ナノマテリアルのリスク評価 -現状と課題-

投稿者: | 2009年11月5日

写図表あり
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ナノマテリアルのリスク評価
-現状と課題-
東京理科大学ナノ粒子健康科学研究センター
環境医学情報センター (EMIC)
小 林 剛
今年の夏は、 ナノテクノロジーのリスクについての重大情報が、相次いで、激震として世界中を駆け抜け、その余波は未だ続いている。
その第一は、ナノ粒子含有塗料のスプレー作業に、保護具なしに数ヶ月従事した中国人女性作業者7名に持続的な肺傷害が発生し、その中の2名が死亡した事件である。これはナノ物質による最初で最悪の労働災害であり、歴史的な警鐘として、世界のメディアが次の通り一斉に報じた。
「中国でナノ粒子関連の肺ダメージで死亡事故」(ロイター通信)、「中国科学者、ナノ粒子暴露と肺線維症のリンクを示唆」(SAFENANO)、「吸入ナノ粒子で二人の中国人女性が死亡」(NanoHype Blog)、「微小粒子で労働者2名が死亡」(英国デイリーエキスプレス)、「中国チーム、ナノ粒子はヒトに臨床毒性あり、と初の警告」(Medical News Today)、「塗料中のナノ粒子で死亡事故が発生」(英国テレグラフ紙)「ナノ粒子の吸入が肺にダメージ」(インド・タイムス紙)、「ナノ粒子の安全に疑問」(Nature News)、「中国でナノ粒子による死亡と肺ダメージが発生」(ワシントンポスト)、「中国工場労働者ナノ粒子吸入で死亡?」(Discover)。ところが、筆者の知る限りでは、現在に至るまで、日本のメディアは何故か沈黙を守っており、社会の木鐸の使命を果たしていないようである。
注目すべき第二の情報は、世界初の動物(ラット)吸入実験による多層カーボンナノチューブ類(MWCNTs)の肺毒性が、ドイツの総合化学メーカーのBASF社により実証されたことである。肺とリンパ節の損傷は、主として炎症と肉芽腫で、濃度依存性が認められ、MWCNTs吸入後のヘルスハザードの可能性が示された。最少用量の0.1 mg/m3においても、1個の肉芽腫が認められたため、無有害影響濃度(No-Observed Adverse Effect Concenetration:NOAEC)は確定できなかった。
この研究は、企業がOECDの亜慢性暴露のテスト指針に準拠して実施した画期的な成果で、極めて有意義であり、今後の官民協力のあるべき望ましい姿を象徴している。
その他、ナノマテリアルに関する一般的な有害データの報告は、数年前に世界中で着手された研究の成果が一斉に開花期を迎え「奔流」のごとく集積されつつある。その間、無害を立証するデータは殆どなく、定性的な評価は「ほぼ確定」の領域に入りつつある。現段階においては、データ不足を解消する努力の継続と同時に、蓄積されたデータの分析とデータベース化を急ぐ必要がある。その意味で、ナノリスク戦略の変換が急務である。
これらの事態の急展開をふまえて、わが国の ナノテクノロジーのEHS(環境・健康・安全)問題の現状と課題を検討する。
はじめに -現状認識-
ナノテクノロジーに関連する生体影響については、この問題が浮上した当初から、「未知との遭遇」として、「殆ど知られていない」「知識ギャップが大きい」などの否定的な見解が強く主張され、それがリスク評価の進まないEXCUSE とされてきたといわれている。
しかし、現在では、かつての低迷状態は一変している。昨年来、ナノテクノロジーのEHS(環境・健康・安全)研究の画期的な成果が続々と発表され、それらのリスクデータは、質と量の双方の面で「かなり」収集されてきている。研究論文の発表はまさにラッシュであり、月間に数十件のデータの集積が続いている。従って、現時点は、それらを評価分析して、ナノリスク研究戦略に基いて、どのように実際面に活用していくかの変換点にあるといえよう。いわば、貯水したダムの水を計画的に放水して発電する段階にある。
