粉ミルクは間違った選択である~翻訳「これを吸いなさい」

投稿者: | 2006年9月5日

連載 海外情報翻訳シリーズ
「子ども健康リスクの最新研究を追う」第3 回
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■解説
 授乳は子育てのもっとも悩ましい問題の一つだろう。母乳の良さはわかってはいても、思うに任せない状況がいくえにも重なって、粉ミルクに頼ってしまう人が多いのが現実だ。
 平成12 年の厚生労働省「乳幼児身体発育調査報告書」によれば、たとえば、生後1 ~ 2 ヶ月未満、2 ~ 3 ヶ月、3 ~ 4 ヶ月、4 ~ 5 ヶ月の赤ちゃんでみると、母乳だけで育てている人の割合はそれぞれ44.8%、42.3%、39.4%、35.9% である。たとえ”やむをえない”選択であるにしても、「母乳の代替」としての粉ミルクは確たるシェアを占めている。粉ミルクは、現代の科学の成果であり、企業が大々的に販売し、育児を指導する保健衛生の場においても推奨されることさえもあるのだから、母親がその安全性に何の疑いも持たずに受け入れるのも無理はない。
 しかし、ここに紹介する論文で示されている健康にかかわるデータや、調整乳をめぐる関連諸団体・企業のいきさつを知るなら、その見方は変わるだろう。粉ミルクで育てた赤ちゃんは母乳で育てた赤ちゃんに比べて、生後6 週間以内で死亡するリスクが2 倍、胃腸炎が5 倍、湿疹および糖尿病は2 倍、尿道炎は5 倍、人工乳で育った、あるいは母乳を6 か月未満しか与えられなかった子どもにおいては、15 歳未満でのリンパ腺癌の発症が5 倍から8 倍という、驚くべき数字が並ぶ。この論文を虚心に受けとめるなら、粉ミルクは誤った科学の産物であり、それを選択するのは健康面からも社会的にも誤った行為だ、ということになるだろう。
 市民科学研究室は現在、babycom と一緒に、エコロジーコーナーで特集「子どもと食べもの 胎内からはじめる食育」の連載をすすめている。その第3 回「母乳は赤ちゃんにとっての完全食品」、第4 回「母乳は赤ちゃんの体をアレルギーから守る」で、母乳育児の価値を科学的にとらえなおしている。あわせて読んでいただけるとありがたい。http://www.babycom.gr.jp/kitchen/kodomo/index.html
 「 100% の母親が、少なくとも赤ん坊の誕生後6 か月までは、母乳だけで子どもを育てるべきである」という著者の主張が日本で実現する日はいつなのだろうか。次号では、この論文に関連して、アレルギーとの関連で母乳の見直しを提唱する専門家へのインタビュー、そして日本の母乳・人工乳育児の現状を概観する報告とあわせて掲載する。ご期待ください。(上田昌文)
これを吸いなさい
パット・トーマス(『エコロジスト』2006 年5 月)
(原題:”Suck On This”by Pat Thomas, The Ecologist p.22-33, May 2006)
翻訳: 杉野実+ 上田昌文
●知られざる調整乳
 哺乳類の動物はみな子どものために母乳を作るが、人類もまた、少なくとも40 万年にわたり母乳で子どもを育ててきた。何世紀ものあいだ、女性が自分の子に母乳を与えられない場合は、「乳母」と呼ばれる別の女性がその仕事を代行してきた。だが、この60 年ほどのあいだに、われわれはそのような哺乳類の本能を捨て去って、そのかわりに「哺乳瓶文化」を採用し、赤ん坊にその誕生からずっと、高度に加工された調整乳を与えることを母親に奨励するだけでなく、そのような代替物は、本物よりもすぐれているとはいえないにしても、本物と同じくらいよいものだということを信じさせてきた。
 乳児用調整乳はもともと、今日のように広範囲に消費されることを目的とするものではなかった。それは19世紀後半に、それを与えなければ飢えてしまう捨て子や孤児に対して、必要な食糧を与えるための方法として考案された。他の食糧がないというこの狭い文脈のなかでは、調整乳は命を救うものであった。
 しかし時がすぎ、人間の栄養学全般、とりわけ乳児の栄養学がより「科学的」になるにつれて、加工された母乳の代替物が、母乳の技術的な改良品として、一般大衆に向けて販売されるようになった。
 「 『どの調整乳を使うべきか』あるいは『母乳にもっとも近いのはどれか』といった質問に対する答えは、『誰も知らない』です。というのもそのような客観的な情報は、どこでも誰によっても提供されていないからです」と、全国出生財団(NCT)で28 年間母乳カウンセラーをしてきたメアリー・スメイル氏は言う。「製造業者だけが製品に何が含まれているかを知っていますが、彼らは本当のことは言いません。オリゴ糖や長鎖脂肪酸や、少し前だったらベータカロチンのような、”健康に良い”特別な成分が含まれていると宣伝するかもしれませんが、製品が基本的には何から作られているのか、あるいは成分が何に由来するのか、彼らがきちんと言うことはありません。」
 知られている母乳の成分は、乳児用調整乳を開発する科学者たちにずっと参照されてきた。しかし今日にいたっても、調整乳の実効的な「処方」は得られていない。実際のところ、乳児用調整乳の製造は、その当初から、ずっと試行錯誤であった。
 製造業者は調整乳に何でも入れられる。実は同一の製品においても、原料の価格や入手可能性に応じて、調合が組ごとに変わることがありうる。調整乳は厳重に規制されていると思うかもしれないが、業者には透明性は要求されていない。彼らはたとえば、どの銘柄やどの生産単位の特定の成分をも、いかなる公共機関に登録することも求められない。
