科学と芸術の微妙な関係?-漫画『美味しんぼ』にまつわるエトセトラ

投稿者: | 2010年12月9日

杉野実
楽屋話的なあれこれ

 『美味しんぼ』...やっぱり書くことになっちゃったのね、というのがいまの正直な気もちである。一部では「国民的漫画」とまでいわれる一方、「2ちゃんねる」などで執拗な攻撃をうけてもいる、雁谷哲作・花咲アキラ画『美味しんぼ』(小学館ビッグコミックス)について、私はたしか以前にも書評を書いたはずであったが、それについて語るためには、そもそもなぜ私が『美味しんぼ』の書評などを書いたのか、というところから話を始めるのがいいであろう。すべての始まりは、上田代表がときどきやっている、会員に書籍を選んで書評してもらうという、例の企画である。といっても上田さんが『美味しんぼ』を選んだというわけではないので、早合点なさらぬように。選ばれた本のなかで私が始めに注目したのは、林信太郎『世界一おいしい火山の本』(小峰書店)であった。この本もおもしろい!...だったらすなおに私がその書評を書いていればそこで話は終わったのでは?ところがね、最初にこの本の存在を上田さんに知らせた張本人が、だれあろうこの私だったのですよ。それじゃ私が書評を書いちゃったら、おもしろくもなんともないじゃん、ってことで、かわりに提案したのが、『美味』しんぼ101巻「食の安全」の書評であった。
 話はまだ続く。私は「ネットサーフィン」をしていて、「『ヤマザキパンはなぜカビないか』にみる、一般人に対するだまし行為」というサイトをみつけ、それを上田さんに知らせたのである。この内容について論じだすとまた大変になるが、要するに、「ヤマザキパンがかびにくいのは、臭素酸カリウムという添加物のせいだ」という説は真っ赤なうそであって、真相は同社の工場が(パンは自分で作ってます、などという「ロハス」な家庭の台所よりも!)清潔であるということにすぎない、という話である。上田さんはこれをおもしろがって、このネタで一本書いてくれといったのだが、それは私には適任じゃないでしょう、といってかわりに提案したのが、以前に書評を書いた『美味しんぼ』ともからめて、「食の安全」について「市民科学談話」で論じるという企画であった。私の人望のなさのせいか、出席者は非常に少なくなってしまったが、ありがたいことに上田さんは感激してくれて、やっぱり『美味しんぼ』について一本書いてほしい、とまたもやいってきた。そう、やっぱりそうくるのね、どうしても書かなきゃいけないのね、しゃべったら書かなくていいと思ったんだけど、それならがんばって書いてみようじゃないの、ということで、このようなものをあらためて書くことになった、というわけです。
そもそも『美味しんぼ』ってなんだっけ?
 
東西新聞社につとめる新聞記者・山岡士郎は、のちに妻となる同僚の栗田ゆう子とともに、「人類の文化遺産」としての「究極のメニュー」作りにとりくむが、ライバルの帝都新聞社に、なぜか士郎の実父にして、大美術家で美食家でもある海原雄山が協力、「至高のメニュー」をくりだして、東西新聞社側と対決をくりかえすことになった。雄山と士郎は、実の親子とはいいながら、たがいに誤解をふくむ確執にとらわれてきたが、対決を通じて次第に力量だけでなく人間性をもみとめあうようになり、最近の巻ではどうやら「和解」にいたったようである。...というのがメインストーリーであるが、これだけでは「対決」のメニューをいくら豊富にしたところで、100巻以上も続くわけがないであろう。実はこの主筋に脇筋がいくつもからまって、というか、もっとはっきりいうと、脇筋の方が主筋を圧倒する格好で独特の作品世界が形成されているのである。
脇筋にも大小さまざまなものがあるが、作品全体の画期となった大きなものとなると、さすがにかなりかぎられてくる。バブル期に「青春時代」をすごした私にとって、当時の「トレンディドラマ」とも印象がかさなって感慨深いのは、士郎とゆう子も参加した、男女5人(あとで参加したものをふくめると6人)による「恋愛バトル」である。一時はかなり熾烈なやりとりもあったものだが、いまではみな「落ち着くところに落ち着いて」和気藹々とやっているのは、なんとも心あたたまり、かつうらやましい話である。金上鋭という、なんかできすぎた名の悪人に登場も特筆されようか。東西新聞社の乗っ取りをたくらむと同時に、海原雄山にも個人的なうらみをもつこの「黒いマスコミ王」は、士郎のまわりの人間すべてを破滅させようとして、ときにあからさまな詐欺をもふくむ、いろいろな攻撃をしかけてくる。最後には「アメリカのメディア乗っ取り王」コドラムと組んで勝負をいどんでくるが、実はそのコドラムをもだましていたことが発覚して共闘は失敗、金上は失脚する。作者の意欲とは裏腹に、金上の小物ぶりがきわだつ展開だ。こんなもろもろの事件をへて、まず士郎の方は、子供ができるのに前後して、飛沢と難波という意欲あふれる後輩をえて、人間的にぐっと成長したようだ。おもしろいのは雄山もまた成長していることで、初期には日本料理を偏愛し西洋料理を侮辱する奇人であったのが、次第に「ゆとりある生活」を主張して「政財界の大物」をも批判する一流知識人(?)に脱皮、最近では士郎とならんで、良寛を連想させる僧侶から、「あなたたちは究極と至高をもとめる求道者です」とまで評価されるにいたっている。
『美味しんぼ』って結局どんな作品なのか、よくわからなくなっちゃった?...やっぱりそうですか、すみませんね。でもどうせだから、もっと混乱させてあげましょう。士郎ってだれかににてるんですよ。あちこちで他人のもめごとに首をつっこんでは解決し、男女の縁むすびをして歩く...そう、『男はつらいよ』の寅さんや、『はぐれ刑事純情派』の安浦刑事にもまけない人情家でもあるのですよね。その手のエピソードをひろっていくとそれこそきりがないから、友人が最近感動したという話をひとつだけ紹介することにしよう。士郎のところにきた保険外交員の女は、実はゆう子の同級生だったのだが、その恋人である男は「女をだます文学青年」、つまり定職につかぬまま新人賞への応募をくりかえす「作家の卵」であった。文学をあきらめ、友人の紹介する仕事がある札幌に行くという男は、自分は寒さに弱いからそれが心配だという。士郎とゆう子はそれに対して、寒さなど気のもちようでどうにでもなるとばかりに、「からだのあたたまる料理」をいくつも紹介するが、最後にふたりがおいていった「とびきりの大御馳走」は、男の入選作が掲載された文学雑誌だった。なんとかれは、原稿に自分の名を書くのをわすれていたのであった。...Oヘンリーですかね、こういうのに弱いんだあたしゃ。
漫画と科学と私たち
 