その意味で、 ナノテクノロジーのリスクは、アセスメントを継続しながら、マネージメント・フェーズを同時進行する段階に入っている。その具体的アプローチとして、国際的ナノEHSデータベース [例えば、国際 ナノテクノロジー協議会 (ICON)、米国労働安全衛生研究所 (NIOSH)などの] の導入が急務である。また、適正なリスクマネージメントには、アセスメント・データの継続的なレベルアップが不可欠であることはいうまでもない。EHS研究のさらなる重視が奨励される所以である。
すべての科学分野において、データが完全に充足されることは在り得ない。データがあるレベルまで蓄積された時点からは、蓄積作業と並行して、実際面への活用の着手が必要である。「考えながら走る」あるいは「走りながら考える」ことが求められ、デュアルモードによる対応が不可欠であろう。
アセスメントからマネージメントへの移行には「スピード感」が必要であり、徒に時間の浪費は許されず、ロードマップ(工程表)による計画性が不可欠である。リスクマネージメントの発動のX dayは迫っているようである。
1 ナノマテリアルの特性 -べネフィットとハザード-
ナノマテリアルは、1次元が1-100 nm(1 nmは10億分の1メートル)の超微小物質で、そのサイズに由来するユニークな特性が発揮され、画期的な先端技術として、エネルギー・エレクトロニクス・医薬品(ドラッグデリバリーシステム:DDS)などの広範囲で重要なべネフィットを達成する有用性を持っている。その反面、リスクとしての有害影響の可能性は払拭できない。それらの毒性や生理活性は、サイズ効果のほか、形状・表面積・化学物質(特に表面や残留不純物質)・凝集状態などに依存する。その形状は、チューブ状(カーボンナノチューブ類)・球状(フラーレン類)・繊維状(カーボンナノファイバー類)・コイル状(カーボンナノコイル類)・平板状(カーボンナノウォール類)などがあり、カーボンナノチューブ類の毒性には、その100以上のアスペクト比(タテヨコ比)が特に問題視されている。
図1 カーボンナノチューブ         図2 フラーレン
2 リスクアセスメントおよびリスクマネージメント
一般的に、RISK = HAZARD×EXPOSURE と定義されている。また、化学物質のリスクアセスメントとリスクマネージメントのパラダイムは下記の通りで、ナノマテリアルもこの例外ではない(NRC, 1988., Oberdörster, 2005を改作)。
    
ハザードの確認  →  暴露アセスメント →   リスクマネージメント     
  
有害影響        吸入・摂取・経皮     社会・経済的影響 
 実験動物・       モデリング        規制・暴露基準   
 暴露―反応データ    外挿モデル           防止・調停
 in vitro (試験管内)    (高→低/動物→ヒト)
in vivo (生体内)     リスク算定
さらに、これらのリスク評価には、ナノマテリアルの特性から、毒性学・医学・分子生物学・物質科学・生物情報学などの領域の専門家による学際的チームが必要である。
3 研究評価体制の問題 -欧米との比較-
研究評価体制の中立性は、研究結果やその評価に大きな影響を及ぼす事例は枚挙に遑がない。特に、企業が自主的に独自に実施した研究の多くが恣意的な結論を下し、科学界から強い批判を浴びている。その一例として、ディーゼル排気の健康影響について、ゼネラルモーターズ社の行った吸入実験の結果では、「肺ガンの発生ゼロ」を発表し、世界の大勢からの逸脱が注目され、国際科学界からの顰蹙を買った。
これらの実態をふまえて、ここで世界各国における政府系機関によるナノEHSの研究体制を検討して見よう。
米国:ナノテクノロジーの最先端を走る米国においては、大統領府直轄のNSTC(米国科学技術協議会)の指揮下で、主として、NIOSH (国立労働安全衛生研究所)およびUS EPA (環境保護庁)が主導している。
英国:英国学士院(RS)および環境・食品・地域省(DEFRA)の指揮下で、英国環境庁(EA)と英国労働医学研究所(IOM)が担当している。
ドイツ:連邦労働安全衛生研究所(RAuA)および連邦リスク評価研究所(BfR)が担当している。
