科学技術コミュニケーションを考える~市民研の活動から~

投稿者: | 2010年1月1日

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科学技術コミュニケーションを考える~市民研の活動から~      上田昌文
●科学技術コミュニケーションの目指すもの
 私たちの生活は科学技術によって大きく支えられている。たかだがここ100年ほどの間に科学技術の進歩によって生活は激変し、今ではそれなしの暮らしを想像することさえ難しい。
 しかし無数と言っていいほどの技術に囲まれながら、私たちはそれらを意識することはあまりない。あたかも自分の手足や呼吸を意識しないで生きているように、身の回りの技術を意識しないで暮らしている。技術が日々革新していく様は、生物の進化になぞらえられることが多い。「進歩」「革新」「発達」……確かに、科学の知は常に積み上げがきき、先人の偉大な発明と発見は今日のありふれた常識や応用品となる。向かうところ阻むものなき前進あるのみの巨大な集団事業、それが科学技術であるように思える。しかしそれはいったいどこに向かうものなのだろう。
 人間がここ100年になしてきた資源やエネルギーの使いっぷりは、私たちの日常的な感覚で把握できる規模を大きく超えていて、今や地球全体の気候変動をもたらすほどのものになっている(この事実そのものも科学技術を用いて把握し検証するしかない)。あるいはさまざまな生命操作技術を用いて人間は、自身の進化にまで介入し始めているように思えるが、その介入の行く末に不安を覚える人は少なくないだろう(たとえば生殖行為なしに”子ども”を作る人が出てきたり、”記憶データの他人への移植”が容易にできるようになったりすれば、法律や道徳観念の前提である”人間”の概念が大きく崩れるだろう)。科学技術が広く社会に浸透すればするほど、あるいはその力が強大であればあれほど、「何のために」「誰のために」がより鋭く、社会全体の問題として、より多くの人によって問われなければならないのではないか。このような問いに多くの人が向き合い、意見を出して議論し、多くの人がよりよいと認めることのできる方向に科学技術の発達を制御していくこと――これが科学技術コミュニケーションの目指すところでなければならい、と考えられはしないか。
 NPO法人市民科学研究室は、こうした問題意識のもと、科学技術にかかわるさまざまな社会問題の解決のために、市民の問題認識力を高め、必要ならばまだ誰も行っていないような調査や研究を市民自身が発案し実施していく、という活動を続けている。活動を担うのは何らかの社会問題に関心のある一般市民だが、社会経験や知的能力やコミュニケーションの技量もじつに多様な個々人が、特定の問題への関心を共有するという1点でつながりつつ、社会への働きかけにおいて何らかの効力を発揮すべく持てる力を組織化している集団である。この集団が、会社でもなく、大学や行政に属する機関でもない、「NPO」という形態をとっているのにはわけがある。
●NPOという活動形態
 企業利益とも結びつきにくい、現行の法律や制度でも対処しにくい問題であっても、解決のために尽力すべき公共的価値の高い問題がある。それらの中には、社会的には少数の弱者に被害が集中していたり、影響が長期間潜在化して見えにくかったりして、報道メディアにさえ取り上げられないものがある。あるいは、たとえば国や自治体の開発の意向に反して地域の河川や森林などの自然環境を守ろうとするには地域の住民らが結束した息の長い対抗的な取り組みが強いられることもある。こうした問題は従来は、(潜在的)被害者・受苦者とその周辺にいて彼らを支援する者たち(大学に属しながらも大学外で専門的支援をする学者も含む)が政治的運動を組織して解決に臨むという例が多かった。近年、より広範な一般市民の参加と支援を引き出していく、NPO(Non-Profit Organization)と呼ばれる活動形態がさまざまな問題領域で輩出するようになってきた。科学技術に関わる領域でも例外ではない。NPO全体の中での割合はまだ小さいものの、市民科学研究室もその一例である科学技術NPOは、科学コミュニケーションという観点から見て、次の3つの興味深い特徴を備えていると思われる。