 市販の調整乳の多くは牛乳を基本としている。しかし牛乳を赤ん坊が飲める調整乳にするためには、細かい調整を行わなくてはならない。蛋白質と無機質をへらし、炭水化物は通常は糖類を加えて増やさなくてはならない。乳脂肪は人体に吸収されにくく、とりわけ消化器官が未熟な乳児にとっては特にそうなので、乳脂肪をとりのぞいて、動物性・植物性か、鉱物性の油脂で代替しなくてはならない。
 ビタミンや微量元素も添加されるが、最も消化されやすい形になっているとは限らない。(調整乳が「完全栄養」だという主張は本当なのだが、それは単に、栄養学的に劣った製品に不足するビタミンと無機質を添加したという、ごく粗い意味においてそうであるに過ぎない。)多くの調整乳はまたとても甘いものでもある。乳児用調整乳の大部分は糖類を砂糖の形で含んではいないが、乳糖・果糖・ぶどう糖・麦芽糖など他の種類の糖類を大量に含んでいる。しかし法律に抜け穴があるために、そういう製品でもまだ「砂糖不使用」と宣伝できるのである。
 調整乳はまた、製造過程で意図されずにまぎれこんだ汚染物質を含んでいる可能性もある。遺伝子組み替えのダイズやトウモロコシの一部を含んでいるものもあるかもしれない。
 サルモネラ菌やアフラトキシン(アスペルギルス真菌により産生される強力毒性・発癌性・催奇形性・免疫抑制性をもつ物質)が市販の調整乳から検出されることは多い。敗血症(血液への大規模な細菌感染)・脳膜炎(脳内部への感染)および壊死性腸炎(小腸と結腸での重篤な感染と炎症)をひきおこす、強力な食中毒病原体である坂崎腸内菌についても同様である。
 乳児用調整乳の包装過程においては、ガラス破片や金属細片、フタル酸塩やビスフェノールA(いずれも発癌性)などの工業用化学物質、さらに最近では、包装用材イソプロピル・チオクサントン(発癌性を疑われるもうひとつの物質)による汚染が、しばしば取り沙汰される。調整乳はまた、アルミニウム・マンガン・カドミウム・鉛など、毒性をもつ重金属を過剰に含んでいるかもしれない。
 ダイズを原料とする調整乳は、植物起源のエストロゲン(女性ホルモン)を非常に高濃度で含んでいるということで、特に注目を集めている。実際に、ダイズ調整乳を摂取している乳児の体内では、自然状態でのエストロゲン濃度の13000 倍から22000 倍もの濃度で、植物性エストロゲンが検出された。体内のエストロゲンが通常よりも多ければ、癌を発症する可能性がある。
●赤ん坊を殺す
 人工乳による病気や死亡の危険は、発展途上国に限られた話であると、長い間信じられてきた。調整乳を調整するための清潔な水が不足しており、また貧困な母親が調整乳を長くもたせるために水で薄めることを余儀なくされていて、そのために赤ん坊の栄養失調や、下痢やコレラなど水から伝染する病気の危険が高まっているといった話である。だが最近のデータは、他の面では豊かな欧米でも、「便利な食品」の摂取によって赤ん坊が病気になったり死んだりしていることを、はっきりと示している。調整乳は栄養的に完全ではなく、母乳には含まれている免疫増進物質を含んでおらず、常に変化し成長する乳児の栄養的な要求を満たすものでもないので、人の一生の初期段階において調整乳を日常的に摂取することによる影響は、短期的にも長期的にも甚大なものがある。
 人工乳を摂取している乳児は、母乳を摂取している乳児に比べて、生後6 週以内になんらかの理由で死亡する可能性が2 倍も高い。人工乳授乳は特に、乳児突然死症候群の危険を2 倍から5 倍も高める。人工乳で育った赤ん坊においてはまた、広範囲の伝染病に感染した際に、病院に収容される危険が目立って高い。たとえば胃腸炎で入院する可能性は5 倍も高い。
 先進国においてさえ、人工乳で育った赤ん坊が下痢にかかる危険は、母乳で育った子の2 倍も高い。人工乳で育った子は、中耳炎には2 倍(10% に対して20%)かかりやすく、家族にアトピーがある場合には喘息や湿疹に2 倍かかりやすく、尿道炎には5 倍かかりやすい。
 生後6 か月までのあいだ、人工乳で育った赤ん坊が壊死性腸炎(組織の壊死を伴う重篤な腸への感染)を発症する危険は10 倍高いが、生後6 か月をすぎると、この比率は30 倍に上昇する。
 さらに重篤な病気も人工乳授乳に関係している。3 か月から4 か月間だけ母乳を授乳された子と比べると、人工乳を授乳された赤ん坊が、インシュリン依存(Ⅰ型)小児糖尿病を発症する危険は2 倍高い。人工乳で育った、あるいは母乳を6 か月未満しか与えられなかった子どもにおいては、15 歳未満でリンパ腺癌を発症する危険は5倍から8 倍も高い。
 様々な研究が示すところによると、人工乳で育った子はその後においても、小児性腸炎・多発性硬化症・不正咬合・冠状動脈性心臓病・糖尿病・他動症・自己免疫性甲状腺病・小児脂肪便症などの病気を発症しやすい。
 これらの状況からみると、調整乳は母乳と比べて「次善」とさえいえないことがわかる。世界保健機構は公式に、調整乳を最後の選択と位置づけている。最善なのは母親が直接に母乳を与えることで、次善は母親の母乳をカップまたは哺乳瓶に入れて与えること、つぎは母乳バンクあるいは乳母から母乳をもらうことで、調整乳は最後である。
 しかしそれでも、母乳で育つ子は絶滅危惧種になりつつある。イギリスでは母乳で育つ子の割合は壊滅的なまでに低く、ここ数十年の減り方は特に著しい。最近の統計では、イギリスで母乳を与えようと試みた女性はたった62% しかいない(しかもその多くは入院中にである)。生後6 週には母乳を与えている女性は42% にすぎない。生後4 か月でもまだ母乳を与えているのは29% であり、生後6 か月となるとこの比率は22% に落ちる。
