上田昌文
●「遺伝子の時代」に生きる私たち
バイオテクノロジーの基礎である遺伝子組み替え技術が誕生したのは1970年代ですが、それから30年近くを経て、人間は様々な領域で遺伝子を改変する力を利用するようになりました。また、遺伝子の詳細な知識を下敷きに、”よりよい生命”をデザインしようとする意向をますます強めてもいます。しかしバイオテクノロジーは、先進諸国においては今後の産業を支える最大の柱の一つとみなされて莫大な金が投資される一方で、現実には遺伝子組み替え食品のように、消費者の誰も必要としないような製品を押し付けてきたり、”クローン人間”を誕生させかねない不気味さを漂わせたりしています。
たとえば次のような事態も予想されます。
前回考察したように、人間に近い霊長類での実験をめぐって、実験を進める側と、実験に反対する側との確執がいよいよ鋭くなってきていますが、遺伝子を改造する技術についても同じ問題が起こります。もし遺伝子を改造してより高い知性や長寿を人間にもたらそうとするなら、実験のターゲットになるのは、その脳が脳科学での必須の実験材料とみなされ、行動や学習能力の研究が進んでいる高等な霊長類、たとえばチンパンジーたちであるに違いありません。「こんなに頭のいいチンパンジーを遺伝子操作で作ることができました!」――チンパンジーにとっては大きなお世話だろうこの科学的達成が新聞の見出しに踊る日は意外と近いのかもしれません。
●生命操作を支える思想とは
一体これは、生命を弄ぶことなのでしょうか?それとも科学が生命と真剣に向き合う以上避けられない成り行きなのでしょうか?
“クローン羊”ドリーの誕生が華々しく報道されましたが(1997年)、この成功をもたらした当の科学者は、クローン技術のヒトへの応用に慎重になることを呼びかける意見が各界から出されたことに基本的には歓迎の意を示しながらも、「(ヒトを含む)すべての動物」を対象としてこの技術の特許を申請していたのでした。その後も、世界各国でヒトのクローン胚の利用を規制する動きが出てくる一方で、それへの挑戦・反逆をあからさまに公言しさえする科学者が後を絶ちません。”よりよい生命”へのニーズがある以上それに技術で応えていくことは科学の使命であり、技術的に可能なことは必ずや実現されるのだ、という推進の論理が、さまざまな反駁にもかかわらず、結局のところ貫き通されている、といった感じを私は受けるのです。
私は、この論理が受け入れられるのは、次の3つの大きな社会的背景があるからだろうと考えます。一つは「遺伝子決定論」とでも言うべきイデオロギー、もう一つはバイオテクノロジーと攻撃的かつ独占的な産業との「搾取のための同盟関係」であり、さらにその2つを支え結び付けているのが、欲望を充足するために自然・生命を改変し設計することを是とする、「操作対象としての自然・生命」という近代科学が生んだ思想です。
ではまず、遺伝子決定論に探りを入れてみましょう。
●あなたにとって遺伝子とは何か?
あなたの持つ遺伝子のイメージとはどんなものでしょうか?
細胞の核の中にはDNA分子があって、その中のいくつもの領域が、それぞれに特定の順序や長さでアミノ酸を配列させるメッセージを含んでいます(そのメッセージはDNA分子中に含まれる「塩基」という部分の並び具合で規定されているので、DNAの「塩基配列」と呼ばれます)。指定どおりにアミノ酸がつながることで個々のメッセージに対応した蛋白質が合成されます。蛋白質は生体を構成している基本的な物質であるばかりか、生体内のあらゆる化学反応を起こす触媒となるなど、多彩な機能を担っています。さらにDNAには蛋白質の合成の時期や速さを調節する機能をもった部分もあります。遺伝子とは、こうしたメッセージや機能に着目した場合のDNA分子の特定「区画」を意味します。
こうしたイメージは、確かに「遺伝子こそは生物の本質であり、生物は遺伝子が規定する形質の集合体にすぎない」という考え方、つまり遺伝子決定論に直結しやすいものでしょう。しかし少し突き詰めて考えれば、はたしてDNA分子の連なりである遺伝子が、生育した環境などが大きく左右するだろう人間の行動、態度、才能、病気になる体質などをいったいどう”決めて”いるのだろうか、という当然の疑問が出てきます。生殖や遺伝など生物であることの最も普遍的で基本的なしくみを自身にかかえていながら、その精確なメカニズムを知ることは難しいので(たとえば「自分の背の高さ」がどのように決まるのか、説明できますか?)、遺伝子を持ち出してわかった気になろうとする傾向が、もともと私たちにあるのでしょう。わからないものをわかった気にさせる神秘的な存在―― それが遺伝子だ、というわけです。
