導入は、若手研究者の雇用不安をもたらすと指摘しています[資料3]。私たちはこうした内部からの批判や弊害の現れをきちんと整理しておくほうがよいでしょう。(●課題4:研究機関内部からの批判と弊害の表れのチェック)
科学技術を適正にコントロールしていくためには、科学技術政策の意思決定に市民が参画する道を開くことを含めて、さまざまなレベルのさまざまな試みが模索されねばなりません。それは一人一人にとっての日常的個人的営みをどこまで時間的空間的により大きな政治状況と結びつけて意味づけることができるか、という個々人の政治的想像力の問題から、いかなる科学研究や技術開発を社会全体で是認したり規制をかけたりしていくべきかという政策的な対処や制度改革に至るまで、大きな広がりを持っている問題です。一挙に全体をカバーする構想を立てることは難しいでしょう。そこで私たちは歴史的な経験から、そして諸外国の事例から学ぶことが参考になると思います。
歴史を振り返ることには2つのポイントがあるでしょう。一つは、この「科学技術基本法」は明治期以来の国家の科学技術動員体制づくりの一つの帰結だと見ることです。「官・産・学・民」がどういう意図のもとにどう関連づけられ、その結果として「市民」がどう位置づけられ(どう排除され)てきたか、つまり現在の科学技術に関わる官僚機構と大学や民間の研究開発機構が一つのシステムとしてどのように作動するに至ったのかを、簡潔な構図を描き出すことです。これをふまえないと、制度改革の目標を示すことはできても、それをどう実行するかが見えてこないことになるでしょう。(●課題5:日本の科学技術システムの形成分析)
もう一つは、このシステムが全体として動きながら様々な個別の形でもたらしてきた危害(たとえば水俣病などの被害)の形態と、それに対抗するために組織された市民運動の分析です。科学技術システムに対する異議申し立てとして市民運動は何を要請しどんな変革をなしえたか、を正確に振り返ることで、私たちのこれからの取り組みの方向性がみえてくるはずです。私は来る「STS国際会議」では、この点を中心に発表するつもりです。(●課題6:日本の市民運動が科学技術システムを転換させるのにいかなる寄与をなしたかを分析すること)
一方科学技術を適正にコントロールするために諸外国で取られているいろいろな施策については、可能な限り情報を収集し、評価を加えていくことが必要です。米国のOTA(技術評価局)やデンマークのコンセンサス会議などの国側の施策はもとより、専門的な能力を備えた様々なNGOが具体的な科学技術批判をどう展開し、社会の中でどういう役割を担っているかについても詳しく知りたいものです。(●課題7:科学技術コントロールに関する海外の政府・諸団体の試みを知ること)
以上の課題とも関連しますが、今後科学技術を市民の立場からコントロールしていく際に、確立していなければならない基本原則というものがあると思います。それらを今系統立てて述べることはできませんが、一つは「何にお金を費やし、どこで投資を打ち切るか」に関するものです。「基本法/計画」が打ち出している科学技術に対する大幅な投資拡大が実際に続けられるとはとても思えません。見直しを迫られる巨大プロジェクトも少なくないでしょう。ならば、現実的で適正なお金の配分を代案として構想してみることが必要です。それを通して、「科学技術投資に関する原則」を論じ合うことになるでしょう。(●課題8:「投資の原則」の確立)
もう一つは、科学技術者の社会的責任に関するものです。私は、たとえば原爆開発に携わった科学技術者が”良心の呵責”から反核運動に係わるようになる例は聞いても、科学者であることを廃業にした例をほとんど聞いたことがありません。むろん社会から職を追われた人もいないでしょう。これは極端な例かもしれませんが、こうした科学技術にまつわる開発側の”免責の構造”を私はどうしてもそのまま容認するわけにはいきません。審議会やアセスメントで権威者として振る舞う学者も同断です。自らの科学的予測や裏付けが誤り、社会に被害をもたらした場合には、何らかの責任を取ることが当然である――というような責任概念の構成がなされるべきだと思うのです。(●課題9:「責任の原則」の確立)
以上簡単ですが、「市民版」作成に向けて考慮すべき点を抜き出してみました。
資料1:『Science』Vol.273 96年9月6日1332頁
資料2:『SCIaS』97年2月21日号67頁
資料3:『科学・社会・人間』60号1997年3月