 第一に企業、行政、アカデミズムという職能性(に応じた利害)にとらわれない、市民・生活者の立場を反映して科学技術の問題に発言していくということ。
 第二に営利を目的とせず税金によって支えられるわけでもない、いわば自前の多様な資金繰りをなしながら調査研究を進めること。
 そして第三に問題解決にあたって必要とされる「専門性」の取り込みと活用に特別な工夫が要求されるということ、である。
●生活と科学技術の関わりの4類型
 市民科学研究室は”市民・生活者の立場”から問題をとらえようとする。そのためには、「生活と科学技術の関わり」を次のように4つに類型化し、それに応じたコミュニケーションの特徴を整理しておくのが便利である、と考えている。
 第一は「生活の必要としての科学技術」。意識するにしろしないにしろ、もうそれなくしては生活が成り立たない必須要素となっている技術だ(エネルギー、食料、情報通信、建築、交通、医療などに関わる社会インフラ的な技術)。こうした技術や技術システムは、研究開発・導入・メンテナンスなどに税金があてられることが大半である。したがって市民は納税者として自分が払っている税金が適正に使われているのかをチェックする意味でも、それらの技術についてある程度把握しておくことが望ましいのだが、現実にはたとえば、「自分が今使っている水道水は、どこから取った水を使い、それをどういう設備でどう処理しているのか」といったことをきちんと知っている人はまれだろう。事故や不具合や不正行為が生じて社会問題化して始めてそうした技術のことを意識するといった場合が多い。
 第二は「生活をよりよくする手段としての科学技術」。これがあれば、今より生活が楽で便利になる、今まで満たせなかった欲望を満たせる (あるいは技術そのものがそうした欲望を喚起する)技術だ(IT、生殖医療、ナノテクノロジーなど)。もちろん、第一と第二は明確に線引きできないものであり、たとえば携帯電話などは両方の属性を持つだろう。これらには、市民はその技術を自らのニーズに合わせて選択し使用する、ユーザー・消費者・患者という立場で関わることが多い。新しく出現した技術(商品)のどれを選び、どう使いこなしていけばよいのか、トラブルが生じた際にどうすればよいか、といった点で、賢い消費者・賢いユーザー・賢い患者になるためには、技術に対するある程度の理解力とその技術の提供者と上手に意思疎通をはかる力が求められることになる。
 第三は「生活への脅威としての科学技術」。健康や環境に対する種々のリスク、過度の技術化・人工化がもたらす自然の喪失といった側面だ。これには、有害化学物質や放射性物質による汚染、BSEや遺伝子組み換え食品など多種多様なリスク(有害性の確定しないグレイゾーンのものも含めて)がある。自らの安心と安全を確保し、環境的な負荷を減らして持続可能な生活を営む、という観点から、市民は技術の抱えるリスクを見据え、対処していくことになる。専門家の間でさえ意見が分かれたり、長期的な影響を見通せないようなリスクも少なくない中で、どのような対策を立てて臨むべきかは社会全体で議論していくことがらだろう。しかし、その議論に市民はどう関わっていけるのか、いくべきなのか。「科学的な事柄が関係するには違いないが、科学だけで答は出せない問題」を、ではどうやって社会で話し合い、合意を作りだしていくのか、という難問が控えている。
 そして第四が「生活の中の楽しみとしての科学技術」。ノーベル賞を受けた研究がなぜそれに値するのかを一般の人がある程度理解できれば、それに越したことはないし、そうできればその人の知的世界が広がるだろう。あるいはパソコンや最新の家電機器を上手に使いこなせれば、それも自身の能力が広がる楽しさを感じることができるはずだ。しかし、現在の日本において、科学を身近で興味深い存在に感じている大人は、むしろ例外的なのではないだろうか。市民は主として学校での理科教育を受けることをとおして、現代の科学技術への基礎的な理解を獲得するもの、と考えられているが、はたしてそれは成功しているのか。「理科離れ、理科嫌い」が生まれるのはなぜなのか。学びや教育といった面でのコミュニケーションのあり方にも問題がありそうだ。
