ダワーを読んでの発言(1) なつかしさ・とまどい・希望

投稿者: | 2002年4月18日

ダワーを読んでの発言(1)
なつかしさ・とまどい・希望
笹本 征男
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私はレジュメを三つの主題「なつかしさ・とまどい・希望」としました。私は1944年生まれで、幼年時代は島根県の西部の山村に育ちました。年に1回、祭りがあるんです。ダワーさんの本を読んでいてその祭りのことを思い出しました。つまり自分の国のことでありながら、いろんなことが出てきて、日本の歴史書・小説にもあまりない、井上ひさしの作品に近いようで、お祭りに出会ったような楽しさがあって、読ませます。
ある種の「なつかしさ」とは、戦後の出来事が私の人生そのものに当てはまるのです。私が育ったところは田舎ですから占領軍は見たことない。その意味では占領期については白紙状態でした。
もう一つは1970年代の終わりころ、中央大学の夜間部に入りまして、そこで、たまたま竹前栄治という先生に出会いました。彼のゼミのタイトルが「占領史研究」でした。当時の私の知識には占領史研究という言葉はなかったですから、何を勉強するのだろうと思いましたがゼミに入りました。竹前先生との出会いで今の自分があります。竹前先生は中途失明しまして、50歳くらいで全く目が見えなくなりました。その人が私のような人間を誘ってくれたのが、「思想の科学研究会」の「占領史研究サークル」でした。そこで占領期の勉強を始めました。例えば、当時、左翼の『真相』という雑誌がありました。ダワーさんの本を読んでいて、昭和天皇裕仁が行幸で沖縄をのぞいて全国へ行きます。行く先々で道路がきれいになる。そのときの雑誌『真相』の表紙の絵は「天皇はほうき」でした。それを見た時は面白いと思いました。昭和天皇批判がなぜできたかというと、GHQの後押しがあったからだと『真相』の当時の編集者が語ったのが印象に残っています。
天皇批判で一番有名なのが、丸山真男の雑誌『世界』(1946年)の論文「超国家主義の論理と心理」です。その論文は衝撃的な価値があった。ダワーさんの本のなかにある「検閲」の問題との関連でこの論文のことを考えました。検閲は1945年9月から1949年10月末まで行われるのです。左翼雑誌が14種類くらいあるんです。すべてが事前事後、検閲の対象なんです。そのなかのひとつが『世界』です。検閲が厳しい『世界』に載った「天皇制批判」の論文が、検閲を通っているのです。これはどういうことかを考えていただきたい。この点はこれまであまり論じられてこなかったと思います。
ダワーさんの本の一つの特色は、日本の通史のなかでは描かれたことのない検閲の問題が入っている。これは非常に大事な視点です。ダワーさんは引用していますが、当時、『改造』編集者の松浦総三さんが書いた本があります。それは左翼雑誌を編集する側から見た検閲の問題です。それから私の本の中で取り上げた原爆に関する検閲です。それは縦割り行政みたいなところがあります。ダワーさんのような全体史のなかで検閲に取り組んだ人はいません。それで丸山真男のことを思い出したのです。
なぜなつかしいかと言うと、ダワーさんの本を読んでいくと、当時自分が勉強した通りの道筋があるんです。当時私が一番気になったのは占領軍と普通の被占領者との出会いでした。そのことを調べていこうと思ったけれども、ダワーさんのような本がないので、非常に困りました。その当時の歴史像は今も変わりませんが、日本の政治状況は、縦割り行政です。歴史研究も縦割りの歴史研究です。ダワーさんはそれを壊している。横に並べたというところがあります。
「占領史研究サークル」では、生まれ故郷の島根県に占領米軍がきたのかどうかということを調べ始めたのです。非常に単純なことなんですが、これがなかなか大変でした。記録がほとんどなくて、しょうがないから、当時の島根新聞だけをまとめて調べました。島根県には占領米軍も来ましたが、イギリス連邦占領軍が進駐して来ました。イギリス連邦ですから当時のインド兵、オーストラリア兵とかが来ました。研究サークルではそのことを成果としてまとめました。
このこともあって、これからは日米を含めて日本語圏・英語圏の若者がダワーさんの本に出会えるという、30年前には考えられないことが起こっていると思いました。そのような私なりのぞくぞくするようなおもしろさがありました。
それと同時に「とまどい」もありました。ダワーさんの描く歴史は、従来の日本の歴史を勉強している人が描いている歴史とはずれるんです。叙述の問題、つまり文章の力の問題で言うと、私が知っているかぎり全然、比較になりません。これだけ描ける人は日本の歴史家ではいないと思います。小学館文庫で『昭和の歴史シリーズ』というのがあります。そのなかの一冊に占領期の6年8ケ月を描いたものがあります。それは私もよく知っている神田文人先生という方がお書きになったのですが、それと同時に合わせて読んでいただくと、明瞭になると思いますが、日本の歴史研究者の歴史叙述は随分違います。
