市民運動家・梅林宏道の原点 -科学技術者の反米軍基地運動を振り返る-

投稿者: | 2002年4月18日

市民運動家・梅林宏道の原点
-科学技術者の反米軍基地運動を振り返る-
猪野修治(湘南科学史懇話会代表)
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●はじめに
21世紀が始まって2年目に入った。20世紀が戦争と限りない環境破壊の時代であったから、来るべき21世紀の世界は平和・軍縮・環境・共生の時代にすべきだと誰しも思っていたはずである。
しかし、現実の国際社会は2001年9月11日の同時多発テロにたいする報復戦争の名目で、再び巨大な列強帝国主義国家が束になり牙をむき出し弱き民族・民衆のうえに襲いかかってきた。日本の小泉政権はいち早くブッシュ政権を支持し、有事法制法案の立法化を急いでいる。なんという時代錯誤の認識であろうか。
世界の平和・軍縮・環境・共生の時代はおろか、帝国主義国家の殺戮の時代となりつつある。かつて1970年代のベトナム反戦運動の時代、世界中の民衆が決起した市民の反戦運動はマスコミの反戦報道もあいまってベトナム戦争終結(ベトナム人民の権力奪還勝利)に大きな役割を果たした。
この時以来、ベトナム戦争反対運動の渦中に全身全霊をかけて闘った市民運動家・梅林宏道氏を取り上げる。科学技術者でもある梅林氏が「生き方の全体性」を追求せざるをえなかった市民運動との関わりの様子を考察する。市民運動家・梅林氏の活動領域はきわめて多岐にわたる。
私はその都度大きな影響を受けてきているが、今回は、梅林氏が科学技術者と市民運動(反米軍基地運動)の狭間でどのような思考・行動を選択していったのか、その思考・行動の原点を作ってきた「1972年から1980年」までの時期を考察する。
1●戦車の前に座り込め
1972年夏、神奈川県相模原市にある米陸軍相模補給廠でベトナム向け戦車が搬出された。それに抗議した住民が、人殺しのための戦車をベトナムに送るなという大きな反米軍基地運動が起こった。この運動が起こって今年でちょうど30年になる。当時の激しい市民・住民による闘いの様子はドキュメント『戦車の前に座り込め-1972年相模原闘争、そして-』(「ただの市民が戦車を止める」会編)によって詳細に知ることができる。
私はあらためて丹念に読み返しながら、ただひたすら自分のこの30年間の人生を重ね合わせていた。現在の市民・住民・科学者の闘争形態とは異なれども、その闘いの本質的内実には違いはない。そこから多くのことを学ぶ必要がある。このドキュメントで『戦車の前に座り込め』の編者は次のように口火を切っている。読んでみよう。
1972年夏、神奈川県相模原市にある米陸軍相模補給廠で大きな反基地運動がまき起こった。ベトナム人民の闘いへの熱い連帯の心をこめて、日本民衆が「ベトナムに戦車を送るな!」と叫んで直接行動を立ち上げたのである。M48型重戦車は、この闘いによって約百日間、補給廠の中に閉じこめられた。
戦闘車搬出阻止闘争の中で、「ただの市民が戦車を止める」会が生まれた。相模補給廠近隣の住民が中心となった「会」は、基地西門につくられていたテント村に拠点を定め、麦茶のサービスから座り込み闘争まで目まぐるしく活動に没頭した。
1972年9月18日から19日にかけて数千人の市民が西門交差点を埋めつくして座り込み、「ノーエ節」や「赤トンボ」を歌いながら夜を徹して翌朝搬出のM113型軽戦車の進路を阻んだ。警察機動隊の暴挙な弾圧……、そしてテント村破壊。
テント村原体験ともいうべきものを背負った「ただの市民が戦車を止める」会は、その後も執拗な闘いを続行した。二年間もの監視活動、戦車阻止条例制定運動、自衛隊移駐反対運動など反基地運動の継続にとどまらず、やがて三里塚農民との連帯闘争、日韓連帯運動、地域労働運動との共同闘争など、ラジカルに根付いた民衆運動として活動領域を拡大した。