 このような数字はどの先進国でも同様であろうが、ここで言う「母乳」が必ずしも理想的な母乳「だけ」の授乳を示すものではないことにも注意しなくてはならない。現代の母親の多くは、母乳に人工乳や離乳食をくみあわせる「混合授乳」をおこなっている。全世界でみると、世界保健機構の推定では、生後4 か月までにとにかく母乳を与えられている乳児は35% しかおらず、もちろん研究数は少なく不完全なので確かなことはまだ言えないが、生後6 か月まで母乳だけで育てられている子はたった1% しかいないという。
 24 歳未満の母親の40% 以上は母乳を与えようとしたことさえないというから、若い女性ほど母乳授乳をしたがらないとも思われる。しかしながらもっとも大きな断絶は社会経済的なものである。母乳授乳は子どもの健康に多大な利益をもたらすというのに、低所得世帯にいる女性、あるいは教育程度の低い女性が母乳授乳をする率は、他の階層の女性に比べて何倍も低いのである。
 社会的に恵まれない家庭に生まれた子どもであっても、生後6 か月まで母乳だけで育てられれば、豊かな家庭に生まれた子との間の不平等を解消するための第一歩を歩むことができる。すなわち母乳授乳は、最初の重要な数か月にいる乳児を貧困から救い出し、彼らに誇り高い人生の出発をもたらすのである。
●なぜ女性は母乳授乳をしないのか
 哺乳瓶が広く普及する以前には、母乳授乳は、家庭と地域社会での模倣と学習にもとづく日常生活内の行いであった。女性は自らの試行錯誤の経験によって、育児の専門家になっていった。しかし今日では、それまでは多少とも自然に行われていたことが、全地球的な市場戦略、政治、立法、ロビー活動団体、活動家、善意はあるがときにまとはずれな専門家集団、などといったものの影響によって、おそろしく複雑なものになってしまった。
 メアリー・スメイル氏によると、とりわけ社会的に恵まれない女性に変化をもたらすものは、自信と支援への期待である。
 「自己活用の概念」、いいかえれば自分になにかできると思うかどうかということが、大変重要である。母乳授乳はとてもいいことだと女性に言うのは簡単だが、実際にそれを行うためには女性は多くのことを信じなくてはならない。まず第一に、女性は、それが自分と子どもにとっていいことだと考えなくてはならない。第二に女性は「私にはそれができるのだ」と考えなくてはならない。第三に、おそらくこれがもっとも重要なことであろうが、もし問題があっても、助けがあれば、自分はそれを解決することができるのだ、と女性が信じなくてはならない。「 様々な研究によると、たとえば、低所得女性はしばしば母乳授与は痛みを伴うものだと信じている、あるいは調整乳は母乳と同様にいいものだと信じがちだということを示しています。ですからはじめから単純に母乳授与への動機がないともいえます。ですが本当に問題なのは、問題が起こってしまってはどうしようもないという考えなのです。そのためたとえば、痛いのは運が悪いからだということになってしまいます。一方で、問題を解決するために助けを求めるのに慣れている中産階級の母親の心理はこれとは大変違っています。問題が起こったら、電話をかけて助産婦や訪問保健師に、『このことについて助けてください』と言うことに対して、彼女たちには恐れはないのです。」
 ほぼすべての女性(およそ99%)は、うまく授乳をして、赤ん坊がただ育つだけでなく、健康に育つのに十分な母乳を出すことができる。励ましと助力さえあれば、ほとんどすべての女性は母乳授乳を始めたいと思っているが、脱落する率もまた大変高い。生後6 週までに母乳授乳をやめた女性の90% は、もっと続けたかったと言っている。もし継続的な支援がえられるならば、またもし、屋内および屋外での母乳授乳に対して、家庭内およびより広い地域社会内で、より広く受け入れられるようになれば、長期間にわたり母乳だけを与える母親の比率は上昇すると思われる。
 しかし現状ではそのような社会的支持がないのは明らかで、母乳対人工乳のより大きな構図をみるとわかるのであるが、女性の自信をそこなう、医学的・社会経済的・文化的・政治的な要因が複雑に絡み合っていることもあって、それがまた、人工乳の授与は健康よりも生活様式の問題であるとか、現代女性の身体は子どもを育てるのに十分な母乳を生産できないとか、いった観念を増強しているのである。
 「母乳授与は母親と子どもの間の自然な交渉であり、それに介入するのなら危険を覚悟すべきです」と、ヨーク大学母子研究室室長、メアリー・レンフルー教授は言う。「しかし20 世紀の初めに、人々はそれに大変無遠慮に介入しました。母乳授与の生態学の立場からいえば、自然の習慣が邪魔されているとしか言えません。しかしながら重要なのは、人工乳の出現という、ひとりの略奪者だけではありません。その習慣はすでに他の要因によって脆弱化していたというのが真実なのです。」
 「 20 世紀前半の医学教科書を見ると、母乳授乳を科学的で厳密なものに変えようという記述が多いのがわかりますが、まさにそのあたりから事態は転換し始めました。」レンフルー氏によるとその転換は、科学が母乳授与の過程に対して抱いていた恐怖と不信によるところが大きい。母親が赤ん坊を胸に抱き母乳を与えながら他のことをしているとか、十分に母乳を吸った赤ん坊は自然に胸から離れるとかいった事実は特に、不規則で不正確だとみなされた。医学的・科学的モデルはこの自然な状況を、正確な計量でおきかえた。たとえば、1 回の授乳で赤ん坊が何ミリリットルの母乳を摂取するのが理想的か、といったような研究であるが、母と子の自然なバランスはこれによって歪められ、哺乳瓶による授乳が生物学的な標準になってしまった。
 第1 次世界大戦後に女性の状況が変わって、女性の「解放」(および「戦場」での男性の損失)のために、多くの女性が子どもをおいて職場に行くようになったことも、母乳授与の比率が下がる原因になった。第2 次大戦後になると、ますます多くの女性が自宅外で雇用されるようになったため、その傾向は加速された。