一つは、それは構想力の問題にも関わるし、それから日本のさまざまな歴史、学問研究の縦割り行政的な部分も関わって、随分違いがでるんだろうと思います。そういうとまどい、違和感が生まれてきました。猪野さんから言われてこの本を取り上げるのに苦労しました。つまりあんまりやりたくないなあという想いが非常に強かった。それで、なぜとまどいがあるかを考えて、最終的にはダワーさんの歴史に対する見方の根底にあるのは何かと考えました。
それは結論的に言うと、ダワーさんはアマースト大学の英文学科、日本で言えば国文学科で研究をなさっています。ハーマン・メルビルという作家がいて、1850年頃の『白鯨』という作品があるんです。相当長い作品ですが、それを卒業論文で取り上げられたということです。『白鯨』というのは、エーハブという船長が片足になってとにかく白鯨を追い続けるという、一種の神を求めるような小説で、白鯨は人間の存在のひとつの象徴であると思います。
それをダワーさんは若いときに選ばれたということが、なぞを解く鍵だろうと思います。つまり文学的な歴史観、文学的歴史像と言ってよい。それから森鴎外を研究をされたとどこかに書いていましたが、それらを考えるに、ダワーさんの考え方の基調には「個人」、英語ではindividualがあると思います。つまり個人と政府、個人と昭和天皇裕仁がある。あとで話しますが、この本の最初に出てくる「相原ゆうさん」とか、さまざまな人たちが出てきます。マッカーサーも個人です。そういう考え方がダワーさんの考え方の根底にあるんではないか。それがアメリカの民主主義の根底にあるんではないか。
このヒントを与えてくれたのは、ちょうど一週間まえに、占領・戦後史研究会の例会がありまして、そこでかつての思想の科学研究会で出会った近藤さんという友達がいまして、その人(女性)とこの討論会のことを話して、「分からないことがある」と言ったら、彼女が教えてくれたのは、この「個人」という言葉です。彼女は即座に、「アメリカでいう市民とはアフロアメリカン、つまり黒人が入っていない」と言ったのです。
リケット氏(左)と笹本氏
ダワーさんの本では、日本の政治史が書かれていないとかの批判がありますが、ダワーさんにとっては必要がないのだと思います。政治史について書かれたものはたくさんあります。それからGHQ総司令部の内部の問題について書かれたものも随分あります。つまり、なぜそうでないもので、いろんな人を描いたのか。猪野さんも言っていたけれど、そこが私が日本に50年以上生きてきて、日本のなかにおける個人の意味と、ダワーさんがごく普通に考える個人の意味との違いだろうと思います。
これはリケットさんに聞きたいんですが、この本は辞書みたいに厚いですね。辞書みたいに厚い本が、アメリカの人々にどういう衝撃を与えたのか。私はよくわからないから聞きたいなあと思うんです。こういう本は今までアメリカでもないと思います。この厚さですと、20年くらい前に、坂本義和とアメリカの政治学者のR・ウォード親分が編集した『日本占領の研究』という本があります。これは専門家が書いた本です。一般のアメリカ人は読まない本です。
最後に私にとっての「希望」です。ダワーさんは全体史を求めているんだろうと思います。私にとって強烈な印象があったのは「相原ゆうさん」という、当時28歳の女性のことです。この女性のことは第1章の最初に出てきます。これはダワーさんが投書欄で見たんでしょう。この本は1945年8月15日の昭和天皇の録音詔書から始まるんですが、そこをどう描くかというのが、歴史家の非常な醍醐味です。なにから描くか。ダワーさんはそれを相原ゆうさんという人の話から始めて、しかもその落ちというのは、相原ゆうさんの夫はすでに戦死していたというのです。だから破壊された人生なんです。強烈な印象がありました。破壊された人生とは相原ゆうさんの人生であると同時に個人の人生なんです。
それから第11章から13章まで、天皇制民主主義です。英語の章ではimperial democracy です。その中の第3章の一番最後のところに、「渡辺清」という人の話が出てきます。彼の『砕かれた神』という本を取り上げています。非常に衝撃を受けたのは天皇の行幸の話が終わった最後にこれが出てくるんです。締めです。ここにダワーさんが何を賭けたか。渡辺清は敗戦時に16歳の戦艦武蔵の生き残り海軍の水兵です。仲間が死ぬ姿を見ているわけです。16歳の少年が4年くらいたってから苦闘して裕仁と決別した話です。それをあのところに入れたということに、私は衝撃を受けました。ダワーさんは、天皇制なり天皇から決別する日本人をあのように描いてくれたのです。私がこの本のなかで一番感動した部分です。
