さまざまな声帯を用いない発声について

投稿者: | 2020年2月13日

さまざまな声帯を用いない発声について


岡野宏(東京大学教養学部教務補佐員)

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はじめに

この文章では、食道発声を初めとする「代用音声」について紹介を行います。そのまえに、なぜ筆者がこうした実践に関心を持ったのか記してみたいと思います。

筆者は元々音楽学・音楽美学という学問分野を専門にしています。とくに音楽というものが歴史的にどのように捉えられてきたのかという問題を、その時代時代の実際の音楽実践と関連づけながら考察することをめざしています。あわせて共同主催というかたちで2012年から「駒場ヴォイス・スタディーズ研究会」という研究会を開催しています。この研究会では、ざっくりと「声」(話し声でも、歌声でも)にまつわる諸々を学際的に研究することをめざしていますが、特に大事にしているのは「身体と関わるものとしての声」という視点です。これはたんに声が身体から発せられるということだけではなく、例えばラジオやレコードで声を聴くときなどに、身体そのものは目のまえに存在してしないにも関わらず、聴き手が声の発生元である身体を想像してしまう、ということも含んでいます。つまり、身体と声それ自体の関わりと同時に、身体と声を関わらせてしまう私たちの「欲望」のようなものも考察対象としているわけです。そのため、身体をめぐるジェンダーやアイデンティティの問題とも深く関わってくることになります。筆者自身のもともとの関心にひきつけると、これは音楽というものが単なる音響現象としては捉えられず、より身体的な要素とも関わっているのではないかという問いに基づくものでした。
研究会では、こうした関心のもとに声に関わる現場で幾度かフィールドワークやワークショップを行ってきました。その一環として、2014年末に東京にある公益社団法人銀鈴会の発声教室を見学したのが、私じしんが直接こうした実践にふれた最初になります。

食道発声およびその他の発声法の説明に入るまえに、通常の発声を概説したいと思います。通常、ひとは発声にあたり、呼吸器系(肺、胸壁、横隔膜)・発声器官系(喉頭)・調音器官系(舌、唇、顎、軟口蓋)の三系統を連動して働かせます。つまり肺から空気が送りだされ、喉頭で振動を与えられ音になり、それが口腔で調音されて「音声」となるのです。このときに一番おおもとになる音、つまり「原音」をつくるさいに機能するのが喉頭内に位置する「声帯」です。声帯は「内転(近接)して喉頭の部位の気道を閉鎖したり、外転(解離)して気道を開放したりする小さな筋肉のクッション」(レイ・D・ケント/チャールズ・リード『音声の音響学分析』4ページ)と定義され、喉頭を空気が通過するさいに、連続的に解離と近接(開閉)をくりかえすことで、それじたいが振動し、その振動が空気に伝えられて音響が生みだされるのです。

声帯にきわめて重要な位置が与えられていることは、「発声にとってもっとも重要な働きをするのが声帯である」(城生佰太郎『一般音声学講義』21ページ)といわれることからも明らかです。声帯の状態は声の不調にも関わってきます。急性喉頭炎(かぜ)などで声帯が腫れると、振動しにくくなり、結果的に声が出にくくなることが報告されています(一色信彦『声の不思議 診察室からのアプローチ』)。しかし、健康な状態で声を発するさいには、ほとんど声帯を意識することはないでしょう。それぐらい声帯は自然なものとして、我々の生活になじんでいるのです。もし仮に突然声帯が失われてしまったら、たいていの人は戸惑うでしょう。そうした条件のもとで、いかに声をふたたび獲得するか、これが食道発声をはじめとする諸実践に他なりません。

さまざまな発声

ここで扱うのは喉頭癌の治療などで喉頭を切除した方(喉摘者、無喉頭者といいます)が手話や筆談ではなく、代用音声を用いる諸実践です。現在、おもに行われているのが「食道発声」「シャント発声」「EL(電気式人工喉頭)発声」です。また、かつて幅広く行われていたものの、現在ではごく限定的に行われている「パイプ式人工喉頭(タピア式・笛式)発声」があります。
喉頭を切除することで、もともと連続していた呼吸器系-発声器官系-調音器官系のつながりが失われます。喉頭において交通していた食道と気道は切り離され、空気の取り込み・放出は喉の前部に開けられた「気管孔」を通じて行われるようになります。口腔は食道とのみ接続されます。さらに喉頭を切除したことで、声帯という発声器官そのものが失われています。こうした状況において、いかに上記の連続性を回復するか(または別の方法をとるか)が、問題になってくるわけです。

喉頭摘出手術前後の形態の変化の模式図(佐藤武男『食道発声法―喉摘者のリハビリテーション』8ページより)

食道発声法はがんらい呼吸器系が担っていた「空気を送り出す」働きを食道に担わせ、さらに声帯が担っていた「空気を振動させる」働きを食道の内壁に担わせる実践といえます。まず食道内に空気を送り込み、ゲップの要領で空気を吐き出します。この空気によって「仮声門」(「新声門」)といわれる食道の内壁を振動させ、「原音」を作ります。この「原音」を口腔で共鳴・調音することで音声を作り出します。「仮声門」は手術のさいの縫合部などに自然形成される括約作用のある部位で個人差があります。

他の発声実践に較べた食道発声のメリットとして、器具を必要としない点が挙げられます。他方で、長期にわたる練習を必要とする、一息で長く話すことができない、ダミ声のような声になってしまうなどの弱点も存在します。その意味では、長い練習に耐える体力や精神力が要求される技法であるといえます。ただ、習熟次第ではごく自然に発声が可能になり、熟練者は通常の発声とほとんど遜色のない会話ができます。なお喉頭摘出と同時に食道再建手術を行った方の場合、発声のさいに喉に手を当てる必要があることがあります。これは上記の仮声門がうまく形成されないためです。

シャント発声は食道発声と「空気を振動させる」「声を調音する」しかたは同じですが、「空気を送り出す」働きを食道ではなく、もともとの肺に求める実践です。具体的には気管と食道の間に「ヴォイスプロステーシス」(アトスメディカル社の「プロヴォックス」という製品が有名です)という空気を通すための器具を取りつけることで、気管孔から肺に吸いこんだ空気の呼気流を「ヴォイスプロステーシス」をとおして食道に流しこみ、食道発声と同様のしかたで仮声門で原音を作り、発声するというものです。いわば機器をつうじて気道と食道の交通を回復するのです。

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