新連載:美味しい理由―「味の素」の科学技術史 第1回 美味しさと健康(1) 池田菊苗の談

投稿者: | 2020年12月8日

【新連載】 美味しい理由―「味の素」の科学技術史  第1回

美味しさと健康 (1) 池田菊苗の談

瀬野豪志(NPO法人市民科学研究室理事&「bending science」研究会世話人)

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「美食倶楽部」の人々

彼らのうちの三人までは糖尿病にかかり、そうしてほとんど全ての会員が胃拡張にかかっていた。中には盲腸炎を起して死にかかったものもあった。が、一つには詰まらない虚栄心から、また一つには彼らの信奉する「美食主義」にあくまでも忠実ならんとする動機から、誰も病気などを恐れる者はなかった。たとえ内心では恐れていてもそのために倶楽部から脱会するほどの意気地なしは一人もなかった。「われわれ会員は、今に残らず胃癌にかかって死ぬだろう。」と、彼らは互に笑いながら語り合っていた。(中略)彼らは明け暮れげぶげぶともたれた腹から噫を吐きながら、それでも飽食することを止めずに生き続けていくのである。(谷崎潤一郎「美食倶楽部」)

「美味しさ」は、食べることによって得られる快楽である。しかし、それも度が過ぎれば「健康」を害するかもしれない。いくら「美味しさ」に執着していても、内心ではそのような不安を抱いているはずである。「美食倶楽部」の会員たちが繰り返している食事は、かなり極端ではあるが、食生活における「美味しさ」の一つのあり方を示している。彼らが求めているのは、一流の料理人による貴重な「美食」であり、いつもの味がするような食事ではない。その「美味しさ」は、みずからの健康を度外視するほどの、過剰な食習慣に溺れさせる可能性を秘めている。
心のどこかでは誰もが思っていることであろうが、飽食の時代と言われて久しい今日、嗜好品、お菓子、「ジャンクフード」、自分好みの味付け、恒例行事の御馳走と、正直なところ、普段食べているものの「美味しさ」と健康は必ずしも両立しているわけではないだろう。よく考えれば、必ずしもどころではなく、「美味しさ」には悪い遊びのような快楽もある。
「美味しさ」と健康が両立する「良い食材」や「良い食事」を考えることができる人々からすれば、「美食倶楽部」は他人事だと言われるかもしれない。しかし、「美味しさ」と健康が両立しないときというのは、極端な人々の食習慣だけの問題だろうか。

 

池田菊苗(1864年~1936年)

 

池田菊苗の「うま味」と「佳味」「美味」

享楽的な「美味しさ」がある一方で、「食」の問題について科学的に考えるアプローチもある。「美味しさ」よりも重視すべき食の問題から「食の改変」が考えられることもある。しかしながら、「味」に対する反応が最終的な関門になってしまう場合がある。たとえば、白米に慣れている人に、玄米がいいから、パンがいいからと勧めても、なかなか食べてくれないかもしれない。「良薬は口に苦し」というが、頭ではわかっていても果たして本当に口に入れるかどうか。栄養や健康のために食事を改変していくとき、それが科学的な理由によるとしても、誰も口に入れないままではうまくいかないであろう。
東京帝国大学理学部教授の化学者であった池田菊苗は、1908(明治四十一)年に昆布出汁の「うま味」成分がグルタミン酸塩であることをつきとめて新しい調味料である「味の素」の発明に至った研究について、「味の素発明の動機」という回顧録で次のように述べている。

三宅秀博士の論文を読みたるに佳味が食物の消化を促進することを説けるに逢へり。余も亦元来我国民の栄養不良なるを憂慮せる一人にして如何にして之を矯救すべきかに就て思を致したること久しかりしが終に良案を得ざりしに此の文を読むに及んで佳良にして廉価なる調味料を造り出し滋養に富める粗食を美味ならしむることも亦此の目的を達する一方案なるに想到し、前年来中止せる研究を再び開始する決意を為せり 。

