闘うべき相手は誰? 闘う場所はどこ? -ビジネス・政治・大学をめぐる雑感

投稿者: | 1999年11月10日

森元之

ちなみに今回あえて「闘う」という言葉を使いましたが、これは殺すとか傷つける、優劣や勝敗を決するという意味での闘うではなく、議論や共同作業、共鳴しながらの創作作業などしかけていくという意味を「闘う」と表現してみました。(森)

いろんな人がいろんなことを言っている。しかしその発言を通して闘うべき相手がだれなのか、実は今の世の中では、発言している当人も明確にわかっていないのではないか、と感じられることが多々ある。
たとえば日の丸・君が代に関する議論や、盗聴法に関する議論でわたしたち市民が闘わなければならない相手は、いったい誰だろう。私は国会議員や官僚ではない、と思う。もちろん形式的にはそうかもしれない。しかしそれは狭い範囲での当面の敵であるかもしれないが、本当に闘うべき相手は違うところにいる、と思う。そう感じる理由を以下に説明する。

東芝のクレームに関しての一市民が作ったホームページに700万件以上のアクセスがあったという。しかし日の丸・君が代や盗聴法の問題でそんなに署名があつまったという話は知らない。つまり、今の日本では日の丸・君が代や盗聴法よりも東芝のクレーム対応の方が身近で関心のあるテーマであり、リアリティがあるということなのだ。私はこのふたつの現象を分野が違う別々で無関係な現象としてとらえることができない。同じ時代に生きる人間として、この二つの現象を同じ枠の中でとらえたいと思う。

インターネットの世界は実は新しい投票システムなのだという考えがある。それは既存の投票システムとは異なる。さまざまな商品を購入することそのものが、その商品やそれを生み出した企業にたいして「YES」という投票をしたことになる。またホームページにアクセスする行為そのものが、話題への関心を示す投票行動になる。そのように考えると、実はこれまでは別々の次元でとらえられていた話題がインターネットのアクセス件数という一つの指標で世の中の人々の気持ちをうかがい知ることができるようになる。(もちろんそれがすべていいことだとは思わないが…)

このような視点からみると、日の丸・君が代や盗聴法よりも東芝のクレーム対応の方がそのインターネット投票でダントツに勝ったのだと判断できるだろう。また、テレビでの街頭インタビューを見ていると、普通の市民が何の疑問もなく日の丸・君が代を支持する言葉を語っている。以上の事から感じたのは、日の丸・君が代の問題で議論すべき相手は、東芝のクレームに関してのホームページにはアクセスした人たち(私はこれを「eやじうま」となづけてみた)の中で、日の丸・君が代の問題には関心を払わない人たち、そのような人たちとこそ闘わなければならないのではないか、と感じてしまう。

以上の話を違った方向から見てみよう。私がいる出版の世界を例にとると、たとえば宇都宮とか高崎とかあるいは水戸や静岡にある比較的大きな書店の競争相手はどこか。それは東京駅の八重洲ブックセンターや神田の三省堂だ。なぜなら東京駅は新幹線が乗り入れているため、2時間程度の通勤エリアならば、地元の書店で探したり買うよりも東京駅の近くの本屋で買ってしまう。あるいは神田の三省堂は宅急便での本の配送をしてるから、電話で注文すれば事足りる。つまりこれは鉄道やトラック輸送の発達によって商圏が大きくなり闘うべき相手は目の前の相手だけではなくなった、という現象なのだ。その鉄道網をさらに世界規模でなおかつあらゆる既存の社会的階層や制約を壊すような形で展開してしまったのがインターネットということになるだろう。
人々の意識の変化は、たとえば消費行動の変遷に現われている。今は不景気のせいもあってものが売れなくなっている。同時に可処分所得の中での使用配分がかわってきている。とくに消費の中心層となる若者の間では携帯電話などに使うお金が増えている。つまり「携帯電話VS携帯電話以外の消費」という構造になっている。

これをまたまた出版の世界の例で言うと、このような時代にAという本が売れるかBという本が売れるかという議論はナンセンスだ。まず携帯電話とそれ以外の消費物という構造があり、つぎに携帯電話以外の可処分所得の中で、映画を見るか、服を買うか、おいしいものを食べに行くか、旅行に行くか、スポーツジムに通うかなどの多様な選択肢がある。その中に本を買うという行為もはいっている。つまりAという本が競合している相手はBという本ではなく、本以外の全ての消費物なのである。ここのところが見えていないと無意味な議論をすることになってしまうだろう。

つまり時代は異業種・異分野・異階層格闘技タッグマッチになっているのである。もっと平たく言えばこれまでは同じ製品をつくる同業他社だけが競争相手だった。それが違う製品・サービスを提供する業界と競争しなければならない。

以上のような背景を説明すれば、なぜ私が「日の丸・君が代や盗聴法が東芝のクレーム対応の問題に負けた」というとらえ方をするのか理解していただけるだろう。日の丸君が代や盗聴法の問題で、右翼だとか左翼だとか、あるいは市民対政治家・官僚連合だとかというような範囲での議論は、せいぜい地方都市の旧中心地にある老舗書店と駅前あるいは郊外にできた大型新興書店との勢力争いにすぎず、当事者同士は真剣にたたかっているつもりでも、その間に消費者はそのどちらにも見向きもせず新幹線で東京駅(今の話の例では東芝のクレーム事件)にでて本を買ってきてしまう、という情況に似ているような気がするのである。

大学改革の議論も同じだ。今後の大学が置かれている立場は、たとえば東大とハーバード大学のどちらがすぐれているかというようなレベルでの議論ではない、と私は思う。お金の集め方と使い方、スタッフの人材確保、研究テーマ、あるいは顧客としての学生をどう集めるかという問題など、その闘うべき相手は大学以外の国家や企業、NGOなどになっているのだ。分野によっては大学の研究者よりも一人の経営者、一人のオタク、一人の主婦の方がはるかに優秀な場合もあるだろう。そういう組織の仕組も規模も理念も違ういろいろな異種の団体と競合していく時代なのだ。かりに教育の分野に限ったとしても、今後の大学が闘うべき相手は実は立派な経営をしている幼稚園であるかもしれないし、魅力的なカリキュラムをそろえている専門学校であったり、個性的なホームスクーリングであったり、人を集める魅力を持った商店街であったりするだろう。そしておそらくはこの土曜講座や猪野先生の湘南科学史懇話会などは、市民と研究者が一つの課題を議論していく場としては、既存のアカデミズムよりもおもしろい場を提供しているはずだ。

だから私としては、今後行なわれる大学改革に向けた議論が、「異種格闘技」の時代になったという共通認識の上で、変化させるべきものと、変えてはならぬものを見極める議論になればいいと願っている。

 

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