小特集:映画『オッペンハイマー』を語る
映画『オッペンハイマー』から見える、視線、秘密
瀬野 豪志(市民科学研究室 理事、「アーカイブ研究会」世話人)
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「視線」
オッペンハイマーの名前を初めて知ったのはいつのことか定かではないが、わたしにとっては、「トリニティ」実験で原爆を成功させたときについて語った言葉が印象深い人物であった。それはテレビ番組で初めて聞いたのだろう。その言葉を疑ったことはなく、その言葉からオッペンハイマーの名を思い出し、身近な人と話すこともあった。
その言葉「我は死なり、世界の破壊者なり(I am become Death, the destroyer of world)」は、テレビで知ったためか、地平線の爆発が広がりキノコ雲になっていく映像と一緒になって記憶に刻まれている。しかし、今、よく考えてみると、その言葉が古代インドの聖典『バガヴァッド・ギーター』の一節で、ヴィシュヌ神の化身クリシュナが自らの任務を完遂すべく王子アルジュナを説得するために恐ろしい姿に変身して言ったということは少なくとも初めのうちは全く知らなかったし、一緒に記憶している映像はトリニティ実験のものではないかもしれない。
この言葉は映像の音声で記録されており、晩年のオッペンハイマーがテレビ番組のインタビューで語っているのを確認できる。モノクロのテレビ映像で映されており、うつむきながら、ぽつりぽつりと、しかし、本人の頭の中ではあのときを鮮やかにカラーで思い出して語っているように見える。このうつむき加減のオッペンハイマーの視線が印象的である。
驚いたことに、映画『オッペンハイマー』では、恋人とのベッドシーンでこの言葉を読み上げる。このときは、当然ながら、相手を見つめる視線がある。若いオッペンハイマーがサンスクリット語を学んでいたことも興味深いが、ユダヤ人として家族を大事にしていたことや、物理学者として就職してもラジオを持たず政治・経済的なことには関心を持っていなかったことなどからすると、もともとは静かな研究生活を望んでいて世事にはあまり関心がなかったのであろう。そんな若い科学者にとって、この彼女は「もう同じ世界ではない」と思わせた初めてのインパクトになるのであろうか。あとになって、モノクロの世事の時局では、相手の彼女が共産党員だったことが掘り起こされて政治的な追放に利用されるのだが、それでも後悔はしていないという弁明が語らずとも聞こえるようである。私的な世界を広げてくれた恋人に対しても、ドライなようでこだわりがあるようで、中空を見ているようなときがあり、何かを見通して話しているようなところがある。それがこの映画でのオッペンハイマーの雰囲気でもある。
原爆が投下されるところまでは、見えるように「映している」部分だけで見られる映画かもしれない。しかし、その後は、カラーとモノクロ、時期も前後して、映像の視点が切り替わる。まるで倒れてしまうかのようにオッペンハイマー自身の視界が崩れて、「世界の破壊者」の眼には人々の表情がこうなって見えてしまうのか、と思わせる映像もある。
原爆投下の後、ロスアラモスの科学者たちが、映写されている「被爆」の記録を見ている。フィルムなのか写真スライドなのかわからないが、フレームの外に映されている「被爆」をオッペンハイマーはどう見ているか、その視線の動きをこの映画は見せている。現実のオッペンハイマーがあの言葉を話していたときのように、視線は下がり、うつむいてしまう。それは直視できないほどの動きであるから、「被爆」の影響を全く描いていないわけではないのだが、この映画は、科学的な知識や歴史的事実を説明するというよりも、科学者の会話や政治的な言葉のやり取りで彼らの視線に見えていたものを見ることになる。
「秘密」
オッペンハイマーとアインシュタインの会話を遠くから見ている視点の映像は、私的な感情を持って見ているように感じられる。著名な二人の科学者をあのような距離でじっと眺めているというのはそんなにあることではないだろう。そして、近づいていくと、二人の会話が終わって、アインシュタインとすれ違う。
恋愛感情のある視線ではよくあることだろうが、見えるくらいの距離でありながら少し遠くにいる二人の会話は、気になるから知りたいのだがよくわからないで終わる。科学者同士の交流であれ、政治の権力闘争であれ、人間の関係においては、こうした秘密の絡み合いが起きる。結局、遠くから見る者の憶測は、邪推だったり被害妄想的だったりして、実際の会話とはかけ離れたものであることが多いのであろうが、これは映画の技術によって複数の視点の切り替わりがあって初めてお互いの視点から見ることができる。遠くの会話をじっと見ている原子力委員会委員長のストローズにとって、永久にわからないことがあり、調査をして追い詰め、オッペンハイマーの「セキュリティークリアランス(機密情報にアクセスできる資格)」を剥奪する。
こうして、オッペンハイマーの人生を見てみると、秘められたもの、秘密、機密、といったことが彼をとりまいているのを感じる。マンハッタン計画、プロメテウスとも言われる原爆の成功体験、自分の視線の先にある表情もその一つである。あの「言葉」は、秘密にしようとするものに対する彼の科学的な意志を示しているようにも思えてくる。何にせよ、明らかにする、明らかにできない、ということに関して、誰よりも究極的に関わっていた人物である。科学の研究活動は、本来、明らかにすることであって、秘密にし合うことはそぐわないはずであるが、「秘密の科学」をやり続けるというのは、何をもたらすのか。科学者は利用されるだけで終わるのではないのか。
オッペンハイマーにとって、人の表情が直視できないものになってしまうということがあったとすると、軍事的な「被爆」の映像を直視できないことや、「原爆の父」としての態度が難しくなったことと関わっていただろう。「原爆の父」と称えてくる人々、聴聞会で追及してくる人物の表情、過去の調査を見ながら証言を示し合わす様子、そして、恥をかかされた私怨のような執着心を持つ人物が見えてくる。
唯一、この映画でのグローヴスだけは、少し可笑しいくらいであった。初めてオッペンハイマーに会ったときから二人の会話は突っ走るのだが、ほとんどコメディのような演技があるのはこの二人くらいだろう。劇映画作品の演出として一人はこういう人物が欲しいのであろうが、歴史的に検証するドキュメンタリー番組などでは、当然ながら軍人としての行動が知られるので、このような人物として描かれるグローヴスを見ることになったのは意外であった。「戦友」のような軍人らしさがこのように描かれたからといって、歴史的な評価においての好感度が上がるわけはないだろうが、この映画でのオッペンハイマーの孤独な視線の先に見えるグローヴスの態度は、わたしには想像していなかったものであった。