子どもたちと「おもしろ科学」を遊ぶ

投稿者: | 2020年12月8日


子どもたちと「おもしろ科学」を遊ぶ

土屋 至

認定NPOおもしろ科学たんけん工房

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Evangelist土屋至のハイブリッドな生き方

わたしは1947年生まれ。団塊の世代1期生である。73年余、実におもしろい時代を生きてきたと思っているわたしの経歴を紹介したい。

横浜で生まれ横須賀で育った。どこの家にも子どもが何人かいてその子どもたちは地域子ども社会を作っていた。大人はほとんどそれに関わるゆとりがなく、年長の子がリーダー(番長)となって、その集団を仕切っていた。子どもたちは近所の路地や広場に集まり、その頃はやっている遊びをしていた。メンコ、ビー玉、こままわし、ベーゴマ、たこあげ、竹馬、缶蹴り…………。年長の子は年下の子にその遊びをおしえていた。さながら子どもたちの自治共和国であった。ただし、男の子と女の子は遊びの中ではほとんど交わることなく、別々の遊びをしていた。遊びはこうして伝承されていった。

しかし、その多世代交流型縦割りの子ども社会を学校の同年齢別集団、テレビや塾、お稽古事などが崩していき、地域子ども社会による遊びの伝承は途絶えることになる。このような地域子ども社会が存続したのは昭和35年頃まで、団塊の世代が小学校を卒業したころにはきえていくことになる。

わたしは1965年大学に進学、大学はベトナム反戦運動から学園闘争に突入。連日クラス討論がつづき、集会やデモにかり出されていった。全共闘世代である。専攻は教育社会学で教員志望であったが、ほとんど専攻の学問を学ぶことなく、教職単位の取得もできずに大学を押し出された。

本来だったら大学院に進学するつもりであったが、大学に失望し、進学を諦め、教員になることもあきらめ、新聞広告の求人欄にひかれて小さな印刷会社に就職した。印刷工労働者になりたかったのである。そこで製本、写植、印刷、製版を経験、自分の手で1冊の本を作ることができる技術を習得した。そこにOA革命が到来、印刷業界はその影響をもろに受けることになる。毎年印刷技術展にいって、新しい技術を見るのがとても楽しみであった。そのころ会社にオフィスコンピューターの導入が試みられ、社長からそのシステム作り担当に任命される。根っからの文系人間であると思い込んでいて、コンピューターについての知識も技術もまったくなかったわたしがコンピューターのシステム作りをすることになった。

しかし、持ち前の好奇心と知識欲求によって、なんとかシステムを完成し、オフコンが導入された。そうしたら社長から今度はこのオフコンを売ってみろといわれ、ミロク経理というベンチャー企業のセールス研修センターにおくられた。地域を決めてそこでオフコンのフェアを行い、それへの動員のために地域の中小企業に飛び込むセールスを経験することになる。給与計算、経理、販売管理システムのパッケージとともにオフコンのシステムは230万円くらいするシステムであった。パソコンがビジネスに使われるようになるのはあと3〜5年くらいかかることになる。

この仕事はえらく効率の悪い仕事であった。1日30社訪問して手応えのあるのは1つあるかないかで100社訪問して1社の見込み客が生まれ、200社で1つ契約が取れたらいいと言われている状態であった。研修センターの所長からは「土屋さんはセールスマンとして知識もあるし説明もうまいのだが、セールスマンに必要な決定的な資質である押しの強さ、人なつこさ、厚かましさ・ずうずうしさがない」と評された。
そのとおり、自分の給与分も売り上げられずに行き詰まっていたとき、あるキリスト教系の女子中高に「宗教」を教える教員として呼ばれた。「教員免許も取得していないし、宗教について大学で学んだわけでもない」わたしが実は教員になりたかったというのぞみをっもっていることを知っていた私の友人の教員がわたしを強烈にリクルートしたのである。

1985年学校に就職。最初の仕事は1年間事務室におかれて「教員免許のための足りない科目を通信教育で取得する傍ら、パソコンによる成績処理システム作りに取り込むことになった。1年で足りない単位を取得することができて、社会科教員免許を取得、つづいて「宗教科」教員免許の取得のために上智大学の夜間講座と夏期講座に通うことになる。成績処理システムも宗教の授業もなんとかなるという感じで自分にはできないと思うことはまったくなかった。

5年くらいかかって中学入試から、大学進学までの一貫した成績処理システムが完成し、そのシステムはわたしが退職する1年前までの約20年間稼働した。作り出したときにはPC98のパソコンでBASIC で組んだプログラムづくりが主流であったが、わたしが作ったシステムはIBM5550というPCの DOS 上で動くdBASEⅡで作ったのである。dBASEはデータベース型言語でその後それを作った会社がなくなり、進化が止まった。でもそれで進化が止まったが故に実はそのシステムはこの技術革新がすさまじいPCシステムの世界で20年も稼働したのである。

