小特集:映画『オッペンハイマー』を語る
ゴジラ研究者から見た『オッペンハイマー』(2023)の感想
山口 直樹(市民科学研究室 ファーブル会員、北京日本人学術交流会責任者)
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はじめに
私は、『オッペンハイマー』(2023)は、上野のTohoシネマズで2024年5月に鑑賞した。
史実に基づいたものかどうかは、定かでないが、最初にオッペンハイマーが、ケンブリッジ大学の留学時代に指導教授とうまくいかず、リンゴに毒を入れるシーンが描かれていたのは、印象的だった。
もともとオッペンハイマーのハーバード大学での専攻は化学だった。
そこから実験物理学に行くのだが、実験はあまりオッペンハイマーの得意とするところではなかったようだ。ケンブリッジ大学の指導教授とうまくいっていなかったことが、示唆されているが、1904年生まれのオッペンハイマーの20代前半は、物理学研究の中心は、まだヨーロッパであったことがわかる。そのようなわけで、実験物理学から理論物理学へと向かうが、当時の理論物理学で最先端の研究は、ドイツ、とりわけゲッティンゲン大学で行われていたようだ。この分野でオッペンハイマーは、才能を大きく開花させる。それは、ドイツのゲッティンゲン大学での物理学者マックス・ボルンに認められることによってである。
当時のゲッティンゲン大学は、世界で最高の理論物理学の水準を示していたといっていいだろう。日本ではゲッティンゲン大学をモデルとした大学として東北帝国大学が、1907年に創設されている。その創設メンバーの一人には、当時、量子力学や相対性理論に通じていた石原純のような理論物理学者がいた。
1.オッペンハイマーと原爆開発の矛盾
この映画を見にいったときいささか驚かされたのは、平日にもかかわらず、100人以上ははいろうかという部屋が、ほぼ満員だったことだ。
ノーマン・ライアンの話題作ということもあるのだろうが、これほどまで多くの人が、見に来ているとは予想外だった。実は私は、ゲッティンゲン大学をモデルにした東北大学理学部物理学科出身で物理学史には、多少は関心をもっているものなのだが、非常にマイナーな関心だと自分では思ってきたし、事実そうなのだろうと思うが、話題の映画となるとこれほど多くの人を引き付けるという現実に少し不思議な感じがしたのだった。
物理学史上の重要人物が、次々とこれほどまでにでてくる映画というのは、見たことがない。
しかし、どうもそれは史実に基づいたものというより、基本的にはフィクションとしてみたほうがよいだろうなと感じた。たとえば冒頭のケンブリッジ大学の指導教授のリンゴに毒を仕込むシーンなどに関して。
それでも弟の物理学者のフランクが、共産党員であり、愛人の夫だった人物がスペイン市民戦争の人民戦線に参加していたというようなところは、事実であるようだ。
後にオッペンハイマーは、共産主義者の疑いをかけられるが、その要因の一つとしてケンブリッジ大学には、『科学の社会的機能』を書いたバナール、生化学を専攻し後に中国科学史の大家になるジョセフ・ニーダムや「市民のための科学」を書くホグベンなど「赤い科学者」がいたことがあげられるかもしれないと思ったりもした。(これはホブズボーム『極端な時代』における指摘を参考にした。)
この映画では、オッペンハイマーの理論物理学者としての天才ぶりを描くとともに、優柔不断な女性関係や組合運動や反ファシズムの運動などの政治に受け身的にかかわり流される様子が描かれてもいる。
理論物理学者としては、天才的な才能を示すが、人間的には決断力に欠けるところがあるといったような矛盾した側面が、この映画では描かれていると感じた。
この矛盾した側面は、オッペンハイマーが主導したとされる原爆開発にもあるように思われる。科学研究を発展させていくためにはできるだけ自由に意見交換したりするほうがよいが、機密保持のために組織を縦割りにし、科学者に研究の全体像を意図的に見えなくさせている側面がある。物理学者として研究の自由を重視するオッペンハイマーは、機密保持を重視する軍人グローブスと衝突していた。
この原爆開発、すなわちマンハッタン計画は、人類史上かつてない規模で科学者や物資や予算を動員したことで知られる。