 今紹介した4つの類型は、科学技術の学問分野に応じた分け方(物理学、生命科学、工学、医学、情報科学など)を横断してとらえる格好になっている。それは、生活者の側からみると、たとえば「食」という領域一つとっても、決して食品科学、栄養学、農学といった個々の学問分野に関係した事象を寄せ集めることでとらえきれるものはなく、生活に入り込んでいる技術によって、どんな価値が実現されどんな価値がないがしろにされるかといった価値観の問題として、トータルに考えざるを得ないことを反映しているからだ。「ペットボトルに入った冷えたミネラルウォーターをいつでもどこででも飲める」という技術システムの成果を私たちの多くが日々享受しているが、「ペットボトルの製造に要する石油、水源からの取水、運搬、廃棄物処理などコストやエネルギーを考えたら、これは大きな環境負荷やムダを生んでいるのではないか」と問うことができる。また、水道水を飲むことへの不安はどこまで根拠のあることなのかを改めて検討することにもなるだろう。そうした問い自体は、たとえば環境経済学の研究や医学分野での動物実験などをすすめて、環境負荷や人体影響に関するある程度明確なデータを出すことができるかもしれない。しかし、データを得るのにずいぶんと時間がかかったり、矛盾するデータが出てきたり、といったことは起こらないだろうか。あるいはデータが出たからといって、企業や消費者の行動がすぐさま変わるだろうか。もしすぐには変わらないとすれば、では、環境的に適正な行動を促すためにどんな規制や対策を導入することが、合理的でかつ皆に受け入れやすいのだろうか。
 じつはこのような「科学技術に関連してはいるのだけれど、科学技術の専門家だけで答を出せるわけではない」という性格をもった問題が生活と関わる科学技術には非常に多い。市民科学研究室がこれまで取り組んできた事柄でそうした問題をいくつか挙げると、「中学生に携帯電話を持たせるべきか/中学から携帯電話を使うと、電磁波の曝露が多くなって長期的に影響が出ないのだろうか」、「不妊治療の際に転院を繰り返す患者が多いのは何ゆえか」、「私たちは遺伝子組み換え大豆をどれくらい食べているのか/その影響はどうなのか」、「オール電化住宅は本当にエコで経済的なのか」、「ナノサイズの粒子(二酸化チタンなど)を入れた日焼け止め化粧品は本当に安全か/”ナノ粒子が入っている”との表示をしないものが多いのはなぜか」、「X線検査での累積の被曝量はどうすればわかるのか/そのリスクと検査の必要性のバランスはどうとれるのか」などがある。いずれも具体的で現実に暮らしの中で直面することになる問題だと思うが、ではあなたは、これらに適切な判断を下すために、どうやって情報を集め、どんな意見を参考にするだろうか。あるいは欲しい情報がなかったり、入手するのが難しかったりすればどうするか。また、ある程度情報が得られても、どこから行動を起こしていけばよいのかが見定め難い場合も多いのではないだろうか。
●媒介者としてのNPO
 市民科学研究室が行っている活動には、科学技術コミュニケーションの面からみて、言ってみれば「媒介者」としての役割が色濃く出ている。生活者(素人)にとって気がかりであるが、専門家が取りこぼしがちな問題や科学的に確定しにくいリスクを扱いながら、一方で生活者の状況に即したデータをとり、もう一方で専門文献などの知見を収集し、その2つを突き合わせる。そうした中で、生活者と専門家の双方が同じテーブルで議論できる機会を生み出していく……といった意味での「媒介」である。