カナダ:環境省が主導している。
このように、欧米においては、環境あるいは労働衛生を主管する、中立的で専門性の高い中央省庁とその付属研究所が中核になっている。ところが、日本においては、産業育成官庁の主導により実施されているのは極めて異例であり、研究結果の中正な評価について懸念せざるを得ない。
ナノテクノロジーのEHSすなわち環境・健康・安全の研究は、それぞれの主管省庁である環境省、厚生労働省、文部科学省の三省を中心とする体制に、早急に移行し、各付属研究機関と大學が担当する方式に変革すべきである。また、学術会議や毒性関連学会を中心とした学際的体制への改変が望ましいのではあるまいか。現在の研究体制では、国際科学界の信頼を得ることは至難であろう。
また、米国と欧州との間の(transatlantic)ナノテクノロジーの規制に関する研究の国際協力プロジェクトでは、この9月、ロンドンにおいて、London School of Economics、王立国際問題研究所(Chatam House)、ウッドローウイルソン国際学識者センター、環境法研究所(ELI)など、確固とした独立性と最高レベルの学識を有する研究機関が参加し、規制政策に対する勧告を目的とする会合を持った。評価担当主体の出自が問われるのである。
4 ナノリスク研究の進展
4-1 単層カーボンナノチューブ(SWCNT)の肺毒性研究
・NASA のLamら(2004)は、単層カーボンナノチューブ(SWCNT)のマウスへの気管内注入法を用い、肺の線維症、間質性肺炎、持続性上皮肉芽腫発生の結果より、用量と時間の依存性を認め、世界初のSWCNTによる肺の損傷形成による毒性を実証した。
・DuPont社の Warheitら(2004)は、SWCNTのラットへの気管内注入により、肺の一過性炎症、多病巣性肉芽腫、細胞損傷発生の結果には、用量と時間の依存性は認めず、一過性の非特異的な影響で、生理学的妥当性を欠き、毒性はないとの結論を下した。
・NIOSH の Shvedovaら(2005)は、SWCNTのラットへの咽頭吸引により、強力な急性炎症の誘発、肉芽腫、びまん性間質性線維症発生において、用量と時間の依存性を認め、肺損傷の形成による毒性を実証した。
これらの研究では、実験内容は若干異なるが、肉芽腫発生の点では同じ結果であるにもかかわらず、公的研究機関と企業の研究所の見解では、毒性の評価について全く正反対の結論を下している。ここでも、企業が中正な科学研究を実施する限界を示している。さらに、次の研究結果は、その不信感を増幅させるであろう。
・米国化学工業会毒性研究所(CIIT)のMangumら(2006)は、SWCNTのラットへの気管内注入により、線維性損傷を認めたが炎症はなく、毒性はないとの評価を下している。
4-2 多層カーボンナノチューブ(MWCNT)の中皮腫と肺損傷誘発の研究
・日本の国立医薬品食品衛生研究所は、2008年2月、多層カーボンナノチューブ(MWCNT)をガン抑制遺伝子欠損のマウスへの腹腔内への注射での投与により, 中皮腫(アスベスト暴露により認められる肺ガン病変)の誘発を発表し、内外の注目を浴びた。
・東京都健康安全研究センターは、同月、MWCNTを遺伝子改変がされていない正常のラットへの腹腔(陰嚢腔)内投与により、悪性腫瘍(中皮腫)の発生を公表した。
・英国エジンバラ大学の研究者らは、2008年5月、種々のMWCNTとアスベストを用いて、長さや直径などの特性と有害影響との関連を、正常マウスにより実施した。長いMWCNTとアスベストにおいは、異物巨細胞の増加と病変部位の拡大が認められ、その毒性メカニズムの類似性がクローズアップされた。
・前述の通り、ドイツBASF社は、今年8月、OECDのテストガイドラインにより、ウイスター系ラットへの頭部―鼻部吸入による90日間の亜慢性暴露により、肺とリンパ節内に濃度依存性の損傷(炎症や肉芽腫など)を認め公表した。このBSF社のフェアな対応は賞賛に値するもので、ややもすれば「情報隠匿」に走りがちな企業にとって「他山の石」とすべきであろう。
