連続講座「日本の市民科学者―その系譜を描く」第6回と第7回に対するコメント

投稿者: | 2021年5月15日

連続講座「日本の市民科学者―その系譜を描く」

2021年2月12日実施の第6回 2021年3月12日実施の第7回

に対するコメント

(それぞれ3月3日付、4月12日付)

木原英逸(科学技術論研究者)

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第5回「薬害と統計学・疫学―増山元三郎、高橋晄正を主にして」に対して

●増山元三郎と高橋晄正の事例から市民科学が学ぶべきことは何かという今回の講義の問いかけに、2つのことを思いました。

●ひとつは、市民科学は長い80年代(1975-95)に変質した、というより、この時期になって生まれてきたもので、2人の主な活動はそれ以前、したがって、この2人の活動と比べることで、「市民科学」の特質も幾分分かってくるのではという点です。大胆に端折って言えば、市民科学は、科学の普遍性から離れローカルで特殊なものに向かう傾向や、民主政の政治から離れ市場や社会に向かう傾向を、全てがそうではないにせよ、内部に抱え込んでいます。そこには功罪があるでしょう。

●これに対し、1950年前後の推計学論争で科学的統計学を唱え、サリドマイド事件裁判で統計学を根拠に被告企業に反論した増山も(1971)、命を守る医学に科学を持ち込みたいと計量診断学を目指し、『薬のひろば』で、科学に基づく限り企業も反論できないとの信念を実践した高橋も、科学の普遍性に立ち、そうした科学や技術の知識や技を生かして「普遍的な」誰もの福祉を実現する政体/国をつくろうとした点では、第4回で検討された原田、西村と同じだったのではと思いました。

●高橋が、「反骨の科学者」から「市民のための科学者」に向かう困難を示した原型的な例とされています。ですが、高橋も、政府や企業の科学や技術が誰もの普遍的な目的・利益に向くようコントロールする活動をしたのですから「市民のための科学者」と見たらどうでしょうか。ただ、以下断定的な言い方になりますが、それは、集団としての「知識人」(とそれが組織した市民)の運動によるものでした。そして、普遍的=共和的「理念」を担ってきたのがまさに社会集団としての知識人です。しかし、長い80年代に入ってくると日本でも「知識人」による運動が弱まります。高橋らと日本消費者連盟の対立には、科学や技術のコントロール活動の担い手の交代という面もあるでしょう。それが、専門家-非専門家の関係の変化と捉えられたのかもしれません。であれば、「市民による科学/技術」を目指す市民科学/技術にとって、専門家-非専門家関係は、自らの存在理由に関わる問でもあったでしょう。*1こうして、市民(が組織した市民運動)が主体となる、今日の理解につながる参加型「市民科学/技術」が誕生します。問題は、この新たな「市民科学/技術」が「知識人」に代わって普遍的な目的を掲げ続けることができたかです。その点、例えば、長い80年代来の消費者運動の変容を見ても、誰もの普遍的な目的・利益から離れていった「市民科学/技術」も少なくなかったのではと私は見ています。

●以下は、なぜこういった見方をするのか、についての話になります。だいぶ端折りますので、関心がおありならということでお付き合いください。だいぶ端折りますので、分かりづらい点もあろうかと思います。

●私が提案したいのは、科学や技術を「する/行う」主体・担い手の組織で区別するのではなく、むしろ、「普遍的な」誰もの「目的」のために科学や技術の知識や技を生かそうとする活動、それを「市民科学/技術」と理解してはどうか、というものです。政府組織が、企業組織が、専門家組織が、(そして市民組織が)する/行う科学や技術の活動を普遍的な目的に向けて市民が「民主政的」にコントロールする活動が、市民科学/技術だという理解です。みんなで民主政的に決めたことが善いとは限らのないなら、むしろ、普遍的=公共的=共和政的コントロールの活動と言った方がよいのかもしれません。

