連載「生命へのまなざしと科学」(12)心を操る薬がつきつけるもの

投稿者: | 2003年12月14日

上田昌文

●誰もが「胡蝶の夢」を見ることができる時

「昔者(むかし)、荘(そう)周(しゅう)、夢に胡蝶(こちょう)と為(な)る。栩々(くぐ)然(ぜん)として胡蝶なり。自ら喩(たのし)みて志 (こころ)に適(かな)うか、周なることを知らざるなり。俄然(がぜん)として覚むれば、則(すなわ)ち遽遽(きょきょ)然(ぜん)として周なり。知らず、周の夢に胡蝶と為るか、胡蝶の夢に周と為るか。」

『荘子』斉物論篇の”胡蝶の夢”は、一度読んだら決して忘れられない話です。人は誰しも甘美な、しかも現と見まがうばかりに生々しい夢をみて、覚めてしばらくは陶然とすることがあります。夢はいまだ解明されざる脳内の生理のある特定の発現にすぎなくて、それがどれほどリアルであっても、むろん現実と等しい”重み”を持つわけではありません。しかし私たちの意識や精神が脳という器官を舞台にして織り成されるドラマのようなものであり、たとえば脳の気質的な障害が意識や精神のあり方を著しく変える場合のあることを私たちは知っています。そして今、このドラマを担い支えている俳優や様々な道具立てが脳科学や認知科学や神経薬理学によって次々と明らかになってきています。

苦しい現実を”夢見ること”で逃れることができるのなら、そしてそれが数錠の錠剤を飲むだけといった簡単な方法で可能になるのなら――科学は、そしてあなたは、その誘惑に勝てるでしょうか? いずれ科学の力によって人は見たいときに胡蝶の夢を見ることができるようになるとすれば、あなたはその夢から覚めたいと思うでしょうか?

●脳の科学と精神を変容させる物質

精神や意識の働きを、脳の膨大な数の神経細胞とそれに関与するこれまた膨大な種類の様々な化学物質の網目のような作用にもとづいて説明することは、現時点ではとても完成の域に達しているとは言えません。人格の源とも考えられるほど基本的な働きである「記憶」のメカニズムについてさえ諸説があり、未だに神秘に満ちています。無限の容量を持つかに見える人間の記憶はいったい脳にどのように蓄えられ、長期にわたって保持されるのでしょうか。いったいそれを “思い出す”とは脳の中で何がどうなることであり、”思い出せる”ことと”思い出せない”ことの違いはどうして生まれるのでしょうか?

メカニズムについてはわからないことずくめの脳であっても、器質的障害による影響や人為的な操作による変化が行動や精神や意識にどう現れるかを観察することはもちろんできるので、そうした経験的あるいは実験的な知を集積しながら「脳の科学」が築かれることになります。そうして築かれた知は、”病んだ精神”の状態を診断し改善するのに応用されます。その端的な一例は、向精神薬を用いた精神病の治療でしょう。そして、それと対照的な位置にあると思えるのが違法な麻薬です。しかし向精神薬と麻薬の線引きはじつはかなりきわどいものであり、それぞれが社会に投げかけている不気味な影にも共通している点がたくさんあるのではないかと私は感じています。

●麻薬が人を虜にするわけ

まず、麻薬・幻覚剤を手がかりに「薬と脳」の関係を追ってみましょう。

脳の中では様々な化学物質が生産され、互いに複雑に影響を及ぼしあいながら「脳」を働かせています。血圧上昇に関与するアドレナリンや神経伝達物質であるドーパミンはそうした仲間のほんの一例です。これらは細胞にある「レセプター」と呼ばれる「鍵穴」にはまり込むことによって情報が伝えられます。ところが自然界にはこれら脳内の化学物質と何ら現実の接点を持たないのにたまたま分子の構造が似た物質がいろいろとあります。サボテン由来で強い幻覚作用を示すメスカリンやケシの実から得られるモルヒネは有名です。また、麦角菌という細菌が作る化合物に化学修飾をしたリゼルギン酸ジエチルアミドはドーパミンに似た構造を含んでいます。これが幻覚剤として有名なLSDです。