図3 長い直線MWCNTと短い凝集体のMWCNTに対するマクロファージの食作用
 [国際 ナノテクノロジー協議会(ICON, 2008)]
4-3 酸化チタンナノ粒子の次世代影響
ナノ粒子の健康影響は、オーソドックスな呼吸器沈着から、血液循環への移行による心臓血管系疾患による死亡増加(ハーバート大学のDockeryらによる著名な疫学研究「米国内6都市における大気汚染と死亡率」)や、脳内神経系への移動(Oberdörsterらの「嗅覚細胞経由説による」にいたるまで広範囲の有害作用が報じられている。しかし、これらは被暴露自身への健康被害(主として呼吸器中心の)であり、次世代への影響は全く知られていなかった。
ところが、2008年1月、東京理科大学ナノ粒子健康科学研究センターにより、酸化チタンナノ粒子の妊娠マウスへの皮下投与により、次世代産仔オスの脳および精巣において酸化チタンの存在が検出され、組織の病理所見の異変と機能変化が見出された。特に、精巣への影響は著しく、精子生成能力は 20% 以上の低下が認められた。この成果は、子孫への影響という重大事であり、世界的に大きな反響を呼び、今後の進展が期待されている。
酸化チタンは、光触媒として汚れを分解する特性を利用して、汚染防止仕様の衛生機器や建築資材、抗菌仕様の衣料品類、美白化粧品・サンスクリーン、ホワイトチョコレートにまで多用されているが、その安全性には懸念が示されており、慎重な対応が望まれる。
現在、日本のナノマテリアル製品の約 40%を占める化粧品には多量の酸化チタンが使用されているが、わが国の化粧品を規制する薬事法(2001年4月改正)では、全成分の表示と企業側の挙証責任を規定しているが、ナノ粒子含有の表示は義務づけられていない。このため、メーカーはこれを逆手にとって、ナノ化粧品の効果を大宣伝している。しかし、米国では消費者の意識が高く、「ナノ」を敬遠する傾向が強く、ナノ粒子入りの化粧品でも、「ナノ」を謳わず、「オーガニック」や「ナチュラル」など洗練された(?)キャッチ・コピーを展開しているのは皮肉な話である。
また、英国の Soil Association (土壌協会:農産物を主とする消費者製品の第三者認証機関)は、「健康・美容製品・食品にはナノ粒子類は不要である」との見解を打ち出し、2008年1月、同機関の検査認証対象の全製品にナノ物質の使用禁止を表明した。これはナノテク製品に対する世界初の間接的かつ啓蒙的なボイコットである。
5 各国政府の対応
5-1 日本の場合
このような内外におけるナノマテリアルの研究の進展や、カーボンナノチューブ類の有害性のアスベストとの類似性の浮上は、国内はもちろん、世界的にも大きな波紋を巻き起こし、日本では、2008年2月に、厚生労働省がナノマテリアル労働者の暴露予防対策の要請を、都道府県およびナノテク関連企業に通達した。
しかし、これは労働安全衛生面のみの措置であり、内容は従来の粉塵作業場管理の常識を借用したものに過ぎず、ナノマテリアルに対する有害化学物質としての対応については全く触れていない。この点についての行政当局の見解は「 ナノマテリアル類は粒径が小さいことにより新物質とは見なしていない」(2008年5月29日、化審法見直し3省合同WG事務局)との見解を堅持している。つまり、ナノマテリアルの特性を無視して、通常の化学物質、すなわち、CNTは「炭素」として扱うということで、以下に述べる海外諸国の動向とは著しくかけ離れている。
現時点においては、ナノ作業者の健康保護が喫緊を要する重大事項であり、作業環境の衛生工学的対策のほか、現行の粉塵障害防止規則によるすべての措置、特に健康診断(就業時・定期・定期外・離職時)などの実施を明確に打ち出すべきである。
5-2 諸外国の例
カナダ:国民の健康と環境を守るという点で、世界で最も積極的な背索を打ち出しているのはカナダで、2008年、年間1kg以上のナノマテリアルの製造・輸入企業に対し、彼らの所有するすべての情報(物理化学的特性・毒性データ・製造/使用法など)の提出を要求する、という世界初の強制的な安全報告制度を導入した