 素人には、問題意識や疑問はあってもそれを実効性のある科学的な調査としてどう展開していくかを設計することが難しいし、たとえばいざ計測を行うとなれば専門の機器やデータ解析も必要となる。また、専門家は知的には独立した存在であるはずだが、研究費を出すのは国や企業であり、スポンサーの意向に沿わないだろう研究に金はつきにくいので、そこに自ずと批判を控えようとする力学が働く。その壁を乗り越える役割をNPOは担いうるのだと思う。現在、原子力、エネル ギー、薬害、干潟や流域の保護、種々の化学物質問題などのさまざまな領域で専門NPOが続々と誕生し、市民をサポートし政策転換を促す活動を展開している。また、科学技術のあり方に対して市民の関与や発言力を高めるために、参加型のテクノロジーアセスメントや合意形成手法などのさまざまなアプローチが提唱され、国もそれらを政策的に後押しする流れも生まれている。
ただし、そうしたアプローチは、市民がいかにして問題解決の主体になるかという中心軸がしっかりしてはじめて生きてくるという点を忘れてはならない。市民が自ら問題に気づき、必要な知を集結して学び、調査を担い、被害者や弱者の救済や支援のために連携して運動する、という主体性の発揮の仕方である。これを科学の側からとらえると、(体制的な)科学を批判し、(問題解決に必要な)科学を学び、(その学んだ)科学を活用し、(政治的課題の解決の積み上げをとおして)科学を変える、ということになるだろう。科学を変える、というと大 げさに聞こえるかもしれないが、そうではない。たとえば宇井純さんらの自主講座運動(70年~85年)と公害反対運動は、日本の環境科学の形成を大きく促した。市民が主体となった科学にはアカデミズムの科学を変えるカがある。
●「市民の科学」と科学技術コミュニケーション
 今述べた市民が主体となった科学を含む営みのことを「市民の科学」と私たちは呼んでいるが、その特徴をまとめておきたい。
 第一は、問われていない・解かれていない重要な問いがあることを自覚すること。
 私たちが科学や技術を大いに利用している一方で、たとえばその利用の適切性、影響、他の事象との関連性といった事柄の把握がいかに不十分にしかなされていないか――その自覚が「市民の科学」の根底にあるべきだろうと私は考えている。たとえば表のような疑問に読者はどう答えるだろうか。あるいはどのような計測や統計資料が必要になるか、ご存知だろうか。
◆表◆ 生活の中で遭遇する、科学が関わる定量的な問い
・あなたが毎日使用する携帯電話の電磁波の強さはどれくらいか
・どの暖房器具をどう使うのがあなたの部屋では一番効率がいいのか
・オール電化住宅はエネルギー効率的に”お得”なのだろうか
・自宅の家電機器などの待機電力の総計はどれくらいか
・月におよそ何リットルの水を何に使っているのか
・あなたの消費物資の上位10品目は何で、それぞれの海外依存度は
・あなたが健康診断や検査など浴びてきたX線の総量は
・あなたの体内のPCBやダイオキシンの濃度は
 これらの問いは、深く追いかけていけば、健康リスクと安全基準、環境的負荷と持続可能性、エネルギー、水、食料などの政策のあり方……といった問題に行き着く。そして場合によっては、重要なデータがなかったり不備だったり、あるいはどこかがそれを独占していたり操作していたりする、といったことに遭遇するだろう。環境や健康のリスクといった問題には、新たな発見のための科学(物理学や生物学などの基礎研究)や開発のための科学(ほとんどすべての応用研究)の枠組には収まらない、いまだ問われていない、あるいはいまだ解かれていない重要な問いがある。それは、実地にデータをとることを基本にした、状況に応じた科学知の編集と活用によって扱い得るものだ。職業科学者ではない素人でも、ある程度の素養と扱う問題に即しての学習の機会があれば、調査を担っていける理由がここにある。「市民の科学」は、科学者と市民との区別が必要でなくなる科学の営み、とみなすこともできるだろう。
 第二は、仲間との自由で開かれた討議と学びの場があり、研究成果を外にむけて発表する機会があること。