 「それにフェミニズムの最初の波があります」とレンフルー氏は言う。「それは60 年代にすべての人の意識に進入して、子どもから離れて自分の人生を生き始めるようにと、女性たちを鼓舞しました。そのため、女性がお互いに助け合えばよかったはずなのですが、実際には、雇用されていた女性たちや、知的で意識の高い女性たちでさえ、しばらくの間どう対処すべきかがわからなかったのです。そのようにして結果的に、母乳授乳に対する不信は広がり、その重要性に対する理解も、支援にあたるべき保健専門家の能力も低下しました。そしてもちろんこれらのことはすべて、人工乳が技術的に進歩して、容易に入手できるようになるのと並行して起こったのです。」
●医療化された誕生
 第2 次世界大戦以前においては、妊娠も出産も、そしてその延長としての母乳授乳も、日常生活と連続したところにあった。女性は訓練された助産婦の助力を得て自宅で出産したが、その助産婦もまた地域社会の一員であった。そして出産後には、女性は家族や友人に励まされて母乳を与えていた。
 しかし、出産が地域社会からとりあげられ病院に移されたことにより、女性の生殖生活は「医療化」された。人生のさまざまなできごとは医学的問題に変えられ、伝統的知識は科学技術による解決法で置き換えられた。この医療化によってさまざまな介入がなされるようになり、健康な赤ん坊を妊娠して胎内で育て、出産し、また育てていくことに対する自信を、女性たちは失うようになった。
 介入はこんなふうに行われる。病院は施設であって個人ではない。だからスケジュールと手続きにしたがって運営される必要がある。病院が円滑に運営されるためには、患者はじっとしていて動かないのが理想である。出産しようとする女性もまたベッドにあおむけに寝かされることになるが、これは分娩を長引かせる不自然で非生産的な姿勢であって、苦痛をおおいに増す姿勢でもある。このように医療のせいで非機能的になっている分娩を「修正」するために、医師たちはさまざまな薬剤(通常はプロスタグランディンやシントシノンなどの合成ホルモン)や、技術(鉗子や真空吸引など)や、施術(会陰切開など)を開発して、出産過程を短縮化した。分娩を人工的に短縮化することは苦痛をさらに増し、そのため、痛み止めの薬もまた数多く開発されることになった。そういう薬の多くはとても強力で、母親は出産の瞬間にはしばしば、意識を失っているか、極端に鎮静されているかするので、生まれたばかりの子どもに乳を与えることができない。
 痛み止めの薬はすべて胎盤を通過するので、たとえ母親が失神していなくても、赤ん坊の方が薬の作用をひどく受けていて、自然な探索本能(乳首をみつけるのに役に立つ)や筋肉の調整(胸にしがみつくのに必要)が、損なわれているかもしれない。
 1970 年代から80 年代までは、医学的出産の苦痛から回復するまでの間、母と子は当然のように別々にさせられていた。赤ん坊の胃腸に異状があれば、まず哺乳瓶を与えられ、それまでは母乳を与えることを「許されない」こともしばしばであった。母乳授与は、たとえ行われることがあるとしても、厳格なスケジュールにしたがって行われた。ヒトの新生児は24 時間に12 回ないしそれ以上食事をしなくてはならないから、通常3 時間から4 時間を周期とするそのようなスケジュールは、まったく不自然なものであった。授乳の間には必然的に空腹になる赤ん坊には、機械的に水や調整乳が補給された。
「 補給は頻繁に行われていました」とレンフルー氏は言う。「『科学的』授乳法として病院で行われていたのは、1 日目には1 回の授乳は2 分、2 日目には1 回4 分、3日目には1 回7 分、などというものでした。そのため、母親は赤ん坊を見るよりも時計を見るようになり、大きな不安が生じました。赤ん坊もまた、授乳のたびに補給を受けるようになり、母親のところにつれていかれるよりも、一晩中補給を受けたりするようになりました。そうして、赤ん坊は育児室で泣き、母親は産後病棟で泣くという状況が生じてしまいました。1960 年代と70 年代には、この状況を『正常』といっていました。」
 母乳は需要と供給に応じて作られるので、このように補給をして赤ん坊の飢えを緩和し需要を減らせば、母親による乳の供給もまた減ることになる。その結果、病院で出産した女性たちは、しばしば苦痛を伴い不成功に終わる、挫折に満ちた戦いとして、母乳授乳を経験することになった。
 こういうとても信じ難い状況のもとで母乳授乳が「失敗」したとき、調整乳が、より「現代的で清潔で社会的にも受容されやすい」「完全栄養の解決法」として提供された。
 少なくとも2 世代の女性が、この種の絶望的な状況下にいた。その結果、母乳授乳の概念は、今日の多くの母親にとって馴染みのないものとなり、「試す」ことはできるのだが「する」ことはあまりなく、もし「する」ことができなくても気にすることもないこととして、しばしば捉えられるようになった。
●専門家の失敗
 「 医療的な生殖モデル」を先導したかつての若い医師・看護師・助産婦たちが、まだ今日の保健事業を主導している。だから現代の病院が、以前のものと根本的には変わっていなくても、驚くにはあたらない。今の病院にはテレビやCD 再生機があり、壁紙はきれいで、薬も進歩しているかもしれないが、医療化された出産の目標と原則は40 年間ほとんど変わっておらず、母乳授乳への影響はなお絶望的である。