1977年4月、労働者・生活者の真の自立と開放をめざす地域の仲間とともに、「現代革命を問う労働者・生活者センター」を設立し、「会」の活動は新たな段階に入った。
この書は、戦車阻止闘争の生きた記録を克明につづりながら、私たち自身の今後の生きざまを検証して行くためのものである。(1)
このように述べたのは「ただの市民が戦車を止める」会を立ち上げた梅林宏道氏(現NPO法人ピースデポ代表、太平洋軍備撤廃運動(PCSD)国際コーディネーター)である。なんと重い言葉であろうか。市民運動における実践家・梅林宏道氏のその後の人生は「会」の闘争で始まったのである。
たまたま相模補給廠のすぐ近く住んでいたひとりの梅林氏(当時・大学教員・物理学)が「会」を立ち上げ、この闘争で何をやってきたか、やがては大学を辞職したばかりか、どのように科学技術者・ひとりの人間として全存在をかけざるをえなかったかが、日時を追って克明に書かれている。若い人にはぜひとも読んでいただきたい貴重な歴史的な市民運動の現場報告である。
詳細は本書に譲ることにするが、「会」の運動の目的は、いかなる政治党派にも属することなく、ただひたすら「人殺しのための戦車をベトナムに送るな」の一点である。その人間的良心が地域住民と、日本はもとより世界の民衆から受容され支持されたのである。
しかし、その道は苦難の連続であった。
本書を一読すると、梅林氏たちの「会」がつぎつぎとせまられる難題にそのときそのときで苦渋の判断と行動をせざるをえない状況に、読む者は手に汗を握る思いに駆られるに違いない。
実は私も「会」の運動に関わりをもったひとりであり、その臨場感はよく伝わってくる。そしてなによりも、私自身が市民運動・住民運動・科学技術運動・科学と社会の問題等々に目を向けるようになったのは、梅林氏たちの「会」の運動の中からである。その意味では、私の世界認識の原点はここにあるといまでも思っている。
2●科学技術者の生き方の全体性を問う
梅林氏は「会」の闘いをはじめる以前から、科学技術研究者たちと同人誌「ぷろじぇ」(科学、技術、そして人間の解放にこだわる人々の場)を出していた。 1969年9月に創刊され、1974年5月刊行の第10号まで続いた。この同人誌で梅林氏は山口幸夫氏とともに科学技術者の生き方を厳しく問う作業を続けていた。
同人誌名「ぷろじぇ」とは、当時、日本の活動家によく読まれたフランスの哲学者サルトルの言葉「人間の実践とは、おのぞみなら、かぎられた状況をもとにして社会的可能性にむかって人間を投出する投企(Projet)といってよい-」からとられたものである。(2)
この同人のなかには今は亡き高木仁三郎氏がいる。周知のように高木氏は反原発運動における専門性を備えた批判的科学者運動の担い手であり、日本ではそれ以前に存在しなかった社会的存在である市民科学者を、自らの生き方をもって確立した人である。
さらに目を引くものに社会学者でマックス・ウェバー研究者の折原廣氏の寄稿がある。これは「ぷろじぇ」同人が折原氏に「ぷろじぇ」を送ったものに、折原氏が書簡を寄せたものである。折原氏は東大闘争終結後、大学正常化と授業再開を拒否し、独自で連続シンポを開いていた。こうしてこの同人誌は科学技術者で市民運動家の梅林氏が自らの生き方を厳しく問う重要な雑誌となったのである。
その一方で、「ぷろじぇ」が創刊される数ヶ月前、梅林氏は、物理学研究者(素粒子論)で氏よりも四歳若い、当時の東大全共闘議長の山本義隆氏が、激烈をきわめた東大闘争の渦中で書いた「攻撃的知性の復権」(『朝日ジャーナル』1969年3月2日)に深い共感を示している。この論文は後に山本義隆『知性の叛乱』に再録される。
この論文は歴史的な貴重な文章であるので、現代の科学技術者にも読んでもらうために多少の引用をして読んでみよう。
