新連載「オーストラリア便り」第1回 「水の正義」について

投稿者: | 2019年12月8日

新連載「オーストラリア便り」第1回

「水の正義」について

永田健雄(市民科学研究室会員)

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オーストラリア国立大学(ANU)大学院サイエンスコミュニケーション専攻に留学して 4 ヶ月が過ぎた。ANUでは科学政治や科学対話などを学び、来年度より研究プロジェクトを始める予定だ。ところで入学して間もない7 月下旬頃、オーストラリア全土では Science Week(科学週間)があり、ANUのあるキャンベラ市でも休日を中心に様々なイベントが開かれた。その中に、今般話題となっている「気候正義」とも関わりうる内容の講演を聴いたのでそれを紹介したい。講演題目は「Water: Building Solutions from Indigenous Knowledge & Science」、直訳すれば「水:先住民族の知恵及び科学を通して解決策を築く」といったところか。講演者は 3 名おり、いずれも ANU の教員であった。1 人目(Prof. Quentin Grafton, 以下Quentin教授)は経済学の教授で、2 人目(Dr Matthew Colloff, 以下Colloffさん)および 3 人目(Dr Virginia Marshall, 以下Marshallさん)は生物分類学が専門の教員であった。参加者は 30 人あまりで、年代は高めだったと思う。ANU の学生は参加者の 3分の 1 ほどだった。 Grafton 教授は導入的な役割を果たした。主に国際的な観点から水資源へのアクセスに係る著しい不平等を語り、持続可能な開発目標(SDGs)の 6 番目「全ての人にとって利用可能かつ持続可能な管理が行き届いた水と衛生設備を確保する」(注 1 )や先住民族の権利に関する国連宣言第 26 条*を引用しながら、次第に「Water Justice(水の正義)」といった語句を頻繁に使用していった。水+正義という言葉遣いは日本では聴き慣れないように思える。少なくとも不勉強な私はそうだ。教授によれば、水の正義とは下記の 4 項からなるという。

1. Fair and just distributions(公正な分配)
2. Recognition of non-market values(市場価値とは異なる価値観の認知)
3. Participation of all stakeholders in decision making(意思決定に全ての利害関係者が参加すること)
4. Long-term sustainability(長期的な持続可能性)

1番目は、水資源に関わる全ての人が、生活していけるだけの水を確保できること。2番目は1番目の「生活していける」が衛生面のみならず文化的、宗教的な意義なども踏まえたものであるべきこととと、金銭的なコスト/ベネフィットだけで水の分配を行なうと正義が損なわれること。3番目は、社会的、経済的背景に関わらずその水資源に関わる全ての人が、どのように水を分配するかについて発言権を持つべきであること。4番目は、当該の水資源を枯渇させることなく長期的に利用し続けられるようしっかり管理すること。これらをそれぞれ表している。

*備考:先住民族の権利に関する国連宣言第26条(注2)
1. 先住民族は、自らが伝統的に所有してきた、占有してきた、ないし利用し獲得してきた土地、領域及び資源に関する権利を有する。
2. 先住民族は、伝統的な所有や占有、利用、その他種々の形態に則り継承してきた土地、領域及び資源に関してそれらを保有、利用、開発、管理する権利を有する
3. 国家は、先住民族に係る土地、領域及び資源を法的に認知しなければならない。そのような認知は、対象となる先住民族の風習、伝統、土地保有制度に順って実行されるべきである。

図1. マレー・ダーリング盆地(図中クリーム色部分)の地図(注3)。首都キャンベラ市も含まれていることが分かる。国内の農業生産高の4割ほどと、人口の約1割(200万人あまり)をカバーしている。渇水で特に苦しむ集落は盆地北部に多い。

続いてColloffさんから話題の中心はオーストラリアにおける事情、特にオーストラリア東部に位置するマレー・ダーリング盆地における長年の渇水問題へと移った。特に、2017年1月から始まったと言われるものは過去最も深刻な渇水といわれ、水が全く手に入らない集落が15以上あるとのことだ。そしてその多くが先住民族の集落でもあるのだ。老齢な教員だったが、その語りには非常に情熱があった。水資源の管理は民営化され、綿産業などのための灌漑事業に40億豪ドル(およそ3000億円, 2019年12月1日現在)もの血税が使われ、企業利益と引き換えに多くの先住民が渇水に苦しんだことを訴える語りには熱があった。
続いて、芸術を通した対話という意外な切り口で問題への関心を誘う。Thangkaali族の言葉で「月」を意味するWoytchugga湖や、Darling川を題材とした絵を見せる。いずれもマレー・ダーリング盆地にあるが、その水量は渇水や灌漑との絡みで近年非常に少なくなってしまった(注4)(注5)。Woytchugga湖が先住民族から月の湖と呼ばれるのは、季節に合わせて月のように満ち欠けする湖だからという。彼らにとって貴重な漁場、狩場であり、文化的に重要な場所だったという。先住民族の芸術を通して彼らの感情が語られ、観るものはそこを起点として立場の違いを超え、寛容や包摂が生まれ、連帯の輪が広がっていくという。

また、Colloffさんは歴史的な文脈を持ち出し、「水を非植民地化させる」という話につなげていった。これについては講演後の質問で改めて話があったが、オーストラリア大陸の植民地化が先住民族から土地や水を奪っていった過程とすれば、先住民族と入植者の間で改めて和解し、誰もが文化的・精神的に幸福な最低限度の水にありつけるようにしていく過程とのことだ。これは水の正義にそのまま通じるだろう。その第一歩として先住民族、入植者の垣根を超えた対話を始めることの重要性を強調し、対話の触媒として芸術作品を例示したのだろう。ここで、先住民族の文化的・精神的な幸福における水利用の重要性についてだが、思えばこれはオーストラリアの先住民族に限った話ではない。日本でも水はコミュニティの連帯に文化的・宗教的において重要な役割を果たしてきた。各地には水に縁のある神社や祠があり、神話や伝説では水神と人との関わりが多く描かれている。大阪の天神祭や愛知の津島天王祭のように、水を使ったお祭り・儀式は各地にある。上水道普及前は多くの家に井戸があり、井戸端会議という言葉があるように水場はコミュニケーションの場でもあった。文化の隅々に水が関係してきたことが感じられる。私たちが生活や文化の拠り所としてきた水場が、突如知らない人たちに奪われたらどう感じるかと思えば、この概念の必要性も感じられるだろう。

MarshallさんはColloffさんの話をさらに進める。アボリジニの水権利が法的に認知されるべきことを強調しつつ、アボリジニの知恵もまた土地政策に生かされるべきであると述べた。
アボリジニは、独自のカレンダーに基づいて土の品質を管理し、山火事に対処してきたという。その結果としてオーストラリアでは古来炭素分に富み、干ばつに強い土が出来上がっていたという。しかし、それはヨーロッパ式の河川管理、水上交通のための河川整備や灌漑などによって台無しになってしまったという。そこで、干ばつが続く現代においてアボリジニが持つ土地勘や水の「勘」は、オーストラリアの政策に盛り込まれるべきだという。

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