 多くの場合、保健従事者の授乳に対する見方は、彼ら自身の多分に個人的な経験にもとづいている。たとえば研究が示すところによると、母乳授乳に関する医師の助言の有効性と正確性に影響するもっとも重要な要因は、医師自身あるいはその妻が母乳授与をしたのか否か、ということである。同様に、自分の子どもに調整乳を与えた助産婦や看護師や訪問保健師が、母乳授与について効果的に助言をするとは考えにくい。
 もっと心配なことには、このような専門家が、失敗を助長するような母乳授乳に関する迷信を、永続化してしまうこともありうるということである。一部の病院では、女性たちはいまだに、「乳首をかたくしておく」ために、赤ん坊が乳を吸う時間を制限するよう助言されている。あるいは、赤ん坊に「必要」なすべての乳は最初の10分で与えるべきで、それ以降に吸わせるのは不必要である、などと言われたりしている。4 時間の授乳周期を守るように言われている者さえいる。イギリス国立統計局の数字によると、赤ん坊への補給もいまだに行われている。2002 年には、イギリスの病院にいる赤ん坊の30%近くが補給のための哺乳瓶を与えられていたし、すべての赤ん坊の20% 近くは、病院にいる間に母親と引き離された経験があった。
 医療専門家による不適切な助言が続いていることもひとつの理由となって、国連児童基金は1991 年に、母乳授与を成功裏に推進するための基準を満たしていると認められた病院に証明書を授与するという、「乳児にやさしい病院計画(BFHI)」を開始した。その基準には、すべての保健スタッフが母乳授乳推進について訓練を受けること、出産から1 時間以内に母親が母乳授乳をするのを助けること、医学的に必要でなければ新生児に母乳以外の飲食物を与えないこと、無料あるいは大幅に値引きされた調整乳や補給物を受け入れないこと、などが含まれている。これは原則的には母乳授与の増進への重要な
第一歩であり、母乳育児を推奨する病院で出産した女性はより長期間にわたって母乳授与をするようになることは、研究にも示されている。
 たとえばスコットランドでは、およそ50% の病院が母乳育児を推奨しているが、母乳授乳開始率が最近になって急上昇している。全国56 の病院および助産施設のうち49 が母乳育児を推奨するキューバでは、生後4 か月まで母乳だけを授与する者の比率は、1990 年の25% から1996 年には72% と、6 年間でほとんど3 倍になった。同様な増加はバングラデシュ・ブラジル・中国でもみられる。
 不運なことに、どこの地域でもBFHI 資格を取得することに関心があるというわけではない。イギリスでは、たったの43 病院(全国の病院の16% にすぎない)がすべての基準を満たしているにすぎず、しかもそのような病院はロンドンにはひとつもない。母乳育児を推奨していると認められた全世界のおよそ16000 の病院のうち、アメリカ合衆国にあるのはたった32 の病院だけである。確かに、母乳育児を推奨する病院は高い母乳授乳開始率を達成しているが、女性が地域社会に帰ったあとで母乳授乳を続けることまでは保証しない。母乳育児を推奨する病院で出産した女性の間でさえ、生後6 か月まで母乳だけを与えている者の比率は受け入れ難いほど低い。
●広告の影響
 母乳を推奨する病院は、保健専門家や母親や一般大衆の無知や自由放任と闘うという難しい課題に直面している。これらはまた、「政治的に正確な」編集によって母親が人工乳を用いることへの罪悪感を軽減したり、さらに重要なことには、広告を通じて、調整乳を受け入れられる選択肢に戻そうとしたりしているマスコミとも、困難な闘いを続けている。
 現在では乳児用調整乳の広告に関しては厳しい規制もあるが、それでも製造業者は長年にわたって、広告と宣伝を通じて、科学界(たとえば医師たちに、人工乳で育った子どもの成長パターンを正常とする成長グラフを配付することによって)とより広い一般社会の両方で、乳児への授乳の問題を取り上げ、何が正常であり何が正常でないのかに関する観念を作りなおすことに成功している。
 その結果、女性たちが妊娠・出産・育児について互いに話し合うためのコミュニティが不足している現状では、彼女たちの選択は、他の何にも増して、商業的なチラシや小冊子や広告に、より直接に影響されることになる。
 人工乳製造業者は巨額を投じて、その製品を公衆の意識に印象づけるための、販売戦略を工夫している。イギリスでは調整乳会社は、1 年に少なくとも1200 万ポンド(約26 億円)を小冊子・チラシその他の広告に使っており、それらはまた、しばしば「教育資料」に偽装されている。この額は新生児1人あたりおよそ20ポンド(約4,400 円)に相当する。対照的に、イギリス政府が母乳授乳増進のために1 年間に支出している金額は、新生児1 人あたりおよそ14 ペンス(0.14 ポンド、約30 円)にすぎない。
 これは世界中で繰り返されている不平等のパターンにしたがうものであり、この問題は、乳児への授乳に限ったものではない。世界の食品産業の広告予算は400 億ドルであるが、これは全世界の7 割をしめる国家の国内総生産よりも大きい。世界保健機構が欧米的な食生活から引き起こされる病気の予防に1 ドルを使う一方で、同時に食品産業はそのような食生活を奨励するために500 ドル以上を支出している。
 調整乳業者は今日では、女性に対して直接に(たとえば母子向けの雑誌に、またはチラシを直接に配付することで)宣伝したり、あるいは病院や医院に試供品を置いたりすることはできないので、母子クラブとか、忙しい母親が授乳について必要な情報をえるためのインターネット・サイトなど、他の経路を利用し始めている。そして、そのような業者はまた、いつも抜け道を利用している。
