人体の資源化と人体改造 今なにが問題なのか
2005年10月17日(月) 文京区シビックセンター内「生涯学習センター」(地下1階)学習室
講師:松原洋子(立命館大学大学院先端総合学術研究科教授)
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講師紹介
松原洋子さん
まつばらようこ。1958年生まれお茶の水女子大学大学院人間文化研究科助手を経て、現職。著書に『優生学と人間社会』(共著、講談社現代新書)、『生命の臨界─争点としての生命』(共著、人文書院)ほか。専攻は生物学史、医学史。
生命操作の問題は、どのように問題を整理し、自分の意見を伝えたらいいのか、なかなか見えてきません。先日の松原さんとの対談の際、もっと掘り下げてお話を聞きたいと思い、この機会を設けました。今日はタイトルの通り、人体の資源化と人体改造という観点から生命科学の焦点的な問題を取り上げ、議論する機会にできればと思います。
※なお本記事は、当日の録音記録をもとに再構成しておりますので、当日の発言が忠実に再現されているわけではありません。ご了承ください。
今日のタイトルは恐ろしげでSF的な響きをもちますが、現実の技術の話を聞かれると、ある意味では身近で、他人事ではないという印象をお持ちになるのではないかと思います。正直、私も生命操作の問題をどう整理していいかわからないんです。理想的な問題の捉え方をちゃんと示せればいいのですが、残念ながらその段階には至っていません。生命倫理の議論や先端医療政策、生命科学技術政策がこんなに錯綜しているのをみると、むしろ安易な解決策を提示すること自体、危ういのではないかと思うくらいです。
今日は生殖技術と再生医療技術(特にES細胞研究)という二つの素材を取り上げます。それぞれについて具体的なトピックを提示し、そこからどういう問いが導き出されるかを考えたいと思います。
1. 生殖技術
まず生殖技術をてがかりに考えます。
■ 遺伝子改造とポストヒューマン
最近、生命倫理の議論のなかで「ポストヒューマン」というキーワードが注目されています。先端医療技術が発展すると、従来の人間としての自然な肉体を超える肉体を持つ人間が登場する見込みがあるということから、これをポストヒューマンと呼んで問題にしています。例えば、サイボーグや遺伝子改造人間がこれに当たりますが、実際にはまだ生まれていません。ですが、遺伝子改造については家畜などでこれに近いことができるようになってきています。
20年も前から、大腸菌を遺伝子組換えして人のインシュリンや成長ホルモンを作らせるようになっています。1996年にクローン羊「ドリー」が生まれ、話題になりましたが、その背景には「トランスジェニック家畜」(トランスジェニック=遺伝子組み換え)で、薬の原料になる物質を家畜に生産させる技術がありました。例えば人の血液凝固因子のタンパク質をつくらせるDNAを羊に組み込み、ミルクにそのタンパク質を分泌させ、精製して薬にすることができます。ドリーが生まれた翌年、そのような遺伝子組み換えがされたクローン羊ポリーが生まれました。このように動物を薬品製造工場として利用するとき、体細胞クローン動物は均質な「動物工場」としての役割を果たすものとして期待されたのです。哺乳類で目的とする物質を作れる遺伝子組み換え動物ができているので、人でも理論的には何らかのことはできるはずだと考えられているわけです。人の遺伝子改造については、遺伝性疾患を持って生まれる人の遺伝子を「治療」するという趣旨で是非が論じられることが多かったのですが、通常の人間、あるいは人という種がそもそも備えていないような性質をもった個体を生み出す可能性についても、議論されてきました。こんな人を作り出したいというニーズはいろいろありうるわけで、哺乳類で実現している以上、人でも現実的に考えなければいけない状況になっています。
さて、「ポストヒューマン」をまさに表題にあげているフランシス・フクヤマのOur Posthuman Future(邦訳書『人間の終わり』)という本があります。ここでフクヤマは「遺伝子操作によって子孫を改造することは、それがいかに善意によるものであっても、わたしたちの政治秩序にとって重大な脅威となりうる」という立場をとっています。フクヤマは東西の冷戦構造が崩壊した後に『歴史の終わり』という本を出したことで知られる政治哲学者です。人に対する生命科学の応用をめぐる諸問題を論じた『人間の終わり』はベストセラーになり、生命倫理の文脈でも注目されました。ポストヒューマンの概念自体は新しいものではなく、以前から議論はありました。技術状況が現実味を帯びてきたため、最近特に脚光を浴びているのです。
