連載「生命へのまなざしと科学」(10)性差の科学と性差別(1)

投稿者: | 2003年3月14日

上田昌文

●科学と性の関係を問うこと

「性」は言うまでもなく、個々の生命の誕生と世代を繋ぐ連続性を支える、生物の最も基本的なメカニズムです。有性生殖を行なう生物の「オス」と「メス」を、人間の場合は「男」と「女」と呼び習わしているわけですが、この男・女という言葉の存在は人間の性がオス・メス以上の意味合いを持っていることを示しています。ではそれはどのような「意味合い」であり、オス・メスであることとどう関係しているのでしょうか。

誰もが逃れることのできない「性」という生物としての刻印は、「生」の最もプライベートな部分に関わるが故に一般化したとらえ方を常に阻むものでありながら、一方で「生」のあり方を決めるあまりに基本的な要素であるが故に著しい社会性がそこから生まれずにはおかない、という”ゆらぎ”を持った問題として立ち現われてきます。「オス・メス」の次元を客観的に扱っているように見えながらじつはそれにとどまらない「意味合い」を社会にもたらしているという点で、科学はその”ゆらぎ”にしっかり絡んでいるのです。

今、性の問題と科学とのかかわりを3つの面からとらえてみましょう。3つの端的な問いとしてそれらを整理すると、「なぜ科学者に男が多いのか」、「男と女の違いを科学はどう説明しているのか」、「科学という認識活動は男優位社会(男社会)のあり方と深い関係があるのではないか」となるのではないかと思います。

●性差の認識と性差別の現実

人はいったいいつから性差を感じるようになるのでしょう? それは思いのほか早い時期で、なんと赤ちゃんが言葉を話す前から何らかの性差を感じ取っているらしいと示す研究もあるほどです。人は成長するにつれ、社会生活をとおして性差をめぐる社会の価値意識や行動様式を自分の中に浸透させていきます。世に流通する男や女のイメージに何かしらの違和感を覚えることがあっても、それを個人で言語化し行動に反映させていくのはなかなかやっかいです。個々人の性意識はかなり多様化してきているようでありながら、しかし社会全体としては歴然とした性差別の現実を引きずっています。

今の社会が男性優位社会であることは、いろいろな職業において就業者数や待遇で男女差があることに統計として明確に現われています。職業としての科学は、男女格差が著しい職種の一つでしょう。科学者のうち女性の比率が50%を超える科学の領域はほとんどなく、多くはせいぜいが10~20%止まりです。女性の教授がまったくいない理科系の学部というのも、日本の大学では珍しくありません。企業の研究者も同様です。ただ単に数が少ないだけではありません。世の職業事情一般を反映して、平均すると給与が男性より低く、科学者を途中で辞める率が高く、昇進の機会も少なくなっています。

初めから役割を固定したようにみえる領域もあります。看護婦はその名が示すとおり女性だけが従事する仕事であり、(ほとんどが男である)医者に付き従う者というイメージは、いまだに根強いでしょう。(「女医」という言い方はあっても「男医」という言い方はありません。)男だけが牛耳っている分野もあります。軍事科学はその典型でしょう。ミサイルや戦闘機の開発に従事するのはもっぱら男性であるということは、後の議論ともからんで、象徴的な意味を持っています。

●女性は科学に向かないのか

こうした統計データをみて「女は科学に向かない」などと結論付けるのはもちろん本末転倒で、「女は科学に向かない」という通念が逆にこの結果をもたらしています。これは、これまでの人類の歴史において傑出した作曲家や画家はほとんど全部男性であるからといって、「女には芸術の才能がない」などということにならないのとまったく同じです。

理科が大好きな女子が周りから特異な目でみられることや、そもそも理科の先生で女性が少ないということも関係します。科学者の道を歩み始めたとしても、男性以上にがんばらなければ生き抜いていけないという負担が女性にかかります。結婚や子育てなどの時期がまさに科学者として独り立ちするのに必要な訓練のピークの時期に重なることが多いからです。実験系の研究室では夜を徹して実験を行なうことなど当たり前ですから、家庭を持った女性研究者が仕事と家庭の両立でいかに苦労するかは容易に想像できます。

たとえば史上最も著名な女性科学者キュリー婦人は、物理学者である夫のピエールと出会わなければあれだけの業績をあげることは難しかったかもしれません。私が伝記で知る限り、ピエール・キュリーは最も高潔で善良な学者の一人だと思われますが、そのピエールはマリーと出会うまでにすでに長い独身生活を送っていて、簡単に結婚できない理由を若かりし頃(22歳)の日記に次のように記しています。

「天才的な女性というものはなかなかいないものである。(中略)……男がなにか神秘的な情熱にかられてある反自然的な道に踏み込もうとするとき、人間的なことから遠ざかるような仕事に全精神を集中しようとするとき、我々が闘わねばならない相手は女である。ところがこの闘争はつねに一方が勝つにきまっている。なぜなら、女が我々を奪い去るのは生活と自然の名においてであるからだ。」