多くの基礎物理学の研究者には、研究成果は自己の私的財産という小所有意識が濃厚で、同時に平等でアトム化された研究者は、人間の価値までも研究成果を通じてのみ評価される。研究者はひたすら細分化された自閉領域の中に自らを追いやり、全体的な学問像も、社会的な学問の位置も、見失ってゆく。同時に脱イデオロギー現象は極限に進み、結果として体制べったりとなってゆく。論文生産競争により、物量に物を言わせた実証主義が万能視され、めぐまれた東大の研究者をより一層権威づけるとともに、冷遇された地方の研究者までがそれに追随し、独創性をなくしてゆく。こういったことがいかにして論理的に歴史的・社会的正当性をもつにいたったかが重要である。(途中省略)
ぼくたちの闘いにとって、より重要なことは政治的考慮よりも闘いを貫く思想の原点である。……ぼくも自己否定に自己否定を重ねて最後にただの人間-自覚した人間になって、その後あらためてやはり一物理学として生きてゆきたいと思う。(3)
三十数年経過した現在においても、なんと見事な文章であろうか。科学技術研究者にはぜひとも真剣に読んでもらいたい文章であるが、現代の若い研究者にはこの言葉が通じるであろうか。
さて、わが主人公の梅林氏は当時、企業の研究者(磁性学)であったが、山本氏が指摘する「論文生産競争と物量に物を言わせた実証主義」の「学問の実証性」がもつ抑圧性、欺瞞性、学問幻想、そして犯罪性を厳しく批判してゆく。こうして梅林氏は「科学技術者の生き方の全体性」を模索する仕事にとりかかる。その営みは机上の観念ではなくきわめて実践的な具体的な闘いと密接に関係する仕事であり自問である。
3●抵抗の科学技術・人民営為の科学技術
梅林氏は当初から一貫した市民運動の現場で活躍する実践家・活動家である。初めから科学技術者の認識論・実践論・存在論を論ずる講壇学者ではない。あくまで科学技術者の闘いの現場から言葉を発する活動家である。
しかし、先の同人誌「ぷろじぇ」で展開した科学技術者の立場と闘いの現場から発した認識論・実践論・存在論の本質とを、いわばフィードバックさせながらまとめたものが、『抵抗の科学技術』(技術と人間、1980年)である。(4)
この著作が刊行されるにいたる梅林氏の思考過程が市民運動家・梅林氏の原点であるといっても過言ではない。私はことあるごとに、山本氏の『知性の叛乱』と梅林氏の『抵抗の科学技術』を何度も読んでは自分を戒めてきたのである。両著とも闘いの渦中の時代に書かれたことに注目されたい。現代においてもきわめて本質的な議論を全面的に展開している。
『抵抗の科学技術』にける梅林氏の主要な論点は大きくわけて、ふたつある。
そのひとつアカデミズムの中での科学技術の「実証主義と党派制」批判であり、二つ目は「科学技術者の社会的責任」批判である。前者について梅林氏はこう述べる。
現在の歪んだ高度産業社会を現出させている物質的基盤は何か。それを支えている形而上学は何か。人間の全体性に目を据えた科学技術者は、ここに最も深刻な党派制、科学技術の遠き外部からその最も深き内部まで貫かれた「実証主義という党派制」が彼の前に立ちはだかるのを知る。(5)
二つ目に関する議論では、戸坂潤、武谷三男、星野芳郎、竹内芳郎、柴谷篤弘、中村禎里等々の各氏の科学技術論を詳細に分析し、批判と継承を繰り返しながら、科学技術者に潜む二元論を克服する試みを展開していくが、その中から特に、科学技術者の社会的責任という概念そのものに対する批判を展開していく。
その批判の内容を再現するのは私には荷が重いので本書に譲るけれども、ともかく、その批判的営みを通じて、梅林氏は「科学技術者の人生を人間として全振幅に生きる」立場に入らざるをえないと結論して、次のように述べる。
科学技術的実践を通じて二元論を解消しようとする議論は、われわれの直面している実証主義的知のもたらす思想的頽廃に対して全く無力である。われわれは、科学技術者の二元論をただ一つの科学技術者へと解消するのではなく、ただ一つの人間へと止揚しなければならないのだ。(途中省略)。
科学技術的実践を通じてではなく、科学技術実践そのものが分かち難く人間の全体性の回復に包みこまれてゆくような、伝統的科学技術者像を超えた生活者を志向しなければならないのだ。(6)
