ケニアにおける理科教育の問題点と国際援助の在り方
大形佳代子
第85回の研究発表では、海外青年協力隊の一員としてケニアに赴任され、その後1996年から1997年にかけてロンドン大学教育学部の「教育と国際開発」コース(大学院)で学ばれた、大形佳代子さんにお話いただきました。ケニアで理科教員をされた経験を具体的に紹介しながら、話は「途上国」「先進国」の関係の構造的な問題の全体に及ぶ、非常に視野の広いものでした。参加者からいくつも鋭い質問が出ましたが、文献や資料を的確にふまえながら明快な返答をされていた姿には、日本人にとって’遠い’世界と思われがちなアフリカが決してそうではないことを伝えてくれる、身についた’国際性’とでも言うべきものを感じることができました。当日の発表と討議は4時間近くに及ぶものでしたが、録音されたテープを入手したいと思う方は連絡をください。送料を含め全額1000円でお送りできます。
●はじめに
多くの開発途上国において教育の普及は重要な課題の一つである。中でも理科教育は、国家建設のための近代的科学技術の導入、という観点から、科学技術者養成のために不可欠とされてきた。ケニアでも理科は初等、中等教育段階で英語、数学とともに重要視されている。しかし、その実施状況は満足のいくものとは言い難く、数々の問題を抱えている。ここでは自身の青年海外協力隊員時代の経験を踏まえ、ケニアの中等教育段階の理科教育の問題点について検討し、同時に開発途上国への教育援助の在り方について考えてみたい。
●ケニアの国情と教育制度
ケニア共和国は1963年12月12日、イギリスから独立した。首都はナイロビで、国土面積は日本のほぼ1.5倍である。 アフリカ諸国の中では経済的に安定していると言われているが、世界銀行のWorld Development Report 1990年版 によると、 最貧国 (Low income, <US$ 545GNP/Capita)に分類される。主要産業は農業で、紅茶、コーヒー、サイザル麻が輸出品として挙げられるが、観光も重要な外貨収入源ある。人口は1979年の国勢調査によれば、15,327,061人で、人口増加率約4%というのが正しければ、現在はほぼ倍増している計算になる。「ケニア人」と呼ばれる人々は他のアフリカ諸国同様、多数の部族から構成されていて、細かく分けると50以上の部族があると言われている。公用語は英語とスワヒリ語であるが、教育現場における使用言語の問題は後ほど検討することとする。
教育制度は1985年に採用された 8-4-4 制で、初等教育8年、中等教育4年、高等教育4年である。 初等教育は義務制ではないが、授業料は無料である。児童、生徒は初等と中等の最終学年で、それぞれ KCPE(Kenya Certificate of Primary Education)、 KCSE(Kenya Certificate of Secondary Education) という試験を受け、その成績によって上級学校への進学の可否が決まる。それ以外の学年でも最終学期の試験で進級が決まり、飛び級や原級留置などの措置もある。
●ケニアの理科教育とその問題点
最初に指摘したい問題点は、他国で開発された理科カリキュラムを採用したことである。ケニアの教育はイギリスの教育の影響を大きく受けている。 独立後も理科教育のカリキュラムはイギリスで開発された Nuffield Science Teaching Project を旧植民地のアフリカ諸国用に書き直したSchool Science Project (SSP) が採用された。しかし、SSPはアフリカ人教育関係者によって作られたものではないため、ケニアの現実に合わなかったのである。SSP は Nuffield Science の「生徒が科学者のように実験することによって、自分自身で自然の法則を発見する。」という特徴を引き継いでいる。この考え方は一見理科教育の理想のように見えるが、これを実施するには、ホドソン(Hodson, 1993)が指摘しているように、理想的な教育環境、つまり設備の充実した理科実験室と熟練した理科教師が不可欠で、当時のケニアでは両方とも欠けていたので実施不可能に近かった。
このようなカリキュラムが採用された理由として、これを導入することによって教科書や教材などの援助が受けられたことが指摘出来る。逆に言えば、SSPを導入しなければ何の援助も得られないわけで、独立当時のケニアの状況を考えれば、これはやむをえない選択であったと言える。イギリスで開発された理科カリキュラムの半強制的な導入は、1960年代に英国連邦に属する国々で広く行われ、先進国に含まれ歴史的にイギリスに近い文化を持つとされるカナダとオーストラリアにおいてさえ、様々な問題を引き起こすことになった。オーストラリアのフェンシャム (Fensham, 1988)は、これを Educational imperialism と言って批判している。