渡辺清は私より16歳年上ですから、私にとっての神は昭和天皇ではない。ただし、猪野さんが紹介してくれた『米軍占領下の原爆調査-原爆加害国になった日本』で、加害国という言葉を使った意味では私と重なっています。私はこの本で、広島、長崎の原爆被害者をアメリカに「売り払った」のが、昭和天皇を頂点とする天皇制軍事国家であったということを描きました。つまり、一番に敗戦・占領を生きのびようとして「敗北を抱きしめた」のは昭和天皇裕仁です。私にそのことが分かったのは10年以上前です。そのときの私は渡辺清と同じ精神状態になりました。頭が真っ白になりました。ただし、私にとっての象徴天皇は背広を着た天皇で今の天皇である皇太子と一家団欒でくつろいでいる姿です。
だから渡辺さんとは違うのですが、やはり私のなかでは象徴天皇裕仁と決別したことがあります。頭が真っ白になったときに、渡辺清さんの本を読みました。渡辺清は昭和天皇裕仁に「これであなたにはなんの借りもありません」と書いている。この一言で、ダワーさんは天皇制民主主義の章を終わっています。深い余韻を残したまま、終わっています。この部分の英文は”Thus, I owe you nothing “です。簡潔な文章になっています。
それからもうひとつです。福島鋳郎さんという人の話をしたいんです。福島さんは藤沢に住んでいまして、今日も、藤沢市民病院の警備員として働いています。ここに来てくれって誘ったのですが、いまどうしても人出が足りなくて来れない、とおっしゃっていました。ダワーさんが福島さんの仕事を高く評価したことが、私は非常にうれしいんです。福島さんは「占領研究サークル」時代から一緒に勉強していました。
今日、福島さんの著書『戦後雑誌発掘-焦土時代の精神』(日本エディタースクール出版部、1972年)を持ってきました。これはどんな本かというと、30代の福島さんが敗戦直後の雑誌を探し続けるのです。この仕事は公的図書館、公的な研究者も、だれもやっていなかったのです。どうぞご覧ください。
この本は彼が34歳くらいのときの作品です。今も警備員をやっています。そういう人のほんとうに貴重な記録がなければ、ダワーさんだって書けない。これを雑誌文化、カストリ文化とまとめて通史のなかに入れて、日本にもこういう時代があったと英語圏の人々に紹介してくれたのはダワーさんが初めてだと思います。
福島さんは自分と非常によく似た境遇なんです。大学などに所属していませんので、自分の金で全部やったんです。そういうことをやった先輩として、非常にうれしい。だから、猪野さんにも言ったですが、ダワーさんと福島さんと今日いらっしゃるみなさんと藤沢でもう一度、集まれればいいなあと思っています。
ダワーさんを誉めてばかりいるとまずいから、もうすこし話します。
「とまどい」を感じたなかに、最初に占領期のことを勉強したときに、非常に衝撃的なことがありました。象徴的に言いますと、1945年10月10日は、戦前の治安維持法によって逮捕され投獄された沖縄をのぞいた全国の政治犯が、マッカーサーの命令によって刑務所から釈放された日です。東京では府中刑務所から何人かの有名な共産党の幹部(徳田球一、志賀義雄など)が釈放されたのです。そのなかには金天海(キム・チョンヘ)という朝鮮人の活動家もいたんです。そのことは事実として知っていました。ただし、私が「占領研究サークル」で出会った人で、牧瀬菊枝さんという人がいまして、その人も10月10日に府中に政治犯を迎えに出ているんです。そのときのことを牧瀬さんに聞いたんです。「迎えに出た人々のなかに朝鮮人がいたでしょ」と。牧瀬さんは「そうですよ、大半は朝鮮人だったんですよ」と言うのです。
ところが10月10日を描いた歴史書や論文を含めて、当時これを書いた物はほとんどなにもなかった。10月10日に府中刑務所を釈放された人たちの「出獄戦士歓迎大会」が開かれたのです。府中から会場まで行く途中に、お堀端の当時GHQが入っていた第一生命ビルの前で、人々が万歳をやるんです。それはそうですね。戦争というのは勝った側が負けた側の犠牲者を釈放するわけです。物理的にマッカーサーが共産員を含めた政治犯を釈放したことに人々が感謝してもあたりまえです。
その時の行列の写真があるんです。米軍の機関誌に『星条旗紙』があります。その機関誌の記者が撮った行列の写真が10月11日付け『星条旗紙』に載っているんです。写真には赤旗と太極旗(韓国の国旗)が二つ並んでいるんです。私はそれを見たとき感動しました。私が今まで見ていたのは、赤旗だけの写真です。