わたしが退職する前の最後の1年間はその成績処理システムのリプレースであった。かくてわたしの教員生活は成績処理システムに始まり、成績処理システムに終わったのである。

「宗教」や「倫理」を教えるかたわら、学校は1993年コンピューター教室をつくり、情報教育を開始した。このときに選んだ機種はMacintosh であった。私が使っていたPCはIBMで、Mac は使ったことがなく、学校の教員にもMacを使える教員はいなかったが、Mac の展示会や講習にいって「女子校にはこれだ!」と導入を決めた。Apple はこのときスティーブ・ジョブズがいなくなって、最悪の状態であったにもかかわらず、私たちはMac を選んだ。その5年後のリプレースであのiMac になるのである。

もうひとつ、1995年の夏休み中の新聞記事に「インターネット100校プロジェクト」の募集記事を発見した。休み明けの情報教育委員会でそれに応募しようと提案したら、実に他の2人の教員が「わたしもそれを考えていた」といって意気投合したのである。インターネットのなんたるかもほとんどつかめていないし、それを可能にする技術を持った教員も誰もいなくて一部の教員からは「無謀だ」と言われたにもかかわらずである。夢のような構想を書いた提案書を作って応募したら採用され、学校にインターネットがやってきた。その翌年には学校のホームページを開設、神奈川県で3番目かの早さであった。
こうしてコンピューター教室はしばらくは生徒の「解放区」になった。

2003年、高校に「情報」という教科が誕生した。わたしは「情報」の教科書を執筆するチームに加わっていたが、神奈川県は「情報」の免許取得を理系の教員に限ってしまったために「情報」の免許は取得できなかった。「情報」の教科書執筆までしたのに、「情報」を教えることはできず、わたしの執筆した「情報」の教科書は学校でも採用されず、わたしはコンピューター教室の管理人からも情報教育委員会からも外されてしまい、「宗教教育」と「情報教育」という「2足のわらじ」は終わった。

学校生活は2007年までの23年間で「認知症の母と統合失調症の妻の介護」を理由に退職。介護の傍ら新しいことに挑戦しようと思い「日本語で日本語を教えるための講習」「森林インストラクター」と「おもしろ科学たんけん工房」にチャレンジした。結局森林インストラクターは試験に失敗して断念、日本語教師は能力不足であきらめたが、「おもしろ科学」は今でも継続している。

「宗教」の教員としては一時大学で「宗教科教育法」という教職科目を教えていたが、そこも70で定年となり、「宗教教育」からはリタイアをしたつもりであったのだが、2016年八王子にあるカトリック系高校の「宗教」の担当教員が急にやめてしまったので来てくれないかと懇願されてまた教えることとなった。この高校までの片道2時間10分の通勤時間をものともせずに、週3回の「宗教」をほとんど関心を持たない高校生相手に悪戦苦闘している。

わたしは名刺にいくつもの役割を書いているのだが、名前の前にEvangelist という肩書きを書いている。これは「福音(good news)を告げるもの」という意味である。「福音」というとキリスト教用語で「よき便り」とか「よきおとずれ」と訳され、新約聖書の中にイエスの行動や教えを伝える書は「福音書」とよばれている。わたしにとっては聖書を教えることもICTを教えることもSIGNIS というカトリック教会のSocial Commuication に関わることも「おもしろ科学を子どもたちと遊ぶ」こともみな「福音(good news)を告げる」こととして統合されるのである。

わたしのこれまでと今とこれからを突き動かしているのは、文系も理系も遙かに超越した「おもしろがり、知ったかぶり、おしえたがり」 のハイブリッドなモチベーションであることのようだ。

ホントはほんの導入の自己紹介を簡単にするつもりであったのだが、つい調子に乗って自慢話・手柄話をしてしまった。ご寛恕・ご笑止いただきたい。

「認定NPO法人おもしろ科学たんけん工房」の現状と課題

さて本題に入ろう。

「認定NPO法人おもしろ科学たんけん工房」は、子どもたちと科学のおもしろさを体験しようという「子どもの科学」運動を行っているおそらく日本で最大規模の運動であると自負している。

2003年に県立湘南高校のOBを中心に設立された。

横浜・藤沢で、主に土曜日の午後に小学校の理科教室を借り、小学校4年生から中学2年生の子ども4人にひとりのアシスタントをつけて、6グループ子ども24人で行う「たいけん塾」を年間160回おこない、延べの参加児童数は3000人をこえている。

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