実は『美味しんぼ』には、ここでどうしてもふれないわけにはいかない、もうひとつの重要な特徴もある。食品に直接に関連する自然科学上の情報はいうにおよばず、食品に関係あるものもないものもあわせた人文・社会科学上の情報をもふくむ、種々雑多な「知識」をもりこんだ、「情報」漫画としての側面がそれである。そしてこの側面は、さきにふれた「多彩すぎるストーリー」とともに、この作品がはげしい毀誉褒貶にさらされる理由になっている。思いつくままにあげてみると、食品と関連が深い添加物・農薬の問題は無論のこと、関連がより間接的な環境問題もまたしばしばとりあげられている。捕鯨問題をあつかった回が議論をよんだ(?)ことはマニアのあいだではよく知られているし、植民地支配や戦争責任をめぐる作者の見解はたびたび「2ちゃんねる」で攻撃の対象になる。意義はあるが作品世界からあまりにはなれてしまったといわれているのは、中学生の「いじめ」をめぐるエピソードである。私が本稿を書くきっかけになった「食の安全」に関しては、衛生法上の「添加物」と「食品」を混同したうえでおこなわれる「危険な添加物」のパフォーマンスを無批判に紹介していることと、「もろみにいい音楽を聞かせるといい醤油ができる」という生産者の言をそのまま書いていることを指摘したい。
ここでまた私の友人に登場してもらおう。くわしいことはいう必要もなかろうが、実はこの友人は鬱病に罹患して治療したことがあるのであった。鬱病といえば『美味しんぼ』でも、士郎の友人である料理人の岡星が、鬱状態から自殺願望を口にするという話があった。士郎は岡星に「おれに命をあずけると思って、1年だけ生きていてくれ。」といい、新橋『京味』の西健一郎さん(実在の人物)の作る、四季の食材をもちいた料理を食べさせようとする。変にちやほやされたりして、料理人としてはたらく意味を見失っていた岡星が、西さんの最高の料理を食べて新鮮な感覚をとりもどす...というのはフィクションとしての「お約束」であろうが、はたしてこれがまた批判のまとになった。つまり、医者でもない士郎に鬱病をなおせるはずがない、というのだ。(ただし作中の岡星は、ちゃんと通院して薬も服用していた。)この件について友人に意見をきいたところ、意外なことに作者の方に好意的であった。鬱病患者への対処で自殺をふせぐにはとにかく「時間をかせぐ」必要があるし、また鬱病にかかる人は大抵まじめに約束を守ろうとするから、士郎のとった戦略はきわめて理にかなっている、というのである。なるほどここでは、作者対「2ちゃんねらー」は作者の勝ちといったところか。
さきほど「食の安全」という話について批判的に言及したが、このエピソードからは学んだこともある。「自然にかなう」やりかたで農水産物や加工食品を生産する人々(ここでも作中に登場するのは実在の人物)は口をそろえて、「お金ではなく人間関係で贅沢をしたい」という。そこで思い出したのが、いまでは農業実践でも有名になった俳優・永島敏行さんの講演である。一緒に農作業をする、あるいは市場で生産者同士ないし生産者と消費者が出会う、などといったことがゆたかな人間関係をきずいていく、と永島さんも強調するのだ。大きな流れとしての自由貿易にさからえないとすれば、農業の、そして地域コミュニティの活路は、この「ゆたかな人間関係」の価値をみなおすことにこそあるのかもしれない。このようにいろいろ考えていくと、『美味しんぼ』にはたしかにさまざまな批判の余地もあるが、「2ちゃんねらー」連中のように批判だけしていればいいというものでもないことがわかる。結論は平凡だ。簡単な結論を簡単に出せないと考えることこそ科学的である。そしてそれは無論、あらゆる芸術作品の鑑賞についてもあてはまる。さきに「人間関係のゆたかさ」ということについてのべたが、「情報のゆたかさ」も同様に大切かもしれない。芸術は各自が自分の「頭」と「心」で鑑賞しましょう!

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