【書評】マイクル・クライトン作『プレイ』

投稿者: | 2005年1月5日

浦崎健太郎
pdf版はnano_0021.pdf
 マイクル・クライトンの名を知っている方は多いだろう。映画『ジュラシックパーク』の原作者であり、日本でも人気となった米国のTVドラマシリーズ『ER』の制作を手がけていることでも有名である。ナノテクノロジー(以下ナノテク)(1)による危険を描いた『プレイ -獲物- (上・下)』(英語版は2002年に出版、日本語版は早川書店より出ている)もまた、映画化が決定している作品のひとつである。これまでの作品同様、本作も最先端のテクノロジーのありかたに警鐘を鳴らす内容となっている。
 私がプロジェクトに参加して以来、何度も文献で引用されているのを目にしたのは、次のような話である。近い将来、ナノテクの発達により超微小サイズのロボット=ナノロボットが開発されるだろう。その中で環境中に漏れ出した自己複製の能力を持つロボットが爆発的に増殖していき、しかも増殖の過程で環境中の資源を食い尽くしていく(この生命体のごときナノロボットをグレイ・グーと呼ぶことがある)というものである。このような筋書きはイメージ豊かであり、不安を(したがって関心を)喚起する効果を十分に持っている。『プレイ』はまさに、このような筋書きを迫力ある筆致で描き出しているのである。
 さて、本プロジェクトではナノテクのリスクについて論じた文献として、英国王立協会および王立工学アカデミーによる報告書『ナノサイエンスとナノテクノロジーズ–̶機会と不確実性』(2004年7月)(2)の翻訳を行っており、その作業も終盤に差し掛かっているところである。私自身、ごく最近、昨年7月頃から市民科学研究室に足を運ぶようになり、そこで初めてリスク面からナノテクノロジーのあり方を検討しようという立場の存在を知った。翻訳作業を通じ、また文献を参照しながら感じたのは、ナノテクリスクに対する当初の(素人的)印象と専門家の問題意識との間の温度差、ギャップであった。ここでは特にこの点に焦点を当てつつ、私がナノテクリスクをどう理解しようとしてきたのかを振り返ってみたい。
1.『プレイ』は現実になるか
 上記報告書を含む様々な文献にあたると、リスク管理の現場で主に問題とされているのはナノ粒子(ナノメートルサイズの粒子)の毒性であることがわかる。極端に小さなサイズでは物質は予想もしない性質を示すことがあり、それを現在の規制政策が想定しきれていないということが、主要な問題点である。ならば、グレイ・グーのような筋書きについて専門家はどう考えているのだろうか。有名なところでは、この仮説を提唱したドレクスラーと、実現不可能性を主張するスモーリーとの論争がある(スモーリーは有名なナノ粒子C60の発見でノーベル化学賞を受賞している)。
 ナノロボットが(機械的な手段で)作成されるには、原子サイズの精度の操作技術と、望みの位置に原子の固定を行う技術が必要となるが、これらは現在の技術では実現できないというのがスモーリーの主な論拠である。他にも様々な批判が存在する。現場の研究者の多くもまたスモーリー同様、グレイ・グー的筋書きには懐疑的で、越えるべき技術的障壁が多すぎると考えているようである。上記報告書もこのような意見をいくつか紹介した上で、ナノロボットの脅威を差し迫ったリスクとはとらえていない(3)。(ドレクスラー自身昨年になって、原理的には可能でも現在の開発の方向からすると現実的でないと表明している。)
2.ナノテク作品の意味
 ナノテクを題材とした作品の多くに、こういった人工生命的ナノロボットが登場する。それは作家たちに科学的知識が不足しているからだろうか。おそらくそうではない。どのような形のメッセージが大衆に受け入れられやすいかを熟知し、潜在的な不安に象徴的な形を与えようとしているのである。『プレイ』の中でもクライトンの問題意識がそこかしこにちりばめられている。たとえば、シリコンバレーの企業が軍事技術として秘密裏にナノロボットの開発を行い、利潤を追求するばかりにリスクを省みず環境中に放出してしまう。これはテクノロジーの管理についての問題提起である。そして最初に、弱者である乳児に兆候が現れる。こういった問題意識が、ナノロボットというわかりやすいテーマに乗せて大衆に伝えられている。その点では、テクノロジーのあり方に不安を覚える市民の感覚と、専門家による上記報告書の懸念にそう隔たりは無いように思えた。
