環境エッセイ 第2回  「車が売れない」ことの環境的意味

投稿者: | 2010年5月21日

上田昌文
 「車が売れない」――現今の深刻な不況を象徴する事態である。新車を買い控えている人は、今所有する車を使えるギリギリまで使おうとしているのか。それとも車に乗ることそのものを抑えようとしているのか。中には、「もう車は使わない」と別の交通手段に切り替えてしまった人もいるだろう。
いずれにしても背景には、石油価格の高騰(一時の高値は収まったが、またいつ何時高くなるかわからない)と新車に投資する家計の余裕のなさがある。買い控えが生産を直撃し、派遣切りをはじめとする容赦のない雇用の縮小の嵐が吹き荒れている。自動車産業は驚くほどの裾野の広さを持っている(日本の全就業人口の約8%といわれる)から、その影響は深く、長く続くだろう。
 しかし環境的に考えると、20世紀を代表する技術の1つである車は、最大の環境負荷要因の1つであり続けた、と言える。世界全体で今、車はおよそ9億台。もし仮に車が増え続けて、「すべての人が車を所有する」ことになった場合、車が排出する窒素酸化物や浮遊粒子状物質をはじめとする有害物質、温暖化を促進する二酸化炭素などが、壊滅的な規模に達するだろうことは目に見えている。
現在日本では、肺がんをはじめとする呼吸器系疾患の増加が健康問題の最大の懸念の一つだが、タバコの喫煙率だけでは説明できないその原因のかなりのものが、なかなか低減しない都市の大気汚染ではないかと疑われている(大気汚染レベルの高い都市の方が汚染レベルの低い農村部より肺がんによる死亡率が高いという疫学調査がある)。拡張に拡張を重ねてきた道路建設がどれほど膨大な税金を喰い、山林などの自然の生態系を変化させてきたかは、あらためて言うまでもない。石油という有限の地下資源(それが生成されるのにおよそ数百万年かかった)をたかだかこの100年で使い切らんばかりの勢いで私たちは消費しているが、それにも車は大いに貢献している。むろん、交通機関の中ではダントツに高い死亡事故率もある(昭和21年から平成8年までの51年間が経過した時点で、累積の事故死亡者数が50万人を超えている)。
 こうした状況を考えると、「車が売れ続ける社会」が環境的に好ましいものではないことは明らかであり、不況が引き金になっているとはいえ、「車が売れない」ことは、いわば”正常”への引き戻しが起きつつあると考えるべきではないだろうか。つまり、車の使用の適正規模を決める段階に来ているのである。問題は、移動の自由(交通アクセス)という基本的な権利が損なわれないようにしながら、車によって得てきた便益をどこまで抑制し、代替手段で補完していくか、であろう。鉄道(今は瀕死状態の鉄道貨物を含めて)やバス、LRT(路面電車など)といった公共交通へのアクセスを増やし、パークアンドライドやカーシェアリングを進めて、「車に(頻繁に)乗らなくても不便でない」状況をつくり出すには、国や自治体の政策的対応が必要であり、個人に努力を促していくことだけではどうにもならない。せいぜい数人の人を乗せてガソリンを燃やして走る図体の大きな乗り物が、エネルギー効率的にいかに劣悪であるかはもっと知られてよいし、自動車メーカーが「自動車にいかにして、たとえば自転車の快適さ(環境、健康、エネルギー効率などの面、あるいは小回りのよさなど)を持たせることができるか」を研究開発していくことも大切だろう。
車とそれを主軸にした交通システムは、適正な規模に収まるよう人為的に制御しないと持続できない、というあたりまえのことを、21世紀初頭の私たちは「車が売れない」状況を通して学びつつあるのかもしれない。これは、「いつまでも続く(続かせるのがあたりまえの)経済成長」というものの考え方が、転換を迫られていることの、端的で具体的な一例なのだと私は思う。
地中に眠る重油や天然ガスを化石燃料として燃やすことは、いってみれば、植物が数百万年かけてすすめた封じ込めのプロセスを逆回しにする、危険な行為なのである。そのことを心得て、将来に禍根を残さない賢い振る舞いができるかどうかが、私たちに問われている。■

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