上田昌文
●生命の選択と操作という流れ
あなたの元に一通のパンフレットが届きます。「あなたの細胞を当社にお送りくだされば、当社ではそこからDNA抽出・精製して100倍に増やして、永久に保管いたします。そうすれば、(1)遺伝子からあなたの成功や才能や美貌や業績を分析でき、(2)親族の身元が確認でき、(3)あなたの遺伝子を増殖して頒布でき、そして将来には(4)もう一度あなた自身を再生することができるでしょう」……。
冗談とも本当とも判断しかねるこのサービスは、米国のバイオテクノロジー関連のベンチャー企業「インモータル・ジーンズ社」(”不死の遺伝子”社)が、実際に35ドルの手数料で請負っているものです。
遺伝子の研究が進めば進むほど、こうした怪しげなビジネスがはびこりそうな気配です。この手のビジネスは、前回述べた遺伝子決定論を甘言にまぶして臆面もなく持ち出してくるものですが、その荒唐無稽さを見抜くことは、もうあなたには難しくないはずです。しかしこうした現象は、大きな流れが巻き起こしてしまう小さな渦のようなもので、すでに確たる流れが形成されていてこそ、そこから派生する様々なうごめきが私たちの耳目に入ってくるのだと考えなければなりません。ではその「本流」とは何でしょうか?
それは、遺伝子のレベルを含む「(よりよい)生命を選択し、(望みどおりに)操作する技術」の進展であり、それを受け入れていくことで必然的にもたらされる社会全体の価値意識の転換あるいは変質です。障害をもって生まれてくるだろう子どもを予め診断によって選別し中絶してしまうこと(出生前診断による選択的人工妊娠中絶)や体外受精させた受精卵の遺伝子を調べ異常が検出されれば廃棄すること(着床前診断)、そうした診断を広く社会に推奨し遺伝病の発症を大規模に抑え込んでしまうこと(遺伝病のマス・スクリーニング)などが主たる問題です。価値意識から離れて客観的にみえる科学的言明(「遺伝子を調べた結果、あなたのお腹の子どもは**病になる可能性が高い」)が、まさに深く価値意識にかかわり、私たちの命へのまなざしを否が応でも左右することになる事態に、私たちは今立ち会っているのだと言えます。
●誰が「障害」を決めるのか
この流れの意味を見極めるのに一番肝心なのは、私たちが病や障害というものをどうとらえるのかということです。
「健康でいられることは幸せである」という漠然とした思いがあり、その幸せを侵害するものを、できれば予防し、診断し、治療することが望ましい、誰も不要な苦しみを背負っていたくはないのだから――といいうのが私たちの「病」に対するおおよその見方でしょう。ここで注意しなければならないのは、誰も完全な健康を保ちつづけられる人などいないし、たとえ病を免れたとしても最終的な死を免れる人はいない、という極めてあたりまえのことがらです。延命治療のテクノロジーが、さまざまな困惑や問題(安楽死や尊厳死の是非、「脳死」体の利用の是非など)をもたらしていることからわかるように、医療技術の進展が私たちの「あたりまえ」と認識していることを突き抜けて、あたかも”苦痛の完全除去”や”病の根絶”や”不死”を理想とするかのような独走を始めると、病や死を受け入れることで築かれてきていたようにみえる私たちの中の何か大切なものが、引き裂かれたり失われたりしていくように思えます。つまり、「健康」の対概念として「病」を持ち出し、「病」を追放することで「健康」が確保できるのだという考え方には、どこかしら欠陥がありそうなのです。
では、「障害」に対してはどうでしょう。「病」について今述べたことがもっと如実にあてはまるのではないでしょうか。
まずもって、「障害」であるかどうかを誰かが決めることが本当にできるのでしょうか?変な例ですが、たとえばあなたが「納豆が食べられない」人だったとして、それは明らかに障害ではないのですが、しかしあなたの周りの人々があなたを除いて全員「納豆を食べることができる」場合に、あなたは「障害を持っている」と言われる恐れはありませんか?この”納豆”の例を”左利き”に置き換えてみてもかまいません。左利きの人が今よりももっと極端に少ない社会を想像してみてください。左利き用の品々を社会は進んで用意するでしょうか?それとも左利きを「障害」とみなして、その負担を個々人に背負わせようとするでしょうか?
