連載「生命へのまなざしと科学」(7)遺伝子へのまなざし(3)商品としての生命

投稿者: | 2002年6月14日

上田昌文

●商品化される身体組織

人体は、それをうまくパーツに選別して本人以外の人の利用に供する技術が進めば進むほど、「商品」あるいは「資源」としての性格を強く帯びるようになります。臓器移植は、それを受ける側の人にとって生き長らえる道が開かれたという点では恩恵となりえるものでしょうが、移植が社会に容認された途端に、身体を臓器ごとに”値踏み”しようとする力学が働き出すことは、避けることができません。

現在の日本では輸血に必要な血液の供給が献血というボランティア行為に支えられているのは事実ですが、エイズ感染が世界的な問題となるまで「売血」を容認してきた国も少なくありません(薬害エイズ事件以降改善されたとはいえ、日本は未だに海外からの血液製剤にかなり依存しています)。また今では、血液は毛髪とともに個人や特定集団の遺伝情報を収集するための格好のサンプルであり、商品的価値の高い血液サンプルを求めてバイオ研究者たちがそれこそ”血眼”になって世界中を渡り歩いています。臓器売買にいたっては、合法的に売買が行なわれていたり(フィリピン)、法的には禁止されながらも世界全体の七割以上を占める腎臓売買が黙認されていたり(インド)、死刑囚から同意なしに臓器を摘出したり(中国)といった事例が報告されていますが、私たちはそれらに対してほとんど有効な反論や防止の手立てを持ち合わせていないのです。

●受精卵、胎児、新生児

「人体商品」は何も抜き取られ切り取られるものだけに限りません。身体から生み出されるものも標的にされます。

たとえば臍帯血(さいたいけつ)。新生児の臍(へそ)の緒とそれにつながる胎盤に含まれる約80ミリリットルの血液のことです。赤血球や白血球、血小板などを造りだす造血幹細胞がたくさん含まれているため、臍帯血は骨髄と同様に難病治療に役立つことがわかっていて、将来の移植に備えて凍結保存する「臍帯血バンク」も設立されています。白血病や再生不良性貧血など重篤な病気を治すことができ、高齢化社会を迎えて増加が見込まれる骨粗しょう症などには、この臍帯血に含まれる幹細胞から作った”培養骨”を注入する治療法なども開発できるというのですから、赤ちゃんが生まれると同時に廃棄されていた臍の緒を有効に利用するよい話のように思えます。ところが、ひとたび私企業が臍帯血の商品化に乗り出せばどうなるでしょうか? おむつ会社やマタニティ雑誌社の顧客リストを手に入れ、「あなたの子供が将来受けるかもしれない医療で、必要になれば即座に入手できるように」という触れ込みで、臍帯血の私的保存を売り込むでしょう。血液の急速冷凍保存技術を自社で開発できれば、それで特許を取り、そのことをもって収集した血液の「所有権」を主張するでしょう。それが通れば、臍帯血を用いた治療が施される度に自動的に特許使用料を手にすることができます。実際、バイオサイトという米国の会社がやろうとしていることがこれであり、欧州特許局はこの会社の特許権を認可したため、大きな社会問題となっています。

ますます盛んになってきている体外受精ビジネスにおいても似たような事情があります。治療を受ける不妊患者から採取した卵子や受精卵が、治療の都合上余りを生じてしまうため(「余剰卵」と呼ばれています)、その余りを研究に利用することが公に容認されようとしています。このことの是非はおくとしても、実際に大学病院の医者が患者の卵子や受精卵を盗んで密かに売りさばいていたという事件も起きているところを見ると、商業利益がちらつく限り医者が患者に告げぬまま患者の身体組織やその身体から生み出されたものを”搾取”するかもしれないという恐れはなくなりません。いや、医者だけではありません。葬儀屋や検死官や死体保管場の従業員などが死後間もない死体から臓器を盗み出していたという報道もありました。

中絶胎児の細胞や組織を医療に活用しようという研究もあります。現在米国で論争の渦中にある問題ですが、もしも中絶胎児を使用することで成功率の高い再生医療や臓器移植が実現できるとすると、いったいあなたはそれにゴーサインを出すのでしょうか?

●研究とビジネスの一体化

人の身体組織、細胞、遺伝子という「資源」を入手できる立場にある病院や研究機関や大学は、自分が豊富な「資産」を所有していることに気付きます。そして、拡大を続けるバイオテクノロジーの市場にあって、サンプルの入手権、制度的な優遇措置、特許権など様々な儲けの手立てを打ち立てて行きます。バイオ企業と大学との結びつきはいよいよ強くなり、今や世界の主要な遺伝学者・分子生物学者の大半が、バイオ企業の重役やコンサルタントであったりします(米国などでは、バイオ関連企業の株主でない生物・医学の研究者を探すほうが難しいかもしれません)。バイオ企業から大学への資金提供は増額の一途をたどっています。教授自身が大学のキャンパスの中で起業する場合も少なくありませんから、もうこうなると、何が公的資金で何が私的な営利目的の投資なのか、区別がつけられなくなってしまいます。他人を出し抜いていち早く技術開発し、特許制度を利用してベンチャー企業を立ち上げる。収益の見込みが高ければ、それはやがて巨大な世界的企業に吸収合併されていく……といった流れがあたりまえになってきているのです。

産学癒着の危険性(「御用学者」の存在、独立した自由な研究の衰退など)はこれまでいろいろ指摘されてきましたが、その声は今やかき消され、遺伝子研究での産学協同は史上類を見ないにものになっています。大学や国立研究機関が国民の税金を使って生み出した発見・発明であるにもかかわらず、それが研究者というパイプを通して、民間バイオ企業が儲けることに利用されてしまうという事態を、私たちは見過ごしてしまっていいものでしょうか? しかもそうした企業が特許という手段を使って、「生命」を巧妙に商品化し私的に独占する結果、値段を吊り上げられた(不必要かもしれない)製品やサービスを押し付けられるのは私たちの方なのですから、これは割の合わない話と言えるのではないでしょうか?

