環境エッセイ 第11回 環境問題解決のための4つのカギ 私なりの提案  

投稿者: | 2010年5月21日

上田昌文
 昨年(2009年)の秋から半年間、私はある大学で環境政策論の授業を担当した。この表題での講義といえば、たとえば温暖化のような具体的な問題を事例にして、国際・国内の行政セクターの役割を中心に、地方自治体や企業や研究機関、NPO、そして一般市民がどう関与して必要な政策を決め、実施しているかを論じることが多い。その中で、合意形成の手法や、ISOや環境アセスメントなどの現行の問題解決手法等を整理して示すのが通例だろう。だが、私の講義では、初年度の学生もいることもあって、「さまざまな問題に共通している問題発生の構造は何か」、「多くの問題が複雑に連関している中で、どこをどう押さえればよりよい解決への見通しが得られるか」といったあたりの判断を、自らの力でいくらかでも下せるようになるための練習素材を提供することに力点を置いた。その授業の経験から若干みえてきたことを、まとめてみたいと思う。
(1) 個別・具体的な問題から発して全体のつながりと広がりをとらえる
環境問題の著しい特徴の1つは、非常に幅の広い領域で多種多様な問題がありはするが、どの問題もどこかでつながっている、という点だ。これは、私たちの生命活動の舞台である地球の生態系が水、大気、地殻、そして生物の長い年月を経た相互作用によって築かれた、「様々なレベルの恒常性を維持しながらの、しかし長期的にみればそれ自体が変容をとげていく、動的なプロセス」であることの反映と言える。たとえば、今かりに、待機電力と省エネ、ペットボトルのリサイクル、近年スズメやカエルが周りから激減していること、の3つの事象を挙げてみよう。これらは互いに無関係に見えるかもしれないが、じつはそれぞれがどこかでつながっていることを見いだせる問題の奥行きがあって、そのあたりにまで突っ込みを入れる構造的な把握ができるかどうかが、解決のカギになることが多い。環境問題はすぐれて実践的な課題だが、もののとらえ方の鍛え直しを求められる、思考力の問題としての側面が必ずある。
(2)ありきたりの”エコ的生活改善”に自足しない
「マイバックを持とう」、「ゴミを分別しよう」、「家電を買うならエコマークのものを」……学生さんに「環境問題の解決にどんな取り組みが必要か」と尋ねれば、返ってくる答えの大半がこうした日常的なエコ行動だ。多くの人が環境に配慮する姿勢を持ち、こうした実践に励むことは、もちろん大切だ。しかし、それだけでは解決は得られないし、場合によっては「個人の善意・頑張り・責任」に還元する問題の単純化・矮小化になってしまう。「なぜゴミ袋の有料化に踏み切れないのか?」、「(多くの地域でみられることだが)以前は分別していたものを一緒くたにしているのはどうしてか?」、「リサイクルは本当にうまくいっているのか?」、「そもそもその家電を使わないことで実現できるエコもあるのではないか?」など、ちょっと考えれば、ないがしろにできないであろう疑問が次々に湧いてくる。こうした疑問を手放さず、よく引用されるデータの類もそのまま鵜呑みにせず(誰がどうやって調べたかをチェックしよう)、自分なりに頭と手と足を働かせて、いわば実験的に取り組む(仮説を立てて行動し、その結果をみてまた検討や修正を加える)のが、エコ活動のあるべき姿だと私は思っている。
(3)皆で議論しながら構想する場を持つ
 今述べた「エコ生活のすすめ」の陥穽は、詰まるところ、環境問題を「1人ひとりのライフスタイルの問題なのですよ」、「だから1人ひとりの改善努力が大切ですよ」と規定してしまうところにある。むしろ大切なのは、「ミクロの合理性(たとえば、”安くていつでも手に入る加工食品”)がマクロの非合理性(”大量の食糧廃棄”)を生む」といったしくみを見据えて、その転換に何が必要か、何ができるかを探っていくことだろう。複雑に絡まった問題の網目から、重要な結び目(そこをたぐり寄せればうまく全体を解きほぐすことができそうな部分)をみつけて、その結び目に応じた策を講じていくのは、明らかに「1人ひとり」でできることではない。また、環境関連の省庁や部署に任せる問題でもない。問題ごとに、解明と解決に向けての、既存の社会的役割の編み変えが必要だ。たとえば、大量の食糧廃棄を出さないようにするために、あるいはそれを有効活用するために、農や水産の生産現場、加工企業、店舗、技術開発に携わる大学、大きな食堂をかかえる施設などが、それぞれ新しい役割に向けての一歩を踏み出し、それらが連結することで、状況が大きく変わる可能性があるのだ。その”新しい一歩”を皆で構想する場が、地元の地域や職場、コミュニティなどにあるかどうか、それが決定的に重要ではないだろうか。
(4)自分なりの”オフ”を作る
 私はときどき、「人間の睡眠時間が20時間くらいだったら、どんな世の中になっただろう」と考えることがある。残りの4時間のほとんどは食糧を得るために費やされ、文明の発達は望むべくもないのか、それともほぼ完全にエコロジカルな生活が定着し、独自の文明が生まれるのか。そんな想像をめぐらせながら、やはり環境問題の根源に、ここ100年ほどで憑かれたように生産と消費を拡大してきた、人類の生物としての異常な姿があると感じる。社会の通念も道徳も法律も制度も、すべてが”異常を異常とみなさない”方向で組み上げられてきたように思える。職や住まいや財を失い”脱落者”となることへの恐怖が強迫観念になっている社会をいくらかでも変えるには、自らすすんで模擬的な”脱落者”になる必要があるのではないか。それ自体は何も難しいことではない。環境負荷になりそうな生産も消費も一切しない、自分なりの”オフ”の日や時間を、あなたは持っているか、ということである。何もしないでいるように見えながら、生きることへの充足を感じるような過ごし方を確実に持てている人は、悲しいかな、私の見るかぎり、きわめて少ない。妙な自己矛盾ではあるが、どうも私たちは、「一生懸命にならないようにすること」を一生懸命学ばねばならないようだ。望むらくは、この矛盾を楽しむ術を皆さん一人一人が見つけてほしいと思う。■

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