3.市民とナノテク
 遺伝子組み換え食品や原子力関連技術などで明らかなように、テクノロジーに対する市民の態度はその後の発展を大きく左右する。そこで上記報告書でも、早い段階からナノテクの発展に市民が関与できるよう、十分な予算を割くべきであると強調している。幸い日本では、この新たなテクノロジーへの一般市民の印象は悪くはなさそうであり(様々な商品名で使われているところを見る限り)、ナノテクへの関心がどのような方向に向かうのか、それはこれからの大きなテーマといえる。
 生活者たる市民は、日々多くの情報を処理していかなくてはならない。 良くも悪くも明快なイメージを求めるのは当然であり、それを容易に与えられないところに、ナノテク(のみならず先端技術)リスクの議論に市民を巻き込むことの難しさがある。むろん専門家に対しては、素人の目で見、語ることを期待したいが、一市民として忘れてはならないのは、本当の危険はそれとわかるような姿かたちを持たないことである。むしろわれわれは歴史から、科学の専門家すら予測しきれないところに将来の大きなリスクが潜んでいることを学んだ。テクノロジーに対するこれまでのスタンスを考え直す契機として、今後ナノテクについてより深く考えていく必要がありそうである。
4.ナノテク研究と社会
 ナノテクという言葉はバイオやITと異なり、ある限定された分野を指し示す言葉ではなく、むしろテクノロジーがナノの世界に達したことを象徴するものともいえる。そこでは、応用開発(テクノロジー)と科学研究(サイエンス)の垣根はますます低く、研究者の社会的責任がより強く問われるのは当然の流れといえるだろう。
 一方で、予算の流れを通じ研究の現場は(研究テーマなどにおいて)、社会の影響を強く受けてきた。また、研究者には絶えず生産性を上げることが要求されており、それは現在のような過度に専門・細分化された体系を作り上げた一因とも思えるのである。論文という専門分野への貢献だけが評価される仕組みの中で、社会への影響まで考える余裕などなかったというのが正直なところではないだろうか。ここにきて、高度に専門化した研究の現場と、様々な要素が有機的に関係しあう生活の場という、いわば社会システムによって隔てられた二つの世界観のギャップこそ、当初に感じた違和感の正体であるように思い至った。
 上記報告書は、ナノテクによる利益がどのように配分されるべきか、それは誰がどのように主導するべきかなど、現在の制度を越えた課題まで幅広く問題提起しており、まだまだ勉強できることが多そうである。ところで『プレイ』の結末はどうか。それがハッピーエンドかどうかは敢えて書かないことにするが、結末の描き方にもクライトンのテクノロジーへの見解が反映されている。ナノテクに興味の無い方でもいつの間にか物語に引き込まれ、時間を忘れて楽しめる内容となっている。まずはご一読を。
(1) 1~100ナノメートルスケールでの物質の微細加工技術・操作技術を幅広く指す言葉。1ナノ=10億分の1
(2) Nanoscience and Nanotechnologies: opportunities and uncertainties,
http://www.nanotec.org.uk/finalReport.htmより入手可能。
(3) 『プレイ』中のナノロボットはバイオ技術を援用して化学的に量産されており、スモーリーの批判を逃れた形になっている。特定の筋書きの実現可能性・不可能性のみを議論しても、この手の論争に完全に終止符を打つことはできないようである。
(どよう便り 83号 2005年1月)

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