 業者が親に対して、生後6 か月以上の赤ん坊用の追加乳を宣伝することは許されている。しかしときには、その広告には6 か月よりもずっと小さな赤ん坊の写真が掲載され、製品が乳児にも適用できることが暗示される。そのような広告の影響は過小評価できない。2005 年の全国出生財団/ 国連児童基金によるイギリスでの調査によると、過去6 か月間に調整乳の広告を見たと自覚する母親の3 分の1 が、乳児用調整乳は、母乳よりも優れているか、あるいは同じくらい良いものだと信じていた。乳児用調整乳の母親への広告は、イギリスを含む多くの国で長年禁止されていることを考えると、この結果は衝
撃的である。
 親に直接に宣伝することへの規制をかわすために、製造業者は、新たに親になった人が赤ん坊の健康に対して自然に抱きがちな心配事に焦点をあてて、巧妙な心理的戦略を用いる。たとえば今日では多くの調整乳が、乳糖アレルギー・消化不良あるいは「食欲過多」といった乳児の「医学的」問題に対する解決策として、偽装されて販売されている。だがそれらの問題の多くは、初めに牛乳を原料とする調整乳を不適切に与えたことから生じているかもしれないのだ。
 低所得女性を標的にすれば(広告のほか福祉計画も通じて)大きな利益がえられることがわかっているので、母乳授乳に関する社会経済的な分断もまた、調整乳製造業者に利用されている。「科学が提供できる最高のもの」を子供に与える機会があるといわれれば、低所得の母親の多くは調整乳に飛びついてしまう。無料試供品が提供されるときこの傾向は特にはなはだしいが、それは発展途上国では今でも広く行われている。
 しかし母乳には需要と供給の法則がはたらくので、母親がいったんそういう試供品を受け入れて赤ん坊を調整乳で育て始めると、母乳はすぐに出なくなってしまう。悲しいことであるが、試供品や無料クーポンがなくなったときには、母乳はもう出なくなっていて、子どもに調整乳を与え続けるのに大金を費やすしかなくなってしまう。
 業者が母乳授乳を「奨励」することもあるが、そういう場合でさえ彼らはメアリー・スメイル氏のいわゆる「達成困難な条件の種」をまいて、失敗に導こうとする。「数年前に業者らは、母乳授乳を奨励する驚くべきチラシを女性たちに配って、1 日にほんのわずかのカロリーだけを追加すればいい、などと言ったのです。その言葉に嘘はありませんが、写真になっていたのは、頭の上にマーク・アンド・スペンサーのヨーグルトと丸のままの魚、それに全粒小麦パン、それも近所の店で買えるものではなく、専門店で買わなければならないパンを、のせた人でした。」
 これが意味するところは明らかだ。健康な妊娠と母乳の良好な供給は中産階級の特権であり、それに属していない女性は赤ん坊のためには他のものに頼らなければならない、ということである。
 妊婦向け雑誌や、あるいはイギリスの母親たちに配られる、無料試供品つきの『ボーンティ』という分厚い冊子などをちょっと見てみると、全粒の穀物や豆、きれいにととのえられたシリアルの鉢、「こだわりの」パンのかたまりや手作りのくさび型チーズ、異国風のマンゴーやブドウやキウィ、立派なサラダになった新鮮な野菜などに隠された、そのような巧妙なメッセージが、まだまだ多くみられることがわかる。
●研究に出資する
 製造業者はまた、保健専門家にアプローチして、研究や「教育目的」のために無料試供品を提供するなどして、ブローカーとしての影響力を強めている。贈答品、外国への「教育目的」の旅行、研究への出資などは、医療専門家が調整乳の有益さについて「教育」されていく方法の一部にすぎない。
 イギリスで乳児用食品の責任ある販売を20 年以上も要求している、乳児用乳行動グループの政策局長、パッティ・ランダル氏は言う。「過去20 年の間に、保健・教育事業にこそ販売機会の鍵があることを知った乳児食会社は、医療専門職の世界でみずから巨大な役割を果たそうとするようになりました。これらの会社はたとえば、保健政策の基礎となる乳児食の調査に出資したり、助産婦や教師や教材や地域計画に助成金を出したりすることに、熱心になっています。」
 業者はまた、「批判的」なNGO、すなわち女性を支援し真実を伝えることを使命とする民間団体にも、熱心に出資しようとしている。だがそのような出資は、その種の団体の、母親たちに乳児への授乳に関する独立した情報を提供する能力を損なうという理由で、「母乳代替品の販売に関する国際条約」により禁止されている。しかしながらそのような行為は、以前よりも慎重にではあるが続けられており、保健専門家による母乳授与の啓蒙を弱め続けている。
●回復への闘い
 母乳授乳率の低下が乳児の健康に悪影響を及ぼしており、また乳児用調整乳の広告が母乳授乳をしないという女性の選択に直接に影響していることが明らかになった事態を受けて、1981 年の世界保健会議において「母乳代替品の販売に関する国際条約」が採択された。投票結果はほぼ全会一致で、参加118 ヶ国が賛成、3 か国が棄権、1 か国(アメリカ合衆国)が反対であった。(反対し続けていたアメリカは、1994 年に遂に署名したが、そのとき他の先進国はすべて署名していた。)
 この条約は、母乳授乳を保護し、母乳代替品の適切な販売を保証することにより、乳児の安全で最適な栄養補給を全世界的に推進しようとする、比類のない法的文書である。乳児用調整乳・追加調整乳・特殊調整乳・シリアル・ジュース・野菜ミックス・乳児用茶など、母乳を全面的、あるいは部分的に代替するすべての製品には本条約が適用されるし、哺乳瓶とその乳首も本条約の適用対象となる。それに加えて、いかなる乳児用食品も、母乳授乳を阻害するような方法で販売されてはならない、とも規定されている。本条約は特に、
■そのような製品の広告活動および奨励活動を一般大衆に対して行うことを禁じている。
■母親や保健従事者に試供品や景品を与えることを禁じている。