「先端医療技術は人体改造を通して、”ポストヒューマン”を生み出そうとしている。はたして許されるのか?」という生命倫理の問い。そうした問いがでてきた背景として、まず「科学技術の暴走」が人間に向かうことへの懸念があります。科学技術は人の適正なコントロール能力を超えて暴走する傾向があるが、それが人間に向かってきたのではないかという懸念です。そのほかの背景として、バイオ研究とバイオ・ビジネスの膨張、バイオ振興の国策化があります。バイオ研究はバイオビジネスと結びついて、産業として非常に有望であるという目論見から、莫大な投資が行われています。最初のバイオテクノロジー・ブームが1970年代後半から80年代にありました。1973年に細菌レベルでの遺伝子組み換え技術が登場し、70年代後半から80年代には人を含む高等生物の遺伝子研究が進みました。2002年には90年に始まったヒトゲノム計画が終了し、ヒトの遺伝研究をするうえでの膨大なデータベースができました。さらに1996年のクローン羊の誕生、98年のヒトES細胞の樹立とつづき、現在は第2次バイオブームという状況が生まれています。
今年の10月1日、日本学術会議1の機構改革があり、これまで人文社会科学で3部門、自然科学部門で4部門だった編成が、人文社会科学、生命科学、理学及び工学となりました。以前は理学の生物系、農学、医学、薬学、歯学に分散していた諸分野が統合されて、「生命科学」という部門が独立したわけです。自然科学のなかで生命科学が重点化されたことがわかります。ヒトゲノム計画では人だけでなく、マウス、ショウジョウバエ、イネなどほかの「モデル生物」の遺伝情報データベースが構築されました。ヒトの遺伝暗号のデータベースと、基礎的な生物のデータベースを相互に参照しながら研究を進めていくという方法が出現しました。また、ゲノム情報にもとづく発生学の基礎研究が再生医療の研究開発と直結するようにもなりました。このように基礎研究と応用研究の境界が以前よりも曖昧になっています。言い換えれば基礎科学的な研究であっても特許取得と結びつきがでてくるような状況です。日本学術会議で生命科学が独立した背景には、研究スタイルの変化そのもの、また文科省、経済産業省、農水省から膨大な研究費がついている状況を反映しているといっていいでしょう。ポストヒューマンという問題を設定した時に、こういった下部構造的な推進体制がある上での問題だということを踏まえる必要があります。
■ デザイナー・ベビー
少し話題が変わりますが、「ガタカ」というSF映画を紹介します。この映画は、人の遺伝子改造が当たり前になった後の世界を描いています。両親から自然に何の手も加えられず生まれた青年と遺伝子組み換えをあらかじめして、成功して生まれた遺伝的なエリートの青年が登場します。この映画ではあえて、人種差ではなく遺伝的な能力差の社会である、ということを強調しているようです。エリート会社の社員は様々な肌の色の人間で構成される一方、肉体労働者を全員白人にしています。遺伝子改造が普及した世界では、どういう悲しみと希望があるのか、この映画では一種の思考実験をしており、科学者や生命倫理学者にちょっと論争を巻き起こしたものです。
1 日本の科学者の内外に対する代表機関。科学の向上・発展を図り、国民生活への科学の浸透を目的に、科学に関する重要事項の審議および政府への答申・勧告などを行う。
遺伝子操作をして、親が望む子供にデザインされて生まれてくる赤ちゃんを「デザイナー・ベビー」と言います。まだ遺伝子組換えをされて生まれた子どもはいないはずですが、現存の生殖技術と遺伝子技術を組み合わせて、親が望む性質をもった子どもを選んで産むということが起っています。
最初の例は、2000年10月のBBCニュースで報道されたものです。長女が非常に重い遺伝性の貧血症で、骨髄移植や臍帯血移植が必要でした。両親は彼女のドナーになれる子どもを作るため、体外受精で複数の胚をつくって、その胚の着床前診断を行い、長女と同じ病気は持っておらず、かつドナーとして適合する性質をもつ胚を選んで出産しました。そしてその赤ちゃんから長女に臍帯血移植をしました。この赤ちゃんは自然でも生まれてくる可能性はあり、遺伝子改造されたわけではありません。しかし生殖技術と遺伝子技術を組み合わせて、明確な目的を達成するため親がデザインした子どもを産んだという意味では、概念としてはデザイナー・ベビーにかなり近いのです。ちなみに、これはすごく特別なことのように見えますが、たとえば白血病のお子さんを持ったご家族の日常の中には、実際に兄弟をドナーにする、また次に生まれてくる子がドナーに適合する子であって欲しいと強く願うことは珍しいことではないのです。