1933年のドイツにおけるナチスの登場によってドイツにいたユダヤ系の科学者の多くはアメリカに亡命した。アルバート・アインシュタインはその代表的科学者といえるだろう。
そのことにより物理学研究の中心は、1930年代後半以降は、アメリカに移ったといってよいだろう。こうしてアメリカでの物理学研究のスタイルは、かつての牧歌的なものとは大きく異なったものとなった。軍や企業や国家が、科学者を囲い込み研究の方向性をも左右するようになり科学者の主体性すら危うくなるような状況が生じてきている。
原爆開発が可能と考えられる1940年5月からは米国では核分裂関係の論文、各学会誌への
掲載が差し止められた。研究情報が、6 年間ストップし、研究の空白期が生まれた。原爆の秘密が公開されたのは1946年からだったという指摘をしていたのは、『731部隊研究全史』を書いた常石敬一氏だった。
1940年代以降、アメリカでの科学研究のマンハッタン計画に象徴される巨大プロジェクトは、ますます市民(民衆)から科学が遠ざかっていくプロセスだったと考えてもよいのではないかと思った。かつて日本への原爆の投下をファシズム対アメリカのデモクラシーという構図で語り肯定した人がいた。だがアメリカの原爆開発もごく一握りの政治家や軍人によって決定されているのであり、民主主義的というにはほど遠いと思われる。
2.怪物となったオッペンハイマー フランケンシュタインとオッペンハイマー
ここにおいてオッペンハイマーは、人間的な矛盾を抱えると同時に世界を破壊し全人類の運命を左右しかねない力をもった怪物になっているのではないかと思った。
怪物といえば、1831年に21歳の女性であるメアリー・シェリーによって書かれたゴシック小説であると同時にSF小説でもある『フランケンシュタイン』がただちに思い浮かぶ。
フランケンシュタインは、怪物の名前になっているが、実はもともとフランケンシュタインは、怪物を生み出した科学者の名前であり、怪物に名前はなかったのだ。
怪物は科学者の家族を殺害したりするが、全人類を破滅に導くほどの力を持っているわけではない。また科学者フランケンシュタインが、怪物を生み出すにあたって使用する実験装置は、フランクリンの避雷針であるとか、まだまだ個人でできるレベルのものであった。
しかも『フランケンシュタイン』という作品は、「現代のプロメテウス」という副題がついている。プロメテウスとは、人類に火を与えたギリシャ神話のなかの男神とされるが、19世紀の怪物であるフランケンシュタインは、科学者の名前を付けられた「火を与える怪物」だったのである。
一方、20世紀の理論物理学者、オッペンハイマーは、原爆という火によって全人類を破滅に導きかねない「怪物」となっていることがこの映画から見て取れる。オッペンハイマーは20世紀のフランケンシュタインであると思う。
また、この映画では、米ソ冷戦下で「共産主義者」という怪物に仕立てあげられていくオッペンハイマーの姿も描かれている。オッペンハイマーは、うまく立ち回れるタイプの人間ではなく、ソ連に情報をもらす「共産主義者」というのは、意図的に赤狩り社会の狂気が生み出した可能性が強いと思われる。オッペンハイマーは、処刑はされなかったが、ローゼンバーグ夫妻は、ソ連に水爆の情報を漏らした罪で処刑されている。
もっともハンガリー生まれのユダヤ系科学者で『博士の異常な愛情』のモデルとなったエドワード・テラーは、猛烈な反共主義者であり、確信犯的に水爆開発に関与していた。
オッペンハイマーよりはるかに狡猾で彼を陥れようとしたのはストローソンであった。
だがそのストローソンも公職から追放されてしまう。
この映画ではオッペンハイマーの回想はカラーでストローソンの回想は白黒でという対比が印象深いものとなっている。
3.オッペンハイマーと『ゴジラ』(1954)の芹沢大助
私がもう一人、オッペンハイマーと対比しておきたいと思った映画のなかの科学者は、『ゴジラ』(1954)の芹沢大助である。
この映画のオッペンハイマーは、原爆を開発することによって傑出した戦力を保持することによって相手国は戦意を喪失し、戦争はなくなっていくのではないかと当初は考えていた。この見通しは「甘かった」の一言である。
実際には、敵国は同様の兵器を開発していくことになった。科学者が原子核のなかの現象を新しく発見した時、それが原爆の開発に進んでいくと考え付いた科学者はほとんどいなかっただろう。予想外の形で原爆開発にその現象がつながっていった。
