塩麹から発酵の世界をのぞいてみると
上田昌文(NPO法人市民科学研究室)
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1.塩麹の魅力
塩麹がブームになっている。
試した人は、その手軽さに比して美味しさが思いのほかアップすることに驚いて、いろいろな食材や料理に使ってみたくなるだろう。塩麹そのものは麹に塩と水を加えて発酵させただけのもの(乾燥米麹と塩と60度ほどの湯を4:1:5くらいの重量比で混ぜて1日1回かき混ぜて1週間ほど常温で寝かせる)。見た目は甘酒に似ていて、味はほんのりと甘辛い。肉や魚や野菜といったほぼどんな食材にも使えて常温で保存ができるので、「大豆を使わない味噌」といった感じだ。麹菌(コウジカビ)の働きで食材に含まれるデンプンやタンパク質が分解され甘味と旨みが引き出されるので美味しくなるし、肉を漬けると軟らかくなり食感もアップする。焼いたり炒めたりすると、綺麗な焼き色に仕上がり、照りや艶も加わって食欲をそそる。まさに言うことなしの万能調味料だ。
2.発酵は微生物の技
味噌やチーズ、ヨーグルト、漬け物、甘酒、酒、ワイン……。発酵食品は特有の風味があって美味しいだけではない。保存も効く上に(うまく保存させれば長期熟成でさらに旨みが増す)、元の素材にはない栄養が加えられ、含まれる微生物の働きでヒトの腸内環境を整えるなど、生ける健康食品そのものだ。
発酵を担うのは、カビ(コウジカビや青カビなど)や酵母(ビール酵母やパン酵母など)や細菌(乳酸菌や納豆菌)などの微生物である。それらは私たちの生活環境中でごく普通に生息しているので、好みの環境さえ整えてやれば、勝手に集まってきて勝手に増える。生ものを放置しておくと腐ってしまうが、その腐り方を一ひねりすればたいてい発酵に持ち込むことができる。
市販の乾燥した麹やイースト(酵母)は’眠ったまま’の膨大な数の単一種の微生物の塊だが、水分を与えると一挙に繁殖を開始する。そこに適度な’餌’さえあれば(例えばコウジカビの場合は米や麦や豆、酵母の場合は糖分)いくらでも増える。繁殖の間は、自分と連携プレイ(共生)ができる仲間の微生物しか寄せ付けないから、容易なことでは腐敗に転じない。塩麹では、コウジカビの酵素による原料の分解だけでなく、乳酸菌や酵母などの微生物との共生でビタミン(B1、B2、B6、パントテン酸、ビオチン)なども生み出され、これらには脳の代謝を盛んにする働きや疲労回復効果もあるという。
3.発酵技術という偉大な伝統
発酵技術は古代から引き継がれた人類全体の最高度に重要な伝統である。とりわけ多湿で適度な寒暖差がある温帯気候の日本は、世界でも類をみないほど良好な環境に恵まれていて、発酵は日本の食文化の基軸をなしている。その中で麹は日本の発酵食の中心を担っている。日本の発酵工業は国内総生産の約3.5%を占め、そのうち約3分の1が日本酒、焼酎、醤油、味噌などの麹関連であり、なんとこの規模は日本の農業全体の売上にも匹敵する。発酵工業の隆盛は、明治時代の高峰譲吉らをはじめとする近代化学の業績と、日本古来の伝統技術の結合がもたらしたものだが、しかしじつはそれと同期して、地域で受け継がれ生活に根付いてきた「手作り発酵食」の知恵と経験が、各家庭から消えようとしている。いまや大半の日本人はビニールのパック詰めの味噌をスーパーで買い、酒の自作は法律で禁じられている。だが一方で、手作り発酵の魅力は、’再発見’ブームを繰り返しながら、脈々として新たな愛好者たち生み出している。筆者も10年来の手前味噌派である。
4.麹は有用微生物の王様
麹とは、米や、麦などの穀類や豆類を発酵させるコウジカビを繁殖させたものだが、これこそ有用微生物の王様と呼ぶべきもので、味噌、醤油、甘酒、清酒、焼酎、食酢、漬け物など生み出す主役だ。東アジアの気候に適した微生物であるため、米国や欧州では生育が難しい。コウジカビは菌糸の先端からアミラーゼ(デンプン糖化酵素)、プロテアーゼ(タンパク分解酵素)、リパーゼ(脂肪分解酵素)など様々な酵素を生産・放出し、培地である蒸米や蒸麦のデンプンやタンパク質を分解し、グルコース(甘みの元)やアミノ酸(旨みの元)を生成する。そしてそれを自分の栄養源として増殖する。コウジカビが含む酵素は全部で100種類ほどにもなるが、その中にはまだその働きなどが解明されていないものもある。
食品の種類によって異なったコウジカビが使われるのは、コウジカビには多数の仲間がいて、それぞれが持つ酵素の種類や働きが微妙に違っているからだ。醤油、味噌にはアミノ酸をつくる酵素が強いもの、鰹節には脂肪を分解する酵素が強いもの、清酒にはデンプンを糖に分解する酵素が強いもの、泡盛にはクエン酸をより多く生成するものを……といった具合だ。杜氏や蔵人に支えられた全国各地にある伝統的な酒蔵や醸造メーカーがそれぞれに種麹を調整し、それが各製品の味の個性を生み出す大元になっている。
5.発酵の世界に遊ぶ
発酵の世界を描く漫画『もやしもん』が人気だが、「もやし」とは酒造業界で種麹を呼ぶ言葉。コウジカビが芽を出し白っぽい菌糸が伸びていく姿が野菜のモヤシに似ているからだが、「萌える」という語も、その姿が木々が芽吹く様子を連想させることから生まれた。ちなみに、「こうじ」の名は「かもす(醸す)」の名詞形「かもし」が転じたもの。なんとも可愛い言葉たちに彩られた魔法のような発酵の世界―塩麹をきっかけに一人でも多くの人がそこへ分け入って大いなる豊かさを体験することになれば、と願っている。
(『公共共済かながわ』 2013/2 No.244 所収)