コントロールそれ自体は、民主政諸制度を介した政治市民によるもの、市場を介した(労働者、消費者、投資家としての)市場市民によるものなど間接直接さまざまで多岐にわたります。そうした種を異にする市民の組織がそれぞれに自ら科学や技術を「行う」担い手になり、そして自らをコントロールすることもあるでしょう。いずれも、複雑で終りのない不断の努力になるだろうと思います。しかし、市民科学/技術の活動は、あくまでも、民主政をつくる政治の活動の一部であり、そう考えれば、市場を介した市場市民によるコントロールは、市民科学/技術ではないでしょう。それが誰もの「普遍的な」目的・利益のためのコントロールでない限りそうなるでしょう。

科学や技術を職業としない人びとがそれを行う「参加型」の科学や技術をもっぱら「市民科学/技術」とする理解が長い80年代以来拡がってきたのには歴史の事情があったでしょう。例えば1970年代、政府、企業、大学・専門家組織が行う科学や技術が普遍的な目的に向けられているとは言えなかった。そこから、だから科学や技術を行う主体が別に必要、それは市民組織だ、という方向へ進んだのにはそれなりの事情があったでしょう。そして今も、政府、企業、大学・専門家組織の目的を普遍的なものにどう向けるかという課題は変わっていない。しかし、1990年代以降は、科学や技術を行っている、政府、企業、大学が、そして一部の市民組織も、そもそも、目的を普遍的なものに向けることを自らの課題とすら考えなくなってきている(それに代わって、目的を「新しい公共」に向けることを共通の課題と考えるようになっている)。であれば、この状況では、目的を普遍的なものに向ける課題を中心に置いて市民科学/技術を考えることが必要で、科学や技術を行う主体が市民組織であるかないかで考えない方がよいのではというのが私の提案です。

●であれば、市民科学/技術にとって重要なのは、科学や技術活動の「目的を合わせること」、政府、企業、大学・専門家組織の目的を、(普遍的=共和政的である限りでの)政治市民/国民の目的と合わせることです。ところが、長い80年代に変質した市民科学/技術の多くにとって重要だったのは、科学コミュニケーションとしての専門家と非専門家の関係でした。こうした視点の逸脱、私はそう思います、はどうして起こったのか。

あくまでも、必要なのは、そして私が期待するのも、普遍的な目的を掲げる「市民科学/技術」運動による政府、企業、大学・専門家組織のコントロール活動です。そのためには、「市民科学/技術」運動のなかでも、高橋が消費者運動について言ったように、「科学の顧問団をうまく組織することが必要」、言い換えれば、「市民科学/技術」運動のなかでも、市民(組織)の目的と科学者や技術者(組織)の目的を普遍的なものへ向けて「合わせる」ことが必要です。それを、専門家-非専門家の関係と捉えたのかもしれません。そうならここに視点の逸脱はありません。合わせるには、科学者や技術者が市民の抱える問題の普遍性を知る、市民が科学者や技術者の知識の普遍性を知る、どちらも必要でしょう。そして、目的が合っている限り、市民が科学者に従うことは、またその逆も、支配されることではない。ですから、市民に必要なのも、目的を合わせるのに必要な限りでの科学や技術のリテラシーで、それを知識ギャップが支配の源などと誤解して、知識(量)を合わせることを目指すと、「空想的」市民科学/技術に向かうことになる、それは皆さんのおっしゃる通りです。

長い80年代来、市民科学/技術の多くが、専門家と非専門家の関係を語ってきた理由のひとつは、このように、市民科学/技術運動のなかで、市民と科学者・技術者の目的を(時には誤解して知識量を)「合わせる」ことにあったのかもしれません。しかし、政治が担う、普遍的な福祉への志向が弱まり、普遍的な目的から離れた、例えば、市場市民(組織)が、普遍的な目的から離れた科学や技術の顧問団・専門家と目的を合わせることが増えていくなかで、「合わせる」ことが重要と言って、専門家と非専門家の双方向的関係だけをもっぱら語ることは、目的が普遍的なものから離れていることを隠すように働いたように思います。だからこそ、普遍的な目的に向かうのが市民であり、市民科学/技術なのだと言う必要があると考えるのです。

●増山と高橋の事例から市民科学が学ぶべきことは何かという今回の講義の問いかけで、もうひとつ思ったことがあるのですが、それについては一言に止めます。それは、統計学から市民科学が学ぶべきことは何かという点に関わります。