1985年の8-4-4制の導入はケニアの現状に合った教育を実施することを目的として、農業をはじめとした職業教育の充実を図るなどの改善が行われた。ところが、理科教育は「暗記中心からの脱却」という名目でより実験が重視されるようになった上、授業時間数は減少してしまった。さらに、KCSEには理科実験が試験科目として課されることになったのである。シティマ(Sitima,1988)によると、理科実験室のない中学校がケニア全国で1354校 (52%)もあり、一部のエリート校のみで実施可能なカリキュラムという点で、SSPと大差ないものであると言えるだろう。
第二に、理科教員の不足が挙げられる。ケニアの教員養成は大学 (University) の教育学部と教員養成大学 (Teachers College) の二つに分けられるが、問題なのは大学で理科教師の資格を取得した学生の多くが教職に就かない、あるいは一旦教職についても別の仕事が見つかればすぐに転職してしまうことである。理科や技術系の教員は他教科の教員より給与面で優遇されているとはいえ、理科系出身者は良い職を得やすいので、学生がわざわざ給料の低い教職を選ぶことは常識的に見ても期待出来ない。しかし、このことからケニア政府が教育に力を入れていないと考えるのは誤りである。カリム (Karim, 1995) によると、ケニアの国家予算の 41%が教育に当てられていて、その約 75%が教員の給与なのである。この問題は国家の経済力の向上なしには解決は難しいかもしれない。
第三の問題点として、教育現場での使用言語の問題が挙げられる。少し前で触れたように、ケニアの公用語は英語とスワヒリ語であるが、日常生活で使われているのはそれぞれの部族語である。学校教育は初等教育の最初の3年から4年は各部族語で行われ、それ以降はすべて英語に切り替わる。スワヒリ語は一つの科目として学校で教えられ、現在は必修である。
スワヒリ語は中世にアラビアとの交易のため、東アフリカのバントゥ系の言語とアラビア語が合成されて出来たと言われていて、スワヒリ語を母語とする部族はほとんどない。スワヒリ語と同じバントゥ系の部族語も多いが、中にはマサイ語やルオー語のようにバントゥ系に属さないものもある。スワヒリ語ではなく英語で学校教育が行われれば、どの部族にも不利になることはないと言えるかもしれないが、弊害もある。生徒の学力は英語力によって決まることになり、言い換えれば、英語の理解が不足していれば、勉強が出来なくなってしまうのである。英語ですべての勉強をしなければならないケニアの生徒たちは、母語である日本語ですべての科目を勉強出来る日本の生徒たちに比べて、明らかに不利な立場にあると言えるだろう。
独立時に多くのケニア人にとって英語より母語に近いスワヒリ語を教育言語として採用出来なかった理由は何か。ここでイギリスの植民地支配の方法に言及する必要がある。イギリスは間接統治という方法、つまり一部の現地人エリートに植民地政府の命令を伝え、一般の現地人の統治をこの現地人エリートに任せるという方法を取っていた。このことから、独立以前から英語を話せるケニア人が多数いたことは容易に想像出来るし、英語を話せることがケニアにおける社会的地位の高さを示すものであったことも疑いない。独立によってすべてのケニア人の子供たちに教育の機会が与えられた時、スワヒリ語より英語を重要視するのは当然の成り行きだったのではないだろうか。実際、スワヒリ語は学校教育において、独立後もしばらくの間は選択科目に過ぎなかったのである。
この他の問題点として、理科つまり Science は近代ヨーロッパで発展した西洋科学 Western science であるため、アフリカ人が持つ自然観との接点がほとんどなく、アフリカの子供たちにとって理解し難いものである、というジェゲデ (Jegede, 1995)の主張がある。これは文化的背景の理科教育に及ぼす影響という点で一考に価するかもしれないが、国際的な理数科の学力試験で上位を占めるのが、日本、韓国、シンガポールなどのアジアの子供たちであることを考えると、今後の研究を待つ必要があるだろう。
●ジンバブエに見る理科教育の工夫
前述のような問題点はケニアに限らず、多くのサハラ以南のアフリカ諸国に見られるものである。これらの問題の背景に絶対的な貧困による資金不足があるが、経済問題が解決しない限り、ケニアの理科教育に未来はないのだろうか。ここでジンバブエの理科教育に注目してみたいと思う。
ジンバブエは1980年に独立した、サハラ以南のアフリカ諸国の中では比較的新しい国である。ローデシア時代は南アフリカ同様の人種差別政策のため、ジンバブエ人の教育の機会は限られていた。新政府は学校を次々新設したが、電気、水道、ガスなどの設備のないものが大半であった。そのような状況で採用されたのが Zim-Sci (Zimbabwe Secondary Schools Science Project) である。これはローデシア時代からあった通信教育のプログラムを元に開発されたもので、テキストと簡単な実験用器材 (ビーカー、アルコールランプ、ロート、プラスチック容器、三脚、蒸発皿、必要な薬品類など)がセットになっている。これらの教材はすべてジンバブエ製で、外国製品を輸入するのに比べて 1/30 の費用で済む。