次の例は2002年4月のBBCニュースから紹介します。二人とも聴覚障害がある女性同士のカップルが、聞こえない子を持ちたいと思い、聞こえない男性のドナーの精子を使って、人工授精で子どもを持つことにしました。このカップルは2人の聞こえない子どもの親になりました。生まれつき聞こえない人の間では、手話を母語とするコミュニケーションが優先されます。このカップルがどういう動機で聞こえないこどもを選んだのか、詳しいことはわかりませんが、聞こえる子よりも聞こえない子の方が親子の絆が強くなると考えたのかもしれません。このケースでは同性のカップルが生殖技術で子どもをもつ、さらに聴覚障害のある子どもを選ぶ、という点が生殖技術の適用範囲のありかたを考えさせます。
■拡張された治療としての生殖医療
生殖技術の現在の状況を振り返ってみたいと思います。
まず不妊治療が目指すのは、手術や投薬、あるいは生活習慣の改善などにより、子どもができない体をできる体にすることです。しかし、そうした不妊治療がうまくいかない、あるいは何らかの理由で効果的でないと判断された場合に、体の問題は残したまま、外部のシステムを動員して子どもを得るということになります。例えば、受精は卵管の中でしか起らないため、卵管が閉塞している場合受精はできないのですが、卵管閉塞はそのままで、卵子と精子を体の外で受精させる、いわゆる体外受精という方法をとる。体外受精でできた胚は子宮に移植されて、うまくいけば妊娠・出産に至ります。あるいは、男性の精子の授精能力に問題がある場合、精液を濃縮させるなどして人工授精をします。これも授精能力のある精子を作れる体に改善することが難しい場合にとられる方法です。外部のシステムの動員では、子どもをもちたいカップル以外の第三者̶̶卵子、精子、胚のドナーや代理出産する女性̶̶をまきこむこともあります。
さらに日本では、生殖技術を利用して子どもをもてるのは法的に結婚している夫婦とされています。しかし、生殖技術を使って子どもを持つ権利を重視するならば、法律婚や生殖系の疾患という適用条件を超えて生殖技術が使えるようにすべきだ、ということになります。たとえば単身者や同性カップル、また、重い心臓疾患や腎疾患など、生殖系以外の理由で妊娠・出産が困難な人々にも生殖技術にアクセスできるようにする。このとき「子どもが欲しい」という人に対して、養子縁組ではなく、医療を使って子どもを得させる様々なシステムが動員されることになります。
先ほどのデザイナー・ベビーはこの段階に入ったケースと見られます。本当に想像もつかないような「こういう子が欲しい」というニーズはたくさんあります。ちなみに体外受精は一人も子どもができない人がするイメージがあるかもしれませんが、一人目を産んだ後二人目ができない人も体外受精の適用になっています。またセックスレスという理由でも体外受精をするクリニックがあるとききます。このように生殖技術は拡張する傾向があることを確認しておきたいと思います。
ここで問いを立ててみたいと思います。例えば男女の不妊カップルが生殖補助技術を使えるのに、同性のカップルが使おうとするとき制限されるのはなぜか。同性のカップルや障害をもったカップルは親の資格が制限されて当然なのか、その根拠は何か。実はよく考えると難しいんです。ポストヒューマン批判には「自然な人間らしさ」が破壊されるというイメージが背景にありますが、「自然な人間らしさ」がそもそも何を想定しているのかというと、往々にして、健康で両親は当然ながら異性のカップルという状況です。障害者の運動、女性の解放運動、同性愛者の運動は、彼らがまっとうな人間という定義からはずされていた中での、人権を巡る闘いではなかったかと思うわけです。例えば、長い間連れ添った同性のカップルが、お互い見取り合いたい、子どもを育てあいたい、育てていた子ども(一般にはパートナーの連れ子)をパートナーが死んでしまった後も育てたいと思う。でも、連れ子の実の親が亡くなった後、その同性パートナーには親権が認められないという問題があります。同性同士のセックスがインモラルであり親の資格に欠けるとみなされると同時に、異性による健全なセックスのベースの上に婚姻があり、子育てがあるとみなされる文化的な装置があるわけです。しかし、実際になにが「健全」な子どもの養育なのかは、簡単には決められません。生殖技術の適用範囲を現民法に合わせて調整するという発想が主流で、それはそれで複雑な検討を要しますが、医療技術を享受する権利、子どもを持つ権利といった根本的な問題を考える時に、そもそも子どもを持つことに関する民法の考え方自体が正当なのかという問題が出てくるわけです。こういった問いを一つ、投げかけさせていただきます。