このエッセイでは具体的なお金の流れにまでは踏み込めませんが、喧伝されるバイオテクノロジーの商品的価値とその背景を今述べたような文脈で正確に分析すること、すなわちバイオテクノロジー(研究)と攻撃的かつ独占的なビジネス(産業)がいかなる「搾取のための同盟関係」を築いているかを抉り出すことは、非常に大切な仕事であると思われます。

●生命に「特許」は許されるのか

ここで生命を商品化する上で鍵となる「特許」という考え方について検討してみます。

 「遺伝子の特許」という言葉が実際には何を意味しているのか、あなたには想像がつくでしょうか。人間が新しい遺伝子を「発明」したということなのか? それとも自然界にある遺伝子に何らかの巧みな修正を加えた「発明品」を作ったということなのか? 

いや前者ではもちろんなく後者でさえない場合もある、と言えば驚かれるでしょうか。「ある遺伝子を見つけ出した」ということにはいろいろな段階がありますが、「その遺伝子が持つ特定の情報に関連したDNA分子の特定の配列を読み取った」ということもその一つです。配列の読み取りを誰よりも早く行いさえすれば、それで特許を取れる場合があるのです。これは明らかに「発明品」ではありません。では「発見」か? 確かに「発見」ではあるのですが、では例えば自然界の化学元素――「周期表」にたくさん載っていますね――を発見した化学者たちのうち、いったい誰がその発見で特許を取ることを想像したでしょうか? 「遺伝子特許」は明らかにナンセンスな話なのです。

特許の本質は、一旦それが認められると所有権が発生し売買可能な商品を生み出すことができるという点にあります。容易に想像できるように、この地球上の多種多様な動物や植物(伝統的な家畜、栽培植物・在来植物とその種子を含む)が持つ様々な遺伝子から”有用な”ものを拾い出してその配列を調べ上げたり、それらを”役立つ”ように若干改変したりして特許を取り、その動物や植物の「使用料」を巻き上げられるようにする――などといったことが許されれば、とんでもない遺伝子資源の略奪が横行し、農民は搾取され、伝統的な農業は衰退するでしょう。現にこれが先進国のバイオテクノロジー企業が第三世界に対して行なおうとしてきたことであり、第三世界の国々から「生物学的植民地主義」「生物学的海賊行為」と猛烈に非難されながらも彼らは今でもその目論見を放棄してはいません。動植物に限りません。孤立して生活している少数民族の遺伝子サンプルが”有用”だとわかれば、先進国の遺伝子ハンターたちはそれを見逃そうとはしません。

●「生命の商品化」が恐ろしいわけ

生命(人の遺伝子や細胞や組織など)の商品化が、言い知れぬ不快感・不安感を私たちにもたらすのはなぜなのでしょうか。

例えば、献血は社会に受け入れられるけれど売血は忌み嫌われているということには、明快な理由があるように思われます。前者は利他的な行為であり、見知らぬ者に対してであれ社会的なつながりを肯定する”参加”の一形態です。ところが後者は経済的な自己利益が最大の動機になっています。臓器移植はどうでしょう? 提供する側は形式的には利他的な無償提供を行なうにもかかわらず、提供される側でそのチャンスを得る人は一部に限られるという事情のある限り、排他的・利己的な選択とならざるを得ません。ましてや、作為的な「死」の定義によりかろうじて摘出が可能であったり、提供する本人の同意の取り付けもままならない事態も起こりえるとなれば、すんなりと行くはずもありません。明らかに「社会的なつながりを肯定する」という側面のどこかが損なわれているのです。

身体は単なるモノではありません。身体とは、私たちが生物として生態系の中で生き、人間としてコミュニティの中で生活してきたことによって、様々な文化的な象徴性を帯びるに至った統合的で根源的な存在です。この象徴性があるからこそ私たちは身体を「命」と同一視します。この事実をないがしろにし身体をモノ化する事態に直面すると、私たちは自分の尊厳が傷つけられたように感じ、何か内から突き上げられるような恐怖を感じます。これは当然のことなのです。私たちには生まれついたもの・育まれたものとしての「生命を生命として感じるまなざし」があるのですから。
バイオテクノロジーによる人体の部品化・商品化がさらに進行すれば、社会がバイオテクノロジーに対して不信や不安を募らせていくだろうと思われますが、それは私たちにこの「まなざし」があるからです。しかし恐ろしいことに、生命の部品化・商品化が浸透すればするほど、私たちの身体・生命のあり方が変質し、「生命を生命として感じるまなざし」がいつの間にかすっかり様変わりしてしまうかもしれません。私たちはそのことを心に留めながらバイオの時代に向き合わねばならないのです。■

(『ひとりから』2002年6月 第14号)

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