米国:ナノメーカーによる自主管理制度(Stewardship Program)が自称企業秘密のために実質的に殆ど機能しなかったという大失敗(1,000種類以上のナノ製品についての自主報告は10%以下、毒性データは数%)に鑑み、2008年9月、ナノマテリアルを有害化学物質規制法(TSCA)の「新規」化学物質に指定し、MWCNTの開発・製造・使用を申請する企業に対して、ナノマテリアルに対する最初の規制措置として、TSCA第5条の制限賦課同意命令(COIR)を発令した。また、同10月には、CNTメーカーに対して、CNTは従来のカーボン製品とは化学的に異なる新規物質と見なし、正式の届出の規制を課した。
EU:2008年6月施行のREACH(化学物質の登録・評価・許可・制限に関する規則)では、”No data, no market” の確固たる理念を堅持しているが、規制発動対象の化学物質の閾値数量が年間1トンであるため、生産量が999 kg のナノマテリアルに対しては規制でカバーできないというジレンマに悩んでおり、規制閾値変更の早急の修正に迫られている。
6 今後の研究の方向
6-1 定性から定量へ
前述の通り、ナノマテリアルの有害性データすなわち定性的データの集積は、欧米を中心として精力的に推進中であり、逐次、かなりのレベルまで蓄積されつつある。やや独断的な言い方をするならば、定性的にはその有害性は「ほぼ確定的」の段階といえるであろう。今後、リスクアセスメントをさらに明確化するには、暴露(負荷量)-反応の関連性の把握が不可欠である。
具体的には、次図4の量-反応カーブの何れに該当するかを決定するために、多くのパラメーターによるデータポイントの取得が必要である。また、高負荷レベルにおける反応(破線の楕円形で示した)のみが外挿可能であるが、低負荷のデータの欠落は、閾値の存在する場合でも、重大な評価ミスを招くことがあり(G. Oberdörster, 2005)、可能な限りの多くのデータ収集が、より適切なアセスメントの前提条件となる。国際的なデータベースの継続的構築が何よりも重要である。
図4 暴露(負荷)-反応関連性の基本形状
さらに、LOAEL (Lowest Observed Adverse Effect:最小有害影響量) の推算、ヒトへの外挿、発ガン性など、今後には不可避な重要な課題が山積している。究極的には、さらに 高次元のRegulatory scienceへの深化が必要である。
6-2 より現実的な実験手法へ
現時点までに発表されている定性的データは、吸入実験に伴う多くの困難(手法、コスト、時間、設備・機器、人材など)のため、やむを得ず、気管内注入や咽頭吸引など、より人為的な実験に依存せざるを得なかったが、今後はより実態に近い長期低濃度吸入実験の導入が期待されている。しかし、これを実施できる研究能力を有する研究機関は、かつてのディーゼル排気の吸入実験の例を見ても、世界でも10ヶ所程度であろう。ナノマテリアルの吸入実験は、その凝集性の高い特性から、拡散状態の変動のため、均一濃度の維持が難しく、ディーゼル排気を希釈して暴露チャンバーに供給するよりも遥かに困難と推定される。
しかし、近年、必然的な要請により、内外の数ヶ所の研究機関で実施中と仄聞しているがされているが、現在までに研究結果の発表はない。これは技術的困難による遅滞のほか、たとえ、研究が終了しても、そのインパクトは強くかつデリケートであるため、種々の社会的経済的政治的反響を配慮して静観している可能性が高い。
6-3 生態系影響研究への挑戦
ナノマテリアルの生態系への影響は、吸入実験よりもさらに困難であろう。しかし、この環境影響の解決なくしては ナノテクノロジーの輝かしい未来は望むべくもない。
この領域の少数の先駆的な研究(E. Oberdörster, 2004)の一つは、ナノマテリアル製品の一つであるフラーレンに対する魚類(若齢オオクチバス)の毒性反応の検討である。その研究結果として脳内脂質の酸化が見出され、その原因はフラーレンの生物親和性のコーティングによるものと推定された。この研究結果に対しては、「脳に損傷があるにもかかわらず行動に影響がないのはおかしい」「フラーレンの溶解剤THFが過酸化物を形成した可能性がある」などの反論が寄せられているが、再現実験と代替溶剤による検証は行われていない。むしろ、著者の積極的な努力を称えるべきであろう。