●「普遍的な」誰もの「目的」へ向けて科学や技術をコントロールする活動が「市民科学/技術」なら、「誰もの普遍的な目的」とは何かを知ることなしには市民科学/技術は始まりませんが、これを知るためにつくられてきたのが統計技術だということ、それを市民科学は学ぶべきと思いました。民主政がみんなの意見に従う政治なら、みんなの意見をどうやって知るのか、共和政が誰にも同じ権利と義務を認める政治なら、福祉政治が誰もの必要を満たす政治なら、社会「全体」の状況を知ることが必要です。こうした政治を支えるためにつくられてきたのが統計技術で、民主社会であれ福祉社会であれ、集合的な目的のために集合的に努力する政治の文脈のなかでその技術はつくられてきた。

●ところが、統計(学)を育んできたこうした政治的文脈と、1990~2000年代以降今日のビッグ・データ/サイエンス技術を育んでいる政治的文脈は、大きく変わってしまっており、そのため、それぞれの文脈に合わせてつくられてきているこの2つは、何らかの集団/人口populationsを定量的に見えるようにする技術である点は同じでも、その技術が社会、政治に持つ意味は大きく異なっています。
その点を以下の記事が指摘していますので、ご参考までに。

W Davies, How statistics lost their power–and why we should fear what comes next, the Guardian, Thursday 19 January 2017

William Davies, Society as a Broadband Network, London Review of Books, Vol.42 No.7, 2 April 2020


注1 もちろん、政府、企業、専門家組織の市民によるコントロールを目指す市民科学/技術にとって、科学や技術の客観性、普遍性を根拠に政策手段を独占するテクノクラートから手段を取り戻すこと、その意味でも、専門家-非専門家関係は、自らの存在理由に関わる問であったでしょう。

 

第6回「町医者と商品テスト―松田道雄と花森安治」に対して

●松田道雄の事例からも学ぶことは多いと思いました。今回の講義を伺って思ったのは、「生活主義」の生活の科学を、「市民主義」の市民科学と考えない方がよいのではということです。以下そう考える理由に簡単に触れます。ただし、これが松田の思考と実践の歴史的実際だと言っているわけではありません。おそらく私の視点で過度に整理したものになっていると思います。松田がやろうとしていたことと、以下で私が考えることは実はそんなに違っていないのかもしれません。

●松田がしようとしたのは、保育広くは生活を「科学化」する、つまり、生活を(時の)科学に合わせて裁断するのでなく、生活(保育)のための、生活(保育)を裏付け支えるための(普遍的な)科学を目指すなかで、「科学」(医療・医学)を生活に合わせる、言ってみれば、科学を「生活化」することだった(これを科学の「相対化」と言うとミスリードではないでしょうか)。それは「生活に必要な学問を求める」生活する者の立場に立つ、「生活主義」である。そう理解することはできるでしょう。*1

●しかし、「生活主義」は「市民主義」ではないのではないでしょうか。市民主義に立つ「市民科学/技術」は、「普遍的な」誰もの目的・利益のために科学/技術をすること、言い換えれば、誰もが認め合う「人権」のために科学/技術をすることだというのが私の理解です。誰もの権利を護ると決意した「市民」がつくる共和政「市民社会」、それをつくるための科学/技術が「市民科学/技術」だという理解です。

●生活に必要なものは、置かれた状況でローカルにそして個々に異なる。そこから生活は私的個別のものだ。そうした理解に傾けば、「生活に必要な学問を求める」生活主義は、個々人の生活上の異なる個別の欲求wantsに応えるための科学/技術、その多くは市場取引を通じてなされる科学/技術に容易になっていくでしょう。*2

●しかし、松田にとって、生活は私的なものではなかった。育児は「しきたり」、習俗、集合的な規範や制度であり、個人が私的にするものではなく、共同体のなかでするものだった。だから、1960年代初期の高度成長期、核家族化が進むなかで育児が私的なものに閉じていこうとする時代に、子供が、そして母親が、皆のなかで、主体性をもった個人として育つ集団保育(運動)を推し進めた。社会が連帯して人を育て、そうして育てられた人びとが連帯して社会をつくることを目指した、共同体「社会の主義」であった。*3

●「社会の主義」と「生活主義」が合わさって「市民主義」なのではないでしょうか。松田もそこを目指したように見えます。ただ、松田と違うかもしれない(そうでないかもしれない)のは、あくまでも目指すべきは、共同体ではなく共和政「社会の主義」だと私は見る点です。「生活に必要な学問を求める」生活者の立場を共和政治「社会」をつくることにつなげる科学が市民科学ではないか、ということです。確かに、生活に必要なことは状況に応じて個々に異なります。しかし、異なるからこそ異なる部分を互いに埋め合わせて、誰にとっても必要と互いに社会で認め合う個人の必要needsに応える科学、(個人の「必要」を充足したうえで個人の欲求の実現を互いに認め合う)「福祉社会」をつくるための科学、それを市民科学だと考えてはどうでしょうか。生活は私的なものでもないし、共同体内にとどまるものでもないだろうということです。

●であれば、生活上の必要・問題の解決は、当事者・当人の置かれた個別の状況を離れてはないでしょうが、一方で、個別の状況を離れなければないでしょう。「「小状況」のなかを生きる弱者による抵抗を積み上げながら、同時に「大状況」とも接合していくことで「小状況」の変革につなげていくことを追求する「市民」思想」(山本宗記2007)という、松田道雄の思想への評価を、私はそう理解します。

●しかし、松田の思想はそう評価できるとしても、そうした思想は長い80年代(1975-95)に受け継がれていったのでしょうか。「市民主義」から、共同体であれ共和政体であれ、「社会の主義」が脱色され「生活主義」が残るという方向に向かったのではないでしょうか。私はそうしたことも多かったのではと思っていますが、であれば、それはどうしてだったのか。市民科学の今日の状況を考えるうえで、これは避けられない問いだと思います。

●松田は、主に戦後直後から長い60年代(1955-75)に活動した、「戦後啓蒙の世代」の知識人のひとりで、事実、今回講義にあるように、「平和問題談話会」(1948-58)から、雑誌『市民』(1971-76)、「安楽死法制化を阻止する会」(1978-)まで、日本国憲法を支える平和、国民主権、基本的人権という普遍的=共和的「理念」を担う集団としての「知識人」(とそれが組織した市民)による運動を担っています。と同時に、「日本患者同盟」(1948-)、「思想の科学研究会」(1946-1996-)から、「関西保育問題研究会」(1960-)、「ベトナムに平和を!市民連合」(1965-74)まで、市民が組織した市民運動にも加わってきました。知識人の運動と市民の運動を繋ぐ立ち位置にいたと言えるかもしれません。

●しかし、長い80年代に入って「知識人」による運動が弱まって行ったとき、代わった市民の運動が普遍的な目的・利益を掲げ続けることができたかです。必ずしもできなかったのだとすれば、なぜ、松田のような立ち位置が生かされなかったのか、そうした問いが残りました。


注1 第4回講義で検討された原田や西村が採った「現場主義」にも通じますが、(町)医者・医療者という(非営利)職業が、生活者の目的に科学/技術の目的を合わせる方へ松田をさらに押し出し自由にしたと言えるのかもしれません。

注2 生活は私的なものではなく共同体的なものだから、生活主義に立つ科学はコミュニティ・ベースの科学/技術で、それが市民科学だとする考え方も広く見られます。しかし、コミュニティ・ベースの科学/技術は、コミュニティを超えた「普遍的な」誰もの福祉を実現する政体/国の形をつくるための科学や技術、私はそれを「市民科学」と理解するのですが、つくれるのでしょうか。これにどう答えるにせよ、「市民社会」をつくるための科学である「市民科学」は、「市民社会」をどう理解するか、どういう「市民社会」をつくろうとするのかと、運命を共にするということは心しておく必要があると思います。

注3 この意味での「社会の主義」と、松田が実際に関与し格闘した「社会主義」との隔たりは大きかっただろうと思います。しかし、「社会主義」から「市民主義」へと向かった松田の実際の活動が、果たして共同体「社会の主義」へ向かうものだったのかについては、検討の要がありそうです。集団保育(運動)が、主体性をもった自由な個人を育てることを目指したのなら、それを共同体社会と言えるのかです。

 

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