また核兵器はいったん開発されると科学者の意図がどうであれ、開発した科学者の手を離れ軍人や政治家によって「意図せざる結果」を生み出していく。
この点の認識が、よくできていたのが、『ゴジラ』(1954)の化学者である芹沢大助であった。
『ゴジラ』(1954)において酸素をあらゆる角度から研究していた化学者、芹沢
大助博士が、ゴジラを倒すために彼の発明した水爆以上の破壊力をもつというオキシジェ
ン・デストロイヤーの使用を懇願されたとき、あくまで平和利用のために研究してきたのだ
といい、頑として拒み続ける。芹沢は「原爆対原爆、水爆対水爆、そしてこの恐怖の武器を人類の前に付け加えることは科学者としていや一個の人間として許すわけにはいかない」というのである。
そのときの尾形の「たった一度だけ使用してあとはすべての
研究資料を焼き払ってしまえばいい」という主張に芹沢はこう答える。
「尾形、人間とは弱いものだよ。一切の書類を焼いたとしても俺の頭の中には残っている。
俺が死なない限りどんなことでふたたび使用する立場に追い込まれないと誰が断言でき
る 。」
私には、芹沢博士のこの言葉は、「人間の弱さ」というものを科学者の立場から見事に表
現しきった言葉のように思われた。彼(香山滋の原作では元北京大学の教授という設定にな
っている)は、なんらかの理由で戦争において傷を負い、いいなづけの山根恵美子を戦後日
本を象徴する明朗な青年、尾形にうばわれていくのをなんのすべもなく見守るしかない男
である。
芹沢博士は最先端の科学者でありながら、現代科学に不信を抱き、みずからをふくめて人
間というものを信用していないいわば闇の科学者である。この芹沢は、最後、オキシジェンデストロイヤーの秘密を封印するためゴジラとともに海に溶けていく。この芹沢の最後は哀しい。
だが、芹沢は、オッペンハイマーの見通しの甘さをよく知っていたといえるだろう。
4.私が『オッペンハイマー』を見ながら想起していた現実の人物
私がこの映画を見ながら想起していた人物は、私がもっともゴジラ的だと感じたビキニ環礁でアメリカの水爆実験で被曝した第五福竜丸の元乗組員の大石又七氏であった。
2011年3月3日にから私は、大石氏から以下のようなメールを受け取っていた。
「こちらの手違いで今、ページを開いて送っていただいた宝田明さんの本を読み始めました。(中略)
私などとはまったく違う別世界で、スポットライトの中で過ごしてこられた人かと思っていましたが、大変なご苦労を経験してきているようで驚いています。また、ゴジラ映画を改めて見ている思いで読んでいます。
人の一生と言うものは、聞いて見なければ分からないものですね。相変わらず私も、あっちこっちに出掛け、ビキニ事件を伝える講演に足を運んでいます。昨年の五月にはニューヨークで行なわれたNPT会議に向けて集まった平和を望む人たちと「グローバル被爆者」という立場で交流してきました。ただアメリカ人のほとんどがビキニ事件を知らないというのには驚きました。
この7月に、ハワイ大学から翻訳されて出版される「ビキニ事件の真実」で1人でも多くのアメリカ人に核兵器の恐ろしさが伝わってくれればいいと思っています。4来月中には「矛盾」という表題で4冊目を出版します。これは少し変わっていて、類人猿から核兵器までを扱った戦争を追及するというものです。
3月22日に、ノーベル平和文学賞を受賞した大江健三郎氏との対談も決まっているので、その辺を伺ってみたいと思っています。 それではまた 大石又七」
このメールで分かるようにアメリカでは、ビキニ事件のことが一般にはほとんど知られておらずlucky Dragonのこともほとんど知られていないことに大石さんは、ショックを受けていた。この映画を見ながら私が、見てみたいと思ったのは、オッペンハイマー×大石又七という対談である。
この映画が公開されたことから1960年にオッペンハイマーが来日していたことがニュースで取り上げられていた。
オッペンハイマーは、1960年9月23日に日本で行われた座談会に参加している。
そのメンバーは以下の通り。
石田英一郎、大江精三、岡村和子、加藤八千代、城戸幡太郎、崎川範行、篠崎かよ子、高宮篤、高木純一、玉虫文一、時実利彥、朝永振一郎、二瓶慶一、宗像巌、森本哲郎、 T.Lynch、田中愼次郎。