2.再生医療
■ES細胞とセラピューティック・クローニング
次にES細胞研究を手がかりに考えていきます。先端医療技術には、生殖医療、移植医療、遺伝医療、再生医療などがあります。これらには、それぞれバイオテクノロジー、バイオインフォマティクス、メカトロニクス、バイオマテリアルなどが関連してきます。先端医療技術の特徴は実験段階のものが多いということと、莫大な研究投資を必要とすることです。研究投資を回収するため、技術の経済性を追及することになります。アカデミズムでは論文の被引用回数や評価の高い雑誌への掲載が評価基準になっていますが、現在のバイオ研究では特許をとることも重要になっています。数千万円の研究費は小さい方で、大型プロジェクトだと年額数億円から数十億円にもなり、3年や5年の年限の間に成果を出さなくてはいけません。先端医療技術というのは多くは実験段階のものですから有効性、安全性を問われるのはもちろんのこと、遺伝子や胚の操作などにみられるように生命倫理が問われる局面も多いのです。(図1 略)
ES細胞(embryonic stem cell:胚性幹細胞)とは、胚盤胞という段階の胚の内部細胞塊から採った細胞を培養したものです。不妊治療でいくつか受精卵ができますが、子宮に戻さない胚を冷凍保存し、次の治療に備えておきます。しかし何らかの理由で冷凍保存した胚を使わなくなった場合、以前は初期の胚だけを生殖医学の実験に使ったり、そのまま廃棄したりしていました。しかし、再生医療の有望な研究資源としてES細胞が登場したことにより、胚をES細胞を得るための素材として使うという道もでてきたのです。ES細胞は全能性を持ち、様々な細胞、例えば、神経細胞、皮膚細胞、インシュリンを分泌する膵臓β細胞などに分化させることが可能とみなされています。治療法としては、脊髄損傷の患者に神経細胞を移植して脊髄を再生させる、またインシュリンの欠乏等による糖尿病の患者に膵臓β細胞を移植して治療するといった研究をしているわけです。(図2参照)
また、細胞や組織の移植では拒絶反応を避けるために、ドナーから提供された卵子の核を抜いたものに患者の細胞の核を移植してつくったクローン胚を使おうとしています。クローン胚の遺伝情報は患者さんと同じものなので、これから得られるES細胞から分化した移植細胞や組織は拒絶反応をおこさない、という理屈です。これは「セラピューティック・クローニング」といい、いわゆるクローン人間を生み出すことを意味する「リプロダクティブ・クローニング」と区別しています。後者については国際的に認めない方向で一致していますが、前者については再生医療を進める上で必要という研究者たちの要求がある一方で、倫理的観点から実施については慎重に検討すべきだという声もあります。日本ではクローン胚作成を内閣府総合科学技術会議の生命倫理専門調査会で容認しましたが、委員会内部の反論を押し切って決定されたという経緯もあり、社会の合意が得られたという状況ではありません。
卵子の提供に関しては卵巣疾患や性同一性障害で切除した卵巣を使うとされていますが、そのような方法が研究に必要な卵子の供給方法として現実的であるかどうかは不明です。ヒトクローン胚作成を前提とするかぎり、不妊治療で使われなかった卵子、あるいは、研究のためにドナーから採卵した卵子を使うというという方法についても子細に検討しなくてはなりません。日本ではそれが不十分なままヒトクローン作製を認めてしまいました。
■ES細胞とエピジェネティクス
セラピューティック・クローニングにより得られた移植細胞は、自分のコピー細胞なので拒絶反応は起らないという話でしたが、そもそもコピーはうまくいくのか、コピーといえるのかという問題があります。最近、「エピジェネティクス」という生物学の分野が注目されています。これは「DNAの配列に変化を起こさず、かつ細胞分裂を経て伝達される遺伝子機能の変化やその仕組みおよび学問」(佐々木裕之『エピジェネティクス入門』岩波書店、2005年)と説明されています。2001年に、あるクローンペット会社が世界で始めてクローン猫をつくることに成功しました。ただし、核を提供した猫は三毛猫(メス)だったのにクローン猫は白黒のトラネコ(メス)でした。つまり見た目は「コピー」ではなかったのです。これは、発生の過程でメスが2本もつX染色体の一方が不活性化する性質が関係しています。生まれたクローン猫のもとになったクローン胚は、茶の毛色の遺伝子が乗っているX染色体が不活性化した核が移植されていたと推測されます。核移植をしてクローン胚から始めると分化した細胞の核がリセットされて受精卵の核と同様に働くと考えられていましたが、不活性化したX染色体についてはリセットされなかったということになります。
