『科学』特集号を読んでの雑感
森 元之
土曜講座の上田さんが、日本の科学分野で権威のある『科学』誌に原稿を書きました(論文名は「市民のための科学と科学技術基本法」)。それを読んでの感想を書きます。
私が気になったのは、土曜講座の活動について紹介した部分です。雑誌を読んでいない人のために少し長くなりますが以下その部分を引用します。
「……私はここ6年ほど”科学と社会を考える土曜講座”という市民の学習グループを主宰してきた。私たちの講座では、科学技術に関連するさまざまな社会問題をさまざまな角度から取り上げ、問題の認識を深めるとともに、できれば専門家の方々と一緒に解決の糸口を考えてみようと試みてきた。月に1度の研究発表会に向けて、2~3ヵ月ほどかけて関心をもつ仲間と準備をすすめるのだが、文献を読み、議論し、関連する集会に足を運び、必要な場合は専門家のアドバイスを受けながら、取り上げた問題の核心は何か、それを理解するために必要な知識は何かを洗い出し、整理していく。
その過程で、当の問題に関心はあっても専門知識はまったくもたなかったごく普通の市民が、一般聴衆を前に2時間ほどその問題を論じ、質疑に応答できるだけのものを獲得していく。ときには、これまで誰も詳しく調べたことのない問題に行き着いたり、異なる分野の人と考え方や経験を共有することで問題に対する新しいアプローチをみいだす、ということもある。
もちろん、政策提言できる専門的なレポートを作るレベルにまで容易に至るわけではない。しかし、おそらく適切な専門家の指導といくらかの時間・金銭的な余裕さえあれば、幾人かの参加者はそうしたレポートを作成する作業に相当貢献できるレベルにまで達するのではないかと思われる。……」
さて、この部分を読んだときの私の素直な感想は「この文章で紹介されている土曜講座は、私がこの数年参加してきた土曜講座とは違う」という違和感でした。また「この文章では土曜講座のやっていることが伝わらないだろうし、これを読んで新しく土曜講座に来てみたいと思う人はいるのだろうか。」という疑問でした。
確かに上田さんが書いた文章は事実を語っています。しかし、上記の文章は譬えて言うなら「人間は水、蛋白質、脂質、カルシウムその他多数の微量元素によって成り立っている」と書いているようなもので、人間の物質的組成を説明してはいますが、精神活動や社会性を伝えていない文章のように感じられました。
『科学』に掲載された論文自体は土曜講座の活動だけを紹介する論文ではないので、そしてなおかつ上田さんの性格もあってか、あるいは雑誌編集部の方からの注文があってこのような無味乾燥な文章になったのだろうとの推測はできます。しかし、「それにしても」です。
「土曜講座では講義のあとにお茶やお酒・料理を楽しみながら参加者全員でディスカッションをしていてそれが楽しい」とまでは書く必要はもちろありません。でも、「これまで誰も詳しく調べたことのない問題に行き着いたり、異なる分野の人と考え方や経験を共有することで問題に対する新しいアプローチをみいだす」ことが”楽しいことである”というような表現はしてもよかったのではないでしょうか。その”土曜講座の活動は楽しい・面白い”ということこそ私が土曜講座に参加している核心部分だと思っているので、それが伝えられていないのは、非常に残念なことです。
今回上田さん、そして土曜講座関係では野村さんも論文を発表していることもあり、『科学』という雑誌を最初から目を通してみました。一言で言えば「読みにくい文章をよくこんなにも集めたものだな」と感じました。自分の文書読解能力に危機感をもった私は「もしかしたらこの雑誌にのっている文章は、理解することを目的に読んではいけないのだ」と結論づけることでようやく気持ちを落ち着けた次第です。そして感じたことは、いったいこの雑誌は誰のために書かれているのだろうか、という疑問でした。研究者・専門家向けにはそれぞれの個別の分野での雑誌があるでしょう。科学知識の大衆化という路線では『ニュートン』やそれに類する雑誌が出ています。そのどちらでもなく、それでいて読むものを拒むようなスタイルに満ちているこの雑誌は何をしたいのでしょうか。そしてそのような雑誌が社会的な権威とみなされているのは何なのだろうか。いったいこれらの文章を書いている人は自分の研究に情熱や面白みを感じているのだろうか……と次々に疑問が湧いてきました。その上でもう一度上田さんが書いた文章を思い起してみると、確かにこのような文章群の中にあっては上田さんも”土曜講座の活動は楽しい・面白い”という表現を使うことができないのも無理からぬこと、と納得してしまった次第です。上田さんが土曜講座の活動を通してつねに既存の研究者たちに批判的な目をむけていることの理由が少しわかったような気がしました。