第142回土曜講座「科学ジャーナリズムの可能性を探る」 与え合うコミュニケーションへ

投稿者: | 2002年4月19日

第142回土曜講座「科学ジャーナリズムの可能性を探る」
与え合うコミュニケーションへ
高重治香(東京大学大学院学際情報学府修士課程1年)
doyou59_takashige.pdf
●「科学者との対話」から見えたもの
今日は私の関わっている二つの実践活動をご紹介しながら、科学者と非科学者が「与え合うコミュニケーション」をする方法について、提案したいと思います。
私は大学に入学してから、社会の中での科学のあり方に興味を持ちました。法学部だったこともあり、原発や遺伝子組み換え食品をめぐる政策決定過程、市民の議論への参加、という方向から興味を持ち始めていました。その頃、一つのゼミに出会いました。東大の教養学部前期課程には、学生がテーマを決めて講師を招くことができる全学自由ゼミナールという枠があります。その一つである「科学技術と民主主義」*1というゼミに参加し、それから今日まで3年間、その時の参加者に新しいメンバーを加えながら科学や技術のあり方について議論を続けてきました。
昨年度、そのメンバーで再び教養学部でゼミを開講しました。10人の科学者、科学論者の方を招いて、社会の中での科学のあり方について学生と対話していただくという試みです*2。講義の中で、何人かの講師の方が、科学ジャーナリズムへの不満や期待について言及しました。例えば、工学系研究科教授で東海村の原子力工学研究施設にいらっしゃる班目春樹先生は「実験施設での小さい「事故」であっても、マスコミが「事件」として扱ってしまうため、公開するのがはばかられる時がある」とおっしゃられました。また、生体肝移植の権威で医学系研究科教授の幕内雅敏先生は、「日本にはジャーナリストがいない。マスコミは記者クラブにいて上からふってくる情報をただ流しているだけで、本当の専門家に聞きに行かない」と批判されました。一方、工学系研究科教授で宇宙科学の的川泰宣先生は、「学校の先生や記者は、宇宙という『夢』を示すによって、日本社会の閉塞感、子どもたちの無力感を破るための同志にしたい」とお話されていました。「日本の政治家は科学にあまり関心を持たず、理解する姿勢も乏しい。ジャーナリストは記事にするかどうかは別にして、虚心坦懐に聞いてくれるから、押さえどころは大体わかってくれる。できるだけ深いところで理解してもらって、記事に反映して欲しいと頼んでいる。特に若い人はよくわかってくれるのだけど、会社の方針でデスクの段階でズタズタにされたりすることもある」ということです。
「科学者との対話」での指摘をうけて、今年の五月に文化祭でシンポジウムを行いました。テーマは、「科学ジャーナリズムは科学を正しく伝えているか」です*3。このシンポジウムでの議論を簡単にご紹介します。まず、科学と一言でいってもいろいろな専門があり、例えば医学系の研究者であっても医学全部について知るのは到底無理である。もちろんジャーナリストにも、医学すべて科学すべてについて満遍なく網羅することを求めることはできない。むしろジャーナリストは、分化した専門を持つ人たちの価値観を横につなげるような視点を持つことが必要になるのではないか、という意見が出ました。さらに、一般的には科学者と科学ジャーナリストは対立しているというイメージがありますが、実はそうではないのではないか、馴れ合っているのではないか、という指摘がありました。お互いに批判するべき点はあるはずなのに、ジャーナリストは科学者から情報を得ることで記事を書ける、科学者は科学ジャーナリストを通じて研究の成果をアピールできる、ということに甘んじて現在の関係を維持しているのではないか、ということです。そうであれば、読者・視聴者にとって本当に必要な情報が何か、ということが追求されず、不幸なことでしょう。今から、このシンポジウムで出された問題提起を軸にしてお話をしたいと思います。すなわち、「縦の専門を横につなぐ視点が欲しい」、また「読者・視聴者にとって必要な情報が欲しい」ということです。これをまとめると、科学ジャーナリズムは、『ある科学、技術が今の社会全体の中でどういう位置を占めているか、生活にどのような影響をもたらすのか』を意味付ける必要がある、ということになるのではないでしょうか。
