上田昌文
●はじめに
二十世紀が終わりを迎えようとしています。百年という時間のまとまりそれ自体に特別な意味はないはずなのに、やはりこの大きな区切りの時期に、自分が生きてきた時代を一掴みにして理解してみたいという気持ちが高まってくるものなのでしょうか、巷には「世紀」の語を冠した書物や報道番組などがあふれています。二十世紀は一言で要約してどのような世紀だったと言えるのだろうか、という思考の探りが入れられているのです。
様々な言い方がなされる中での代表格の一つは、「二十世紀は科学技術の世紀である」というものでしょう。確かに「戦争と殺戮の世紀」を可能にしたのは、疑いもなく科学技術です。「開発と環境破壊の世紀」もまた然りです。この百年で私たちは科学技術の力によって自然を、社会を、そして人間自体をも変えてきました。そして今、科学技術文明の真っ只中にいて、そこから容易に抜け出せるとは、誰も考えていないはずです。
しかし、さらに一歩押し進めて、では「二十一世紀も依然として科学技術の世紀」であるのだろうか、そうあり続けてよいのだろうか、と自問してみると、どことも知れない場所に連れて行かれるような言い知れぬ不安が多くの人の胸をよぎるのも、また確かではないでしょうか。環境ホルモンやダイオキシン汚染の拡がり、原子力施設での深刻な事故や相次ぐコンクリートの崩落、クローン技術や遺伝子診断や遺伝子治療の普及、コンピュータウイルスや電磁波の氾濫……。予想せぬ事態がこれからも襲いかかることになるのか。科学技術の「負」の部分を小さくしていくことは本当にできるのか。自然の中で生き生きと命を育むことが、段々私たちにできなくなってきているのではないか……。
「科学技術の世紀」の区切れ目に立つ私たちは、このような疑問から逃れることができない者でもあるようです。
この連載は、こうした疑問に直接答えるものではありません。しかし、ささやかながら、「いのちとかかわる科学」の話題を取り上げながら、多くの人々が抱いている科学技術への不安の意味合いを掘り下げてみたいと思います。今、私たちは自然と生命のありようにどのようなまなざしを向けているのか―― それを見定めることによって、私たちがどのような未来を手繰り寄せようとしているのかを、探ってみたいのです。
●科学とは「物語作り」である
ここでは科学を主に自然科学を指す言葉として使います。自然の不可思議を探求する学問としての科学が、私たちの「いのちへのまなざし」を形成するのにどう与っているのかを考えるわけですが、その前にそもそも科学がどんな営みであるかについて、普段から少し気になっていることを述べてみます。
私は、科学の話題を人に話すときに、相手がいわゆる科学の素人である場合と、科学にいくらか詳しい人である場合とで、話を受け止める相手の態度に大きな違いがあることをたびたび経験します。「以前に科学を専攻したことがある」というだけの私なのですから、私が紹介したり説明したりした自然現象やそのメカニズムといったことがら自体に興味を持っていただければそれでいいものを、たいていの素人の方には、何かそうしたことを知り理解している私という人間を特別視するといった感じがあるのです。
そしてそれの裏返しとでも言うべきでしょうか、いくらか科学に詳しい人と話題を共にする場合は、「話のできる仲間がここにいる」といった意識がいつのまにか二人の間にできあがってしまうのです。私はこの受け止め方の違いに、科学という営みの性格が暗示されているように感じます。誤解を恐れずに言えば、世界を変えていく「力」としての科学、その「力」に組する者としての優位とそうでない者の劣位を、お互いに無意識のうちに了解しあっているような関係がそこにはあるのです。
科学は自然の成り立ちや仕組みを解き明かそうとするものであるが、そこで得られた知見は変わりゆき移ろいゆくものであるということ。「見えないものを見る」営みであるはずの科学が、同時に「自分に見えるものしか見ない」という狭隘さからなかなか抜けきれないということ。科学が描きえるのは自然の全体ではなく、常にその断片でしかないこと……。科学という営みが原理的に抱えているこのような限界は、科学が世に及ぼす「力」が大きければ大きいほど、しっかり認識されてしかるべきなのですが、その「力」の威圧感からか、まるでこの世界の「正解」を一身に体現しているかのごとく受け止められることが多いのです。
科学という人間の認識活動のイメージを私なりに言うと、それは「科学者が共同で行う自然についての物語作りである」というものです。科学者が皆でなしていく仕事ではあるのですが、物語作りであるから科学者一人一人の作り方や語り方が違っていてよいわけです。現に、科学者の個々の研究の出来不出来は、そのお話作りの上手下手にあたるものであるように、私は感じることがあります。文学の物語の創作と違うところははただ一つ、「論理的に成り立たないことは言わない」というルールを守りきるところにあります。ただしそれは全体としてみると常に未完で書き換えが進行中の物語であるのです。
