「オカルト・超常現象と理科教育」(講師:西尾信一)参加感想

投稿者: | 1997年1月5日

 我々の祖先は自然現象に深い畏れと憧れを抱いていた。それらは「人類の原体験」として我々の心の中にも宿っている。科学の発達により、あたかも全ての自然現象が科学的に解き明かされたように思える現代にあって、残された未知なる部分に超自然の神秘性を求めようとするのは、祖先から受け次いだ原体験のなせる業なのかもしれない。(薮玲子)■

 私達の身の回りには、こんなにもたくさんのオカルト・超常現象があるものかと考えさせられました。普段なにも気にせずに生活している時は、現象に出会うことはないのでしょうが、人間は、その時の精神状態によって生活も大きく化するもので、精神的に追い込まれているときなどは、多くのオカルト・超常現象を見るのでしょう。

 私は、生命保険の営業の仕事をしているので、よく自己啓発セミナーに参加したりしますが、参加しますと、研修室を暗くして「自分はできる!」と唱えることがあります。この時も自分の営業成績によって精神への受けとめ方は大変違ってきます。オウムに出会った多くの青年達も、その時様々な精神状態によって入信していったのではないでしょうか。自分の今立っている場所と自分がどのような考え方で将来に向かってどう生きていきたいのか、しっかりとした姿勢を持ちたいものです。(江川守利)■

 西尾さんの発表を聞いて、告白せざるをないのは、ぼく自身がオカルト少年だった(中年である)ということである。それを認めた上で、オカルトと科学の違いがわからなくなった。

 ぼくは科学少年だった。アポロ11号の時、小学校4年生で、初めて夜中まで起きていてテレビ中継を見た。科学が何でもかなえてくれることを信じていた。SF小説が大好きで、「ブルーバックス」の相対性理論や量子力学の本を中学生のころ読みあさった。数学的には相対性理論を理解できなかったが、光速近くで飛べば、時間の歩みが遅くなるという説はあまりにも魅力的だった。途中のことを飛び越えて結果が得たいというのは、科学もオカルトも同じである。たまたま、ぼくは正統派科学少年であるにすぎなかった。

 科学が魅惑的であるのもオカルトのそれと構造的には変わらないのではないか。科学と離れてしまったぼくからはそういう疑問がある。オカルトと科学は何が違うのか、マジックのはったりを捨て、地道なやり方で、伝えていくことが西尾さんや土曜講座の目指すところではないかと思う。(湯沢文朗)■

オカルトVS科学

 ニュートンは近代科学の基礎を作った人として知られています。しかし、彼は熱心に錬金術の研究も行っていたらしいのです。すべての自然現象を機械的な力学では説明することができないであろうとニュートンは考え、ニュートン力学で対象とする現象以外の現象を取り扱う方法を錬金術に求めていたのです。現在の視点から見ると錬金術はオカルトの部類に入るのでしょう。結果的にニュートンはオカルトにはまっていたと言えるでしょう。現在の科学、あるいは科学教育の中に同様の現象が忍びこんでいてもおかしくはないのです。科学とはそのような一面を持っているのかもしれません。私たちは科学の知識を学校教育で学んできました。私たちの学んで来た科学というものを何の疑問もいだかずに、あるは積極的に各個人が深くほりさげずに、受動的に試験のために学んでいるのであれば、その状態は、ある意味では信じやすく騙されやすい人間を多量に輩出しているのに過ぎないのかもしれません。科学あるいは近代合理主義というものを単に信じこんでいたということになるのでしょう。オカルトにある種の不快なものを感じるのであれば、もしかすると、その不快感はある宗教にはまっている人が異教徒に対して感じているものと同様なものなのかもしれません。

 一方でオカルトはビジネスです。マスコミから流される超能力、霊的体験、超常現象はビジネスになりうるのです。片方にビジネスとしてのオカルトの送り手がいて片方にそれを享受する人々がいるのです。オカルトを受容する人々に我々はどう対処していくべきか?と言う問に対してのマニアル的な答えはないのだと思うのです。オカルトを受容する人々に対処していく“態度”そのものが最も重要になって来るだと思うのです。オカルトに対する対処の態度そのものを通じて、我々が学校教育のなかで身につけて来た科学的精神や近代合理主義が単なるオカルトだったのか、モノホンだったのか、あるいはそれ以外の何か、だったのかが各個人に試されているのではないのでしょうか。(松畑洋文)■

 西尾さんの発表の最終的な結論は、超常現象は有りえないと端から否定するのではなく、科学的に説明可能であることを示してゆくことが大切という極めて妥当なもののようにも見える。しかし、私にとってはいくつか不満が残った。一言で言えば、科学批判の観点に欠けると思った。それは、オカルトや超常現象にももっと好意的になるべきというようなこととはちがう。もちろん、自分を含めてオカルトや超常現象にひかれる人間がいるとすれば、それはなぜかをその人の感情や置かれた環境を知ることでできるだけ内在的に理解することは重要だと思う。しかし、何であれ、非合理なものへの誘惑には常に批判的であるべきというのが私の意見である。だから、超常現象やオカルト批判は重要である。しかし、問題はそれらを批判する合理的根拠として科学なるものに訴えることである。

 第一に、訴えるべき科学なる一枚岩的実体はない。つまり、科学的事実は統一的な科学的方法にのっとって得られるものであるとはいえない。第二に、自然法則の解明を追求する科学研究の行為自体、それを一般的に擁護できる合理的説明などない。西尾さんの発表は決して安易な科学擁護にはなっていなかったのは確かだが、科学と非科学の二分法をやや安易に用い、批判の鉾先を西尾さんが非科学であるとするものにのみ向けることによって、結果として擁護されるべき一枚岩的な科学があるかのような幻想をいくらかは生んでしまったのではないかと思う。

 オカルトや超常現象の盲信を批判すべきなのは、それが非科学だからではなく、実は自分は信じていない人が盲信している人から金を騙しとってよからぬことに使ったり、集団的に盲信する人々が信じない人々へ暴力を振るったりすることが現にあり、場合によっては全体主義への大衆の暴走を生み出す危険もないとはいえないからではないのか。それとまったく同じ理由で科学の盲信も批判されるべきなのである。

 今、日本に限らず理科離れが深刻であると聞く。しかし、国家の世界戦略や企業の金儲けに奉仕する科学者がいなくなるのであればそれはまことに結構なことだと私は思う。その一方で、すでに存在する核廃棄物や毒ガス弾の処理法の開発など科学研究に期待せざるをえない課題も少なくないし、科学知識に不案内な市民ばかりが増えて専門家支配の構造が強まってもまずいとも思う。西尾さんを初めとする理科教育者には、科学によって自然を正しく反映した知識を生み出すことができることを教える教育ではなく、広い社会的文脈のなかでどんな科学研究が必要であったり不必要であったりするのかを共に批判的に考えるというスタンスからの教育を期待したい。(藤田康元)■

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