進化論と創造論の衝突-ユージニー・スコット博士を迎える前に-

投稿者: | 2003年3月28日

進化論と創造論の衝突-ユージニー・スコット博士を迎える前に-
小林一朗
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★第1 5 6 回 科学と社会を考える土曜講座
進化論と理科教育
市民科学研究室・文京学院大学鵜浦研究室共同企画
○ 1 1 月2 9 日( 土) 午後2 時~ 5 時 
 6 時から簡単なパーティ
○講師:Eugenie C. Scott(ユージニー・スコット)博
士(全米科学教育センター所長)
○文京学院大学S21 教室
○参加費:無料(パーティ参加者は千円)
米英両国によるイラクへの攻撃が秒読みになった頃、アメリカ南西部に多く信徒を持つ「キリスト教原理主義」について繰り返し報道された。「フセインは悪魔だ!」と主張する宗教指導者と、攻撃的な講話に陶酔して聞き入る信者の姿をみて、私は打開策を見つけられなかった。彼らはブッシュ政権の中心的支持層となっており、信仰心に忠実だ。世界は聖書の言葉どおり創られ、人間も神が創造した存在であり、生物の進化は認めないという立場を取っている。
彼らは、中絶やクローン人間研究に反対しているので、一見ヒューマニストのように思えるが、異教徒や自分たちの信仰に反する者に対しては態度を裏返す。中絶手術を施した医師が殺害される事件を耳にしたことがあるだろう。信徒全員が暴力的なわけではもちろんないが、彼らの創造論信仰が学校教育の現場に持ち込まれそうになっていると聞けば、容認できないのではないだろか。
1925 年にアメリカのテネシー州の小さな町で、国中を揺るがす出来事があった。当時、テネシー州ほか4州の公立学校では、法律で進化論を教えることが禁じられていた。生物学教諭スコープスは、授業で進化論を教え、裁判にかけられたのである。通称「モンキー裁判」と呼ばれるこの裁判は、創造論信仰と進化論が激しく衝突した事例として、記憶されている。一審でスコープスには、有罪判決が下ったが、その後の控訴審を経て、あいまいなまま終結した。以降、徐々に「反
進化論法」は除かれていったが、よりダメージを負ったのは科学の側だったという。生物の教科書からも進化論の記述がなくなっていったからだ。この事件を題材にして制作された「インヘリット・ザ・ウィンド」という映画(表紙に試写会のご案内)では、人間の理性を信じるスコープス、彼を応援するために都会から駆けつけた弁護士や科学者と、信仰を頑なに守ろうとする創造論者との対立が描かれている。しかし、実際にはスコープスは「地元の話題づくり」のために担がれたようであるし、映画の本当の目的は、「進化論対創造論」の対決ではなく、当時激化していた「赤狩り」と言論弾圧を批判するためのものだったという1)。
現代の創造論運動はより巧みに進歩を遂げている。創造論の支持者たちが、州の選挙で選ばれて教育委員の地位につき、教科書選択を通じて創造論を浸透させようという戦略である。また、かつてのように創造の期間を「7 日間」に拘るのをやめ、地質学と大きく矛盾しないように、地質年代の1 タームを一日と解釈する「創造科学」を主張している。こうした創造論側からの介入に対し、科学者の側は必ずしも言論で対抗できない。それぞれの分野の研究に多忙であり、また公開討論の場ですべての質問に聴衆が納得する形で回答することが難しいからだ。相手を窮させることで、自分たちが正しいような印象を残すことは、そう難しいことではない。
生物の進化とは、通常の科学分野とは異なり、実験による証明ができない。進化の瞬間を、再現性をもって検証することは不可能だ。そして、生命の発生からヒトの誕生に至るまでのすべての過程を、統一的な理論で語ることも困難である。創造論者はそうした進化論の性質をついてくる。どこかに立証不可能な点があれば一足飛びに「だから創造論が正しい」とする。また科学者間の見解が大きく異なることを理由に、「進化論が間違っている」と主張されることもある。
民衆は物事を判断する際、常に論理的な理解に基づいて意思決定をするわけではない。感情やその場の雰囲気、「どちらが正しそうにみえるか」で判断してしまうことも少なくない。私も進化論批判が詳しく掲載された生物創造のテキストを読んだ際、自分が見逃していた進化論の欠陥を指摘されたと感じた。確率からして、ランダムな突然変異をきっかけに、個々の生物と生態系の秩序が生まれるとはどうしても納得できなかった。(無秩序から秩序が形成される分野の科学が発展し、様相はずいぶん変化してきたと思われる。それでも謎はつきない)こうした状況に対応する専門組織として「全国科学教育センター」が作られた。今回招聘するユージニー・スコット博士はセンターの所長を務めており、先日亡くなられた「断続平衡説」でお馴染みのS.J. グールドらと協力しながら、生物学の立場で、創造論者と向き合って来た。
重要なのは「科学の知識」よりも「科学的思考」である。知識が十二分にあったとしても、思考のトレーニングができていなければ、簡単にカルトや創造論に転じてしまうこともありえる。オウムの一件でまさにそうした科学教育の課題が露呈したことを覚えているだろう。
最後に、のちにローマ法王にも引用された神学者ガリレオの言葉を掲載しておきたい。
「『聖書』が私たちに教えようとしているのは”How to go to heaven ” であって、”How the heavens go ” ではない」
ガリレオもダーウィンも言い残したように、私も信仰と科学は矛盾しないと思う。

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