こんな科学のイメージに科学者たちが実際どれだけ共感してくれるのか、私にはわかりませんが、いらざる威圧感から素人が口をつぐんでしまうというような「強面(こわもて)」の状態から、科学も、そして私たち自身をも解放することにつながるイメージではある、と私は思っています。
●「生命の測り難さ」と生命を操作する科学技術
このような科学のイメージを持っていると、これらか述べようとする「生命の測り難さ」とそれを扱う科学(生物学)の今ある関係を、いくらか見直すこともできるようになるのではないでしょうか。
私たちの「いのちへのまなざし」のありように、生命を扱う科学が大きく影を落としていることは疑いを入れません。たとえば私は、生命現象を分子のメカニズムとみたたて解き明かそうとする学問(分子生物学)を専攻しましたが、バイオテクノロジーをその尖兵とするこの学問が、世界を変える恐るべき「力」を秘めていることは、万人が認めるところでしょう。一例を述べると、近い将来、生まれると間もなく自分の遺伝子をブタやマウスに組み込み、いざというときに(「もっと美しく」「もっと元気」になりたいときも?)いつでも自分用の器官や臓器をそこから取り出して交換できるようにしておく、という臓器交換システムが出現するかもしれません。人体パーツの交換があたりまえになれば、私たちの「いのち」の見方・感じ方が大きく変化することは間違いありません。追々紹介することになりますが、これから起きるかもしれないと聞かされて、寒気を覚えそうな事例は、なにもこれに限らずかなりたくさんあるのです。
私たちは、「いのちへのまなざし」に決定的な影響力を及ぼしかねない生命操作技術の進展を、日常的な感覚や感情のとの乖離を感じつつ、しかし科学の「力」の脅威に刃向かう術も見出せないまま、受け入れてしまっているのですが、いったいなぜこうした事態が進行してしまうのかをじっくり考えてみる必要がありそうです。そこでまず、多くの人が実感している「生命の測り難さ」に対して科学がどういうアプローチをとっているのか、そのときの問題は何なのかについて、私の感じていることを述べてみます。
●生命現象の不可思議から考える
生命とは何でしょうか。私たちの誰もが、自分と他者が生きているという現実をとおして、あるいは身の回りの動物や植物の生きている姿をとおして、あるいはもっと広い自然のたたずまいの生動をとおして、「生きている」ことを実感しています。この「生きている」ことを科学的に解明するとは、何をどう解き明かす営みなのでしょうか。
たとえば私が常々不思議に思っている、生命現象の測り難さを象徴するような三つのことがらを取り上げてみましょう。
一つは、生物の形態がなぜかくも多様であるのか、しかも種により非常に厳密にその個体の形作りが行われるのはどのような仕組みによるのか、という点です。生き物の世界で一番驚くことは、微小なバクテリアから巨大な恐竜にいたるまで、なぜこんなにもいろんな生き物がいるのか、しかも同じような環境や生存条件にありながらいちいち違った形をとるようになっているのはなぜなのか、ということです。さらに、個体が発生するプロセスは極めて厳密にコントロールされていて、受精卵から複雑な形をもった生体に成長するまで、種によっては数億数兆という数の細胞が、さしたるエネルギーの消費もなく、呆れるほど複雑でありながら整然と秩序だった組織化を自身で進行させていくのです。これを統べているものはいったい何なのでしょか。
あるいは、赤ちゃんが外界とのやりとりを通して、感情や言語や認知といった精神に関わる力を獲得していく様。そもそも私たちは、いつの間にか母語を習得し、人間として他者と共感し理解しあう基盤になる共通の感情や知覚を身に内在させるようになります。このことに脳が大きく関わっていることは誰でも知っていますが、ではこの神経細胞の束のかたまりというべき「モノ」は、いったいどうやって赤ちゃんの「こころ」を生み出してしまうのでしょうか。
さらにもう一つ、これは私の趣味である音楽に関わりますが、特定のメロディーなりハーモニーな
りリズムなりが、それを聴くどの人に対してもかなり共通に、ある特定の感情を心に喚起するのは、どうしてなのか、という問題です。「悲しい旋律」の「悲しさ」は何がもたらしているものなのでしょうか。物理的な空気の振動パターンでしかない音楽が、聴覚をとおして時には極めて深い「意味」を伝達することになるのは、いったいどうしてなのでしょうか。
いま試しに取り上げた三つの例、言ってみれば「生物の発生と進化」「人間の精神の形成」「知覚の意味付け」は、それぞれが生命に関わる神秘的な現象ですが、実はそれらが互いに関連しあったところで渾然として私たちの生命の営みが成り立っていることこそ、最も驚くべきことなのかもしれません。
では科学がこうした現象にどうメスを入れているのか。そもそも科学はこうした「生命の測り難さ」にどこまで迫り得るものなのか。そこで得られた知見は、私たちの「いのちへのまなざし」をどう変えるのか。
次回からは、生命現象の様々な不可思議に触れながら、科学と命の営みとが交錯する場所で、私たちの生き方を見つめなおすことになります。
(『ひとりから』2000年6月 第6号)