●障害を持つことは不幸なのだろうか
この例からわかるのは、社会の中で「多数派」が自らを「正常」と認知することで、すべからく「少数派」が「異常」と規定され、その線引きによって「障害」が作られているという面があるらしい、ということです。
私たちの心の中にはどこかしら「人並みに生きることが幸せの最低ラインだ」という思いがあるのでしょう。その”人並み”からの脱落をもたらしそうになる心と身体の差し障りを「障害」と名づけて、そこからの距離で自分の幸せを計ろうとする傾向があるようなのです。この皮相なものの見方を克服するのはなかなか難しいことで、実際には、自分の人生に思ってもみなかった負の事態が生じて否応なくの価値観が変わっていくという経験の有無がかかわってくるように思えます。まさに障害や困難や苦しみを経験することで人生の幅広い見方やたくましい生き方を体得していく――人間にはそうした面があることを、私たちは忘れるべきではないのです。世に認められる業績を上げ、人より秀でた評価を受けることだけが立派な人生だと信じ込むような薄っぺらな人生観からは、残念ながら、障害を肯定的に受けとめる心の度量は生まれてきそうにありません。
●障害の本質とは
いろいろな人々がいて、いろいろな幸せの形があるのだということ、そしていわゆる「障害」を持っていてもごく普通に暮らしているケースはいくらでもあるということを私たちはもっと深く肌身を通して実感する機会を増やすべきでしょう(障害を持った人々がどのように生活しているかを実際に知らないからこそ、多くの人は「障害=不幸」という短絡的なイメージに引きずられてしまう、とも言えます)。障害といっても実に様々な場合があり、しかも障害がそれを持つ人のすべてを規定しているわけではありません。また、重い障害を持つ人が現実に大きな負担を背負いつつ様々な制約を被りながら生きているとしても、その人がそのことに負い目を感じたり、ましてや社会がその人の存在を邪魔者扱いし差別するようなことがあってはならないはずです。
障害を持つ人は、心身の機能不全状態そのものよりも、周囲の目やあまりに「健常者」向けに出来上がっている生活環境と自分との相容れなさに苦しむことが多いのです。私たちは、社会の側が築いてしまっているそうした障壁やつれなさこそが「障害」に他ならない、と認識すべきなのではないでしょうか。
●自己決定という陥穽
医者が「念のために検査をしておきましょうか」という言い方をするとき、別段「必ず検査を受けさせよう」と思い定めているわけではないはずです。検査の説明を充分にした上で、出生前診断を受けるか否か、さらに受診の結果に応じて胎児を中絶するか否かの選択をすべて妊婦自身に委ねること(「自己決定」)が、生命の選別を強制しないで患者自身の権利を尊重する正しいやり方であると広く認められているからです。
しかし障害を持って生きていくことがそうでない場合と比べて多くの困難を伴うという社会の状況があり、それを個人の力だけで容易に変えることができない以上、「自己決定」は原理的には「自己で引き受けきれないものを、引き受けた(だから責任も本人だけにある)と言わしめてしまう」圧力として作用するのです。現実には「私は受診しません」と言える人がどれくらいいるか、大変疑問ですし、そもそも出生前診断ができるという情報を提供すること自体が、障害を取り巻く既存の価値観を前提にしてなされる以上、受診し中絶を選択することを暗に促すようなものです。
本来なら社会の側の条件を整備していくことで差別をなくし、できるだけ多くの女性にたとえ胎児が障害を持っていたとしても出産してもらうようにする、という方向を目指すべきなのですが、「自己決定」だけで事足れりとする考え方では、それは不可能です。いやかえって個別の自己決定の結果(選択的中絶)が集積して、特定の病気や障害を持つ子どもの出生が激減するという事態も生じています(英国での二分脊椎症のケース)。担当専門医が極端に少なくなったりして、その病気を抱えた少数の子どもたちがさらに追いやられようとしている姿を、あなたは想像できるでしょうか?
●現代の優生思想
生命を操作するテクノロジーは、「障害を除去すれば不幸は避けられる」という皮相なものの見方・感じ方につけ入り、それを強化します。テクノロジーは基本的には多数派に受け入れられることで利益を生み、その利益を拡大すべく開発・更新されていきます。障害を持った子どもが生まれ出ることを可能な限り回避しようとする技術が受け入れられ普及するということは、”選択の自由”(自己決定)の名のもとで、世間的な無難な基準に迎合していくという無言の強制が働いているということを意味します。これが、現代の優生思想の大きな特徴です。
何が”人並み”であるのか、本来人それぞれに思いは違っているはずなのに、それが科学の言葉で「正常」と「異常」の区分けがなされると、どうしても自分を「正常」の側に留めておきたいという気持ちに人々は追い込まれてしまうのです。少し深く考えてみれば、実に怪しげで恣意的な線引きに過ぎないかもしれないこの区分けが絶対視され、社会全体でこの「正常」からの逸脱を監視し、排除しようとする力が強くなっていくのです。「ある特定の人々が社会に生まれないようにすれば、社会はもっと良くなるだろう」――いったんこんな考え方を認めてしまえば、あたかも坂道をころがるように、排除の論理に歯止めが利かなくなります。それこそが「優生社会」の恐ろしさではなかったでしょうか。
ナチスドイツによる障害者の抹殺(T4安楽死計画)や日本のハンセン病患者への強制隔離や断種などを典型とする優生社会が20世紀前半に出現したこと。戦後間もなく成立し、その後、公式統計上総計84万5000件(1949-1996)に上る不妊手術を人々に強いてきた日本の「優生保護法」が、かくも長く存続したこと。そして遺伝子研究や生殖テクノロジーの開発が加速し、さまざまな遺伝子診断や出生前診断が普及する勢いであること。装いは変化するものの、こうした事態に共通して見出すことのできる「優生社会」を求める私たちの心性、そしてそれを誘導し強化するように働く生命操作技術の進展とその産業化を厳しく見つめなおさねばなりません。優生思想を超える、障害と命をめぐる新しいまなざしは、そこからしか生まれてこないだろうからです。
(『ひとりから』2001年9月 第11号)