これらを人間が摂取すると、本来ドーパミンやアドレナリンが入るべきレセプターにこれらの分子が入り込み、情報伝達系を混乱させます。LSDを飲んだ人間は本来ないはずの色が見えたり、物の輪郭がぐにゃりと曲がって見えたりといった強烈な幻覚を体験するわけです。

また脳内には「脳内麻薬」と呼ばれるエンケファリンやβ-エンドルフィンといった分子がありますが、例えばモルヒネは本来ならそうした分子が結合するレセプターに結合してしまいます。脳内麻薬は芸術の感動やスポーツの爽快感など、人間が味わう快感の元になる「快楽物質」ともみなされています。ある意味では、人間の行動は脳内麻薬の分泌がもたらす”快感”を得るためにこそ起こされているとも言えるわけです。

麻薬を使用するとこうしたレセプターが埋まり、一時的に強い快感を得ます。すると脳は「今は脳内麻薬の量は十分である」と判断しその分泌を止めます。麻薬を何度か使用するうちに、脳内麻薬の分泌は麻薬が切れてもすぐには回復しなくなり、強い不快感が伴うようになります。それを逃れるために麻薬に頼るしかなくなる……これが麻薬が持つ常習性です。

●薬は心の病を治すのか

精神薬理学は脳科学と結びついて、愛情・攻撃性・憎悪・憂鬱……といった、およそ単純にはメカニズムを解き明かせないと思われる人間の心理や精神の諸相を、いわば生化学的に翻訳することを目指していると言えるでしょう。翻訳が粗いものであったとしても、その知識を用いて薬物投与という形で人為的な操作を脳に加えることはできます。試行錯誤を繰り返しながら、ある程度の確からしさで効果を検証できれば、向精神薬として処方されたり市販されたりするようになります。

医薬品として認可を受けている以上、向精神薬には何も問題はないように見えるかもしれません。しかし、そこには私たちの命へのまなざしを変質させかねない、やっかいな問題が控えているのです。

それは第一に、心の病を薬で”治癒”することの意味に関係します。

心の病は、容易に想像できるように、それを引き起こす原因は単純ではありません。自閉症も鬱病も心的外傷ストレス障害(PTSD)も注意欠陥・多動性障害(ADHD)も、ある程度の客観的な診断基準を立てることはできるとしても――現に、精神科医がよく参照する米国DSM(精神障害の診断と統計マニュアル)には詳細な記載がありますが、それさえも恣意的な傾向を免れないと私は考えます――その原因(なぜその患者さんがその病を発症したか)や同じ状況にいながらある人は発症し別の人は発症しないのは何故かを正確に探り当てることはかなり難しいのです。大まかな原因をつかめたとしても、それがその人の人間関係や社会生活に関わる要素が大きければ大きいほど、また、遺伝的な素因も複雑にからんだりすると、疾患を根治することがますます困難になります。この観点からすれば、薬物療法は病気を治すというよりも症状を覆ってしまうものというべきでしょう。胃薬や痛み止めで胃痛を抑えることはできるが、胃の病気を治すわけにはいきません。なまじ症状を緩和できるために、それに寄りかかった安易な対処がまかり通ったり、真因を探る努力が軽視されたりしないか――心の病に薬を使う場合に、常に問われねばならないことでしょう。