●遺伝子を「操作」することの意味
このような遺伝子のイメージは、実は1980年頃からまさに遺伝子操作技術を用いて続々と明らかにされてきた新しい研究成果によって打ち砕かれてしまったのです。多くの遺伝子が”分断”され明確な境界を持っていないこと、1つの遺伝子の発現には他の多数の遺伝子が関与して複雑な相互作用をしていること、環境の変化に誘発されて遺伝子自身が特定の変化をする場合があること、中には自分の場所から跳躍して動き回る遺伝子もあること……。遺伝子が内部・外部との複雑で流動的なネットワークの中で機能しているダイナミックな姿が浮かび上がってきて、科学者自身が70年代の遺伝子のイメージを突き崩すそうした発見にその都度大きな驚きを示してきました。
DNAは一方向的な”指令の源”なのだから、その好きな部分を切り出して別の生物にそれをうまくはめ込んでやれば、望みの形質が得られる――これが遺伝子操作技術の基礎となる考え方ですが、この考え方自体がかなり的外れであり、実際には遺伝子を厳密に操作することは非常に困難です。たとえ望みの結果が得られても、それをもって「操作することができた」と断定するには、それがもたらすかもしれない影響についてわからないことが多すぎるのです。例えばトウモロコシに「害虫耐性」を持たせること――つまりトウモロコシを食い荒らす害虫を殺す毒素をトウモロコシ自身で作り出せるようにその毒素の遺伝子をトウモロコシに組み込むこと――に成功したとしても、その遺伝子組み替えトウモロコシ自体に他の異変が現れないか、それを長期的に摂取する人間や家畜などの生物に何らかの危害をもたらしはしないか、さらに組み替えられた遺伝子が思わぬルートで外界に拡散したり、害虫が新たな耐性を獲得したりして生態系のバランスが崩れてしまう恐れはないか……といった複雑な問題には何ら答を与えるものではありません。
遺伝子決定論は学問のレベルでは破綻しかけているにもかかわらず、バイオテクノロジーの原理がそれに依拠しているために、バイオテクノロジーに未来を託そうとする社会では、それが間違ったイデオロギーであるとはなかなか認知されないのでしょう。複雑な現象を過度に単純化してとらえ、その単純化したモデルからはみ出るようなことや調べきれないことを予め切り捨ててあたかも存在しないかのごとく扱い、そうした欠点を衝かれると「危険であることをはっきり示せない限りは安全とみなす」という粗雑な論理を持ち出して押し通そうとする――バイオテクノロジーには、近代科学が”開発”と結びついて生まれるところのこの不遜な一面がとりわけ強く表れているのではないか、と私は考えています。
●ゲノム時代の医療は福音か?
「ヒトゲノム計画」によって、全部で約30億対あるといわれるヒトのDNAの全部の塩基配列がほぼ解読されたと発表されました(2000年6月26日)。この成果を受けて、DNA上にそれぞれどんな機能を持った遺伝子を特定することができるかという一種の情報解読作業が加速していくことになります。ヒトゲノムの解析はとりわけ医療分野での大きな革新をもたらすだろうと関係者は期待をこめて語っています。確かに、膨大な遺伝子データベースを活用しつつ個々人の遺伝情報の差異を足がかりにして、生体内の生化学反応の個人差を予測してその個人に適合した薬の設計や調合が可能になるかもしれません。また、あなたが健康診断を受けるとき、あなたの血液を調べて得られた遺伝子データをコンピュータで解析して、医者はあなたが将来かかるだろう病気のリストと罹患の確率をグラフで示しながら、治療と予防のメニューの選択をあなたに迫ってくるようになるかもしれません。
しかしここでも注意が必要です。遺伝子は外部との複雑でダイナミックな相互作用をしながら働くものであるし、生命活動の中には遺伝子には直接関係しない要因(たとえばある種の環境的要因)に左右されるものがたくさんあるため、現実には「いつ、どの程度発症するか」といった病気の予知は非常に難しく、特定の遺伝子情報に対応した治療法もほとんど確立していません。遺伝子解析に基づく医療には様々な限界があると思われます。
