新連載:開発主義政治再考 第1回  開発主義政治の第三段階に向けて―開発主義政治の遺産継承をめぐって―

投稿者: | 2020年12月8日

『岩手のTVA』という1952年に岩手県が刊行したパンフの表紙

 

【連載】 開発主義政治再考 第1回

 開発主義政治の第三段階に向けて

―開発主義政治の遺産継承をめぐって―

山根伸洋

全文PDFはこちらから

0.はじめに―清算主義を乗り越えて―

多くの論者が指摘するように、日本の近代の始まりは19世紀の半ばとすることに異論が唱えられる余地は少ないと思う。しかし、何故、この時期なのかという点になると、多様な角度からの考察が可能となるだろう。そこには日本列島の地政学的な位置の問題からくる軍事を含む外交的な圧力の問題、ないし、それに起因する国内政治の動揺、そもそも幕藩体制が揺らいでいたなど、ないしはアヘン戦争をはじめとする中国大陸における西欧列強の展開などもそこに含まれるだろう[i]。いずれにせよ、この時期に「軍事」という観点から積極的に外来の知識を導入した軍事工業化が国家的課題として据えられた。日本の近代はその意味で言えば、明治政府の国策でもあった富国強兵から殖産興業へと軍事を基軸とした産業化によって最も強く特徴づけることができる。軍事部門に引きずられて在来産業部門の技術革新も進んだし、国防という観点から国土全域を見据えての交通・通信インフラの開発政策が遂行された。近代日本、すなわち幕末から明治期にかけての日本は、そのはじまりより国土全域において開発主義政治が展開され、その開発政策を軸として地域社会が動員され組織化されてきた、そのように概括していいのではないかと現在私は考えている。

軍事を基軸として組織化された近代日本、明治国家は、幕末の諸藩の対外戦争の経験、そして幕末維新期の内戦から西南戦争・琉球処分を経験し、その後、日清・日露戦争、シベリヤ出兵から本格的な大陸における植民地経営、日中戦争・太平洋戦争など実に幕末開港以来100年に至らぬ間、延々と戦争を継続してきた。幕末から明治維新にかけて形成されたアジア初の近代主権国家であった旧日本としての近代日本は軍事を基軸とした国家経営を行うことで19世紀から20世紀にかけての欧米列強が主導する世界に存立しうることになった。したがって1945年の夏の敗戦をめぐる一連の政治・社会過程は、19世紀の半ばに高度の武装を国是として建国した近代日本の理念からの大きな転換が目指されるはずであった。新たに起草された日本国憲法では、憲法9条をもって軍事による政治の組織化の原則禁止が謳われ、旧陸海軍を始めとする旧来の軍事に連なる国家組織が解散に追い込まれた。清算主義的な組織解体が戦後処理に果たした功罪の議論も含めて、こうした戦後処理の是非については、その不徹底をめぐる議論から、そもそも、裁く権利の所在をめぐる問題まで、現在においても多くの論点が提示され続けて議論が継続している。

 

1.熱戦から冷戦へ 戦時動員体制の持続

しかし19世紀における西欧世界の膨張にはじまり20世紀において西欧世界が破裂し亀裂が深まっていった世界は、20世紀の半ばにおいて、かつて大英帝国主導で形成された一つの世界市場は分割され、世界は二つの世界へと再組織化されていく。それは、北と南、東と西といった言葉で表現された分断国家の人為的な形成の時代の始まりであった。現在、私たちはこの時期のことを冷戦期とか冷戦体制などと呼び、「熱戦」として繰り広げられた国家間の総力戦の終結を、総力戦体制の持続の下で「熱戦」から冷戦へ移行していく経緯として理解している。この観点にたてば、戦後日本の中に頻々と戦時期に導入された動員システムが残置され機能している事例は多々発見できるし、戦時中の「根こそぎの動員」という経験が、様々な労働機会や社会参加の機会の開放の契機になっている場合が多々あることも指摘されている[ii]

日本の敗戦が確定した1945年以降、占領期を経過する中で世界の図柄は大きく塗り替えられた。本格的な冷戦体制の構築が進む中で、日本を取り巻く状況は必ずしも安定したものとは言えず、朝鮮戦争からベトナム戦争へと近隣での戦火は常態と化し、国内の多くの米軍基地を中心として軍事が展開されてきた。日本は敗戦以降も米軍主導の軍事に大きく参画してきたことは、日本国内の米軍基地の配置の実態からも容易に理解できることであった。だから戦後日本が戦争に関与しない平和国家であった、という思い込みはやはり思い込みにすぎず、そうありたいという願望を多くの人々が抱いていたということなのだろう。現実には日本は1945年の敗戦を契機として、敵役であった米英の側に立ち位置を切り換えたということになるだろう。いわゆる国際社会への復帰としてのサンフランシスコ講和条約の締結も冷戦への(再)参戦という意味をもったものと捉えることが出来よう。つまり、敗戦から凡そ6年で日本は再度、総力戦として熾烈に闘われていた冷戦に参戦したのだと言える。