「佳良にして廉価なる調味料を造り出し滋養に富める粗食を美味ならしむる」という発想は、西洋人に比べて日本国民の体格が劣っているという問題意識から、「体位向上」のために日本の食の問題が考えられていた当時の歴史的な背景が関わっている。池田菊苗によるこの回想では、「味の素」は世の中に役に立つ調味料として考えたもので、誰でも「佳味」「美味」にすることができ、栄養があるものなら粗食でもたくさん食べられる方法を発明したということが語られている。
池田菊苗の「味の素発明の動機」には、彼自身の個人的な立場からの理由があったことも書かれている。家庭の経済的な理由や、応用化学の新しい分野を開拓することによって弟子たちを化学者として活躍させたいという理由である。また、化学者であれば、「味」は色や匂いとともに物質の性質として記述することがあり、すでに染料や香料などは工業化されているのに「味」の化学的な工業化はまだ稀であるという化学者の視点からの動機も述べられている。しかしながら、「味」の製品の実用的な理由が掴めず、昆布出汁の研究をしてみたものの、どうしたことかと中断していた状況も伝わってくる。東京帝国大学医学部の権威的な人物であった三宅秀(みやけひいず)博士が論じていた佳味による「消化の促進」や「体位向上」のような当時の日本の医学的な目標が、池田菊苗の「味の素」が世に出るに至った研究を一押ししたわけである。
日本の食についての医学者らの問題意識は、やがて日本の「栄養学」となり、戦前から戦後まで続いた。国際的な栄養学の「標準化」に合わせて、GHQによる栄養調査、FAO/WHOの「食品のアミノ酸含量表」、国立栄養研究所や厚生省、科学技術庁による「日本食品標準成分表」「日本食品アミノ酸組成表」などによって、日本の食品の栄養価を計算し、「栄養改善」のための食の改変が進められてきた。そこで特に重要視されていたのが、日本人に不足していたタンパク質の摂取量を増やすことである 。
池田菊苗は、「味の素」の一般向けの販売が始まった1909年に、アミノ酸の一種であるグルタミン酸が含まれている食材の「うま味」は、タンパク質の摂取に関する独立した「味覚」であるという考えを説明している 。

今日心理学者生理学者によって一般に認められて居るのは酸甘鹹苦の四味に過ぎませぬ。その他は皆此等の味の種々に混合したものであると説かれて居ります。併ながら自分は此の外に少くとも一種の区別し得べき味があると信じて居りました。それは魚類肉類等に於て吾人が「うまい」と感ずる一種の味でありまして鰹節、昆布などの煮出汁に於て其の味が最も感ぜられるゝのであります。(中略)説明の便利の為めに此の味を「うま」味と名づけて置きます。(中略)グルタミン酸と同様の構造を有して其のイオンが同様の「うま」味を呈するものが尚ほ幾種か蛋白質の加水分解成生物中に存在することは想像するに難からざる所であります。又此の種の性質を呈する化合物を人工的に合成することも出来得るでありませう。(中略)グルタミン酸イオンの「うま」味を嗜好するやうになったかという事は目的論より一通り解釈することができる次第であると思ひます。(中略)グルタミン酸イオンの味は動物性食物と離るべからざるものであって栄養価値多き此の種の食物を摂取せしむるには此の「うま」味の嗜好が自然に発達せねばならぬ道理であります。

「味の素」という商品名で知られる「うま味」の調味料(グルタミン酸ナトリウム)が重要な栄養を摂取するときの「味覚」をもたらす物質であるという池田菊苗の発明談は、その後のタンパク質及びアミノ酸の栄養学的な重要性と、その工業的な可能性、人工的な合成をも見込んでおり、とても興味深いものである。「うま味」調味料なる技術による「美味しさ」と健康のつながりがぼんやりと見えてくるような、もっと言えば、その「美味しさ」が生命の維持にまで関わるかのようにも聞こえる。ただし、これは、現実的には、日本の食の事情に関する医学や栄養学的な議論が余白を埋めていた話であったことを考慮しなければ、摂取するべきタンパク質が不足していたことや、出汁の味を重要視していた理由、調味料として「食欲増進」や「体位向上」に貢献すると見込まれていた社会的な役割が見えなくなる。「うま味」の発見、「味の素」の製造に関する研究が、その後のアミノ酸の研究、生化学の研究につながっていったことは確かである。しかし、実際に「うま味」の調味料がどのような意味で使われているのか、それが「美味しさ」と健康にどのように関わっているかについての現実的な問題では、食文化との関わりも含めた「味」の科学技術としての歴史も考えなくてはならないだろう。

 

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