*1 講師は鈴木達治郎氏(当時、東大工学系研究科客員助教授。電力中央研究所主席研究員。)
*2 講師は新井秀雄、榊佳之、村上陽一郎、的川泰宣、児玉龍彦、長谷川眞理子、中村桂子、班目春樹、幕内雅敏、松本信二、各先生方(敬称略)。ゼミのホームページhttp://dws.doesntexist.com/
*3 パネリストは青野由利氏(科学ジャーナリスト/毎日新聞)、神里達博氏(科学史・科学論/文部科学省プロジェクト、社会技術研究システム専門研究員、東京大学先端科学研究センター協力研究員)、モデレーターは佐倉統氏(東京大学大学院情報学環助教授)。
●科学者には科学リテラシーがあるか
専門を横につなぐということを考えるために、「専門」についてとらえ直してみたいと思います。専門は、例えば法律、経済などいわゆる学問分野に限らず、”ジャーナリスト”という職業や、”営業”といった職種も、専門と呼ぶことができます。専門家とは専門のことがわかる人、ということでしょうが、このままではよくわかりません。そこで、「科学がわかる」ということを、「科学リテラシーを持っている」と言い換えてみます。リテラシー(literacy)は一般的には読み書き能力という意味で、比喩的にいろいろな言葉と結びつけて、○○リテラシーがある、という言い方がなされます。
しかし、「科学リテラシーがある」と言ってもやはり何も見えないので、一つのアナロジーとして、”メディアリテラシー”を持ってきたいと思います。私の大学院での指導教官の水越伸助教授は、現在のメディアリテラシーの研究に取り組んでいます。先生は著書の中で、メディアリテラシーの複合性について書いているので紹介します*4。
まず、『メディア使用能力』としてのメディアリテラシー。これは、メディア機器やソフトを使いこなす能力で、例えばビデオ録画・再生、パソコンでソフトを使う力です。デジタル機器だけではなく、鉛筆で紙に文字を書く、といったレトロなメディアも含まれます。次に、『メディア受容能力』。これは、新聞記事やテレビ番組などを、特定の社会の中で特定のメディア企業が生み出した情報の構成体としてとらえ、そのメディアの特性や文脈に基づき批判的に受容、解釈をすることができる能力を指します。そして最後が、『メディア表現能力』です。これは、メディアを用いて思想、意見、感情などを表現する能力です。日記や手紙、電話、電子メール、ホームページ作りなどがこれにあたります。
では、メディアリテラシーの複合性の三層を、科学リテラシーにあてはめてみましょう。まず、『科学を扱える力』。これは、実験や観察など科学の方法論を身に付けているということです。次に、『科学を応用した結果を使う力』。これは技術を利用でき、その意味について考えることができる力です。そして、『科学を応用できる力』。科学・技術の発見や創造に携わることができる力です。
ここでは「科学リテラシー」の定義を考えることは目的ではありません。メディアリテラシーを通じて見ることで、科学リテラシーの輪郭を明確にしようとしています。もちろん、メディアと科学で違う点もあります。まず、科学は国がバックアップする体制が整っていて、教育、予算、流通、職業といった点において。より制度化されています。共通点もあります。まず、科学やメディアを使いこなすにはある程度の教育や経験、場合によっては情報や機器などのインフラも必要であることから、気軽に実践するには敷居が高いということです。しかし、誰でも生活の中で必要に応じて、あるいは遊びや学びとしてメディアや科学に携わっている面もあります。例えば、シャボン玉を作ったり、交換日記を書いたりといったことです。より注目すべき共通点は、科学者も、メディア企業で働く人も、自分の仕事には興味があっても、科学やメディアのすべてに興味を持っているわけではなかったり、わかっているわけではない、ということです。テレビ局で働いている友人に聞いたのですが、同僚から「自分の作った番組が放送されるから見て」と言われて「見ておく」と答えるけれども、それは社交辞令で、実際は見る暇がないそうです。局の中にいるとかえって世間で流行していることや、社会の生の情報に疎くなってしまうとも言います。また、科学者が、自分の専門のジャーナルは読むにしても、科学雑誌を読むとは限りません。
そのように、自分のやっていることの全体像が見えなかったり、他の事柄との関係がわからないと、自分の仕事を相対化したり、批判的にとらえることができなくなります。科学者であるからといって必ずしも科学リテラシーがある(=科学がわかる)わけではない、ということになります。このことは、シンポジウムで提起された問題点と関わっています。科学は科学者だけで完結しているものではないのです。科学の意味や、社会にとって何が重要であるかについてどこかに真理があるわけではなく、ましてや科学者だから科学の意味を知っているわけでなく、科学ジャーナリストが知っているわけでもありません。多様な立場の人が参加したうえで、意味を見出していくものです。読者や視聴者も、自分なりの視点で科学の意味付けに参加し、共有できる価値を見つけていかないといけないのではないでしょうか。
*4水越伸『デジタル・メディア社会』1999、岩波書店
●与え合うコミュニケーション
「お互いに専門について知ることが必要だ」と言っても、本人がそう感じなければ仕方ありません。そこで、科学者にとっても非科学者にとっても、相互のコミュニケーションが役に立つということを確認したいと思います。
まず非科学者にとって、単純に、わからなかったことがわかれば楽しいことが増えます。これは、子どもでも大人でも同じです。例えばスポーツや料理をするときに、からだの知識、生物の知識について知っていれば、単にマニュアルに従うよりもおもしろい発見があるはずです。また、科学がわからないと困ることもあります。例えばインフォームドコンセントを受けたとしても、基礎的な知識が全くなければ、治療についての選択や判断は難しくなります。原子力など社会レベルで意思決定する場合でも、ある程度の理解がなければ意志を持つこともできません。次に、科学を手段や対象、視点として生かすことで、自分の専門に広がりが出てくるということがあります。「科学」の話題の中にもその他の専門の要素が含まれていたり、一見科学の話題に見えなくても、科学が関係することがあったりするためです。例えば、生命科学者が生き物を見る視点と、法学者が社会システムを見る視点に共通するものが見出せるかもしれません。
全く同じことが科学者の側にもいえます。自分で研究したことは、自分だけの力で社会の中で実際に生かされるということは稀です。応用、商用化など、いろいろな人の手を経て、実際に使われるものです。他の人とコミュニケートできないと、社会から、有形無形の支援を受けられません。例えば期待の声や、税金から予算をもらうということです。
しかし、与え合うことのできる部分がすぐに見つかるとは限りません。また、科学についてよく知らない人が、科学を知っている人を前にするとすくんでしまうということもあるでしょう。与え合うコミュニケーションはうまくいくのでしょうか。
ここで、再びメディアリテラシーを例にして、専門家と非専門家の与え合うコミュニケーションの実践例をご紹介したいと思います。先ほどの水越先生は、メディアリテラシーの実践をするメルプロジェクト*5という活動を展開しています。その中から、二つの例を紹介します。まず、私が直接関わったものではないのですが、長野と愛知の地元テレビ局の方と高校生が参加した「民放連プロジェクト」というものです。このプロジェクトでは、テレビ局が高校生に機材を貸し、基本的なことを教え、普段は専ら放送を見る側である高校生が表現者になりました。作った作品は実際に放送されました。重要なのは、プロが作る作品を真似るのではなく、高校生たちの視点で作品作りをするということです。これを通じて、高校生は表現の楽しさを知り、また、送り手に対して批判していたこと(やらせなど)を自分たちもしまった、という体験をしました。一方、記者の側でも、視聴者がどのように番組を見ているかを知ったり、高校生の新鮮な視点から気づかされることがあったようです。
次にご紹介するのは、現役ジャーナリストを対象としたワークショップです。これには、新聞、雑誌、放送などの記者やフリーのジャーナリスト及び学生が参加しました。ジャーナリストは自分の記事、番組を持ってきて、制作の意図などを説明し、それに対してお互いに建設的な批判をしたり、他の報道の仕方の可能性を探りました。これにより、習慣化している方法論をあらためて意識化することになりました。また、他のメディアのジャーナリストや学生の視点に触れ、情報や意識をリフレッシュすることができました。一方、学生の側も普段あまり聞く機会のない現場の様子を追体験することができました。
このようにメディアリテラシーの実践では、メディアの専門家と非専門家が、学びあう関係が成り立っていたと言えます。ここで留保しておきたいことがあります。ワークショップはあくまで疑似体験であり、送り手体験にしても生業としてジャーナリズムをする場合のような葛藤は感じられない、ということです。また、こういった試みに参加している方は有志で、本当にこういう体験を必要とする方には届いていないのではないかということです。そして、私見ですが、メディアリテラシーは「意識」をじわじわと変える効果がありそれはとても有意義なことだと思いますが、現にある報道被害などの問題をすぐさま解決するものではありません。メディアによる人権侵害への批判、防止のための制度作りは、別に必要でしょう。
*5メルプロジェクトhttp://mell.jp/
●コミュニケーションの仲立ち
では、再び科学ジャーナリズムに話を戻します。これまで見てきたことから、科学ジャーナリズムにとって「横に切る」とは、科学者と非科学者が共有できる領域を発見し、その領域で相互に与え合うことのできるものを引き出しあう状況を作るということだと思います。先ほどのメディアリテラシー実践の場合にはメルプロジェクトが仲立ちをしたように、科学リテラシーにおいて科学ジャーナリズムが科学者と非科学者の仲立ちとしての役割を果たすことができるということです。ジャーナリズムが当事者の関係性に介入することになりますが、私はそれは問題ないと思っています。与え合うコミュニケーションの仲立に必要な役割を五つ挙げます。1・対等な関係の設定、2・知識の提供・疑問の発掘、3・テーマ設定/議論の方向設定、4・人の発掘、育成、5・批判・評価、です。「対等な関係の設定」とは、科学者が「教える」、非科学者「教わる」という関係を前提にするのでなく、「与え合う」という意識を持ってコミュニケーションする雰囲気を作ることを指します。知識の補充・疑問の発掘とは、コミュニケーションの前提としてお互いの専門について最低限の知識を持ち、何がテーマとして共有できるのかを探ることを指します。テーマ・議論の方向設定とは、一方の専門家が話したいことだけを話して終わってしまわないように議論を導くということです。人の発掘・育成とは、コミュニケーションの場に出てくる人を見つけ、コミュニケーション能力を開発するようサポートしていくことです。専門家の多くは何らかの組織に所属して活動しているので、個人として意見を述べることが難しいと思われるためです。最後に、現在の科学者と非科学者の関係性について批判・評価する仕事が必要です。
現在このようなコミュニケーションを仲立ちする機能を持つ機関として、マスメディア・フリージャーナリスト、ミュージアム、コンセンサス会議などが考えられます。ジャーナリズムに限らず、それらの可能性について考えてみましょう。
マスメディアにおいては、例えば複数の専門分野の人材を交えた対談、座談会や特集などの形式の報道があります。ここでは一人の科学者の視点が絶対化されず、参加した科学者自身が他の専門家から学ぶことがあるはずです。また、読者・視聴者や記者からの質問や提案を通じて、科学者が気づきを得ることがあります。例えば、学会の際に科学者は自分に直接関係する分科会しか行かない一方で、記者は満遍なく周るため、他の研究者の情報を取材した科学者に伝え、そこから接点が見つかり共同研究を始めったというエピソードがあります。
ミュージアム、すなわち科学館や博物館では、従来は啓蒙的な展示が中心でした。近年触る・体験するなど来場者の参加を重視したものが増えています。日本科学未来館(科学技術振興事業団)や生命誌研究館では、来場者や一般市民に、科学をおもしろく、わかりやすく展示する方法を問うワークショップやコンテストを行っています。また、ミュージアムはリアルな場所があるため、科学者と非科学者が出会ってコミュニケーション能力を養う場所にもなるでしょう。一方、知識を得たり、自由に疑問を出したり議論をする場として個人や団体のホームページがあります。ノンフィクション作家の最相葉月さんは、『Life Science information Net』*6というホームページを主催しています。