小特集:映画『オッペンハイマー』を語る
映画『オッペンハイマー』を見て
桑垣 豊 (市民科学研究室 ダーウィン会員、特任研究員、「熱と暮らし」研究会世話人)
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だいぶ以前、私は市民科学研究室の企画で、今まで研究してきた「原爆投下の経緯と日本軍の対応」をテーマに発表する機会をいただきました。研究のために、本で読んだり写真で見ただけの原爆開発の経緯を、映像で再現していたので勉強になりました。
トリニティ原爆実験の場面で、起爆装置の赤いボタンが大きいのが印象的でした。再現映像ということでは、戦後まもなくオッペンハイマー自身が出演して、原爆実験時の再現映像を撮ったということなので、この映画がはじめてではありません。
アメリカなどでの公開は2023年だったので、日本での公開は1年遅れました。日本での上映が遅れたのは、原爆被害の様子が出てこないので、日本人には抵抗があると思ったからだそうです。しかし、それはアメリカ人が広島・長崎の惨状を見たがらないということの裏返しで、日本人にはそういう場面がないといけないという思い込みではないか。
むしろ、多くのアメリカ人が原爆を肯定的にとらえている中で、オッペンハイマーが罪の意識にさいなまれるシーンが多いこの映画には共感がもてます。こんな映画がヒットしたのが不思議でした。
しかし、認識が甘かったようです。大半のアメリカ人は、オッペンハイマーが罪の意識に悩むところは無視して、赤狩りの問題に注目するようです。この映画を紹介していたNHK・BS「キャッチ・世界のトップニュース」で、映画を見たアメリカ人が「オッペンハイマーが一瞬悩むシーンがあったが、理解できなかった」と感想を述べていました。一瞬どころかずっと悩んでいるようにしか思えませんでしたが、そうは見なかったようです。
それは、7月6日、日本公開の映画『リッチランド』を見ても、かいま見ることができます。リッチランドは、アメリカ西海岸に近いプルトニウム抽出用原子炉のあったハンフォードで働く技術者・労働者の住宅都市です。ハンフォードの南東にある原爆開発のための人工都市です。この町のシンボルは、きのこ雲とB29のシルエットで、日本への原爆投下は誇るべき自分たちの偉業だそうです。ハンフォードでは、戦後も核兵器生産を続け、廃棄した各兵器の捨て場にもなったので、放射能汚染が深刻です。それでもリッチランドで偉業であることには、変わりようがないようです。アメリカでも、若い世代から日本への原爆投下を批判的に見る人は増えていますが、全体としては肯定的な人が多いのが現実です。
皮肉なことに、このような見方をする人が多いせいで、アメリカでも映画がヒットしたのですから、おそれずにいろんな作品をつくってほしいと思います。
一方の赤狩りですが、オッペンハイマーは過去のつきあいや家族に共産党との接点を疑われ、ソビエトのスパイに協力した容疑で追及されます。オッペンハイマーが労働運動に参加・支援していたのは事実ですが、意識してスパイに協力したとは思えません。「労働運動=マルクス主義者=ソビエトの手先」というレッテルをはられる悲劇も描いています。
しかし、ここでも、ノーベル賞級の物理学者などが集まるプリンストン高等研究所で、オッペンハイマーが思わぬところで恨みをかったせいで復讐されたことに焦点があたりそうです。
オッペンハイマーは、うまく自己弁護できなかったこともあり、機密情報へのアクセス権をうばわれます。これは、日本にも導入しようとしているセキリティクリアランスと同様のものです。日本は、武器輸出や兵器の共同開発をしてこなかったので、このようなものは必要ありませんでした。外国と共同開発するとなると、担当者が情報をもらしたりしないか、個人の身辺調査をして、条件を満たした者だけが機密情報へのアクセスや共同開発ができるようにする必要があるという理屈で導入しようとしています。プライバシー侵害や、政策に批判的な意見をもつ者を排除するのに使われる危険があります。オッペンハイマーに対するように、気に入らない人物の失脚をはかる道具にも。
オッペンハイマーの証言や考えは、すべてではないものの残っているので、原爆開発の経緯をうかがうことができます。公表は後になってもいいので、関係者は証言を残してほしい。
樫出(かしいで)勇という人を、知っているでしょうか。旧陸軍の戦闘機乗り(パイロット)です。1945年8月6日朝鮮半島の大邱(てぐ)基地を陸軍の戦闘機「屠龍(とりゅう)」に乗って、B29迎撃に飛び立ちました。このときのことを、樫出氏は著書『B29撃墜記』には書いていません。自慢話になりかねないからでしょう。戦争体験者には、批判を恐れて事実を書かないことがよくあります。しかし、自慢話ととられかねないことを心配して書かないこともあります。原爆搭載機B29「エノラゲイ」を含む3機いずれかに、撃墜できないまでも銃撃を加えて一矢(いっし)報いることができれば、ある程度あきらめがついたでしょう。いさぎよくないと思ったのでしょうが、それは脇において、知っている事実は書き残してほしかった。
2000年に亡くなっているので、この本を読んだ2005年に本人から話を聞くことはできなくなっていました。さいわい、渡辺洋二氏がインタビューしていました。渡辺氏は『双発戦闘機「屠龍」』で、8月6日に大邱を飛び立った樫出氏を含む3機の屠龍から、広島のきのこ雲を遠望したことが書いてあります。8月9日は、樫出氏は出撃しなかったようですが、2機の屠龍から長崎のきのこ雲を見ています。しかし、それ以上の詳しいことは書いてありません。
2011年8月6日放送のNHKスペシャルは、「原爆投下」をテーマにしていました。NHKは渡辺氏にも取材しようとしましたが、断られました。NHKを含めてマスコミは正確に報道しないから、というのが理由だということでした。この番組は大変参考になるものでしたが、「日本側は原爆投下を予期できたのではないか」というのが結論でした。私も番組づくりに協力したので、放送数日前にこの結論を聞いていましたが、そうは思えませんでした。原爆投下が実現したという事実から後付けで出る結論で、世界初の原爆が完成して投下しようとしていると予測するのは、当時の状況をいろいろ調べて見て無理があるとしか思えませんでした。渡辺氏の気持ちも、わからないでもありません。
ここは解釈の問題なので、どうしても間違っているとは言えません。しかし、このような事実を確かめるためにも、できるだけ情報を残してほしいと思います。そして、この映画のようにできるだけ正確に多くの人に知ってもらえるようにしてほしい。今は、この映画を片寄った見方をする人が多くても、このような作品はもっとつくってほしい。
ノーランの映画は難解で有名だそうです。私はこの監督の作品を初めて見ましたが、そんなにむずかしくありませんでした。上映時間3時間というのは長いですが、原爆や科学技術、歴史に関心のある人には、それほど苦痛にはならないでしょう。
『リッチランド』監督 アイリーン・ルスティック 2023年 アメリカ映画
『B29 撃墜記』樫出勇 光人社NF文庫 2005年 490円
『双発戦闘機「屠龍」 一撃必殺の重爆キラー』渡辺洋二 文春文庫(最新版は光人社NF文庫) 2008年 412-414頁
『原爆投下 黙殺された極秘情報』番組内容を書籍化 松木秀文、夜久恭裕 NHK出版(その後新潮文庫で出版後品切) 2012年