 

2.開発主義政治の第二段階

冷戦への本格的な参戦が「講和条約」の締結を目印としてなされるのは実に皮肉なことだが、もう一つ、この事態は、国内においても新たな政治秩序をもたらした。それは1955年の自由民主党と日本社会党による国会の議席専有体制の構築というものであった。この二大政党が繰り広げる政治は、まさに国内版の冷戦体制の表現に他ならず、現実の東西冷戦の(一見)堅固な構造に模して安定した日本国内の政治秩序をもたらした。この時代に、必ずしも軍事を基軸とせず、非軍事・平和を基軸とした産業開発をもって国家経営が遂行された。この時期のこうした政治体制を開発主義政治の第二段階と呼ぼう。

近年、戦前の開発主義政治と戦後の開発主義政治の担い手の連続性が、特に植民地開発との関連において次々に明らかにされてきている[iii]。開発の担い手や開発手法が変わらずとも、その開発実践をささえる論理が、例えば侵略と植民地経営に資するものから国民生活の福祉の向上へと転換することで、戦前の開発主義は戦後も持続したと言える。

「産業開発」を通じた商品生産の量的・質的な向上と雇用機会の増大を通じて、国民生活の豊かさを確保していくという開発主義政治への評価は現在でも、その正否をめぐって激しい論争が継続している。その論争は、経済成長をめぐる時間的な前後での地域・国ごとの不均等性に起因したものであり、もはや先進国といわれる先行して経済成長を実現した欧米社会の状態から相対的に自立したものとなりつつある。経済成長を前提とする開発主義政治の展開が化石燃料や地下資源の採掘・利用に立脚しているため、いずれは行き詰まるという考え方は、1960年代末から1970年代初頭には、多くの人々に共有され始めていた[iv]。一方で、東西冷戦体制のもとでの世界の東西の分割線に加えて、南北の分割線も加えられることによって、改めて開発における格差と貧困の集積をめぐる問題もまた露呈した。国際政治においては、第三世界という言葉が大きな意味を持つようになった時代のことだ[v]

この開発主義政治の第二段階は、商品や労働力、情報の国際的移動に一定の制約が加えられていた時期と、その後、その制約の一部が西側とされる勢力圏において自由化される時期とで異なる様相を呈することになる。国内外の移動についての制約が厳しかった時代の産業立地政策は国内における産業立地が原則であり、そうした構想の臨界点にあるのがいわゆる田中角栄の『日本列島改造論』[vi]であると言えよう。そして自由化の進展する1970年代後半以降、日本社会は国際化という局面に入る。国内的にみれば都市の国際化とか「世界都市」[vii]などという言葉が奏でられることにより、国内の金融市場へ海外から巨大な資本投下がなされ空前の好景気となった。そして都市を生産の現場から消費の現場へと転換する事、あわせて非都市的領域を都市機能を補完(都市住民へのサービス提供等)する存在へと再編成していく空前の観光開発[viii]ブームとなった。

 

3.開発主義政治の終焉?

東西冷戦のヨーロッパでの終結が実現し分断国家の統合という局面を迎える1990年代において、19世紀に一端は実現した統一した世界市場の再形成が目論まれていくことになる。19世紀において世界を繋いだ国境貫通的なインフラストラクチャーの代表的なものは国際的な電信ネットワークであったが、20世紀末にはアメリカ主導によるインターネットが急速に普及していく。この時期をグローバリズムの時代と呼ぶのであれば、この急速なアメリカ主導のグローバリズムの中で、最も特徴的な事態の一つに、これまで低開発地域とされてきた地域、とりわけアジア地域の目覚ましい経済的な浮上があった。

その一方で、アジア地域においてはヨーロッパとは異なって、幾多の取り組みが試みられたにもかかわらず、広義の意味での冷戦体制の終結には至っていない。それは近年のアジアにおける地域的な課題が軍事的要素を色濃く保持していることから見て明らかなことだろう。19世紀から20世紀にかけて、先進とされた欧米地域に追随した動きを見せていたアジア地域は、今世紀においては欧米地域のそれとは異なる動きを見せ始めている。

また日本では1990年代のいわゆるバブル景気以降の深刻な不況の局面を「失われた〇年」[ix]などと表現し、社会成長の停滞が議論されてきた。1990年代には人口動態の推移の分析から急速な少子化と高齢化が進む社会が到来するという見通しが立てられた。その中で、持続可能な社会を目指す模索が続けられた[x]。また東アジアの冷戦の終結という大きな課題の前に事態が膠着する状態が続いた。今世紀に入り、再度軍事が前景化する局面が多々繰り広げられていきながら、1990年代初頭を端緒とするグローバリズムの展開に一定のブレーキがかかることでアジアがヨーロッパとは別の軌道をたどり始めたことは衆目の一致するところとなった。こうした中で、開発主義政治は国境を越えて、新しい地域を構成しながら新たな担い手によって新しい局面を迎えつつある。この開発主義政治に日本社会は否応なく巻き込まれ、2010年代半ば以降一定の恩恵をうけてきた[xi]。新しい開発主義政治の地政学において、実は日本は重要な末端・ターミナルとしての位置を占める。日本において蓄積した観光開発の遺産はここでは重要な役割を果たし、アジアにおける政治・経済的活動の担い手層にとっての重要な保養地として位置づいている。