最相さんは、ドリーの生みの親、ウィルマット博士にインタヴューした時、次のように言われたそうです。「ドリーは医学的にも科学的にも大きな意味をもって誕生しました。しかし、この技術は間違った方向で使われると取り返しのつかないことになる。科学技術は科学者だけのものではない。この技術をどう使えばいいのか、みなさんも一緒に考えていただきたい。」それで、”非専門家である自分にリスクも含めてわかりやすく説明してくれたからこそ、その説明を聞いて、科学者以外は知らなくてもいいなどと無関心でいる態度は、同時代を生きる人間として、未来の子孫に対し無責任だと思うようになった”ということです*7。
また、市民の感覚を科学技術政策に生かす試みとして、コンセンサス会議がありますい。コンセンサス会議はデンマークで始まり、日本でも研究者団体、市民団体、農水省などにより実験的に行われています。事務局が「遺伝子組み換え食品の是非」などのテーマを決めて、専門家パネルに参加を依頼し、市民パネルを募集します。専門家パネルが基本的知識を市民パネルに伝え、市民パネル内の議論によってコンセンサスにいたる仕組みです。今日は、科学ジャーナリズムにとって専門を横に切るということはどういうことか、という問題提起に始まり、専門家と非専門家のコミュニケーションが両者を利するものであるということを確認しました。そして、メディアリテラシーでの与え合うコミュニケ―ションの実践例をご紹介し、科学リテラシーにおける与え合うコミュニケーションの可能性を探りました。社会の多様な人が、自分の専門や生活を続けながら、他の人に興味をもち、協力したり時には批判し合いながら共生していくことができればいいと思います。
ありがとうございました。
*6 http://homepage2.nifty.com/jyuseiran/
*7 最相葉月、「書評 第二の創造」、『科学2002年7月号』、岩波書店、2002
◆質疑応答◆
●STSの分野で科学リテラシーについて論じられてきたというご指摘がありました。講演中では科学リテラシーについて独自に分類を試みましたが、特に科学教育に関連して様々な定義がなされています。例えば、OECDの学習到達度調査では科学リテラシーを「科学の方法」「科学の概念」「状況」の三つの観点から定義しています。また、全米科学教育スタンダードの内容スタンダード作成委員会の代表者であったBybeeは「無科学的リテラシー」「名称上の科学リテラシー」「機能的な科学リテラシー」「概念的方法的な科学的リテラシー」「多次元的な科学的リテラシー」という枠組みを提案しています(Bybee,R.P.W(1997),”Achieving scientific literacy: from purpose to practice”,Heinman,1-265)。
●「科学リテラシーは、科学的知識を知っているだけでなく、科学がおかれた社会的・歴史的状況についても知ることである」というご指摘がありました。その通りだと思います。メディアリテラシーにおいても、個別の報道を批判的に見る視点を持つためには、マスメディアのおかれた社会的・経済的状況についてある程度知ることが必要になります。
●市民参加型のコミュニケーションの例についての情報をいただきました。「LondonのScience Museumでは、来場者が科学や技術のトピックについてどのように感じているかを館側に伝え、他の来場者の意見も読むことができるというinteractiveな展示のための試みが行われている。www.sciencemuseum.org.uk/wellcome-wingまた、科学について自由に語り合ったり科学者と話ができるcafé scientificにも注目している。」
●「科学ジャーナリズムは教育か?」という質問がありました。教育は、正解を知っている人が知らない人に対してそれを効率的に、正確に伝えるたことを目的にしています。そのため学習目標を定めたり、最終的にそれが達成できたか評価する必要があります。一方で、ジャーナリストは、人々が何か考えることを促し、彼/彼女がそのために必要だと考える情報を提供します。人々はそれに呼応して、各々に何かに気づいたり、考えるのではないでしょうか。■

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