●見過ごせない副作用、麻薬との類似性

第二に、薬である以上どうしても抱えてしまう副作用に関係します。

向精神薬による副作用「悪性症候群」(神経伝達物資の作用を抑え過ぎて、筋肉運動や体温調節の機能が壊れ、高熱、筋肉硬化、頻脈、意識障害などが生じ、重い場合は死亡するケースを指す)で、1998~2001年度の4年間に1054件の重篤な症例(うち死亡例が127件)あることが発表されています。製薬会社は重い副作用事例を厚生労働省へ報告することが義務付けられていますが、それを怠っても罰則はないので、現実にはこの数はもっと多いと見られています。また向精神薬のうち例えば抗鬱剤の市場は3年前の約3倍になっているといった事態も見落とせません。(ちなみに、厚生労働省によると、心の病を訴える患者は90年代に激増し、精神科の診療所も90年の2159ヶ所から、99年には3682ヶ所に増えています。東京都内にいたっては92年に 369ヶ所だったのが、00年には619ヶ所に達しています。)

米国では百万人を超える児童がADHDの治療薬として毎日リタリン(中枢神経刺激薬)を飲んでいます。保健適用外であるにもかかわらず日本でも ADHD治療にリタリンを飲ませるケースが増加していますが、こうした乱用は、ADHDと診断される子供の数が飛躍的に増加していることからきます。本来なら子どもの特性として理解されるような行動にも、ひとたびADHDという病名が流通すると、大人たちは「病気」のレッテルを貼るようになる――こんな傾向がないと、本当に言えるのでしょうか。リタリンの副作用(常用して出てくる不眠、食欲減退、動悸、頭痛、胃障害、一度に大量に飲むと出る全身の痙攣、不整脈、長期大量に飲んだ場合の幻覚妄想状態、そして服用を止めた時に出る離脱症状の鬱状態など)も深刻ですが、「コカインと同様に脳への血の流れを減少させて、思考能力や記憶能力を弱める」「成長ホルモンを破壊して、体や脳の発育を阻害する」との指摘もあり、子どもへの将来的な悪影響が特に心配されます。

第三に、麻薬との線引きが難しい点です。

多くの場合、向精神薬は飲み方次第で不法な薬物と同様の幻覚や妄想や攻撃的な状態を引き起こし得るのです。依存症についても同じです。リタリンの場合、鬱病患者が依存症に陥るだけでなく、覚醒剤と似た快感を求め、鬱病を装って医師の処方を受けるケースも増えているといいます。リタリンが普及したのは 90年代後半からですが、「病院でもらえる覚醒剤」とさえ言われるようになっています。リタリンを処方されやすい病院の情報などがインターネット上に氾濫し、悪用されています。処方箋をコピーして複数の薬局で大量に入手する手口も広がっています。麻薬に似た医薬は、必ず誰かがそれを麻薬として使用するという命運から逃れることはできないのです。

●薬物利用を超える思想

第四に、薬物を用いて精神を操作すること自体の根本的な意味合いです。

ヒトゲノムの研究で実用化の第一のターゲットになっているのは医薬品です。遺伝子による細胞内の生化学的コントロールを詳細に解き明かし、その知識を利用して副作用が小さく効き目の著しい薬が開発されるでしょう。目指すところは疾患の治療にとどまるものではなく、「より美しく」「より賢く」「より幸福に(不安を減らして)」という欲望に裏打ちされて、いわば”精神美容薬”とでも言うべき薬が開発されるでしょう。「飲めば誰もが善人になる薬」……しかし一体、私たちが抱く「善」なる概念は、薬の服用であっさり実現されてしまう程度のものだったのでしょうか?

ここに私たちが目をそらしてはならない深淵があります。自らをより深く知ることは確かに心の自由や解放につながるものでしょう。しかし、脳や心の分子メカニズムを解き明かすことは、確かに自らを深く知ることの一部だとしても、それが心を操作することに結び付くとき、むしろ私たちはその知識の”奴隷” になるという道を選ぶことになりはしないでしょうか。人間を突き動かす根源である快楽を自ら操ることができるとき、真の精神の自由は何によって保証されるのか――心を操る薬ははしなくもこの難問を私たちにつきつけているのです。■

(『ひとりから』2003年12月 第20号)

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