ナノEHS(環境・健康・安全)研究の急進展

投稿者: | 2010年10月16日

小林剛(東京理科大学ナノ粒子健康科学研究センター 医学博士 客員教授)
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1. はじめに
-世界初のナノ作業の死亡事故-

昨年8月、中国において、適切な保護具なしに、ナノマテリアル含有のペイントのスプレー作業に数ヶ月従事していた7名の女性作業員が、永続的な肺傷害・呼吸困難・発疹(顔面・腕部など)を発症し、その後、2名が死亡したとの労働災害事故のニュースが、多くのメディアにより発信され、世界に衝撃を与えた。ロイター通信の原報(Tan Ee Lyn、ロイター通信、2009.8.19)には、成分は明記されていないが、諸般の状況から推察すると、その化学物質は二酸化チタンナノ粒子類のミストの可能性が高い。
しかし、筆者の知る限りでは、日本のメディアは、このような重大事件を、何故か報道していない。当方の指摘に対しても無回答である。社会の木鐸としての使命の放棄と見られても致し方あるまい。責任の所在が問われている。
ところで、この事故は、ナノ粒子類の強力な肺毒性が、無防備の対応により、不幸なことに、貴重な人命の犠牲で立証された実例であるが、逆にいえば、高性能(HEPA)フィルタークラスの空気浄化粒子呼吸装置の利用により、十分に防ぎ得た事例でもある。
この事件を契機として、ナノEHSリスク研究の現況を紹介する。
2. 世界におけるナノヘルスリスク研究の展望
  -英国産業医学研究所(IOM)の評価報告書-

最近、ナノテクノロジーのEHS(環境・健康・安全)研究が、特にヘルスリスク関係は、件数の急増と内容のレベルアップが著しく、飛躍的な急進展を呈している。この源流は、数年前に、世界各国において、一斉に開始された膨大な数(700件近くの)のナノマテリアルの毒性研究の成果が収穫期に達し、続々として発表されているためである。
この研究成果のラッシュの状況について、英国労働医学研究所(IOM: Institute of Occupational Medicine)は、「EMERGNANO:ナノマテリアルの環境・健康・安全についての、終了あるいは終了に近い研究のレビユー」(MARCH 2009)として、2004年以降における世界各国のナノEHS研究の総数673件から、研究目的に適格と認定した260件の研究について、研究目的への貢献度について精査し、評価結果を発表した。このように、個々の研究の評価のみではなく、世界全般を俯瞰した調査報告は、今まで類がなく、極めて貴重である、いわば、ナノリスク研究オリンピックの成績の公表である。その結果、国別の分布は、米国165(56%)、英国44(15%)、スイス20(7%)、フランス 13、デンマーク 11、カナダ 10、ドイツ 4、台湾 2、中国・ベルギー・チェコ 各1とされたが、日本はゼロという驚くべき結果であった 。
しかし、わが国にも、後述表1の通り、少数ではあるにせよ、重要研究の実績があり、この数字が直ちにわが国のナノEHS研究のレベルを正確に反映しているとは考えられない。この点の疑義について、研究リーダーのDr. R. Aitken (IOM戦略コンサルタント部長)あてに、7月2日、照会したが、回答は未着である。(彼は、この指摘に困惑しているかも知れない。)
この原因としては、わが国の政府内あるいは学術団体などに、この種の研究活動のコンタクトポイント(窓口)が国際的に明確化されていなかったことが推測される。さらには、研究情報の発信能力の不足すなわち欧米の著名な科学ジャーナルへの寄稿成功率の低さなどが考えられる。
いずれにしても、世界的に権威のある研究機関により、このようにナノリスクオリピックへの参加さえ門前払いされること自体、わが国のナノEHS研究戦略の欠落と研究能力への誤解を誘発しており、関係機関による早急な対策が必要である。
このIOMリポート において、最も注目される結論として、次のように述べている。
「研究結果は、三種類のナノマテリアルは十分な懸念を提起していることを確認した。カーボンナノチューブ類(CNTs)は、ヒトの健康に対して有害影響を示し、シルバーナノ粒子類や二酸化チタン(TiO2 )ナノ粒子類は、環境を損傷する証拠が存在している。これらの特異なケースにおいては、すべてのデータを考慮して、予防原則の発動に必要な今後の検討が求められている。」との結論を下しているのが注目される。
3.ナノマテリアルEHS重要研究

次の表1は、最近の多数の研究成果から、ナノマテリアルの毒性について、特に重要と考えられる研究を、筆者が厳選したものである。(表1)
【表1】ナノマテリアルの毒性―最近の重要研究より-
3-1多層カーボンナノチューブ
カーボンナノチューブ(CNT)は、代表的なナノマテリアルの一つで、炭素素材の円柱状を形成し、チューブが1層の単層カーボンナノチューブ(SWCNT)と同心円状に構成される多層カーボンナノチューブ(MWCNT)がある。 直径は0.4~50 ナノメートル (nm)(ナノは10億分の1)で、長さは数ミクロンで、電子顕微鏡により、初めて観察できる超微小物質である。
CNTは、軽量(アルミニュームの半分)ではあるが、優れた強度(スチールの約30倍)を有し、ユニークな電気的・機械的・温熱的特性を示す点から、 ナノテクノロジーの象徴的存在として、複合材料・燃料電池・エレクトロニクス・コンピューター・航空宇宙産業における驚異の新素材として大きく期待されてきた。
CNTの毒性に対して、世界で最初に報告したのは、長年の友人であるNASA ジョンソン宇宙センター・ワイルラボラトリーのトキシコロジスト Dr. Lamである(Toxicological Sciences, 2004)。 彼はマウスへのSWCNTの気管内注入により、主要な肺損傷として「肉芽腫」の誘発を発表した。この研究は、「CNTの毒性を、カーボンブラックや石英よりも強力であり、作業環境中のナノチューブダストの存在に対して、ヒトの暴露を最小にするための防止戦略を実施すべきである。」と強く警告している。これは、後述のわが国の厚生労働省が、暴露防止対策の通知(2008年2月)を出す4年も前のことである。この彼我の認識の落差には失望させられる。
また、航空宇宙用素材としてのCNTに期待をかけながらも、その安全性テストを実施した米国政府のNASAの中正な方針と、所属の毒性学のエキスパートが、科学に立脚したいわば「負のデータ」を、正々堂々と発表するという公明正大な相互関係を維持する風土は賞賛に値し、見事というほかはない。
ところで、最近のMWCNTのEHS研究では、表1に示した通り、催腫瘍性や発ガン性の報告が多く、これを否定したデータは見当たらない。しかも、テスト方法は、当初の腹腔内注射から、「吸入」という現実的なテスト手法に移行している点は重視すべきである。今後は、さらにデータポイントの集積と用量―反応関係データの分析により、ヒトへの外挿、最小有害性影響量(LOAEL: Lowest Observed Adverse Effect Level)や許容濃度の設定が望まれ、やがてリスクアセスメントが可能になリ、ナノ規制の基礎が確立されるであろう。
また、長繊維状のMWCNTは、アスベストとの形態(針状)の類似性によると推定される発ガン性が明確化されており、短いサイズのみをそろえたMWCNTsの開発が必要であろう。それでも発ガン性が認められた場合には、発ガン物質には閾値は認められないため、発想の転換を余儀なくされる可能性が高いであろう。
このような背景から、米国環境保護庁(US EPA)は、2010年2月、MWCNTを有害物質規制法(TSCA)の下における新規物質と認定し、その製造・輸入・加工業者に対して、着手前 90日までにEPAへの届出を要求することを提案している。
欧州議会(立法府)は、2009年4月、欧州委員会(行政府)に対して「ナノ物質の規制面についての報告書」を提出、「ナノ物質について、”no data, no market”(安全性の確認されていない化学物質は市場に出せない)」の原則を要求している。
これは、本論外であるが、MWCNTsの技術面での研究開発において、その特性や純度の均一性の確保が困難で、高コスト(高品質は1グラム数万円)を招き、商品化は停滞し、かつて、世界的にしのぎを削った開発競争も沈滞している、とのことである(読売新聞2009/8/23)。
3-2二酸化チタンナノ粒子
二酸化チタン(TiO2 )ナノ粒子 は、チタン原子と酸素原子から構成される白色の無機物質で、ルチル型結晶の粉末は、古くから、白色の塗料原料・色素材・化粧品などに用いられ、近年では、ホワイトチョコレートにも使われている。また、アナターゼ型の粉末では、光触媒反応(紫外線を吸収すると、汚れや細菌などを分解する反応)を利用したコーティング材料が開発され、画期的な効果(空気や水の浄化・セルフクリーニング効果・抗菌/殺菌作用)を示し、住宅関連分野(外装・内装)、電気・車両関連分野などで既に広く実用化され、日本発の画期的な革新技術として、その世界的発展が注目されている。
TiO2 は、ナノ素材の中では消費量が最大のため、規制当局の関心も高く、米国国立労働安全衛生研究所(NIOSH)では、二酸化チタン粒子に対する職業暴露限界(REL:Recommended Exposure Level)として、微粒子は 1.5 mg/m3、超微小粒子(100 nm以下のナノ)には0.1 mg/m3の設定を提案した。これはナノマテリアルについて提示された唯一の職業暴露限界である。ちなみに、わが国のTiO2 の2007年の生産量は・アナターゼ型は39,071トン、ルチル型は206,905トンである。
また、TiO2 の発ガン性については、国際ガン研究機関 (IARC)は、以前は、「ヒトに対する発ガン性の疑いがあるが、証拠は不十分」のグループ3に分類していたが、肺へのダスト吸入による有害影響が考慮され、2006年「ヒトに対しては発ガン性を示す可能性がかなり高い」のグループ2Bに強化された 。
発ガン性の証拠には、① in vitro(試験管内)テスト ② in vivo (生体内)テスト ③長期慢性動物実験 ④疫学研究 の四点セットが必要かつ十分な条件とされている。このIARCの発ガン物質の分類ランクの引き上げにも、これらの要件が加味されているであろう。
なお、カリフォルニア大学の研究では、TiO2 ナノ粒子のラットにおける飲料水投与により、DNA切断・染色体損傷・炎症を誘発し、ナノ食品の遺伝毒性(発ガン性)を示唆している(2009年11月)。 
食品中のTiO2 に対する規制として、欧州議会ではナノ食品を市販許可新規食品リストから除外している(2010年5月)。これにより、欧州ではホワイトチョコレートは食べられなくなるであろう。
一方、TiO2 ナノ粒子についての、東京理科大学ナノ粒子健康科学研究センターによる最近の研究では、妊娠中のマウスへの皮下投与により、生後6週齢のオス仔マウス精巣のライディヒ・セルトリ・精子細胞などにおいても検出され、これら組織へのTiO2 ナノ粒子の移行が認められた。さらに、組織の異常と、精子産生能力の20%以上の低下など機能変化も観察された。(図1)また、脳においてもナノ粒子が発見され(図2)、病理所見の異変と機能変化による挙動異常が発現した(2009年3月)。
【図1】酸化チタンナノ粒子を妊娠期のマウスに曝露すると、成長後の仔の脳や精巣に粒子が検出され、様々な影響が認められる
【図2】脳の細胞に取り込まれた粒子の拡大顕微鏡写真(複数の酸化チタンナノが凝集している)
東京理科大学の武田健教授は、「ナノマテリアルについて蓄積されつつある研究報告から、ナノマテリアルは潜在的に様々な疾患の発症ならびに増悪化の重要な原因と考えられる。ナノ粒子は、バクテリア・ウイルス・プリオンに続いて第4の病原体と表現したくなるほど様々な病態を引き起こす。ナノ粒子は、呼吸器や消化管から、また極めて僅かではあるが皮膚からも取り込まれ、血液を介して全身のあらゆる組織に運ばれる。病理学的な観察から、特に血管及び血管周囲の細胞に大きな影響を及ぼしている。ナノ粒子は、重量あたりの表面積が大きく粒子表面に分子が露出している割合が大きいため、活性酸素による酸化ストレスが生じ易く、さらに、蓄積され排出されにくい特性を持っている。」
と述べ、ナノ粒子の毒性について強く警告している。この研究成果は国内外において高く評価され、ベストアクセス・リポート・アワードや最優秀論文賞を受けている。
最後に、ナノマテリアル全般に共通して言えることであるが、ナノサイズ粒子状物質 は、ファンデルワールス力(van der Waals force)・静電気・表面張力などにより、凝集(aggregation)・凝結(agglomeration)状態になり易い特性があるが、遊離状態 (free)や単離状態(isolated)の場合に、最も高い生物学的活性(吸入毒性)を誘発するといわれている。今後は、二酸化チタン応用複合材(白色ペイント・光触媒・化粧品など)の製造において、TiO2 の ナノ粒子が絶対に遊離・単離し、浮遊状態 (suspended)にならない構造素材の開発と、その製造や使用に際しての万全の個人防護対策が不可欠であろう。さらに、すべてのライフサイクル、特に劣化や廃棄過程における環境中でのビヘイビアーのモニタリングが重要で、これらのプロセスにおける安全テストの実施とデータの公表が望ましい。これらの対策の充実により、さらに、ナノ製品の発展が期待できるであろう。
では、このような大量のリスクアセスメントデータのラシュに対して、わが国として、どのように対処すべきかを、各界における過去のあり方を省みて提言したい。
4. ナノリスク問題に対する各界の対応

4-1 ナノテクノロジー産業界
ナノテクノロジーのEHS問題に対するナノマテリアルのメーカーの対応は、消極的である。例えば、日本化学工業協会では「新しい製品のリスクはできる限り軽減したい。経営環境が厳しい中、安全対策を合理的に進めたい。」と解釈に苦しむ表現を述べている。また、あるメーカー関係者は「安全対策で過度な予防管理に締め付けられると、設備投資の面でも企業は苦しい。中国や韓国に抜かれてしまう。」(毎日新聞2009/4/7)。と心配している。これでは、企業として、安全な製品に取り組む姿勢は感じられず、積極的に取り組む姿勢は感じられず、「リスク問題は風評被害を引き起こす。」など、回避的な態度である。我々毒性専門家が、この問題の重要性を力説し、協力を申し出ているが、全く反応はない。しかも、安全性データの公表はなく、情報公開に応じないため、多数のナノ製品やナノ含有商品が市販されているにもかかわらず、一般市民にはナノ材料が何処で作っているかさえ不明である。
消費者の安全を中心とした技術評価(Technology Assessment)は、世界的な新たな潮流である。先般、開催された「科学技術プロセスのオープン化」などにおいても、情報の十分な開示は、消費者不安を払拭するベストの方法であることが示唆されている。それにもかかわらず、企業に限らず、組織体は、ややもすれば、一時逃れの情報隠匿に逃避したがる体質を持っている。 このような実例は枚挙に遑がない。しかし、これは危機管理の典型的な失敗のパターンで、ナノテクリスクに対する今までの産業界の対応は、「自縄自縛」の感がある。  
4-2 ナノテクノロジー学界
ナノテクノロジーの研究開発を担う大學などの研究者らの、ナノ安全に対する意識は高く、筆者はナノ学会会報や化学工学会会誌などから、ナノリスク関連の寄稿を依頼されている。しかし、企業在籍の研究者は、企業方針に同調せざるを得ない気の毒な状況にある。
4-3 ナノリスクの研究体制
わが国における最大のナノリスク研究プロジェクトは、残念ながら、産業振興官庁の主導である。研究の公正中立を厳守するため、独立的な研究機関、学会、大學などにおける実施が望ましいことは言うまでもない。さらには、国として、学術会議が統括するようなシステムにより、確固たる科学を考究すべきである。
その上、このような問題は、国際的な合意が不可欠であり、世界保健機関(WHO)による国際化学物質安全性計画(IPCS)の環境保健クライテリア(EHC)において、世界のトップクラスの科学者による検討が最も妥当である。IPCS-EHCは、過去において、ディーゼル排気の発ガン性問題の決着に寄与した優れた実績があり、各国バラバラで、テーマに重複が多く、研究コストの高騰などの諸問題の対策として効果的である。
4-4 ナノテクノロジー行政 
-ナノ物質規制の動向-

 
米国、EU、英国、オーストラリアなどの諸国および地域は、国家方針として ナノテクノロジー戦略を明確に声明している。しかし、日本では、このような一元的な国家政策は存在せず、環境省、厚生労働省、経済産業省が個別に、技術的資料を出しているに過ぎない。
近年までは、ナノマテリアルを規制対象の「新規物質」として、認めたがらない傾向は、世界共通であったが、最近、欧米、特にEUにおいては、ナノ規制を積極的に検討する方向に移行しつつある。
英国王立協会は、 ナノテクノロジーについて、既に、2004年7月、英国政府に次のような勧告を行い、世界に大きな影響を及ぼした。①既存の規制の妥当性の検討と今後の対処法の策定 ②ナノ粒子およびナノチューブ状化学物質をREACH(EUにおける化学物質の登録・評価・許可・制限に関する規則)の下での「新規物質」として扱う。しかし、英国政府の実施したナノ企業などに対する毒性情報の提供を含む自主管理制度(VRS: Voluntary Reporting Scheme)は、皮肉なことに、僅か十数件の報告しか得られず、失敗に終わっている。
EUでは、ナノマテリアルをREACHの理念 “no data, no market”(安全データのない商品は市販させない)で規制するため、数量の規制閾値を1トンか1kgに引き下げるよう作業中である。
カナダでは、年間1kg以上のナノマテリアルの製造・輸入業者に対して、彼らの所有するすべての情報(物理化学的特性・毒性データ・製造/使用法など)の提出を要求するという世界初の強制的な安全報告制度を導入した。
米国では、ナノメーカーによる自主管理制度(Stewardship Program)が、企業の自称企業秘密のため、大失敗(自主報告は1,000種以上のナノ材料の 10%以下、毒性データは数%)に終わったため、MWCNTに対して有害物質規制法(TSCA)における新規物質としての規制を提案している。
わが国においては、国立医薬品食品衛生研究所のCNTによる中皮腫誘発の画期的な研究結果に触発されて、2008年2月、厚生労働省は、急遽、都道府県及びナノテク関連企業に対して、ナノマテリアルへの暴露防止のための予防的対応を要請する通達を出した。これはCNTの有害性を認めた点では評価できるが、内容としては、旧来の粉じん障害防止規則と殆ど同レベルで、ナノマテリアルの濃度・種類・組成・形状・純度などへの言及はなく、ナノに特化した規制的措置は全く含まれていない。
また、日本のナノテク行政では、「化審法(化学物質の審査及び製造等の規制に関する法律)見直し報告書」(2008年12月〕において、ナノマテリアルは新規物質とは認めず、今後の検討課題として、改正は提案されていない。物質のナノ化に伴う特性の極度の変化による生体影響への対応は全く取られていない。このような状態により、欧米の先進的な規制動向との著しい格差として浮上している。
かつてのアスベストに対する行政当局の「不作為」が、 ナノテクノロジー対策において再来せぬよう、先手必勝の政策が必要ではあるまいか。
4-5メディア
前述の、中国におけるナノ死亡事故に見られる通り、メディアはナノリスクについては、報道していない。このような現状では、消費者は安全性情報を入手できない。メディアは、積極的に、ナノテクノロジーのべネフィットとリスクについて、公正な立場で、市民を「啓発」する使命があり、消費者の政策決定への参加を支援する立場ではないか。
4-6 一般市民と消費者
一般市民は、ナノリスクについての情報に対して、現実的には、アクセスしにくい状態に置かれている。化粧品や食品などのナノ商品には、ナノ成分についての表示規制がないため、消費者は知らないうちに、それらを買わされている。消費者は、十分な情報提供による選択する(informed choice)権利が行使できないでいる。一般市民は、国の ナノテクノロジー政策の決定に参加し、消費者は、ナノメーカーに対して、テストにより安全の保証された製品を要求すべきである。それは民主主義社会における市民の当然の権利でもある。
5.今後の対策
わが国のナノ行政当局は、その根幹を成す国家戦略を明示し、現在の縦割り行政を、一元的な体制に再編すべきである。また、必要な場合に、適正な規制が行えるよう、現在、急増しているEHSデータを十分に分析評価する体制を確立し、先行している海外諸国のナノ規制の動向に留意し、国民の視線に基いた積極的かつ適正な行政が望まれる。
さらに、日本政府は米国と同調して、REACHの理念(no data, no market)や、予防原則については、反対の立場を堅持し、関連省庁のホームページからはスッポリと脱落させている。このような「知らしむべからず」の政府の対応に対しては、国民参加による再検討の時期が来ていると考えられる。
ナノ企業は、従来のナノリスク問題に対する忌避的な態度を自省し、製品の安全第一と情報公開に徹し、ナノリスク科学者に協力を依頼し、持続可能なグリーン ナノテクノロジーを目指す哲学を構築することを要望したい。米国、英国、オーストラリアなどにおけるナノリスクの自主管理制度の失敗は、企業自身と政府にとっての苦いが貴重な教訓であり、一面では、企業の立場による見識の有限性を実証しているが、「企業の社会的責任」の原点を想起願いたい。
このような海外諸国での多くの企業の自主管理制度の失敗により、既にその実効性は明確に否定されているが、日本においては、昨年3月、厚生労働省のナノ材料安全対策検討会は 「メーカーは自社製品のナノ材料の健康影響の情報を積極的に収集し公表すべきだ。」と、自主管理に任せる対策を採用した。さらに、「現時点では、法規制に踏み切る科学的データは得られていない。」 として、当面、新たな法規制を取らない、という結論に至っている。
また、経済産業省でも、「製造企業が自主的に安全管理に取り組むとの方針」をまとめ、企業の保有する製品や安全性試験のデータをホームページを通じて公開し、国は審議会などで自主管理の妥当性を検証する、としている。これに対して、産業界からは「情報の更新にかなりの労力がかかる。」と、早くも及び腰の意見が出ている。この際には企業秘密や特許情報には配慮されるため、実際には何処まで公開されるかは不透明である(毎日新聞2009/4/7)。日本の企業が、世界で始めての自主管理の成功者になることを切望する次第である。
これらの内外の情勢を勘案すると、ナノリスク規制問題は、究極的には、欧州議会が欧州委員会に対して要求しているように、REACHの基本理念すなわち ①”no data, no market”(安全性が確認されていない化学物質を市場からなくす) ②立証責任の転換(企業は市販以前に製品の安全性を保証する)③予防原則(有害性が科学的に十分に立証されなくても、合理的な懸念があれば、事前に予防措置を取る)へと、自主管理から規制への方向を余儀なくされるであろう。
6.おわりに
ナノEHS研究データの加速的な蓄積に対応して、わが国が、過去において大きく引き離されたこの領域において、早急にデータベースを構築し、それらの適正な評価に努力し、安全な ナノテクノロジーの持続可能な発展を図る転機にすべきであることを強調したい。
ナノEHS研究投資額は、ナノ製品の開発研究費と比較して、格段に低額であることは周知の事実である。しかも、内容的に研究の自由のフリーハンドは制限されることが多い。以前のように、研究助成の条件として、「データの収集は良いが、評価は許さない」などの、研究範囲の限定や、専門家の参加意欲を削ぐような交換条件への逆行だけは避けて欲しいものである。
ナノ企業は、事あるごとに「EHS研究は重要である」と述べているが、研究投資額で推定する限り、前述の通り、「なるべく避けたい」(日本化学工業会)のが本音のようで、その熱意は極めて疑わしい。NATO (no action, talk only)といわれる所以である。
国民の健康を守るため、リスク問題解決のために、ナノ関連の各界の相互協力体制の確立を提言する次第である。 この成否こそが、わが国のナノテクノロジーの将来における実りある発展の成否を左右するであろう。
■主要参考文献
1) 小林 剛:「ナノ物質のリスクアセスメント-健康影響研究の集大成-」 NTS社 (2006年7月)
2) 小林 剛:「ナノ毒性学-ナノ製品の安全性評価-」 NTS社(2007年4月)
3) 小林 剛:「ナノ材料の毒性・健康・環境問題」 NTS社(2007年12月)
4) 小林 剛:「ナノ物質のリスク管理」 技術情報協会 (2009年6月)

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