この領域で最も関心が高いのは、抗菌剤として、衣料や日用品などに広範囲に利用されているナノシルバーであり、下水処理場の有用微生物への有害作用が懸念されている。さらに、水生生物類への影響から、食物連鎖を介して、その頂点にあるヒトへの波及を検討すべきである。
何れにしても、生態系の研究は、生態系そのものの複雑性に加えて、フィールド実験とモデルフィールドのラボラトリー実験の並行実施と比較検証を伴うため、極めて困難である。
7 EHS (環境・健康・安全)リスク評価の方向
以上、ナノマテリアルのリスクの根底を形成するEHS (環境・健康・安全)研究の現状を概観したが、これらを総括する国際的に強い影響力を有するリスク評価の理念について述べる。
7-1 REACH のEHSについての基本理念
REACHは、欧州連合が 2007年6月1日に施行した「化学物質類の登録・評価・許可・制限に関する規則」で、そのEHSに対する基本理念は次の通りである。
・安全を証明するデータのない化学物質は、販売を許可しない(No data, no market)
・安全性の挙証責任は、製造業者に課せられる
・予防原則:新しい製品や技術による有害影響が十分に解明されていない場合に、対症療法ではなく、予防的にヒトの健康保護と環境保全を先取りする理念で、漫然と座視するのではなく、「予防的行動」を取るという積極的な選択基準
・代替原則:より安全な代替物質や代替方法を用いる
・情報公開:決定の過程や化学物質のデータを一般に公開する
このREACHの基本理念は、ナノマテリアルの有害影響からのヒトの健康保護と環境保全にとって、国民の視点からは極めて有用かつ当然である。しかし、日本政府は米国と同調して、 REACHは、①産業革新を妨げ、企業の競争力が低下させる ②登録手続きが煩雑で、必要以上のコストがかかる ③必要以上に多くの動物実験が要求される、などの理由により反対のため、環境省のサイトのREACHの解説には、この貴重な理念はすっぽり抜けている。
なお、英国学士院・王立工学アカデミーは、ナノマテリアルはREACHの新規物質として扱うよう強く勧告している。
7-2 予防原則
予防原則(Precautionary Principle)については前述したが、さらに、下記を追加する。ナノリスク問題の解決が余りにも長引く場合には、この採用を検討すべきであろう。英国の労働医学研究所(IOM)は、その発動を検討すべき最優先の対象物質として、カーボンナノチューブ・二酸化チタン・ナノシルバー(殺菌剤)を指名している。
予防原則が世界的に知られたのは、1992年のリオ宣言においては、「環境保護のため、各国は夫々の能力に応じて、予防的アプローチを適用すべきである。」との決議の採択が端緒となって以来である。そこでは「深刻な、または、不可逆的な損害の可能性が予測される場合には、完全な科学的確実性を理由として、環境悪化防止の措置を延期すべきではない」と明記されるに及び、環境問題への基本的対処方針として定着するに至った。予防原則は、それ以前に「海洋投棄条約」「絶滅危惧生物種の国際取引条約」などに採用されており、さらに、1994年の「機構変動枠組条約」、1997年の「京都議定書」などの温室効果ガス削減にも、この予防的措置が導入された。
「科学的証拠が不十分である」というのは、環境規制への反論での常套句であるが、予防的措置を先送りしたための最大の悲劇はとしては、日本の水俣病における長期の有機水銀汚染の蓄積や、米国の化学物質土壌汚染に対する巨額の修復費用などが挙げられる。