ここでは東京大学教養学部科学史教室の創設にかかわった玉虫文一氏や物理学者、朝永振一郎氏の参加が注目される。
オッペンハイマーが、来日した1960年、大石氏は、26歳だった。
だが、このころは、大石氏はまだマスコミ嫌いで周囲からの妬みなどに嫌気がさして東京という大都市の匿名性の中で隠れるようにして生きていたころである。
大石氏が社会的発言を始めるのは、1980年代前半からであり、そのころはもうすでにオッペンハイマーはなくなっていたので、実際には対話は難しかっただろう。
しかし、もしオッペンハイマーと大石氏との対談が成立していれば、どんな内容になったか考えてしまう自分に気が付いていた。
大石氏がのっていた第五福竜丸について「日本やアメリカの諸都市には、この数週来、放射能雨が降っている。日本の住民は恐怖の念を抱きながら、いつも彼らの主要食料を運んできていた漁船を見つめている。なぜなら何千年もの間、所有主のなかった海や大気が、いま主人を見出したからだ。その主人たちは我が物顔に彼らの上にその権利つまり彼らを汚染させるという権利を行使している。
人類の健康は、何百年先まで脅かされているのだ。それにもかかわらず、この実験者たちの取材にあたった出版関係者たちはすべてを覆い隠し、かくすことのできないことはつまらないことだとごまかしてしまっている。」と書いたのは「1954年ベルリンにおける世界平和評議会臨時会議」(1954年5月28日)における劇作家のブレヒトだった。
このブレヒトは、『ガリレオの生涯』において「英雄がいない国が不幸なのではない。英雄を必要とする国が不幸なのだ」と書いた。
『オッペンハイマー』では大量殺人を喜び、熱狂的に起立してオッペンハイマーを英雄として讃える一般の普通の市民(民衆)たちが映し出されるが、私はそのときブレヒトのこの言葉を想起してしまった。この時、アメリカの市民(民衆)に日本人に対する差別意識がなかったとはいえないだろう。
1938年秋に書かれたブレヒトの『ガリレオの生涯』の第14場は、宗教裁判所の審問を受けて自説を撤回したガリレオが社会から隔離されながら、科学の研究を続けている時期「1633-42」を扱っている。弟子のアンドレアはより自由に研究できる外国に出国する途上、別れを告げに旧師を訪問してくる。ガリレオは、慎重に隠しておいたここ数年の研究成果である著作を託する。この著作は、ガリレオが公的に自説を撤回することによって研究継続の可能性を手に入れ、巧みに科学を守り抜いたということができるだろう。
しかし、ガリレオの自説撤回が、科学を民衆(市民)から分断し、多くの科学者の沈黙や屈服を招き、ひいてはその後の近代科学の歴史を権力への隷属の歴史に転換させる原罪性をもっていたということをブレヒトは、意識してもいる。
撤回を選ぶことによってガリレオは、研究の進展というプラスと科学の権力への隷属というマイナスとを同時に二重に選んでいた。
1938年のブレヒトは、ガリレオの研究の進展というプラス面に重点を置いていた。
しかし、1945年アメリカ上演を前に「ガリレオ」を改稿した際には、重点を置き替えマイナス面を強調した。
その背景にあるのは、明らかに1945年に広島、長崎での大量殺人という形で現実化した核エネルギー「実用化」であった。
「原爆の父」といわれたオッペンハイマーは、科学研究を進展させはしたが、科学を権力(国家、企業、軍)に隷属させたという意味でブレヒトの描いたガリレオと重なる部分を持っていると思われた。しかもいったんは、科学を権力に隷属させるが、その後、水爆開発に反対するという意味でマイナス面すなわち「英雄を必要とする国の不幸」を自覚するようになったといってよいように思う。
今回、『オッペンハイマー』が世界中で公開され、多くの市民に見られ議論されていることは、歓迎すべきことであり、こうしたことの積み重ねが、市民(民衆)から分断された科学を再び市民に取り戻すことにもつながると思われる。
おわりにー多様な視点からのヒバクシャシネマを
この映画に感想として広島や長崎のことがあまり描かれていないというものがあった。
それは、確かにそうなのだが、これはオッペンハイマーという科学者の伝記の映画なのでやむを得ない側面がある。それは日本側が応答として、また新たに映画を撮って応答していけばよいと思う。
