出生前診断 イギリスからのレポート 第5回:技術者達の見解

投稿者: | 2005年4月13日

出生前診断 イギリスからのレポート
第5回:技術者達の見解
渡部 麻衣子
doyou84_watanabe.pdf
 前回は、選択的中絶における女性の体験を通して、「健康な子が欲しい」という誰もが持つ願いが、大きな負担なしには叶い得ないことを示しました。しかし出生前診断とそれによる選択的中絶は当初、技術の肯定的な成果と考えられていました。1980年代から1990年代初頭にかけて発表されたダウン症を対象とした出生前診断に関する論文は、技術を推進した当初の根拠を、顕著に示しています。今回はその中から、イギリスで発表された三つの重要な論文を紹介します。
【ギル論文(1987)】
 ギルらによる研究の主な目的は、ダウン症を対象とする二つの出生前スクリーニング・診断プログラムを比べ、どちらがより経済的に有効かを算出することでした。当時、彼らが研究を行ったロンドンテムズ川北東地区では、38歳以上の女性全てに羊水穿刺1を行うプログラムが実施されていました。彼等はこのプログラムの費用と、年齢に関係なく全妊婦に母体血清マーカースクリーニング2を行って、ダウン症の胎児を妊娠している確率が1/220の妊婦に羊水穿刺を行うという新しい計画にかかる費用を比べたのです。その結果、38歳以上の女性全てに羊水穿刺を行う従来のプログラムが、新しい計画よりも安価であることがわかりました。しかし同時に彼等は、出生前診断プログラムを行う根拠として、ダウン症の人を一生賄う費用が健常の人の一生にかかる費用よりも非常に多いことを示しました。そして、どちらの計画の場合も、選択的中絶を行う方が、ダウン症の人を一生賄うよりも安価であるため、経済効果があると結論しました。
Gill, M., Murday, V. and Slack, J. 1987. ‘An Economic Appraisal of Screening for Down’s syndrome in Pregnancy Using Maternal Age and Serum Alpha Fetoprotein Concentration’. Soc. Sci. Med. 24 (9): 725-731.
【ヴァルド=カックル論文(1988)】
 ヴァルドとカックルらは、母体血清中のHuman Chorionic Gonadotrophin(HCG)という物質が、胎児がダウン症である確率を算出する指標として有効であることを示しました。それ以前は、AFPとuncojugated oestriolという二つの物質が指標として使われていました3。ヴァルド=カックルらの主張は、それにさらにHCGを加えることでテストの確実性が増すというものでした。しかし彼等は、単に物質の有効性を論じるに留まりませんでした。彼等は彼等の研究によって有効性の証明されたテストを全妊婦に提供するという政策を提案したのでした。論文は「政策が受け入れられれば、年間900あるダウン症の出生数を350にまで減らせるだろう4」という一文で締めくくられています。
Wald , Nicholas J. Cuckle, Howard S. Densem, James W. et al. 1988. ‘Maternal serum screening for Down’s syndrome in early pregnancy’. BMJ (297): 883-886.
【ヴァルド=カックル論文(1992)】
 1988年の研究結果を確かめるべく、ヴァルド=カックルらの研究チームは1989年2月から1991年5月までの間、ロンドンの4つの医療行政地区で、15週から22週までの間に病院に来ることのできた妊婦12603人に前出の三つのマーカーを使ったスクリーニングテストを提供し、その効果を算出、結果を発表しました。結果には、診断率と擬陽性率の他に費用も含まれていました。費用は最終的に「ダウン症児の出生を防ぐのにかかる費用」として算出され、ヴァルド=カックルらの調査では、ダウン症児の出生を一度防ぐのにかかる費用が38,000ポンドでした。彼等はこの費用と、1987年のギル論文で算出された、ダウン症の人一人の一生にかかる費用120,000ポンドとを比べ、母体血清マーカースクリーニングを使ってダウン症児の出生を防ぐ方が安価であることを示しました。そして、技術の信頼性とコストの両面から、スクリーニングは全英で提供されるべきだと提言しました。
Wald, Nicholas J. Kennard, Anne. Densem, James. Cuckle, Howard S. Chard T. and Butler L. 1992. ‘Antenatal maternal serum screening for Down’s syndrome: results of a demonstrations project’. BMJ(305): 391-394.
 これらの論文が、命の価値をお金に換算していることへの違和感は、おそらく誰もが持つものでしょう。しかし、別の角度から問題を指摘することもできます。
 ヴァルド=カックルらは、1992年の論文で、「スクリーニングの最も重要な目的はコスト削減ではなく、障碍の防止と家族の負担の軽減である」と断っています。おそらく、ギルらにしても、技術の主要な目的は、障碍者本人や家族の負担を軽減することだと理解していたでしょう。しかし、それならば、この技術によって障碍の負担を軽減することができるかどうか、確かめてみる必要があるのではないでしょうか。生まれなければ、本人への負担は無論生まれませんが、「本人」も生まれない場合、軽減された負担を享受することはできません。さらに家族は、前回紹介したような、選択的中絶に伴う負担を負わなくてはなりません。それは、障碍を持った胎児を妊娠したために生じる負担という点で、障碍による負担と呼ぶこともできます。そして、最も重要な点は、出生前診断の技術を開発する研究者たちが、彼等の持つ「障碍は本人や家族にとって負担だ」という視点の妥当性を、確認していないということです。なぜ確認しないかと言えば、それが彼等の専門ではないからです。
 研究者達の視点の妥当性を確認できる、別の意味での「専門家」は他にいました。けれど、ダウン症を対象とした出生前スクリーニングが国の政策となる過程で、主要な位置をしめたのは、技術の専門家たちでした。「別の意味での専門家達」の視点が、技術の専門家達と同じくらいの比重で考慮されなかったところに、この技術の一番の問題があると思います。それは、科学技術と社会の関係一般に共通する問題点ではないでしょうか。
 次回は、政策決定過程の周辺的位置にいたと考えられる、技術の専門家ではない人々の視点を紹介します。
1 腹部から羊水腔に針を穿刺して羊水細胞を採取し、染色体検査を行う。
2 羊水穿刺に対して、血液を採取して検査するのが母体血清マーカースクリーニングであり、その結果は胎児がダウン症である確率で示される。
3 いわゆるダブルテスト。指標が三つになるとトリプルテストと呼ばれる。現在は四つの指標を使うクアドロプルテストも行われている。
4 出生数を0にできると述べなかったのは、診断率が100%ではないというテストの質的限界のためで、この時点では、胎児がダウン症と診断された妊婦全員が中絶すると考えている。

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