クローンは核ゲノムのレベルで「同じ」だとしても、核の遺伝子がどのように働くかは発生段階でどのような経過をたどるかによって違ってきます。エピジェネティクスでは、DNAの配列に変化を起こさないで、細胞分裂を経ている間に遺伝子の機能が変わっていく仕組みを研究します。遺伝情報自体が細胞の中に全部あっても、細胞の段階により、遺伝子が読まれるところと読まれないところ、働いているところと働いていないところがあるということです。そのため、細胞はいろんな種類に分かれていきます。これを遺伝スイッチのオン・オフにたとえることがあります。遺伝子が発現していく段階で、たくさんのプロセスがあり、その中でオン・オフの問題が起ってくるわけです。エピジェネティックな働きは細胞内の環境や偶然にも影響されます。DNAは「生命の設計図」と言われますが、核のなかのDNA配列が同じでも必ず同じものができるわけではありません。再生医療でES細胞を神経細胞にするとか、皮膚細胞にするとかいうときには、エピジェネティクスがポイントになります。エピジェネティクスの過程の複雑な反応の網の目を理解することにより、幹細胞のレベルや分化能を予想できると考えられており、反応の網の目(カスケード)を制御できれば再生医療の成功につながります。ですが、カスケードのコントロールはできるのでしょうか。幹細胞を使った再生医療の一番の難しさは、移植したものが腫瘍(ガン)になってしまうということです。全能性を持った細胞を思惑通り変えて、移植後も体のなかで分化した状態を正常に保つ必要がありますが、遺伝情報の発現のプロセスには、核、細胞、組織、臓器、体全体という様々なレベルで多くのファクターが関係します。再生医療を安全に行うためにはエピジェネティクスのコントロールが課題になりますが、それは途方もない課題といえるのではないでしょうか。
■ES細胞研究と技術アセスメント
生命科学の研究は、in vivoとex vivo (in vitro)の二つの水準に大別されてきました。しばしばin vivo whole bodyとよばれるように、一体丸ごとの動物で行う実験と、ex vivo cultureという、体外で培養された細胞で行う実験です。例えば新薬開発の過程で、培養細胞で試してみて、毒性、有効性で予想通りの結果が出ても、マウスで試すとうまくいかない、ということがあります。また、マウスでうまくいっても臨床研究、つまり人で試すと予想に反する結果が出ることもあります。再生医療研究についても、培養細胞や動物での実験はもちろん重要ですが、臨床応用を目的とする限り人で試す段階は必ずあるわけです。再生医療に希望を託す患者さんのなかには、臨床研究が早く行われることを心待ちにしている人もおられます。ただES細胞を使った再生医療は、従来の移植医療とは技術の面でも倫理の面でも違った性格をそなえており、標準的な医療となりうるかどうかは未知数です。
さて、人体の資源化は動物福祉の観点からの動物実験規制という流れとも関係します。動物実験反対の運動でターゲットの一つとなってきたのはLD50(試験をする物質を投与した動物の半数が死亡する体重当たりの物質用量)を算定する毒性試験でした。ここでは大量の動物を毒殺しないといけません。また、化粧品のかぶれや目薬の検査のため、生きたウサギの体を固定して薬品を目に投与し、角膜の損傷をめやすに毒性を調べるドレーズ試験も、動物に苦痛を与える残酷な方法として批判されてきました。このように、in vivo whole bodyでの研究は動物に苦痛を与えてしまうので、別の方法に替える、たとえば人の培養細胞を代わりに使うという動きがあります。マウスをまるごと実験に使うよりも、その代替として人の胚を壊して得るES細胞を使う方が効果的だけでなく、倫理的であるという理解も成り立ちうるということです。(図3参照)