これは紛れもなく梅林氏が現代的課題として取り組んでいる核兵器・核実験批判の国際的運動と直結する論理・認識の原点でもあると言うべき科学者像であろう。
もうひとつ重要なことを触れたい。
それは闘いの体験から自然に発生した「言葉を発することへの疑問」である。
市民運動・住民運動の過程で日雇い労働者や韓国民主化運動を担っている無名の人々が沈黙を強いられている現実に遭遇し、「語るよりも行うことの持つ普遍性」が重要だと自問しながら、次のように要約する。
「労働者・生活者の闘い」と私たちが呼ぶところの闘いの中で、私は書くということに更に臆病にならざるを得ない二種類の現実に突き当たった。それは第一に、本当に言葉を必要としている人々に言葉がないという現実、第二に、歴史を動かす決定的な闘いの真実を当の闘いの主人公たちが語り得ることは皆無にひとしいという現実である。(7)
この梅林氏の感性はどこまでも自己批判・自己解体的である。
こうした言葉にないするジレンマを解消するためのヒントを与えたのは、哲学者の花崎晃平氏であった。花崎氏の視点は、端的に言えば、解放の中にも表現性も含むのではないかというものである。さらに闘いの前線にある梅林氏は花崎氏の文章に触発されながら、新たな科学技術の認識「人民営為の科学技術」を構想するに至るのである。
では、人民営為の科学技術とはどんなことであろうか。
科学技術者の実証主義の党派制と平板な社会的責任論を乗り越えつつ、10年におよぶ試行錯誤の闘いとそこにおける人間関係の経験から、梅林氏は科学技術者の存在と認識の相互関係を妥当なものとして次のように結論する。
科学技術者は文字通り、世界=内=存在として対象とする事物と交わる。そして「この全体性のもとに、さまざまな相の科学技術的実践が現れる」。科学技術者が実証主義的科学の対象として、その混沌の中から事物を抽出し、対象化し、「自己を外化するとしても、かえってそれが全体性を内面化するもの」でありうるのである。(8)
科学技術にこだわり続けながら人間として統一性を求める。そしてそこに生まれる矛盾との「闘い」を実践の場と考え、その場からより広い歴史の全体性に出会おうと考えたのである。……すこし気恥ずかしい表現であるが、私たちは生涯の課題としてこの問題に取り組む覚悟をした。(9)
なんと厳しい覚悟であろうか。身の安全と生活が保証されたアカデミズムの講壇科学技術論者には想像もできなく、また求めようもない厳しい覚悟と言葉であろうか。
その言葉は計り知れないほど重い。全共闘の思想基調(自己変革・自己否定)の思想に深いところで共鳴しつつ、それに対して実践的活動を通じて答えようとする梅林氏の生き方に感動の念を禁じ得ないのである。
●おわりに
市民運動家・梅林宏道氏は現在、反核平和運動の実践的活動家(太平洋軍縮撤廃運動(PCSD)国際コーディネーター)である。その機関誌(月2回発行)の『核兵器・核実験モニター』の総括編集責任者でもある。梅林氏の持論である「知は力」とう命題が忌憚なく人民営為の科学技術に生きていると言ってよい。
本稿では主要に市民運動家・梅林宏道氏の原点となった時代(1969年~1980 年)の科学技術者の生き方に限った。ひとりの科学技術者が初志貫徹で矛盾に満ちた科学技術の最前線に真正面から向き合っていることをぜひとも知ってもらいたい。
なお、機会があれば、その後の時期にも焦点をあてて考察したいと考えている。■
◆注◆
(1)「ただの市民が戦車を止める」会編『戦車の前に座り込め-1972年相模原闘争、そして-』(さがみ新聞労働組合発行、1979年)
(2)J・P・サルトル『方法の問題』(平井啓之訳、人文書院)
(3)山本義隆『知性の叛乱』(前衛社、1669年)
(4)梅林宏道『抵抗の科学技術』(技術と人間、1980年)
(5)同書、96頁。
(6)同書、135頁。
(7)同書、まえがき。
(8)同書、27頁。
(9)同書、209頁。

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