実は、この映画の少し前に私が見た映画は、『ゴジラー1.0』であった。この映画を撮った山崎監督が、『オッペンハイマー』に応答する映画を撮るべきと述べていたのを読んだ。これはぜひともやってほしいと思う。
アメリカやイギリスでも大反響をよんだ『ゴジラー1.0』は、内容的には面白く充実したものであった。ただ、ひとつ気になったのは、ゴジラ出現の舞台が1947年、48年あたりの日本であるため第五福竜丸の存在が、消し去られるかあいまいになっている点であった。オッペンハイマーが、公聴会に呼ばれるのは、1954年のことで第五福竜丸が、被曝し、ゴジラが登場した年であった。こうした原点を忘れず、『オッペンハイマー』に応答する映画を撮ってほしいと思った。
このことは忘れられるべきでないと思う。伝統的にゴジラ映画のスタッフは、マグロ漁船に強いこだわりがあった。
そして日本の視点ばかりでなくアジア諸国の視点からもヒバクシャシネマが出されてもよいはずだ。
たとえば、私が、研究留学した北京大学科学と社会研究センターにおられた何祚庥氏は、1927年生まれで18歳の時に広島、長崎へのアメリカによる原爆投下を知り、原爆のすごさに衝撃を受けたという。それで専攻を化学から物理学に急遽変更して清華大学を卒業したという学者である。その後、中国の原爆開発プロジェクトの両弾一星プロジェクトに関与していたという。
何祚庥氏の朝日新聞の記者の吉岡桂子氏によるインタビューが「原発大躍進には断固として反対する」「体制内」からの原発計画反対論」と題して『問答有用』(岩波書店2014)という本に収録されているが、中国の科学者が、アメリカによる日本への原爆投下をどう受け止めたのかを知るという意味で何祚庥氏は、大変、興味深い科学者なのである。
そうした意味で中国の視点から描いたヒバクシャシネマが出されてもよいはずだ。
なお、広島は日清戦争のとき大本営が置かれた場所であり、対アジア侵略の拠点となった場所であり、1945年の原爆投下時には、ヒバクシャの約2割は、朝鮮人だったことがわかっている。その意味で朝鮮人の視点から描かれるヒバクシャシネマも出されてもよいだろう。
そして最後に、アメリカの核実験の実験場にされたマーシャル人の視点からえがかれたヒバクシャシネマも重要だろうと思う。
フォトジャーナリストの島田興生は著書『還らざる楽園―ビキニ被爆 40 年核に蝕まれて-』(小学館,1994)において次のように述べたことがある。
「1954年3月1日マグロ漁船第五福竜丸が、ビキニ環礁近海で被爆した事件は日本人にとって広島、長崎に続く第三の被爆であった。それをきっかけに日本全国の原水爆禁止運動が大きく盛り上がり、世界の核兵器廃絶運動に少なからぬ影響を与えることになった。しかし、この事件だけにかぎってみれば、日本人が被った障害や死、放射能汚染、経済的損失などの被害面ばかりに目を奪われ、核実験場にされたマーシャルの人々に関心を払わなかったことも事実である。第五福竜丸の乗組員と関係漁民以外の一般の日本人までが、同じように被害者意識、反米感情、放射能アレルギーに浸り運動が抗議や批判の枠組みにとどまりビキニ核実験が、歴史的に日本人とどうかかわっているのか考えようとする人が少なかったのは、日本人の戦争責任感と密接に結びついている。ビキニ核実験とマーシャル島民の被爆に私たち日本人は大きな責任があった。」(202頁)
「日本の敗戦の翌年ビキニに来たアメリカ軍の将校が、島を出ていかなければならないと島民に伝えたとき島民たちの頭によぎったのは、「黙って従え、意見を言うな。命令に逆らえば命はない。」と問答無用に島々を取り上げた日本軍の島民に対する横暴の数々であった。
抵抗すればどうなっているか知っていたからこそ従ったのだ。」(204頁)
「日本はアメリカが、マーシャル諸島を核実験場に使用するにあたって、その露払いの役割を演じたということを私たちは肝に銘じておく必要がある。日本人は、マーシャル人被爆者に対して、同じ“被爆者意識”や“被爆国民”として安易に接することは慎まなければならないと思う。」(204頁)
アメリカが核の実験場としたマーシャル諸島は、実は歴史的に日本人にとって縁の深い場所だったのである。マーシャル人たちの被曝状況を描いた映画が日本人監督の手によって撮られてもよいのではないだろうか。
『オッペンハイマー』の世界的ヒットによってさらに多様な視点からのヒバクシャシネマが出てくることを期待したいと思う。