以上に基づき問いを立ててみます。生命現象は複雑なシステムであり、それを制御するには情報工学と制御技術が必要です。臨床研究の前には動物実験が行われてきました。しかし代替法を開発する場合、従来の動物実験段階で安全性、有効性を担保しているという構造をどうやって変えるのかを問わないといけません。また、ES細胞をつかった再生医療研究には現在多額の研究投資がされていますが、将来どれだけ回収できるかわかりません。それ以前に研究資源、医療資源として胚を使う、女性から卵子をとるといった問題があります。こうした技術に傾斜的に研究資源を配分することは適正なのかどうか。どんな科学技術政策についても適正なアセスメントは必要ですが、再生医療については画期的な医療だというふれこみで研究が推進される一方で、技術アセスメントのレベルが我々にわかるようには伝えられていません。そもそもES細胞を使った研究には、どんな困難があるのかを、社会がよくわかっていないところがあるのではないでしょうか。再生医療がどんどん推進されているにはそれなりの理由があり、テクノヘゲモニー争いのなかで、科学の重点領域が何らかの力学において設定されているのでしょう。ただ、先端医療技術が他の技術と違うところは、病人や障害者という弱者を救うための挑戦、という説得の方法が大きな力をもつところです。たとえば難病に苦しむ人にとって、かれらの医学的問題を解決するために研究者や研究費が投入されている、ということ自体が希望になるところがあります。その点で、技術アセスメントの水準をどこに置くかは実は本当に難しいと私は思います。しかし、それにしても、「倫理」ではなく「技術」の評価という面で、先端医療については客観的な情勢分析を技術の専門家が社会に示して欲しいと思っています。
質疑応答の中から
■「ヒューマン」の基準と生命科学研究の大型化
ポストヒューマン批判をする人たちは、科学技術から人間を守るという立場をとっていますが、彼らが「守るべき人間」としてどういうものを前提としているのかと疑問に思うことがあります。人間の歴史は、人間扱いをされてこなかった様々なマイノリティが「ここにも人間がいる」と主張し、運動をしていく中で、人間の定義を塗り替えてきた歴史であったと思います。ポストヒューマン批判が、ヒューマンとして基準にしている点を気にかけなくてはいけません。
今日みられるような大型プロジェクト研究のモデルは、戦時期の科学動員に由来しています。アメリカの医療政策が、国民皆保険よりも医学研究の推進に力点を置いてきたのにも、第二次世界大戦での科学動員の成功が一因といわれています。問題は大型プロジェクトを立てる重点領域をどのように決めているかということです。バイオ研究は、現在、将来期待される市場規模や需要にみあう投資をされているのでしょうか。大量の資金と研究者が動員された割には、そのコストを回収できるだけの成果が得られなかったということがないともかぎりません。数年単位の大型プロジェクトを、年限内に成果を出しながら次々と運営していかなくてはならない科学者たちは、強いストレスのもとで疲れているようにみえます。特に院生やポスドクといった若い下積みの研究者たちが、プロジェクト遂行のための要員として動員されていますが、彼らが使い捨てにされないようにしなければなりません。院生の定員が増える一方で、ドロップアウトしたり、就職できないポスドクが大量出現する恐れも指摘されています。これも今後、科学の大きな問題になっているのではないでしょうか。
■先端医療の研究の目標をどこに置くか
基本は安心できる医療なのかということ。科学者はハイリスク・ハイリターンは当たり前だといいますが、それに対して素人の感覚にこだわり主張しつづけるのは大事なことです。肺がんの薬の「イレッサ」の例があるように、一般に末期の患者さんや重い病気の人に対して、「藁をもつかむ思いで、一か八かのリスクも引き受けるであろう」という思い込みがあり、それが臨床研究のレベルでハードルを下げてしまう危険があると思っています。ハイリスクでも生存や治癒の可能性に賭けてその技術を使いたい、という人がいるのも確かです。そういう人たちにとって、使える技術がそこにあるのに使えないというのは悩ましいことでしょう。しかし、本人が望むならリスクを負わせていいというわけではなく、医療のプロ、科学の専門家として安全性、有効性の面で譲れない一線があるはずです。患者の発言力が強くなってくると、先端医療を望む患者の声が大きくなり、それが研究推進の正当化に使われるようにもなりますが、患者の期待は専門家への信頼にもとづいているわけで、仮に研究や治療が失敗しても「望んだ患者」の責任に帰すことは間違いです。さらに先端医療をめぐる科学技術政策ということになると、長期的な展望が必要です。専門家としての矜持をもちながら、患者とともに合意形成をすることは、簡単ではありませんが必要なことです。同時に「民主的」な合意形成システムに参加できない「声の小さい」患者が、合意形成の責任を果たさないという理由で排除されないようにすることも大切です。