【続きは上記PDFでお読み下さい】

[i] 山本義隆『近代日本一五〇年―科学技術総力戦体制の破綻』(岩波書店、2018年)特に「序文」に簡潔に書かれている。

 

[ii] 山之内靖『総力戦体制』(伊豫谷登士翁・成田龍一・岩崎稔編、筑摩書房、2015年)410頁からの「補論 特別インタビュー 総力戦・国民国家・システム社会」で平明に戦時動員体制の戦後社会秩序との連続性が指摘されている。山之内氏はポスト冷戦期における「システム社会」の機能不全状況をどう見通していたのだろうか。

 

[iii] アーロン・S・モーア(1972-2019)『「大東亜」を建設する 帝国日本の技術とイデオロギー』(塚原東吾監訳、人文書院、2013=2019)東西冷戦下における日本の戦後賠償工事と「興亜技術イデオロギー」との関連を明らかにすることが著者の次の課題として設定されていた。関連する遺稿についての書誌情報は以下の通り。

“Interrogating “Comprehensive Development:” The Colonial-Wartime Background to Japan’s Development Cooperation,”Background Paper No.10 Japan’s Development Cooperation: A Historical Perspective, JICA Ogata Research Institute, September 2020.

https://www.jica.go.jp/jica-ri/ja/publication/other/l75nbg00000wgho9-att/background_paper_No10.pdf

 

[iv] ノリ・ハドル、マイケル・ラッシュ、ナハーム・スティスキン『夢の島 公害からみた日本研究』(本間義人・黒岩徹訳、サイマル出版会、1975年)この本の序文に当時のスタンフォード大学教授で『人口爆弾』(1974年)著者ポール・エーリックが「日本・危機を告げるカナリヤ」という序文を寄せ、日本を炭鉱の中のカナリヤに模し、他の工業国の知識人が日本を注視していることを告げている。この著者たちは1973年に宇井純氏が東大で開催していた自主講座に参加して日本の産業公害を始めとする環境問題を学んだことを紹介している。日本の経験が国境を越えて及ぼしてきた影響についての振り返りの作業もこれからだろう。

 

[v] A・Gフランク『世界資本主義と低開発 収奪の<中枢―衛星>構造』(大崎正治他訳、柘植書房、1975=1979年)この本の全編を通じた問題設定である「低開発の発展」、つまり低開発状態の持続をめぐる問題は、東西冷戦期において西側に組織化された低開発諸国が抱え込んでいた矛盾を的確に突き出していた。

 

[vi] この時期の国土開発構想は、新幹線や高速道路など半世紀かけての整備事業となっている。

 

[vii] サスキア・サッセン『労働と資本の国際移動 ―世界都市と移民労働者―』(森田桐郎他訳、岩波書店、1988=1992)本書において東西冷戦という制約の下で国境を越えた労働力移動を政策的に活性化させていく西側世界の動態が描き出される。この際にサッセンはニューヨークとロスアンゼルスに着目する。彼女のその後の研究は良く知られる通り金融機能への着目と同時にニューヨーク・ロンドン・東京に着目したグローバル都市論へ向かう。

 

[viii] 「参考資料 各種調査結果、事例等 平成27年6月」(国土交通省観光庁 ホームページ掲載)https://www.mlit.go.jp/common/001257874.pdf

国内のスノーリゾートユーザーが減少傾向と低位安定となってしまった現在、インバウンド(特にオーストラリアや中国、台湾、韓国、シンガポールなどから)は日本のスノーリゾート地を温泉も含めて高く評価している現状がある。

 

[ix] 今世紀初頭に失われた十年という言い方がなされ、東日本大震災の前後で失われた二十年がいわれた。1980年代への憧憬は、高度成長期の残像とも重なり一種独特の集合的な記憶が形成されていると思われる。

 

[x] 広井良典『人口減少社会という希望 コミュニティ経済の生成と地球倫理』(朝日新聞出版社、2013年)広井氏自身が提案した『定常型社会 新しい「豊かさ」の構想』(岩波書店、2001年)を日本の地域社会へ根付かせていこうとする試み。

 

[xi] 近年の中国等アジア周辺地域からの空前の日本観光ブームと増大するインバウンド消費。

 

 

市民科学研究室の活動は皆様からのご支援で成り立っています。『市民研通信』の記事論文の執筆や発行も同様です。もしこの記事や論文を興味深いと感じていただけるのであれば、ぜひ以下のサイトからワンコイン(100円)でのカンパをお願いします。小さな力が集まって世の中を変えていく確かな力となる―そんな営みの一歩だと思っていただければありがたいです。

ご寄付はこちらからお願いします



コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA