日本機械学会イブニングセミナーを23年間実施して
権上かおる(市民科学研究室会員)
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一般社団法人日本機械学会の技術と社会部門では、技術者のアフターファイブの気軽なサロンを目標として、1997年10月に誕生したイブニングセミナー(以下イブセミと略す)が、コロナにより2020年3月からのリアルの開催が困難になり、2023年3月に閉会を決めた。
毎年、学会決算月の2月をのぞく、年11回開催し、全部で236回の開催であった。講師数は複数回の方がおられるため208人(図1)、参加者は延べ約7000人であった。
学会HPには、初期をのぞく全講演の演題と講師が掲載されている。
2007年4月~2019年1月(第103回~236回)
1998年12月~2007年3月(第1回~第102回)
市民科学研究室の上田さんにも2回講演をお願いした(写真1)。
イブセミの構想は、元青山学院大学副学長故三輪修三先生からで、「『技術者は広い教養をもつ必要があり、専門馬鹿に陥ってはいけない』と、いろいろな分野の方々のお話を聞くことができる場を作ったらどうか」との提案を受け、小西義昭さんが、実現に向け尽力された。しかも、三輪先生は始まってからは、いっさい手も口も出されなかった。真の教育者であることを実感した次第である。運営は、小西さんを中心にすべてボランティアで担った。見事なチームプレーであった。
代わりにといっては語弊があるが、第1回「歴史における技術―技術の潮流」、50回「技術と社会との関わり-技術の栄枯盛衰と社会環境」、100回「考えることを考える」の講師をお願いしたが、どのお話も時間空間を縦横に行き来する印象的な素晴らしい講演だった。
参加者人数の多い講演(表1)をピックアップするとやはり事故ものが、また、2011年以降は原発事故関連が多くなる。この経験から思うのは、専門性のある方々が、自由に事故原因などを語り合う場というのは、あるようで、ないのだなあということであった。このほかにも三菱ふそうタイヤ脱落事故、車両火災鑑定などでも活発な議論が展開された。
なかでも最も緊張感の中で行った、佐藤国仁さんの「JR西日本・福知山線事故調査報告書を読み解く」の回は忘れられない。JR、警察、消防、事故調査委員会などの直接かかわる方々の参加があったためである。当該報告書は、事故原因究明が目的であるにも関わらず、転覆事故で最も重要な重心高さの記載が一切なかい報告ということも知った。
東京都のディーゼル規制時に起こった「三井物産DPFねつ造事件から考える「開発と材料」」を私が行ったが、排ガス後付け装置の一部を造っているメーカーからも参加された。メディアで糾弾されているが、当事者の一部では、いったい何が起こったのか全容がわからなかったためという。
この他に印象に残る点に思いめぐらすと、講演のテーマに、プラスその方の人生そのものへの感動もしばしば感じた味わいだったのではないか。
(株)雪ヶ谷制御研究所代表取締役関純子さんは「架線のない電車と電気二重層キャパシター」というご自身で実験場も確保する必要がある、大規模なお仕事だが淡々と説明され、会場には大学の同級生を中心にセキジュン応援団としてバックアップされ、当日も何人かはお見えだった。
宮大工の故前場幸治さんは、「大工魂―匠の技と心意気―」まさに心意気高いお話で、「谷中五重塔は再建可能ですか?」と質問したら、「見積もり出すよ」といわれ慌てた。
ある方は、現業時代に企業の大規模リストラの最前線の仕事もされたようで、お話しながら涙を浮かべた。
もと工業技術院機械技術研究所課長の井上久仁子さんは、「機械加工の自動化に魅せられて」のお話の中で、女性の機械分野研究者が極めて珍しい時代で、メーカーなどに出向くと、対応者は、彼女が質問しているにも関わらず、同行の男性研究者にしか顔を向けなかったという。自分は計算に疲れると同僚に3時のお茶を入れることは、むしろ体を動かすいい機会ととらえていたが、「若い方はお茶くみを拒否されること多いのねえ」と自然体でおっしゃった。
普段はお話を伺う機会もない官公庁関連の皆さんのお話も大変興味深かった。
もと国連大使&アフリカ協会理事長の故大島賢三さん「日本と国連、日本とアフリカ」は、「国連の議論であっても、相手の目を見て冷静に自分の意見を述べるという、自らの米国の地方の高校留学体験が生きている」とおっしゃった。
119回だからとお願いした、東京消防庁警防部救助課長原修さん「大規模自然災害現場における人命の救助」も感慨深いお話だった。国際レスキューで四川大地震の現場に向かい、生還者を救出はできなかったが、遺体を引き上げるとき、隊員は囲んで黙とうをささげる当然のことをしたのだが、これがSNSで広がり、帰りの空港のある街に隊員を乗せたバスが到着すると夜遅くにもかかわらず大勢の市民が大歓迎をしてくれ、最初は意味がまったく呑み込めなかったという。
国鉄時代から鉄道一筋の土木技術者の高松良晴さんは「鉄道のルート選定」、多くの鉄道ルートを作ってこられた。ルート選定の困難さの一端を伺えた。
国立極地研究所の本山秀明さんは、「南極と北極の両極での観測」をされた。東京の冬も半袖Tシャツとサンダルで、寒さに体を慣らされるという。持参いただいた南極氷も皆さんに喜ばれた。
もと国土交通省河川局長の竹村公太郎さんには、3回の講演「ソウル・チョンゲチョン再生-アイデンティティーを求めて-」「日本文明と地形の謎」「水力発電が日本を救う」をお願いした。どれも行政の枠にとらわれないお話で、特に水力発電については、竹村提案の方向に動き始めているようだ。
なんといっても会場の笑いが最も大きかったのは田代省三さん(独)海洋研究開発機構 広報部部長ではないか。「日本初の大深度有人潜水調査船しんかい2000」のお話、しんかい2000は、小型船舶として神奈川県に届けることにはびっくりした。
また、武田健さん東京理科大学薬学部教授・ナノ粒子健康科学研究センター長「ナノテクノロジーの光と陰」のように製造メーカーの技術者に負の面を伝えることができた機会になったと思う。
戦争や原爆の問題についても積極的に取り上げた。
日野川静枝さん拓殖大学教授「原爆投下方針の推移と科学者の抵抗」の基本的なこと、増田善信さんもと気象研究所室長「広島原爆後の「黒い雨」はどこまで降ったか―「黒い雨」を追って半生―」のような影響について、山田朗さん「明治大学平和教育登戸研究所資料館の意義-旧陸軍秘密戦研究所を語る-」は日本軍としての歴史、そして、野村路子さんテレジンを語りつぐ会・代表「ナチスの収容所で子どもたちは4000枚の絵をのこした」は、今でも優しく凛としたお声が耳元によみがえる。
3.11直後、世の中騒然とした中で、3月30日にニューヨーク・シティ・オペラ指揮者山田敦さんの「『行間の宇宙』への挑戦」を何事もなかったように予定通り実施した。福島は合唱王国であり、指揮の経験もあることなどにも触れられた。元々山田さんは地震や地質の学問をされ、太平洋プレートについての論文を検索されたメディアからニューヨークまで取材の申し込みがあったそうだ。
紙幅がいくらあっても足りないほど、それぞれの講演の思い出がある。また、200人を超える講師のお願いも綱渡りのようなことも多かった。リアルの講演会にこだわったのは、場のもつ空気感を大切にしたためであった。一度中断すると「慣性の法則」を強く実感、再び動くことはできなかった。
さらに三輪提案の「いろいろな分野の方々のお話を聞くことができる場」の重要性をイブセミが終わる時点で強く再認識している。(肩書はすべて講演当時)(了)