■生命倫理と原爆被爆者の遺伝調査の問題
ヒトゲノム計画を最初に提案したアクターの一つは、アメリカのエネルギー省です。軍民転換のもと、大量の被爆者の医学情報とサンプルをどうやって活かすかと議論のなかで、ゲノムを端から端まで読んでしまえというアイデアが出ました。生物や医学の研究者達は、もっと細やかなアプローチをしてきたので、そういう発想は異質でした。このエネルギー省の提案をNIH系の人間は警戒し、生命科学研究者にも反対が多かったのですが、両者の利害を調整して最終的にヒトゲノム計画になりました。
第2次大戦前からの放射性遺伝学は、原爆調査とつながっています。私が関心をもっている優生学史と、アメリカの原爆調査における人類遺伝学的研究は深い関係があり、さらに戦後のヒト分子遺伝学につながっています。こうしたことは、ご指摘の通り倫理の核心にふれる問題ですが、アメリカ中心に発展してきたバイオエシックスではほとんど問題になっていません。
いま、バイオエシックスに関わる研究者人口が増えています。個々の専門は哲学だったり法学だったり社会学だったりするのですが、ヒトゲノム計画でELSI(ethical, legal and social issues: 倫理的・法的・社会的問題)領域に大きな研究予算がつくようになってから、生命倫理領域でテーマ設定をした研究活動が盛んになっています。そこでは、私が今日話したような先端医療や人体改造、また尊厳死など人目を引きやすい議論がなされているのですが、問題はまだ実現していない技術について倫理的な問題をシミュレーションする間に、あたかも技術が現実化するようにみえてしまうことや、尊厳死がもっぱら宗教や倫理の問題にみえてしまうことです。倫理的検討はたいへん重要ですが、バイオエシックスという分野が膨張して目立ってくると、先端医療の技術的アセスメントや、尊厳死問題には医療保険制度や医療機関、介護制度が問題の核心にあることが忘れられがちになります。原爆調査の問題もそうですが、生命をめぐる倫理の論じ方の枠取りが、バイオエシックスの制度化の方向性に規定される傾向があることは、自戒をこめて認識しておかねばなりません。
■生殖技術のニーズについて
不妊に関しては、本人が子ども欲しいと思わない限り、病気でもなんでもありません。そういう意味では「不妊症」は病気の概念自体が入り組んでいます。少子化の中で不妊治療に保険適用すべきだという主張も強くあります。ただ、不妊症はとりわけ文化と技術が複雑な関係を作っているので、医療としてのアセスメントをどうするかも簡単ではないと思います。しかし、生殖医療に関しては当事者となった女性グループがピア・サポートをさまざまな形で行っており、患者の立場から生殖医療の実態を調査したり、生殖技術やES細胞研究について発言したりもし始めています。患者といっても多様ですし、これから様々な声が生殖技術の評価に関われるようにすべきだと思います。
■人体の資源化と資本主義
「資源化は資本主義」との意見が出ましたが、確かに、現在の社会システムの中で人体部品を活用を考察するとき、資本主義が人体をどう資源化・商品化するかというポイントははずせません。しかし資本主義成立以前にも、人体を利用してきた歴史はあります。江戸時代に人の胆が滋養にいいという説があり、墓を掘り出すとか、誘拐や公開の斬首刑後、胆を取り競争をしたりしたことがあるそうです。陰嚢なども薬とみなされていたようです。有名な『本草綱目』は動植物、鉱物の薬効をあげていますが、人体もそのなかに含まれていました。
人体の資源化という問題を考える時に、そもそも人間の文化はそういうことをしてきたという面があり、それが近代の規範、法体系とどうすり合わせられたのかをみる必要があります。「ヒューマン」、「シティズンシップ」、「生命倫理」という考え方がキリスト教文化を背景にして生まれてきたという意見を述べられましたが、それはおっしゃるとおりです。「生命の尊厳」というとき西洋ではキリスト教的な神が与える尊厳という枠組みを無視することは難しいようですが、われわれはキリスト教的規範とは別に「生命の尊厳」なるものを感じ取れるはずで、それをどう理論化するかということだと思います。
■規制は先走った研究や治療を後追いしているのか?