さらに、日本におけるアスベストの惨禍拡大の原因は、WHOが1972年に発ガン性を指摘し、欧米諸国は1980年頃までに先進的な対策を取ったにもかかわらず、わが国で原則使用禁止の措置が取られたのは2004年であり、実に約20年間の長きにわたり使用され続けたのである。そのため、従来は「労災」と考えられたアスベスト被害は、大手機械メーカー「クボタ」による同社旧神崎工場(兵庫県尼崎市)の従業員や周辺住民における中皮腫の発症と死亡者の存在の発表を端緒として、一般市民にも影響を及ぼす「公害」としてクローズアップされた。当時、行政の「不作為」「怠慢」として、国民の強い批判を浴びたのは当然であろう。この事件を教訓にして、ナノマテリアル対する予防原則採用の検討が望まれる。
欧米においても、ナノテクによるアスベストに類似する惨事の再発は許さないとの声が強まっている。人類の英知が試されているといえよう。
8 ナノリスク評価方式への提言
8-1 ナノリスク評価の中立的研究機関の設立
リスク研究の中正な評価を確立するため、政府(環境省・厚生労働省・文部科学省で経済産業省を覗く)と ナノテクノロジー企業とが、研究資金を折半して拠出し、第三者の中立的研究機関を設立し、委員会で研究テーマを決めて、大學などからの応募申請を審査の上、研究を委託する方式を提言する。
この仕組みは、1980年に、米国において、ディーゼル排気規制問題で環境保護庁(EPA)と米国自動車業界とが、その立場を反映して鋭く対立し、収拾がつかなくなった際、自動車排気の健康影響研究のために設立されたHealth Effects Institute(HEI)が発想の原点である。HEIはEPAと自動車メーカー(日本メーカーを含む)が研究資金を年間300万ドル(当時)あて拠出して運営する中立的研究機関である。その確固たる研究戦略と重点課題を選定した研究による優れた運営により、自動車排気の健康影響研究の成果では世界トップレベルにあり、現在も権威ある存在である。この方式は、日本でも学ぶべき官民協力の好例であろう。このユニークなシステムを、わが国のナノEHS研究に採用するよう提言する次第である。これにより、先述の、わが国の異例な研究体制の欠陥は解消されるであろう。米国の有力な民間シンクタンクのウッドロー・ウイルソン・学識者国際センターの Dr. Maynardも、図らずも、 小生と同じく、ナノテクノロジーの研究にこのHEI方式の導入を勧告している。
8-2 日本のEHS研究の国際評価への対応 -情報発信力の増強-
2009年3月、英国の労働医学研究所(IOM)は、世界各国のEHS研究について適格と判定定した260件について、目的への貢献度についてのレビユーをリポートとして発表した。その国別分布は、米国165(56%)、英国44 (15%)、スイス 20 (7%)、フランス13、デンマーク11、カナダ 10、ドイツ 4、台湾 2、中国・ベルギー・チェコ などは各1で、日本はゼロという驚くべき結果であった。
しかし、わが国にも少数ではあるが、前述の国立医薬品食品衛生研究所や東京理科大学ナノ粒子健康科学研究センターなどの優れた成果があり、この数字がわが国のEHS研究のレベルを正確に反映しているとは考えられないが、英国の権威ある研究機関により、このような評価を受けること自体、日本の研究情報発信力の不足と、異例な研究体制に起因している、との指摘もある。何れにしても、わが国の研究が,世界のEHS研究の主流から取り残されているは残念の限りである。現状では、国際的視野の狭窄に陥っており、至急、その回復を図るべきである。
8-3 ナノテク産業自身によるEHSリスク研究の重視
前述のREACHの理念に示された通り、将来的には、世界の趨勢として、ナノテク産業は、自家製品の安全性を立証する責任が課せられる、と考えて行動する方が賢明であろう。しかし、仄聞によれば、ナノ業界にはEHS研究は、ナノテク忌避感情を誘発し、「風評被害}を起こす、と投資を反対する声が多いとのことであるが、我々トキシコロジストは協力にやぶさかではないことは勿論である。リスク解明を恐れては、ナノテクノロジーには 明るい展望は期待できない。
8-4 EHSリスク研究資金の増額
 
ナノテクノロジーの研究開発への莫大な投資額に比べて、EHS研究資金は極端に少なく、リスク評価には最低でも開発投資額の10-20%の資金が必要である。ミネソタ大学のKandliker 教授は、米国におけるナノハザード研究への現行レベルの投資では、その完了には今後数十年かかるとの悲観的な予測を述べている。