■情報資料に対して、母乳授乳を奨励し、人工乳授乳の危険を警告し、母乳代替品を理想化するような乳児の写真や文章を含まないことを、要求している。
■母乳代替品を奨励するのに保健制度を利用するのを禁じている。
■母乳代替品の無料、あるいは低価格での供給を禁じている。
■保健専門家が試供品を受け取ることを、研究目的に限り許している。
■製品情報は事実に基づき科学的であることを要求している。
■母乳代替品に有利な条件をつけて売ること、およびその販売員が母親と直接に接触することを禁じている。
■ラベルには、乳児用調整乳の正しい使用法と、誤用の際の危険について、十分な表示がなされることを要求している。
■ラベルには、母乳授乳をする気を失わせないことを、要求している。
 こういう文書は今日であれば作られないであろう。1995 年に世界貿易機構(WTO)が設立されてから「自由貿易」の風潮が支配的になり、企業の権力戦略はより洗練され、保健機関への攻撃的なロビー活動もふえているので、このような条約は、投票前に廃案にされてしまうであろう。
 しかし1981 年には、政府と企業とNGO はもっと平等な立場にあった。調整乳の広告をすること、無料試供品を提供すること、保健機関や母子のための「福袋」を通じて製品を推奨することなどを企業がすることを禁じ、またよりよいラベルを要求することによって、この条約は、放っておけば赤ん坊により劣悪な食品を提供するであろう企業を規制しているのである。
●不幸なことに
 条約に加入したからといって、その国ですべての勧告が採用されることが要求されるわけではない。イギリスを含む多くの国では、たとえば「母乳授乳はいいことだ」という基本原則など、条約の一部だけを採用し、企業による広告や母親との接触を制限する詳細な戦略に関しては無視している。だからイギリスでは「赤ちゃんの健康」のための乳児用調整乳の宣伝は、マスコミを通してはできないが、病院や医院を通してなら、母親に対してしてもいいことになっている。
 それだけでなく、調整乳製造業者の側は、条約はあまりに制限的で、目標とする市場の完全な開拓をさまたげるものである、などと主張している。世界の乳児食市場の40% を占有しているという企業「ネスレ」(旧称: ネッスル)の会長で、強力な企業ロビー家でもあるヘルムート・マウヒャー氏は、「企業の競争力を損なう倫理的な決定は実に非道徳的だ」などと実際に言ってのけたのである。
 間違えてはいけないのだが、市場は巨大なのだ。乳児用乳のイギリスでの市場規模は年間1 億5000 万ポンド(約330 億円)に相当し、アメリカでの市場規模は20 億ドルに達する。乳児用乳と乳児食の世界での市場規模となれば、170 億ドルという驚くべき水準になり、しかもそれは年率12% で成長している。調整乳製造業者からすると、母乳授乳をする女性が増えるほど利益は減るのだ。生後6 か月まで母乳だけで育つ子が1 人いれば、平均して450 ドルの乳児食が買われなくなると推定されている。これを世界的にみれば、何十億ドルもの損失ということになるだろう。
 業者が特に懸念しているのは、抵抗もせずに条約を受け入れてしまえば、医薬品・タバコ・食糧農業・石油など、他の分野での国際貿易に対して、危険な前例を作ることになるのではないか、という点である。
 乳児食の焦点が子どもの健康から外れて、その代わりに、自由貿易を求める象徴的な闘いになってしまった理由もそこにある。
 ほとんどの業者は公式には条約を支持しているが、裏ではこっそりと、それを再解釈したり回避したりするために巨額の資金を投じている。ネスレがみせたのは、信じられないような挑発と固執であった。
 たとえばインドでは、ネスレは条約を国内法に反映させるのに反対するロビー活動をした。法律の制定後に表示に関して刑事告発された同社は、その容疑を認めるどころか、インド政府に対して異議を申し立てた。
 このような攻撃的な行動や非倫理的な広告販売戦略を行っている同社に対しては、その製品のボイコットが1977 年からずっと続いている。
 条約の泣き所は、監視機関が設置されていないことである。監視機関の設置の考えは最初の草稿にはあったのであるが、改定されるうちに削除されてしまった。そのかわりに条約の監視は、「諸政府の単独行動および世界保健機構を通じた集団行動」に任されるということになった。
 しかし過去25 年の間に、企業の社会的責任は国連の議題一覧の中でもその順位を下げ、自由貿易・自己規律・協同などよりもはるかに下位にきてしまった。政府による監視がないせいで、たとえば100 ヶ国以上の200団体が会員になっている、国際乳児食行動ネットワーク(IBFAN)のような小さくて資金もない団体が、条約違反の監視をほとんど欠席裁判で行うしかないという状態である。このような監視団体は、条約違反を監視して保健機関に報告することはできるが、違反を止めさせることまではできない。
 IBFAN の2004 年の報告『規則の違反と拡張』は、2002 年1 月から2004 年4 月までの、16 の国際的な乳児食会社と、14 の哺乳瓶会社の行動を分析している。それによると、69 ヶ国で2000 件の条約違反がみられたという。
 販売戦略に合うように条約を読みかえることは、世界中でさかんに行われており、その動きを主導しているのはやはりネスレである。IBFAN によると、ネスレはその製品のなかでただひとつ、乳児用調整乳だけに条約が適用されると信じている。同社はまた、条約は発展途上国にのみ適用されると主張し、その条約の国際的普遍性を否定している。ネスレは、乳児食製造業者連合という業界団体でも主導的な立場にあり、他の企業は同社に追いるとして告発されたとき、彼らの戦略は単純かつ効果的だ。世界保健機構や世界健康会議のような機関で複雑かつ退屈な議論を行わせて、条約をどう再解釈するのが一番いいのかを決めてもらうことに持ち込む。そうやって、悪評を打ち消し、絶え間なく行ってきた違反から注意をそらせるのだ。