「科学=男性」「生活・自然=女性」と二分する男性の側の認識を浮き彫りにしていて、興味深いと言えるでしょう。

誰もが知る絵本のキャラクターにピーター・ラビットがありますが、その産みの親であるベアトリクス・ポターは、今なら著名な生物学者になり得たような人です。キノコの研究で先駆的な業績を上げながらその道を進まなかったのは、やはり女性であることのためでしょう。

ワトソンとクリックがDNA分子の二重らせん構造を発見する上で決定的なデータ(エックス線回折による構造解析写真)を提供したのはロザリンド・フランクリンという女性科学者ですが、はなはだしい男性中心の英国科学者社会にあってのその”男勝り”の孤軍奮闘ぶりがワトソンの回想記『二重らせん』で悪し様に描かれ、科学的業績も正当な評価を受けなかったという事実があります。

このような例は、きちんと掘り返すならいくつも挙げることができると思われます。

●能力の男女差とは

では今述べたような社会的現実を含めて、男と女の違いをオスとメスの違いからいかに説明しえる(あるいはしえない)ものなのでしょうか。たとえば、人間の才能の男女差は性差とどう関係するのか――科学は当然この問題に探りを入れようとします。

しかし、こうした問題を科学が俎上に載せるときいつも我々が気をつけねばならないことがあります。

一つは「才能」や「能力」を科学的に定義することは非常に困難だという点です。科学は可能な限り対象を定量化してとらえようとしますが、たとえば音楽の才能を定量化することなど不可能です(歌の上手さを測る基準など存在しないでしょう)。そこで「才能」らしきものを定義しようとして、定量化しえる指標(たとえば「知能テスト」にみるような)を手がかりにして話を組み立てることになります。もう一つは、「能力」の何らかの指標について男女間で統計的な分布の差異を検出したとしても、そのこととオスとメスの生物メカニズムとの関連付けは、これまた容易でないという点です。
たとえば様々な知能テストを繰り返して統計をとってみると、男は空間的な位置認識能力が若干長けていて、女は言語操作能力が若干長けている、と言えそうな傾向を見出すことができます。

確かにこのことが左脳右脳の機能分化の男女差に関係しているかもしれないという推測は成り立ちます。左ききは男に多く、脳梗塞の人では言語障害になるのは男が多い、という傾向もこれに関係しているかもしれません。

しかしこれらの違いの存在は、「能力」のごく限られた面にかかわる指標でしかないし、ましてや能力における男女差を説明するものでもありません。才能や能力なるものはどうも、科学的にはとらえきれない社会的に規定される部分を相当に含んだ概念なのだと思われます。

●女は感情的なのだろうか

男女の心理的・情動的な面での差異をオス・メスから説明しようとする研究も、今ふれた才能・能力の話と同様の危うさを持っています。

はたして「女は感情的」でしょうか? これを言い換えるなら「女の感情は肉体的・生理的なものにより支配されている」となるのでしょうが、では心理学でそもそも「感情」を測定することができるのか? それが難しいとなると、ホルモンのような生理活性がわかっているものとの関係でみていこうとします。男女の違いということで特に注目されるのは女性特有の生理的周期、たとえば月経でしょう。月経と女性の感情の安定・不安定などは比較的関係づけ易いとの思い込みがあるのもですから、たとえば「月経前緊張症」なる概念を作って、それで「女が感情的」になる理屈をつけようとする……。

「男の攻撃性」や「男女間の性衝動」の差異についても同様です。似たような怪しい論理の展開が”性差の科学”にはあまりに多いように思われます。

●母性は女性の本能か

妊娠するのは女なのだから、子育ては女がするものだという広く行き渡った考え方があります。すなわち「母性」というものが存在し、「母性は本能なのだからそれを裏切るようなことをしてはいけない」という通念です。

動物の世界に目を向けると、確かにメスが子育てをしている場合は多いのですが、そうではないケースもいくつもあります。ネズミが産んだ子供を、母ネズミから引き離して別のオスのネズミのそばに置くという実験があります。何度かそれを繰り返すとそのオスは、子供を舐めて毛づくろいをしたり、お乳を与えようとしたりという、母ネズミとまったく同じような振る舞いをすることが知られています。この種の例は意外と多くあって、「動物界ではメスが子育てする」との思い込みは間違っていると言えるのです。

人間の場合で言うと、両性具有の存在は何を意味するのでしょうか。生物的・生理的に女の子であっても(肉体的外見は男)、周りが男として接すれば男っぽくなる、という事実がかなりはっきり知られています。逆のケースもまた然り。人間がどこまで生理的なものに支配されているのか、そう簡単に決め付けられないことがわかります。

むしろ、個人の意識の変化、社会の現実の変化であきらかに「母性神話」が切り崩されてきているにも関わらず、社会通念としてそれを維持しようとするところに、男社会の根深さを見ることができると思うのです。■

(『ひとりから』2003年3月 第17号)

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