それは竹前先生が当時の『中央公論』に「10月10日」というドキュメントを書いたときに載せました。言いたいことは、ダワーさんが、戦後の日本は、植民地にした台湾と、朝鮮、中国、満州、東南アジアなど侵略した地域の人々のことをすっかり忘れたと書いていることです。忘れたのです。そこで、ダワーさんに在日朝鮮人の歴史を描いてほしかったなあと思いました。一つの注文です。そうすれば忘却した日本人に対する反証になるのではないか。
原爆のことを書けという声がありますが、私はそうは思わない。ダワーさんは、猪野さんも紹介しているように、スミソニアン国立航空宇宙博物館の問題でも、それからその前にも、随分、原爆のことを研究しています。日本の戦前における原爆製造計画にしても、詳しい論文を書いています。これは翻訳されていませんけれども、”Japan in War and Peace”New Press,1993 という本のなかに書いています。ですから決して関心がないわけではない。なぜ書かなかったかは、おそらく原爆のことは敗北を抱きしめるような関係ではなかったのかも知れない。
私の仮説でいうと、抱きしめたというより、原爆をめぐっては日米の為政者どもが取り引きしている。前にも述べたように、日本の為政者は被爆者を売り払ったのです。当時、重光葵という外務大臣がいましたね。これは私の仮説に関わるんですが、『敗北を抱きしめて』下巻の9章の21頁にあるんですが、1945年9月3日、重光葵が横浜の前線総司令部のあるグランドホテルにマッカーサーに会いに行くんです。
何をしに行ったかというと、マッカーサーは9月2日、日本が降伏文書に調印した後、日本政府に対して軍票を出すと脅かしたのです。9月3日の早朝、重光たちはもう驚いて、「やめてくれ」と談判に行ったんです。そのときに重光はサザーランドという参謀長に会見しているんです。そのときの会見の記録も外務省に残っています。
そのとき重光はこう言っています。「わが皇室は歴史的に終始、平和主義者であった」。実はなぜこれを取り上げたかというと、私の本を読んだ方はご存じかも知れませんが、同じ9月3日に、日本政府代表者が横浜の同じ前線総司令部に原爆被害報告書を提出しているんです。その報告書の英訳を私は発見しました。それを誰が持って行ったか、米軍の記録にないんです。それで可能性としては、重光であろうと考えます。つまり原爆調査でアメリカ軍に全面協力するから「天皇の命を救って下さい」と言えば、それでちょうど割はあうのです。原爆被害報告書の提出は、アメリカ軍への調査全面協力の証しと考えられます。これは重光側の記録にもいっさいありません。
だから重光クラスの人物が、日本側の原爆被害報告書を全面協力の証しとして提出すれば、マッカーサーだって、「ああそうか」というもんです。この後、実は日本政府は国をあげて米軍の原爆調査に協力します。このような意味で、原爆問題は日本にとって根の深いことです。ダワーさんはこのことは十分に理解しているだろうと思います。原爆をめぐっては、別の本が必要かもしれません。
最後にひとつ。この本を読んだ英語圏の人たちがたくさんいるわけです。私たち日本人に会ったら、いろんなことを聞くかも知れない。それから日本の歴史家に注文したいんですが、ダワーさんと同じように、勝者側のアメリカのひとびとの歴史を描いたことがあるかというとないんです。
私はタイトルを考えました。”Undeepening Victory”です。つまり勝利を深化させなかった。そこの世界に生きていた人々の歴史を、逆にダワーさんと同じように勉強して書ける日本人の歴史家が出てきたら、いいなあと思います。日本側でいうと、侵略者としての日本人が被侵略者側の個人を描いているダワーさんのような歴史書があるかというと、まだほとんどないのではないでしょうか。
だから日本人の歴史家がダワーさんを評価し、創造的に批判をするのであれば、それを見せなくてはならない。もし”Undeepening Victory”という本を日本人が日本語で書いて、それが英訳されて、英語圏の新聞に出て、私たちがアメリカに行ったら、日本にはこういう本があるらしいなと、ダワーさんとまったく逆のことを聞かれるような関係ができたとき、おそらくダワーさんが言っている非軍国主義化と民主主義化の成果が出るのではないか。これからどうするんですかと聞かれてそれに私たちが答えるような日米の関係があるといいと思います。
マッカーサーの占領支配について植民地主義的軍国主義的独裁政治と表現していますが、この表現をした人は私が知る限り日本の歴史家にはいません。これから日本側としては自分たちの国のことでありながら、意外に自分たちの国のことがわからないし、まとめられないということです。どんどん議論したいと思います。■

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