 パッティ・ランダル氏によると、こうした場合にもっとも重要なのは、肝心な点から注意をそらすのを許さないことであるという。「生後6 か月までの乳児が要求する唯一の食品である母乳ほど、地域的に生産可能で、持続可能かつ環境にやさしい食品はありません。それは包装や輸送を必要とせず、廃棄物を出さず、無料でもある、自然に再生産可能な資源でもあります。母乳授乳はまた、栄養失調の主要な原因である、家庭の貧困を減らすのを助けることもできます。」
 だからおそらく、こう問えば議論は単純になるはずだ。調整乳を標準として普及させようとしている業者は、実に頭のよい起業家なのか、それとも最悪の部類の人権侵害者なのか。
●十分に良くはない
 20 年以上を経てはっきりしたのは、中途半端な母乳授乳の奨励は、母親と赤ん坊にではなく、多国籍の調整乳製造業者に利益をもたらすということと、乳児食業界は、法律または消費者の圧力(できればその両方)に強制されない限り、授乳に関する国連の勧告や、「母乳代替品の販売に関する国際条約」に従う気はないということである。
 女性が母乳授乳に失敗しているわけではない。保健専門家・保健機関や政府が、母乳授乳をしたいと望んでいる女性を教育し、支援することに失敗しているのである。
 支援がなければ、多くの女性が、小さな困難にぶつかっただけで諦めてしまう。しかし、メアリー・レンフルー氏はこう言う。「母乳授乳を諦めることは、女性にとって簡単にできることではありません。母乳授乳を簡単にやめて、それを捨て去ることなどできないのです。女性の多くは続けるために懸命に、助けもなしに闘っています。そういう女性たちは社会と闘っているのですが、その社会は哺乳瓶に友好的なだけでなく、母乳授乳には大変に敵対的です。」
 この流れを変えるためには、世界中の政府が、未来世代の健康を保証する責任を真剣に引き受けることを、始めなくてはならない。そのためには、社会の深部からの変革が必要である。単純に「母乳が一番」と言って女性を困惑させてはならず、時間と情熱と資金を、保健専門家および一般大衆を再教育するために使わなくてはなるまい。
 妥協も止めるべきだ。たとえばイギリスやアメリカの公共保健政策では、病院で出産する女性の75% が母乳授乳をすることを目標にしているが、そのようなものはせいぜい、母乳の重要さを口先で認めることにしかならない。
 そういう女性の多くは数週間で母乳授乳を止めてしまうから、そんな政策で得をするのは、母乳授与が止まった瞬間に金もうけを始める調整乳業者だけである。
 すべての母親が母乳授乳をできるようにするため、以下のことを実行すべきである。
■追加乳を含む、すべての調整乳の広告を禁止すること。
■教育・研究目的を含む、すべての調整乳の無料試供を禁止すること。
■すべての調整乳の容器に、わかりやすく、なおかつ事実にもとづいた健康上の警告を要求すること。
■すべての乳児が生後6 か月までは母乳だけで育てられることを目標として、すべての地域社会に、とりわけ社会的に恵まれない地域に、母乳授乳の推進のために相当額の資金を供給すること。
■父親・義母・学童・医師・助産婦および一般公衆を対象とする宣伝・教育事業に出資すること。
■公共の場所で母乳授乳を希望する女性に必要な承認および奨励を与えること。
■雇用されているすべての女性が、失職の恐れなしに、少なくとも産後6 か月の有給休暇を取得できるように、法令を整備すること。
 このような戦略の有効性は他の場所ではすでに証明されている。1970 年には、スカンジナビア諸国の母乳授乳率は、イギリスと同じくらいに低かった。ところがスカンジナビア諸国はひとつまたひとつと、すべての人工調整乳の宣伝を禁止し、母親に収入の80% を保障した1 年の有給休暇を供与し、職場に復帰した母親には1 日1 時間の授乳休暇を認めた。今日のスカンジナビア諸国では、98% の女性が母乳授乳にとりくみ、94% が生後1か月以上母乳授乳を続け、81% が生後2 か月以上、69%が4 か月以上、そして42% が6 か月まで続けている。これらの比率は、それでもまだ最適なものでないとはいえ、世界で最高のものであり、母乳授乳を推進するための、多角的で互いに関連づけられた施策の結果である。
 母乳授乳の利益と調整乳の危険について知られているすべてのことから判断するに、イギリスや世界のその他の場所で母乳授乳率が破滅的なまでにおちこんでいるのは、到底受け入れられるようなことではない。
 目標ははっきりしている。100% の母親が、少なくとも赤ん坊の誕生後6 か月までは、母乳だけで子どもを育てるべきである。
■母乳対調整乳-勝負にならない
 母乳は、生きた細胞、ホルモン、活性酵素、抗体および少なくとも400 種類の特異な構成成分を含む、「生きている」食品である。それは授乳の始めと終わりで、あるいは赤ん坊の月齢と要求に応じても成分がダイナミックに変化する物質である。それは免疫活性も供給するので、赤ん坊は授乳をされるたびに病気への抵抗力をもつけることになる。
 このように奇跡的な物質と比べると、乳児用調整乳として販売されている人工乳は、ジャンクフード以上の何物とも言い難い。加工食品だけで人体の健康がたもたれると期待できないことは誰でも知っているはずであるが、調整乳は実に、人間がある期間、それだけを摂取することが推奨されている唯一の加工食品でもある。
(市民科学第14号 2006年9月)

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