現在、遺伝学者たちは癌、糖尿病、アレルギー、アルツハイマー病などに関連した遺伝子を躍起になって探しています。そればかりか精神分裂病、アルコール依存症、同性愛、犯罪性など、常識的に考えれば環境や社会の影響が圧倒的に大きいだろうと推定できる”病”までもが遺伝子探しの対象になっています。
このような研究は下手をすると、「正常」と「異常」を遺伝子の有無で判別するような恣意的な分類につながり、本来あるべき医療の姿や健康のとらえ方をゆがめてしまう恐れが充分にあります。「あなたの病気はあなたの遺伝子のせいだ」という断定は、「遺伝子によって決まってしまっているのだからしかたがない」あるいは「その(悪い)遺伝子の(悪い)働きを変えたり緩和したりする治療があるなら、それを受けるしかない」という判断や選択を個人に強いるのです。本来なら病を生み出す社会の側の原因に注がれるべきまなざしが、そこで遮断されます。遺伝子の研究は進むけれども(そして、新しい医療を施す側は儲かるけれども)、癌はいっこうに減らない……そんなおかしな状況が到来していないとも限らないのです。
●遺伝子と「命の選別」
さらに「障害」というものをどうとらえるかという点でも、遺伝子研究の進展は新しい問題を私たちに突きつけています。
日本でも急速に普及している技術に、妊娠中の母親の血液を採取して胎児がダウン症であるかどうかを検出する出生前診断(母体血清マーカーテスト)がありますが、この種の検査を着床前の段階で行う「受精卵の遺伝子診断」も米国ですでに実施されています。体から取り出した卵子と精子を体外受精させ、その受精卵に遺伝子診断を行い、「正常な」受精卵だけを選別して子宮に戻して、障害をもつ恐れのある子どもが生まれるのを予め防ぐ、というものです。これには、母体にかける負担(ホルモン剤投与や多胎妊娠の危険)の問題や、遺伝子が詳しくわかればそれだけたくさんの検査法が開発され、検査する側がますます儲かるという一面もあります。
恐ろしいのは、いのちの選別という技術的解決が、「障害」に対する私たちの想像力を鈍らせ、「障害=行く末の不幸=排除すべきもの」という傲慢な決めつけを社会に浸透させてしまうことです。遺伝学が「人類を改良し、健全なる子孫を残す」ことに熱を上げ、国家が断種や抹殺を正当化した歴史があったことを、私たちは忘れるわけにいきません。
より健やかにより長く生きたいという欲望の存在自体は、誰にも否定できないことなのでしょう。しかしだからといって、技術の力を強めてその欲望を無制限に満たしていくという選択は、はたして正しい選択なのでしょうか?そしてそうした金のかかる選択を皆が取れるようには決してならない――富める者と貧しい者の間の命の線引きが露骨になる事態が、技術の進展によって引き寄せられてきているのではないでしょうか?
●バイオの時代に必要なまなざし
以上の考察からうかがえるのは、バイオテクノロジーを使って私たちはどんな社会を到来させようとしているのか、そこにまなざしを向けて、できる限り幅広く、そして先の方まで見渡しておく必要があるということです。日々もたらされる技術的革新を、私たち一人一人は自分の”ささやかな願望”(たとえば「五体満足な子が欲しい」)を満たしてくれるものとして受け入れているだけなのに、そのミクロの選択の集積が社会全体としてみるとマクロの方向付けを決定的にしてしまい、いつの間にか、その方向に同調しない者を排除する差別社会を、そして本来必要な規制がないがしろにされる陰で、潜在的にその可能性を高めてきた厄災が一挙に暴発する事態を、招いてしまうかもしれません。「ロボットに生物の機能をどこまで付加できるか」――愛玩物としてのペットロボットの出現を微笑みながら受け入れている私たちですが、この発想はじつは、「生物や人体をロボットを設計するかのごとくいかに工学的に操作できるか」というバイオテクノロジーの発想と相通じるものであり、いずれこの二つがどこかで交錯し始め、私たちの生命観を大きく変えてしまうかもしれないのです。
遺伝子の研究は、決して単なる”生命を司る未知なる言語の解読”という知的探求にとどまるものではなく、またこれまでの医療手段を増強するだけに終わることもないでしょう。必ずや人間の改造へと道を開くことになるでしょう。
(『ひとりから』2001年6月 第10号)