なぜ後追いという風に見えてしまうのか。例えば、先走った不妊治療医が学会や政府の規制を無視して治療することがあります。これは「技術の暴走」という側面があるかもしれませんが、医師と患者の間の閉じた関係、また「不妊症」の文化的意味の問題もあります。だからこのことと、一般に、なぜ科学技術の後追いを私たちがすることになるのかというのと区別したほうがいいと思います。バイオテクノロジーが本来の生命、自然の枠を超えて、どんどん、後戻りができないようなカタストロフィに進んでいるのではないか、そうならないように歯止めをしていかなくてはいけない、後追いをしないためにはどうするか、という問いですね。「科学の暴走」とはなんでしょうか。生命科学技術に関しては、往々にしてマジョリティーが容認できない危険な賭をする、ということも含まれているように思います。しかし、マイノリティー̶̶たとえば治癒困難な病気をかかえた人̶̶が、生存の可能性を賭けて新しい技術に関わろうとする、それが反社会的とか非常識にみえることがあると思います。しかし、困難な状況に置かれたマイノリティーにはマジョリティーの常識を越えた行動をしないと、生き抜けないことがある。だから、「歯止め」をかけるといったとき、それがマジョリティーの常識の押しつけになるのではないか、という疑いをつねに持たなくてはならないと思っています。
■公共的決定の難しさ
公共的な決定や公共的な手続きによるコンセンサスを、技術が暴走する前にどうしたら得られるかというご質問ですね。先端医療技術については、たとえばクローン羊が生まれた直後にクローン人間出産禁止を各国が打ち出したという点では、歯止めをかけたということになりましょう。しかし、その他についてはこれまでの経緯をみると難しいと思います。最初の体外受精児はイギリスで1978年に生まれましたが、70年代、体外受精に対する反対が強かった。しかし体外受精を福音と考えた人々もいたのです。賛否両論があるなか走り出したという意味では、体外受精は「コンセンサス」のないまま普及しました。臨床研究段階と思われる技術が、不妊クリニックで治療として行われてきました。普及したからといって問題がなかったわけではなく、問題をかかえたままの普及です。しかし、体外受精によって子どもという福音を得た人も少なからずいる。一方、体外受精を暴走と考えた人達が予測したように、体外受精は不妊治療にはとどまらず、遺伝子操作、クローン作製、再生医療にまで拡張しています。しかし再生医療にしても、福音と考える人々もいる。新しい技術にかける「希望」への温度差があり、表面的には価値の争いになるとき、なにをもって「コンセンサス」とするかは見極めがたいと思います。コンセンサスは一種の調停にならざるを得ません。それを最終目標にしたとき、落としどころが見いだせそうもない問いの立て方は、排除されてしまいます。民主的な合意形成という段取りからはみ出す、生命をめぐる問いをどう意味のあるものとして保持つづけることができるのか。たとえばアカデミズムの役割は「代案を出す」といった短期的なスパンではなく、長期的スパンでこうした問いが保持できるところにあったのではないでしょうか。確かに日本の大学は怠慢な部分がありましたが、昨今のように外部資金の獲得、特許の取得、財務体質といった短期的スパンの指標で大学を評価する傾向は、長期的な問いを保持してきた学問という貴重な社会的装置の喪失につながるように思います。
図1 先端医療技術とは
図2 先端医療の相互関連
橳島次郎『先端医療のルール』(講談社、2001)p.24、図2を参考に松原作成
図3 生体と培養細胞