Zim-Sci の特徴は普通の教室内で実験可能なように作られていることである。学習方法は、テキストを見ながら生徒が二人一組で実験を行うようになっていて、これは生徒実験を重視しているといえる。また、経験の浅い理科教師でも指導できるように教師用の指導書も用意されている。
Zim-Sciで学習した生徒たちの理科の成績だが、ローデシア時代のカリキュラムを採用している伝統的な学校の生徒たちとほとんど変わらないことが報告されている。このことは設備の整った実験室がなくても理科教育が十分可能であることを示していると言えるだろう。
Zim-Sci が成功した理由として、ジンバブエで開発されたものであること、実際の学校環境 (設備や教員の不足)を考慮に入れたものであったことが挙げられる。また、独立が他のアフリカ諸国に比べて20年近くも遅かったため、1960から70年代の他国の失敗から学ぶことが出来たとも考えられる。
●教育への国際援助の在り方
ケニアとジンバブエの両国の理科教育を比較して分かることは、自国の教育を自国民が決定し実施することの重要性である。これは先進諸国なら当然のことで、つまり日本の教育は日本人が決めることだが、ことアフリカ諸国となると、旧宗主国やその他の先進国、または世界銀行などの国際機関が口を出したがるのはどのような根拠に基づくものなのだろうか。「要請主義」という立場を取っている日本の援助は、いわゆる「金は出すが口は出さない。」に近いもので、実はアフリカ諸国からは感謝されているが、問題がないわけではない。よく指摘されるのは、日本の教育援助は高等教育や高等技術教育に偏っているということである。つまり一部のエリート教育に資金を出していると考えてよい。例外が青年海外協力隊で、初等、中等、就学前教育にも多くの隊員を送り出している。しかし、協力隊の援助方針にも首を傾げざるをえないことがある。
青年海外協力隊がケニアに理数科教師隊員を派遣し始めたのは1973年で、1997年までに 256名の隊員が理数科教師として活動した。協力隊はさらに理数科教師隊員の数を増やすことを計画中で、ケニア人教師の養成や支援について考えている様子はない。ケニアの子供たちにはケニア人教師が必要だ、という発想は無いようである。ケニアで理科教師が不足していることは事実だが、これは経済的理由で教師が教職を離れてしまうことによるところが大きく、教員養成が間に合わないということではない。教職への定着率が高い宗教や社会の教師は多すぎるほどなのである。理科教師が不足しているから協力隊員を送る、という援助が一概に間違っているとは言えないし、個々の協力隊員の努力を否定するつもりもないが、20年以上も同じことをし続けているという事実は、援助の効果という点で疑問視すべきではないだろうか。発想を変えてケニア人教師の支援、例えば大学卒教師の教職への定着率を高めるために給料補填をすることは出来ないのだろうか。
国際援助を考える上で忘れてはならないのは、その援助は誰の考えで始められたのか、援助によって利益を得るのが誰なのか、という点である。これが両者とも援助提供国側の人間であったとしたら、その援助は糾弾されるべきであろう。前述した Zim-Sci はスウェーデンの民間援助団体である SIDA (Swedish International Development Authority) とUNICEFが資金協力をしている。SIDAはケニアにおいても理科教員養成大学 (Kenya Science Teachers College) 設立に援助していて、大学設立 10年後までに大学の教職員をすべてケニア人に置き換えている。これは国際協力事業団が日本の援助で出来たジョモ・ケニヤッタ農工大学に設立 20年近い現在でも多数の日本人スタッフを送り続けていることと対照的である。
●おわりに
以上見てきたように、歴史や宗教教育に比べて中立性が高いとされる理科教育であっても、時の社会情勢や文化的背景に左右される可能性があるのである。ケニアの抱えている問題点はサハラ以南のアフリカ諸国に共通するものが多いが、問題解決の処方箋は各国の歴史や文化、社会的背景を十分考慮に入れて考える必要がある。言い換えれば、ジンバブエの成功はジンバブエ用の教育方法をジンバブエで開発したことに起因するもので、ケニアで Zim-Sci を採用すれば済むというものではないのである。教育への国際援助はこのようなきめ細かい視点が必要であり、その国の人々によって教育が行われるようになることを目標とすべきであろう。