また、ナノ製品はすでに市場に出回っているため、何らかの適切な措置の必要性を判断するためにも、データベースの構築は緊急の重要課題であり、ナノ情報整備費用の重視が求められる。
8-5 国際的合意の確立
ナノテクノロジーのEHS問題に対する各国政府やナノテク産業などのスタンスは、利害関係や規制問題を反映して不一致である。この停滞状態を打破するため、これまでディーゼル排出粒子を含む化学物質の国際的管理に大きな成果を挙げてきたWHO-国際化学物質安全性計画(IPCS:International Programme on Chemical Safety)によるナノEHCリスの抜本的解決を図るべきである。個人的には、IPCS局長のメレディス博士に要請している。
9 むすび
人類は、これまで、本来は有害である事象や技術を、英知により、リスクを最小化し、べネフィットを最大化して、今日の文明を築き上げてきた。その好例は、電気であり、医療用放射線である。 ナノテクノロジー産業がEHSリスクの解決に果敢に挑戦して、近未来に大きな花を咲かせることを念願している。
最後に、演者がかつて在籍していたカリフォルニア大学環境毒性学部の次のメッセージをもって、むすびとする。
現代生活は、有害物質の存在に由来するべネフィットとリスクのバランスの
コントロールの推進により成立している。
主要参考資料:
1) 東京大学政策大学院:「多層カーボンナノチューブに関するリスク評価・管理の動向 -厚生労働省による予防的対応を受けて-」 発行: i2ta 2009年3月31日
2) アメリカ合衆国大統領府米国科学技術協議会技術委員会:「米国国家 ナノテクノロジー戦略
加工ナノスケール物質の環境・健康・安全研究ニーズ」 2006年9月
3) 米国政府環境保護庁環境政策審議局:「 ナノテクノロジー白書」 2007年2月
4) 米国国立労働安全衛生研究所:「セーフ・ ナノテクノロジーへのアプローチ:米国国立労働安全衛生研究所との情報交換」 2006年7月
5) 米国国立労働安全衛生研究所:「作業場における ナノテクノロジー安全への前進 -NIOSH 
    ナノテクノロジー研究センターよりの報告-」 2007年6月
6) 米国国立労働安全衛生研究所:「ナノテクノロジー研究の戦略プランおよびガイダンス 
-知識ギャップの充足-」 2008年2月
7) ウッドロー・ウイルソン国際学識者センター:「ナノテクノロジー: -リスク対応戦略-」 
2006年7月
8) 小林 剛 : 「WHO環境保健クライテリア: ディーゼル燃料及び排出物」 1999年5月 丸善
9) 小林 剛 : 「WHO環境保健クライテリア: 窒素酸化物」1999年5月 丸善
10) 小林 剛 : 「ディーゼル排気の健康影響: HEI特別報告書」 1999年12月 丸善
11) 小林 剛 : 「ナノ物質のリスクアセスメント-健康影響研究の集大成-」 2006年7月NTS社
12) 小林 剛 : 「ナノ毒性学 -ナノ製品の安全性評価-」 2007年4月 NTS社
13) 小林 剛 : 「ナノリスク問題の現状と展望」 環境管理 Vol. 43, No.6, 2007
14) 小林 剛 : 「ナノテクノロジーとヘルスリスク」 未来材料 Vol. 7, No.7, 2007
15) 小林 剛 : 「ナノ素材の毒性・健康・環境問題」 2007年12月 NTS社
16) 小林 剛 : 「ナノリスク研究の問題点」 2008年2月 ナノ学会会報
17) 小林 剛 : 「日本と米国におけるナノリスク規制とその背景」 環境管理 Vol. 45, No. 3, 2009
18) 小林 剛 : 「ナノ物質のリスク管理」 技術情報協会 2009年6月
備考:本稿の要旨は、日本薬学会環境・衛生部会 「フォーラム2009 衛生薬学・環境トキシコロジー」(沖縄県宜野湾市沖縄コンベンションセンター、2009年11月5~6日)において講演した。 

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