 私たちが月1回のペースでさまざまなテーマでの公開講座(「市民科学講座」)を10年以上も継続しているのは、専門家らを招いて上記の”重要な問い”を知るためでもあるが、 自ら調査研究したことを発表するためでもある。
 自前の発表を担うのは、電磁波、低線量放射線被曝、ナノテクリスク、生命操作、食の総合科学、といったそれぞれのテーマでの調査チームである。メンバーは大半が科学の素人であり、問題意識と興味関心を手がかりに、月1回の勉強会ならびにメールを通じた日常的な意見や情報の交換によって基礎体力をつけながら、1~2年ほどをかけながら特定の調査をすすめる。助成金を得て行うものもあるが、多くは会員からの会費に支えられている。調査結果は、市民講座で発表やホームページでの公開を前提にしているが、学会誌への投稿、冊子としての出版、講演や出前授業などに反映させることも少なくない。テーマに関心のある人なら誰でもメンバーになれる。大半が科学技術の専門家ではないが、調査にあたっては、利用できるツテを最大限に活用し、大学や他の専門NPOの専門家にも大いに協力を請う。企業の研究部署にインタビューに出かけることもしばしばだ。
 さまざまな経験を持つ年齢、性別、職業もいろいろな仲間がいて、互いに忌憚なく批判し励ましあえる関係にあることは、素人が自前で調査を続けていくことの何よりの支えになるし、じつは調査の質(市民性)や水準(学術性)の確保にも影響する重要な要件である。
 第三は、生活とコミュニティを基点にしたアプローチを重視すること。
 前述したように、科学技術はいってみれば、基礎研究と応用研究に大別され、前者の成果が後者に投入されながら、産業技術政策などとも絡んで、資本の論理に則して自律的に回転する構造を持っている。その構造の中で市民はあくまで消費者、ユーザーにとめ置かれ、意思決定からは基本的に除外されている。先に紹介した、「自宅の前に携帯基地局がいきなり設置されたが、健康への影響が心配だ」といった類の相談が市民科学研究室には多数寄せられるが、この事例にみるような、意思決定に与れるのは国と事業者だけで “生活者は蚊帳の外”、という枠組みは、じつは今の述べた科学技術の回転の構造と密接なかかわりがある。
 では、この構造の問題点を具体的に指摘し、修正を迫ることができるのは誰か。誰をおいてもそれはまず生活者だろう。表に示した問いはいずれも生活と科学技術の関わりという界面で発生するものばかりであることに注目してほしい。そして、構造の転換を一気に実現することは困難だとしても、その構 造に絡め取られない自律的な仕組みを作っていくことに相応しい場が、地域コミュニティではないだろうか。
 たとえば、現在次第に大きなうねりとなりつつある「スローフード」「食育」は、農水産物の大規模な生産・加工・流通を前提にした科学技術システムに対する、地域コミュニティに依拠した”地産地消””手作り”の合理性の復権ととらえることができる。またたとえば家の中でごくあたりまえに行われてきた出産 (生)や看取り(死)が、高度経済成長期に急激に、病院の占有物になり変わったが、助産院や自宅での出産が見直され在宅ホスピスなどが重視される趨勢もまた、医療におけるコミュニティの再評価という面があるだろう。生活圏で歴史的に成立してきた共同性とそれと不可分に機能してきた生活技術(たとえば”味噌の手作り”など はその1例)のとらえ直しは、長い目で見たときに、科学技術の転換を促すだろう。「市民の科学」は、生活と地域コミュニティの守り抜くべき様態を見据えて、それを破壊するものに異議申し立てをし、新たな解決を提案できるものでなくてはならない。
 市民科学研究室は、以上のような営みを可能にするコミュニケーションのあり方を、社会問題の解決に向けた「媒介者」の役割を念頭におきながら、常に模索している存在だと言えるだろう。■
(梶雅範・西條美紀・野原佳代子 共編『科学技術コミュニケーション入門』培風館2009より上田が執筆した第13章を抜粋改変して掲載)

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